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インテルメッツォ日記〜その後

京王線仙川にあった小さなオーセンティックバーの元マスターが振り返るちょっと粋な日々

こんにちは。マッサンは第二次大戦へ突入。
当時の人の多くは世界大戦を二度も経験したのですね。
元々繊細なリタ(エリー)の心はこの戦争で大きく傷ついたと言われます。
戦時下ではお酒の需要はどの国も伸びます。兵隊に支給されるからです。
こんな虚しい戦いは飲まずにはやっていられないというのが本音なのかもしれません。...
写真は北海道余市蒸留所内にある旧竹鶴邸と研究所(通称リタハウス)。マッサンとエリーの自宅です。ドラマでは狭苦しく作られていますが、余市蒸留所は広大な敷地の中にあり、建物ももっと西洋風に洗練されています。

旧竹鶴邸

リタハウス

余市蒸留所

こんばんは。東京は雪ですね。
「マッサン」は、鴨居商店が「丸瓶」を発売とありましたが、これは今の「サントリー角瓶」です。
サントリー角は1937年にサントリーの12年ものウィスキーとして発売されました。昭和12年に発売された12年。分かりやすいですね。当時から亀甲模様のボトル。当時のアルコール度数43度(今は40度)の復刻版ボトルも発売されています。

ところでウィスキーの12年ものとか18年ものとかとは一体どういうことか疑問に思われませんか?
これは全ての原酒の最低熟成年数...を指した表示のことをいいます。
12年もののウィスキーの中には20年の原酒が入っているかも知れませんし、入ってないかも知れない。ですから同じ12年でも価格に違いが出てきます。年数表記はあくまでも目安としての記号なのです。
最近では敢えて年数表記をせず、琥珀の深さでラインアップを分けているものもありますが、食の世界同様、お酒も文化ですからそこはやや保守的な傾向が強いようです。

樽での熟成速度は、気温も影響するため温かい国の方が速く進みます。ラムやテキーラなどはウィスキーに比べ熟成が速い。
ウィスキー原酒は樽の中で木の目を通してゆっくり呼吸をしながら静かに眠ります。
この時、年に2%くらいずつ原酒は空気中に蒸発して行きます。

これを「天使の分け前」と言います。
 
天使は静かな森の中にいます。

角瓶



 
こんにちは。寒いですが皆さまいかがお過ごしですか?
さて、「マッサン」はちーともウィスキーの話にならないので、今回は、ウィスキーの蒸留について簡単な基礎知識を・・・。

お酒には醸造酒と蒸留酒があります。ウィスキーは蒸留酒の仲間です。

蒸留酒は醸造酒を造ってからそれを蒸留器という装置でアルコール度数を高めたもののことをいいます。これは香水をつくる技術と基本的に同じです。...

醸造酒と蒸留酒の関係は大雑把に言うと元のお酒とそれを発展させたお酒という関係になります。
代表的なところでは、ワイン(醸造酒)とブランデー(蒸留酒)、ビール(醸造酒)とウィスキー(蒸留酒)の関係がそうです。これらは当然原料が同じです(ビール、ウィスキーの原料は大麦麦芽、これをモルトといいます)。

醸造酒はアルコールをいくら高めても限りがありますが(せいぜい20度)、その醸造酒を蒸留器にかけてやることでアルコール度数は一気に高くなります。1回の蒸留で約3倍ものアルコール度数の液体が抽出できます。ウィスキー(スコッチ)の場合、ポットスチルという巨大な銅製のやかんを使ってこれを2回(場合によっては3回)繰り返します。1回目の蒸留で20度くらいになったアルコールを再度蒸留することによって60度以上のアルコール(お酒)を抽出します。

この抽出したてのアルコールのことをニューポットと言います。ニューポットは荒々しく美味しくないと一般的に言われますが、そんなことありません。当店にはこのニューポットを常時置いてありますので興味のある方はお声掛けください。

このニューポットを少し加水して樽詰めしたものがウィスキーです。
長い冬を動物が冬眠するようにそのお酒は呼吸をしながら眠りにつきます。

しばらく寒くなりそうです。
今宵は少しホットなウィスキーを。

※写真は山崎蒸留所のポットスチル(蒸留器)です。


あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。
さて、早速ですが今年も「マッサン」の話です。 年が明け、中島みゆきの歌唱も2番に代わり、舞台はいよいよ北海道余市へ移りました。
足早ではありますがこの間、鴨居商店(サントリー/寿屋)はビール工場の買収、売れなかったウィスキーの改良を行います。
この2つの出来事は実話です。

...

寿屋(サントリー)は1929年(昭和4年)、当時シェア2%くらいで経営難だった日英醸造というビール会社を買収しました。
ビール業界は当時から競争が激しく、サントリーの進出は既存勢力への挑戦でもありました。だから新しいビール(オラガビール)は価格を安くして対抗する必要がありました。政府主導で何度か再編が行われ、ビール業界は大手の寡占状態が更に続きました。おまけに国はビールの醸造免許を得るのに年間2千キロリットル以上の生産が必要という酒税法のヘンテコな規制までつくりました(こうして寡占化した方が効率的に税金を徴収できるからです)。
また宝酒造のようにたとえ大企業が進出(1957年)しても参入障壁(既存各社の抵抗)が大きすぎて、撤退していった(宝の撤退はその10年後)という歴史もあります。鳥井はそんなビール業界の事情をよく分かっていて、設立後僅か4年でビール事業を高値で売却します。経営者鳥井の手腕ですが、一方で何も知らされず工場長として家族と一緒に横浜に飛ばされていた竹鶴は面白くありません。ドラマとは少し違いますが、これが後に鳥井と竹鶴が袂を分かつ決定的な原因となったようです。結局竹鶴は寿屋を12年勤めて辞めました。
※ 余談になりますが、1963年、サントリーはビール市場へ再進出しますが、その時は宝酒造の失敗を教訓として極秘中の極秘のうちに準備を進めていたといいます。それでもサントリーのビール事業が黒字に転換するのはプレミアムモルツがブレイクする2008年。再進出から実に46年後です。昔の日本のビール市場は恐ろしく保守的だったと言わざるを得ません(そういえば昔は三菱系の会社はキリンしか飲まないとか、わが社はサッポロ!とか言ってましたね)。
ちなみにこのビール業界の激しい営業合戦を描いたおすすめの小説があります。「ビアボーイ」(PHP文芸文庫/¥741)。書いたのはサントリー宣伝部出身の作家吉村喜彦氏です。さすがに臨場感があって面白いですよ。

さてその後のビール業界は細川護熙政権が1994年、規制緩和の目玉として酒税法を改正し、免許が下りる生産量がやっと60キロリットルへ引き下げられ、全国に瞬く間に地ビールメーカーが誕生しました。当店でスタッフとして働いていたO君も今や金沢の地ビールメーカーの社員として活躍しています。

酒税は今も昔もそしてどの国も国家の貴重な財源なのです。

さてビール事業と同時に発売したマッサンと鳥井の日本初のウィスキー「白札」は評判も販売も不振だったことは前回書いた通りです。それはドラマでしきりに言っているスモーキーフレーバー(ピート香)のせいばかりではありません。実は価格も高かったのです。ジョニ赤が5円の時代に白札の3円50銭はやはり高かった。1929年と言えば世界大恐慌の年。時代も不況でした。
だから鳥井は廉価版の「赤札」を発売することにしたわけです。それが今の「サントリーレッド」。実はこれも売れませんでしたが、売れなくて余った原酒が後に熟成を経てサントリーの貴重な原酒に育っていったという経緯もあり、ウィスキーというのは実に気の長い仕事なのだなと改めて感じるわけです。

これからマッサンは北海道余市で自分の理想のウィスキー造りに挑みます。

オラガビール

 
 

サントリーレッド

 
 

ビアボーイ

 
  

 こんにちは。インテルメッツォの尾形です。いよいよ今年も残りわずか。月並みですが一年は早いものです。街には年の瀬に響く「歓喜の歌」が流れます。この季節の「第九」は戦前から続く日本の風物詩と言えましょう。

さて山崎蒸留所は世界に誇る二つのウィスキーを造っています。ひとつはシングルモルト「山崎」そしてもうひとつがブレンドの最高峰「サントリー響」。
今宵はちょっと趣向を変えて(当店の店名も音楽用語ですし)、「響」と「第九」とある大作曲家についてのお話です。

有名な「第九」交響曲を...作曲したベートーヴェンは大酒飲みでした。しかしベートーヴェンの父親はもっと凄い大酒飲みでした。ろくに働かない父親の代わりに、幼いベートーヴェンは一家の家計を背負わされます。
作曲家としてこれからという時に耳が聞こえなくなり始めましたが、その頃に彼の名だたる傑作は立て続けに生まれます。
交響曲9番(第九)を書いてベートーヴェンは精魂尽き果てました。その後この天才作曲家を越えようと数多の作曲家もまた苦悩します。ブラームス(1833-1897)という後の大作曲家もそんなひとりでした。

「サントリー響」は1989年、当時のチーフブレンダー、稲富孝一氏により鳴り物入りでデビューしました。当時国産ウィスキーが高くても3千円程度だったと記憶していますが、「響17年」は1万円。バブルとは言え相当高価な国産ウィスキーだったことは間違いありません。
ウィスキーの本場スコットランドでは、シングルモルトはソロ器楽、ブレンデットウィスキーは大編成のオーケストラに例えられます。稲富氏も趣味でヴィオラを弾いていたため、ブレンドウィスキーやモルト原酒の複雑な芳香をよくオーケストラの編成やクラッシック音楽の美しい旋律に例えていたそうです。

ブレンドウィスキーは原酒の調和が大切。その調和をコントロールするのがブレンダーの仕事です。

ブレンダ―はよくオーケストラの指揮者に例えられます。
樽の個性を瞬時で見極め、自らの鼻を頼りに最高の「響き」を導き出す。十分な経験を積み勘を養い、真のベテランになってやっと大成する職人で、一切の妥協を許さない厳しい仕事です。
40代でも「新進気鋭」と呼ばれ、限られた者だけが最後に「マエストロ」と呼ばれる指揮者の世界とどこか似てますね。素質が大切で何となく徒弟制度のあるところもまた似ています。

稲富氏は「響」をブレンドするにあたりイメージしたのはブラームス交響曲第1番の第4楽章でした。
前述の通りブラームスはベートーヴェンを越えようとした作曲家です。
稲富氏は「響」をブレンドするにあたり何故ブラームスをイメージしたのでしょうか・・・。

35種とも言われるモルトの厚みはこの交響曲の彫りの深さに通じ、全体的な品格の高さは一瞬の静寂をついて現れる冒頭のホルンの音色や後に続く有名なヴァイオリンの主題、甘美なアフターテイストはフィナーレのトランペットの高らかな響きに通じていると言えなくもありません。

一方でこのこの第1交響曲はベートーヴェンの作曲技法を忠実に踏襲し、特にこの終楽章の一番いいところ(主部)が「第九」のそれに似ていたりしたため、ことあるごとにベートーヴェン「第10番」と揶揄さたりもしてきました。

日本のウィスキー造りもブラームスの交響曲同様、初めはマッサンが先頭に立ち本場スコットランドから学び、その技術を忠実に踏襲することから始まりました。
そして今や日本のウィスキーは本場スコットランドを越えるほどの高品質になりました。
これはある意味ベートーヴェンを越えたブラームスの交響曲と相通じるものがあります。

「響」には稲富氏のそんな思いが込めらていたのではないでしょうか。

「響」はこれまで何度も名のある世界大会で金賞を受賞。発売後間もなく世界のブレンドウィスキーの頂点に立ってしまいました。

稲富氏や天国の大将(鳥井信治郎)の願いは叶いました。これを機にジャパニーズウィスキーが「単なるスコッチの模倣」を超え、その繊細な「個性」が広く世界中に知られるきっかけとなったのです。
まさにジャパニーズの記念碑的ウィスキー、それが「サントリー響」なのです。

https://www.youtube.com/watch?v=CVIkwRy8kB0&index=2&list=RDNrd-UN1Q0lo
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インテルメッツォの尾形です。「マッサン」はいよいよ山崎蒸留所からウィスキーを出荷することになりました。
このウィスキーは今も現存するのでしょうか。答えは同じ仕様ではありませんが、「サントリーホワイト」の名前で受け継がれています。
発売当初は「白札」と呼ばれていました。

本場スコッチウィスキーと他のウィスキーの大きな違いは燻煙香(スモーキーフレーバー)が強いということ。西川きよしの会社の株主総会で振る舞われたスコッチウィスキーも「煙臭い」と散々な言われようでしたが、寿屋がこ...の「白札」を発売した当初もこの独特の香りは受け入れられませんでした。

しかしスコットランド国民にとってこの燻煙香は母国の大地の香りです。

この燻煙香はピートとよばれる泥炭(草炭)を燃やしたときに発生する煙によってもたらせれます。土地が痩せているスコットランドの原野では一面にヒース(荒れ地に咲く野草一般のこと)が群生し、これが泥炭の元になり、昔から燃料として使われていました。

エリーが相武紗季ちゃんの嫁入りのときに渡したハンカチにはヒースの花柄の刺繍が施してありましたし、スコットランドが舞台のE・ブロンテの小説「嵐が丘」ではヒースの花が象徴的に描かれています(主人公の孤児の名前もヒースクリフでした)。ロンドンのヒースロー空港もこれに由来しています。
ヒースの花の中にエリカと呼ばれるものがありますが、これはウィスキーベースのカクテルの名前にもなっています。もちろんウィスキーはスコッチを使います。スコットランドとヒース=ピートは切っても切り離せない関係なのです。

スコットランドに留学し、心底スコットランドのウィスキーにほれ込んだマッサンのウィスキー造りにとってこのピートの香りは極めて重要だったことでしょう。後にニッカの蒸留所を北海道余市に造った時も気候風土がスコットランドに似ていることはもとより、近くの石狩平野でピートが採取できたことも大きかったとされています。

だからピートの香りを「煙臭い」と一蹴されると、短気なマッサンは内心腹立たしい思いをしていたのではないかと思います。

マッサンは本物を造ればいつかは分かってもらえると信じて疑いませんでしたが、鳥井は今の日本人の舌にあったものを売りたい思っていました。皆が皆最初からマニアではないということを鳥井はよく分かっていました。

ちなみに、この顧客の頭打ちはいつの時代のどの国にも見られます。日本ではウィスキーの等級分け(原酒の混合率によって1級~3級に分けられること)があった時代も常に原酒の混合率が0%でもよかった3級ウィスキーが売れましたし、今だってバランタインもジョニーウォーカーも1000円ほどの廉価品が圧倒的に売れます。それは本場スコットランドでもヨーロッパでも同じです。

いずれにせよマッサンも鴨居の大将もウィスキーを日本に広めたいという気持ちは一緒でした。・・・二人とも揃って頑固者でしたが・・・。

※ウィスキー蒸留所で使用するピートは当店にもあります。興味のある方はお声掛けください♪

※写真は右から:カクテル「エリカ」、サントリー白札(復刻版)、ヒースの原野

エリカ  ヒース 
 
  
 

今年も写真家の吉江正倫さんの
ご厚意により撮影していただきました。
みなさま、よいクリスマスを
INTERMEZZO


こんにちは、インテルメッツォの尾形です。いよいよ師走、ここ数日は本当に寒いですね。風邪などひかれていませんか。
さて「マッサン」も(私がサボっている間に,,)やっと今週から山崎蒸留所に舞台が移りました。(いや長かったですねぇ、1年クルーのドラマなら次は江成くんあたりが出てきちゃう勢いでした。)

さて山崎蒸留所は国産第一号のウィスキーを造ったサントリー(寿屋)のウィスキー蒸留所です。この蒸留所の建設に鳥井信治郎は200万円もの巨費を投入しました。当時の200万円とは今の10億...円以上、後に竹鶴がニッカを立ち上げた時の資本金が10万円ですから驚くような額です。しかも誰も踏み出せなかったウィスキー事業の投資回収の見込みは未知数。当然社内外から反対されました。それでも鳥井は蒸留所の建設を強い信念で強行しました。
※この山崎蒸留所の建設について、ドラマでは実にあっさり事が運んでしましましたが実際は多くの苦労があったようです。こちらの核心部分を観たかった方も多いと思いますが、この時代は、今も現存するサントリーとニッカにとって覇権を争うデリケートな部分。あちらが立てばこちらが立たずといった感じになってしまうので、客観的に描くのは難しかったのではないかと思います。

マッサンを初代工場長として迎え入れた時の年収は4000円。1931年の総理大臣の年収が9600円といいますからかなりの高給ですね。鳥井は運も金も巡り巡って自分のところに還ってくると考えていました。お金をかけるところとかけないところもはっきり分けていました。ドラマの鴨居の大将は豪華なクルマ(アメリカのピアスアローという高級車)に乗っていますが、当の鳥井本人は生涯自家用車も別荘も持ちませんでした。
竹鶴と鳥井の間には他に山崎蒸留所の建設と運営について1)ウィスキー製造は竹鶴に一任、2)必要な資金は全て鳥井が用意する、3)契約期間は10年という約束が交わされたといいます。

さてドラマでは鴨居の大将の息子英一郎(鳥井吉太郎)がマッサン夫妻と共同生活をしますが、これは実話です。優しいリタと吉太郎はとても仲がよかったようです。

鳥井信治郎には昭和8年に伝染病で他界した妻との間に息子が3人いました。長男の吉太郎と次男の佐治敬三(後の2代目社長、養子に出した形になって佐治姓を名乗っていますが鳥井の実子です)、それに三男の道夫は雲雀丘の大きな洋館で共に生活をしていました。鳥井は帰りが遅くおまけに朝も遅いので子供たちは鳥井の寝ている寝室に向かって朝の挨拶をしていたといいます。吉太郎と敬三は年が離れていたので鳥井は早くから吉太郎を後継者にすることを決めていました。しかし吉太郎(後に副社長、例によって社内では「若大将」と呼ばれていました)はサントリーオールドが発売された昭和15年、33歳の若さで急逝します。だから二代目社長はずっと後になってから次男の佐治敬三が引き継ぎました。以降もサントリーは国際的企業であるにも関わらず非上場の同族経営が続きました。

言葉として適切かどうかわかりませんが、サントリー(寿屋)は鳥井を教祖とする新興宗教のような会社なのかもしれません。超人的な経営者鳥井の絶対的な金言はその死後もサントリーの企業理念として生き続けています。積極的な社会貢献などもそうですね。
今でもあえて非上場、ついこの間までは同族経営。サントリーが顔のある数少ない企業として確固たる地位を築いているのも鳥井の幻が今もサントリーに生き続けているからなのではないでしょうか。
山崎蒸留所鳥井家家系図

 こんにちは。インテルメッツォの尾形です。いよいよ寒くなってきました。みなさま風邪などひいていませんか?ひいている方はお大事に。
さてマッサンはここへきてちょっと小休止。
今日はマッサンと池田勇人元首相の意外な関係についてご紹介します。後半はあるスコッチの記念日(11月14日)の面白エピソードをご紹介します。

竹鶴は竹原市の隣町にあった忠海中学の3年から寮生活をします。その寮の後輩に後の内閣総理大臣池田勇人がいました。当時の寮の規律は軍隊のそれに等しく、池田は竹鶴の蒲団の上げ下ろしをしていたそうです。池田の生家も広島県竹原市の蔵元「豊田鶴」。そういう縁もあって竹鶴と池田の親交は生涯続きました。※サントリーも鳥井と池田首相との繋がりを強調していますが、竹鶴と池田は同じ釜の飯を食った仲。ふたりは心で繋がっていたようです。
...

日本の歴代首相の中には日本酒の蔵元の子息が他にもいます。佐藤栄作、竹下登、宇野宗佑もそうです。けっこういますね。日本酒の蔵元は減ったとは言え今も全国に1700場近くあります。古くから地元の名士である場合も多く、エリートが育つ土壌があったのでしょう。

ところで今日11月14日はイギリスの歴史上のある人物の命日です。

1635年11月14日、トーマス・パー、享年152歳…。…(O_o))!!。翌日15日、名だたる著名人の眠るウェストミンスター寺院へ埋葬・・・。
トーマス・パーって一体誰でしょう?※ヒントはウィスキーです。

トーマス・パー翁はローリングストーンズ、ビートルズに匹敵するほどのイギリスのスーパースターです。
パー翁は1482年2月に北西イングランドで生まれ、農夫として生計を立てていました。初婚が80 歳!(この時に一男一女が誕生!)、105歳の時に不倫がバレて公衆の面前で懺悔(笑)、122歳で最初の妻と死別すると、その年に再婚してまた子供が一人できた…、という世紀の絶倫!。老いて益々現役、完全に常人の域を超えたイギリスの「レジェンド」でした。
時の国王チャールズ一世は、パー翁が「元気」なことにいたく感動し、特別な計らいをしました。そして「レジェンド」は後見人であるアランデル伯爵の豪華な屋敷に暮し、そのわずか11ヶ月後に呆気なく死亡・・・。
死因は「食べ過ぎ」だとか。人間、慣れないことするとこうなるのですね。

そんな長寿で絶倫のパー翁にあやかって1871年にグリンリース兄弟が発売したウィスキーが「オールド・パー」です。
ボトルをよく見ると正面上部にパー翁の肖像画が貼られています。※この肖像画は17世紀の巨匠ルーベンス(1577- 1640)が描いたものです。
日本には特に早くから紹介され、発売から僅か2年後の1873年、イギリスから帰国した岩倉具視が持ち帰ったとされます。※だからウィスキーを最初に飲んだ日本人も岩倉ではないかと言われています。
以来日本では数多の起業家や政治家が愛飲、吉田茂や田中角栄もお気に入りだったのは有名な話です。
どうして「オールド・パー」が企業家や政治家に好まれたかというと、歴史の経緯やパー翁にあやかってということもありますが、それよりも(写真をご覧ください!)ほら、ボトルを斜めにしても倒れませんでしょ。これで皆さんゲン担ぎをしたと言われています。

オールド・パーは今では本国よりもむしろ日本をはじめ東南アジアで絶大な人気を誇ります。昔はとても高くて手の届かないウィスキーでしたが、今では12年ものなら3000円程度で入手可能です。やや辛口でコクのある堂々たる味わいですよ。というわけで今日は首相の愛したスコッチ「オールド・パー」の記念日でした。来週もよろしくお願いします。

※写真=池田首相(左)と竹鶴(右)
オールド・パー オールド・パーマッサンと池田勇人
  
  

 

 
  
  

インテルメッツォの尾形です。エリーちゃんは歌がうまいですねぇ(^o^)。エリー役のシャーロットさんは往年のジュリー・アンドリュースを彷彿させます。清楚な佇まいと明るさは東風に乗ってやってきたメリー・ポピンズのよう。そういえばあの映画の舞台も1910年代のイギリスでしたね。

さて今週のマッサンです。会社を辞めたマッサンは食うにも困り、家賃の取り立てに居留守を使うほどの貧乏生活に陥ってしまいました。マッサンもどんどんやさぐれて行きます。
実際の竹鶴は会社を辞めて「浪人生活」...をしていたのは1922年(大正11年)から翌年のほんの数か月だけでした。その間もリタの知人(英国人牧師)が校長をしている桃山中学で化学の教師をしています。リタも帝塚山学院で英語を教えるかたわら近所の裕福な家庭で英語とピアノの個人教授をしていました。
リタは優しく子供好きでした。竹鶴は自著でこの浪人生活を「小さな女の子のピアノの音、リタの明るい声などにつつまれて、私にウィスキーづくりを離れたさびしさを忘れさせるほど、家庭的な明るい数か月であった」と綴っています。
平穏で静かな時間。竹鶴はこの幸せな時間をリタと心から共有したことでしょう。というわけでこのふたりは特に金銭的に困ることなく一生を過ごします。

さてここで、ドラマで熱を出した近所の子供のために優しいエリーが風邪薬の代わりとして作った「トデー」という飲み物をご紹介しましょう♪。
トディとはスピリッツに砂糖を入れ、水またはお湯で割ったものを指します。エリーはウィスキーのお湯割りにマーマレードを入れてこれを作りました。
このトディ、ご自宅でも簡単に作ることができますので、ちょっと当店のレシピを元にご紹介します。
まず耐熱グラスにウィスキーとシロップを入れ馴染ませます。※ホットドリンクは甘めにするとより美味しく飲めます。お湯をウィスキーの2.5~3倍注ぎステア(かき混ぜる)します。レモンピール(親指大のレモンのスライス)をグラスの上から振りかけ、グラスに入れます。シナモンスティック、グローブ(丁子)を投入して完成です。これが「ホットウィスキー・トディ」です。
シロップをコーヒーシュガーに代え、シナモンスティックをマドラー代わりにして甘さを調整するのもちょっとアンニュイでいいですね(「いい女」の方はやってみてください)。
アルコール度数もワインほど。色んなウィスキーで作る楽しみもあります。
昨日は立冬。寒い夜に幸せな味のするホットウィスキーを一杯いかがですか?

※写真:帝塚山学院(左)、桃山学院(右)
 

ホットウィスキー・トディ帝塚山学院桃山学院