当時の人の多くは世界大戦を二度も経験したのですね。
元々繊細なリタ(エリー)の心はこの戦争で大きく傷ついたと言われます。
戦時下ではお酒の需要はどの国も伸びます。兵隊に支給されるからです。
こんな虚しい戦いは飲まずにはやっていられないというのが本音なのかもしれません。...
写真は北海道余市蒸留所内にある旧竹鶴邸と研究所(通称リタハウス)。マッサンとエリーの自宅です。ドラマでは狭苦しく作られていますが、余市蒸留所は広大な敷地の中にあり、建物ももっと西洋風に洗練されています。


あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
さて、早速ですが今年も「マッサン」の話です。 年が明け、中島みゆきの歌唱も2番に代わり、舞台はいよいよ北海道余市へ移りました。
足早ではありますがこの間、鴨居商店(サントリー/寿屋)はビール工場の買収、売れなかったウィスキーの改良を行います。
この2つの出来事は実話です。
寿屋(サントリー)は1929年(昭和4年)、当時シェア2%くらいで経営難だった日英醸造というビール会社を買収しました。
ビール業界は当時から競争が激しく、サントリーの進出は既存勢力への挑戦でもありました。だから新しいビール(オラガビール)は価格を安くして対抗する必要がありました。政府主導で何度か再編が行われ、ビール業界は大手の寡占状態が更に続きました。おまけに国はビールの醸造免許を得るのに年間2千キロリットル以上の生産が必要という酒税法のヘンテコな規制までつくりました(こうして寡占化した方が効率的に税金を徴収できるからです)。
また宝酒造のようにたとえ大企業が進出(1957年)しても参入障壁(既存各社の抵抗)が大きすぎて、撤退していった(宝の撤退はその10年後)という歴史もあります。鳥井はそんなビール業界の事情をよく分かっていて、設立後僅か4年でビール事業を高値で売却します。経営者鳥井の手腕ですが、一方で何も知らされず工場長として家族と一緒に横浜に飛ばされていた竹鶴は面白くありません。ドラマとは少し違いますが、これが後に鳥井と竹鶴が袂を分かつ決定的な原因となったようです。結局竹鶴は寿屋を12年勤めて辞めました。
※ 余談になりますが、1963年、サントリーはビール市場へ再進出しますが、その時は宝酒造の失敗を教訓として極秘中の極秘のうちに準備を進めていたといいます。それでもサントリーのビール事業が黒字に転換するのはプレミアムモルツがブレイクする2008年。再進出から実に46年後です。昔の日本のビール市場は恐ろしく保守的だったと言わざるを得ません(そういえば昔は三菱系の会社はキリンしか飲まないとか、わが社はサッポロ!とか言ってましたね)。
ちなみにこのビール業界の激しい営業合戦を描いたおすすめの小説があります。「ビアボーイ」(PHP文芸文庫/¥741)。書いたのはサントリー宣伝部出身の作家吉村喜彦氏です。さすがに臨場感があって面白いですよ。
さてその後のビール業界は細川護熙政権が1994年、規制緩和の目玉として酒税法を改正し、免許が下りる生産量がやっと60キロリットルへ引き下げられ、全国に瞬く間に地ビールメーカーが誕生しました。当店でスタッフとして働いていたO君も今や金沢の地ビールメーカーの社員として活躍しています。
酒税は今も昔もそしてどの国も国家の貴重な財源なのです。
さてビール事業と同時に発売したマッサンと鳥井の日本初のウィスキー「白札」は評判も販売も不振だったことは前回書いた通りです。それはドラマでしきりに言っているスモーキーフレーバー(ピート香)のせいばかりではありません。実は価格も高かったのです。ジョニ赤が5円の時代に白札の3円50銭はやはり高かった。1929年と言えば世界大恐慌の年。時代も不況でした。
だから鳥井は廉価版の「赤札」を発売することにしたわけです。それが今の「サントリーレッド」。実はこれも売れませんでしたが、売れなくて余った原酒が後に熟成を経てサントリーの貴重な原酒に育っていったという経緯もあり、ウィスキーというのは実に気の長い仕事なのだなと改めて感じるわけです。
これからマッサンは北海道余市で自分の理想のウィスキー造りに挑みます。
こんにちは。インテルメッツォの尾形です。いよいよ寒くなってきました。みなさま風邪などひいていませんか?ひいている方はお大事に。
さてマッサンはここへきてちょっと小休止。
今日はマッサンと池田勇人元首相の意外な関係についてご紹介します。後半はあるスコッチの記念日(11月14日)の面白エピソードをご紹介します。
日本の歴代首相の中には日本酒の蔵元の子息が他にもいます。佐藤栄作、竹下登、宇野宗佑もそうです。けっこういますね。日本酒の蔵元は減ったとは言え今も全国に1700場近くあります。古くから地元の名士である場合も多く、エリートが育つ土壌があったのでしょう。
ところで今日11月14日はイギリスの歴史上のある人物の命日です。
1635年11月14日、トーマス・パー、享年152歳…。…(O_o))!!。翌日15日、名だたる著名人の眠るウェストミンスター寺院へ埋葬・・・。
トーマス・パーって一体誰でしょう?※ヒントはウィスキーです。
トーマス・パー翁はローリングストーンズ、ビートルズに匹敵するほどのイギリスのスーパースターです。
パー翁は1482年2月に北西イングランドで生まれ、農夫として生計を立てていました。初婚が80 歳!(この時に一男一女が誕生!)、105歳の時に不倫がバレて公衆の面前で懺悔(笑)、122歳で最初の妻と死別すると、その年に再婚してまた子供が一人できた…、という世紀の絶倫!。老いて益々現役、完全に常人の域を超えたイギリスの「レジェンド」でした。
時の国王チャールズ一世は、パー翁が「元気」なことにいたく感動し、特別な計らいをしました。そして「レジェンド」は後見人であるアランデル伯爵の豪華な屋敷に暮し、そのわずか11ヶ月後に呆気なく死亡・・・。
死因は「食べ過ぎ」だとか。人間、慣れないことするとこうなるのですね。
そんな長寿で絶倫のパー翁にあやかって1871年にグリンリース兄弟が発売したウィスキーが「オールド・パー」です。
ボトルをよく見ると正面上部にパー翁の肖像画が貼られています。※この肖像画は17世紀の巨匠ルーベンス(1577- 1640)が描いたものです。
日本には特に早くから紹介され、発売から僅か2年後の1873年、イギリスから帰国した岩倉具視が持ち帰ったとされます。※だからウィスキーを最初に飲んだ日本人も岩倉ではないかと言われています。
以来日本では数多の起業家や政治家が愛飲、吉田茂や田中角栄もお気に入りだったのは有名な話です。
どうして「オールド・パー」が企業家や政治家に好まれたかというと、歴史の経緯やパー翁にあやかってということもありますが、それよりも(写真をご覧ください!)ほら、ボトルを斜めにしても倒れませんでしょ。これで皆さんゲン担ぎをしたと言われています。
オールド・パーは今では本国よりもむしろ日本をはじめ東南アジアで絶大な人気を誇ります。昔はとても高くて手の届かないウィスキーでしたが、今では12年ものなら3000円程度で入手可能です。やや辛口でコクのある堂々たる味わいですよ。というわけで今日は首相の愛したスコッチ「オールド・パー」の記念日でした。来週もよろしくお願いします。