明主様と菜食――ミロクの世を「未来として待つ」のか、それとも「今から生き始める」のか
明主様の菜食について考えるとき、単純に「明主様は肉を食べることに反対されたのか」「菜食を実践すべきなのか」という食生活の問題だけで考えると、その思想の全体像を捉えきれないように思います。
明主様が語られた菜食には、健康、栄養、精神作用、自然農法、殺生、動物の霊、そして「ミロクの世」という未来像までが関係しています。
さらに重要なのは、明主様の世界観そのものにおいて、現在の現界だけを見て未来を判断するのではなく、より上位の世界ですでに起きていることが、時間差をもって現界に現れてくるという考え方があることです。
もしそうであるならば、菜食についても、
「将来、人類が菜食になる」
というだけではなく、
「将来そうなることを、現在の人間がどのように先取りしていくのか」
という問題として考える必要があるのではないでしょうか。
そして、この点こそが、現在のメシア教が菜食をどう捉えるのかを考えるうえで、重要な鍵になると思います。
第一段階 明主様は何を語ったのか
まず出発点は、明主様自身が何を語られたかです。
ここでは現代の栄養学やヴィーガニズムから明主様の言葉を解釈するのではなく、まず昭和初期から昭和30年頃までに語られた内容そのものを見る必要があります。
明主様は、菜食についてかなり明確に語っています。
「真の健康体を欲するならば、一日一回お茶漬を食すること、お菜は香の物、特に菜葉の漬物が良い。これを行なえば、諸々の病毒を去り、健康体となることを得る。特に菜食主義が一番よろしいのである。」
また、別の講話では、
「絶対粗食にすると栄養器官が非常な活動をするんで、ずっと若返るんですよ。だから年をとるほどいわゆる「栄養」を食わないようにするのがいいんです。」
と語り、さらに、
「菜食が一番人間の栄養なんです。」
とも述べています。
ここで興味深いのは、明主様が単に「野菜を食べると健康に良い」と説明しているのではないことです。
明主様の栄養観では、現代的な意味で「栄養のあるものを外からたくさん補給する」という考え方そのものに疑問を呈しています。
「完成したものを食うと必ず体が弱るんです。完成してれば栄養器官が働く必要ありませんからね。」
つまり、身体が本来持っている働きを十分に活動させることそのものが、人間の生命力につながるという考え方です。
そして、ここからさらに重要な話が出てきます。
明主様は自然農法について語った際、
「ですから、やっぱりミロクの世の、一つの条件になるわけですね。」
と述べています。
これは非常に重要な一文です。
菜食は単なる健康法ではありません。
ミロクの世を構成する一つの条件として菜食が語られている。
ここに、明主様の菜食論を考えるうえでの大きな出発点があります。
「菜食」といっても、現代の一般的な菜食とは少し違う
ここでも言葉の問題があります。
現代の「菜食主義」という言葉には、さまざまな形があります。
肉は食べないが魚は食べる人もいれば、肉も魚も食べないが卵や乳製品は食べる人もいます。
ところが、明主様が語られた「絶対菜食」には、かなり徹底したものがあります。
例えば、
「カツオブシもいけないと言うのです。」
という話があり、また自身の結核療養について、
「三カ月絶対菜食で鰹節さえ使わず、薬も廃めて了ったが、それで完全に治ったのである。」
と述べています。
この意味では、明主様のいう「絶対菜食」は、現代の食生活の分類で言えば、一般的なベジタリアンよりもヴィーガンに近いと考えることができます。
もちろん、明主様の時代に現代的な意味での「ヴィーガン」という概念があったということではありません。
したがって、
「明主様はヴィーガンだった」
と現代の概念をそのまま過去に当てはめるより、
「明主様が語った絶対菜食は、現代の分類ではヴィーガンに近い」
と表現するほうが正確でしょう。
第二段階 なぜ明主様は未来を語れたのか
ここからは、食事論だけではなく、明主様の世界観そのものを見る必要があります。
明主様の教えには、現在われわれが生きている現象界だけが世界のすべてではなく、その上位に霊界、神界があり、そこで起きたことが時間差をもって現界に現れてくるという考え方があります。
つまり、現界で起きることを見てから未来を予測するという方向だけではありません。
上位の世界で先に変化が起こり、それが現界へと降りてくる。
そのため、現界にまだ十分に現れていないものを、先に示す人が存在することになります。
ここに、明主様が未来について語る意味があります。
普通の人間は、現在しか見ることができません。
現在の社会を見て、
「このままいけば、おそらくこうなるだろう」
と予測することはできます。
しかし、明主様の世界観では、それとは違う。
まだ現界には十分に現れていないものを先に知り、それを人類に示す。
もしそれを「預言」と呼ぶなら、預言とは単に未来を当てることではありません。
人類がこれから向かう方向を、先に示すことでもある。
第三段階 預言とは何か
この点では、聖書のノアの物語を考えると分かりやすいでしょう。
ノアは、まだ起きていないことについて神から示され、それに従って準備した人物として描かれています。
周囲の人間から見れば、まだ起きていないことを信じて行動することになります。
しかし、もし神から示されたのであれば、ノアにとっては「現在の常識」が判断基準ではありません。
まだ現れていない未来を基準として、現在を変える。
ここに預言の一つの性質を見ることができます。
明主様についても同じように考えることができます。
もし明主様が神から示された未来を伝えたのであれば、その言葉は、
「現在の人類がまだそうなっていないから、実現する可能性は低い」
というものではありません。
むしろ逆です。
まだ現れていないからこそ、それを先に伝える意味がある。
そして、ここには一つの重要な問題があります。
預言とは、未来を説明するだけのものなのか。
それとも、
人類をその未来へ導くために与えられるものなのか。
もし後者であるならば、明主様が示された菜食も、単なる食事についての一意見ではなくなります。
第四段階 ミロクの世と菜食
明主様の世界観では、霊界・神界で起きたことが、時間差をもって現界に現れてくる。
そして、四次元以上の世界において天国化、すなわちミロクの世への移行がすでに済んでいるという教えを前提にすれば、三次元の現界もまた、その方向へ進んでいくことになります。
ここで菜食の意味が変わってきます。
「ミロクの世になれば人類は菜食になる」
というだけなら、菜食は未来の完成形です。
しかし、
「現界がミロクの世へ向かっている」
のであれば、食生活もそこへ向かって変化していくことになります。
つまり、
未来に菜食になるのではなく、未来へ向かう過程の中で菜食化していく。
という考え方が成立します。
この違いは非常に大きいものです。
「まだミロクの世ではないのだから、現在は従来通りでよい」
という考え方もできます。
一方、
「ミロクの世へ向かっているのであれば、その未来を現在から少しずつ実践していけばよい」
という考え方もできます。
そして後者を選択するなら、菜食は単なる食事制限ではありません。
未来を先取りする信仰実践
になります。
第五段階 現代科学との符合
ここで初めて、現代科学を見る意味が出てきます。
重要なのは、
「科学によって明主様の教えを証明する」
ことではありません。
そうではなく、
昭和期に明主様が語った食についての問題意識が、その後の科学や医学の研究によって別の角度から検討されるようになった
という点を見ることです。
その代表的な例が肉、とりわけ加工肉です。
WHOの国際がん研究機関(IARC)は、加工肉について「人に対して発がん性がある」Group 1、赤肉については「おそらく発がん性がある」Group 2Aに分類しています。特に加工肉については、大腸・直腸がんとの因果関係について十分な証拠があるとされています。(世界保健機関)
ただし、ここは冷静に見る必要があります。
IARCの分類は、「どの程度危険か」そのものではなく、発がん性の証拠の強さを分類したものです。加工肉がGroup 1だからといって、たばこやアスベストと同じ程度の危険性があるという意味ではありません。(IARC)
この点を踏まえると、
「WHOが肉食は危険だと認めたから、明主様が正しかった」
と短絡する必要はありません。
むしろ、
昭和の時代に明主様が食生活について語っていた問題の一部が、現代医学においても重要な研究対象になっている。
と見るほうが適切です。
さらに、現在のIARC・WHOの資料でも、肉には栄養上の利点がある一方、赤肉・加工肉については摂取量を抑えることを勧める各国の食事指針があることにも触れています。(世界保健機関)
つまり、現代科学も「肉を食べる人間はすべて間違っている」という単純な結論を示しているわけではありません。
ここでも、
明主様の思想と現代科学を無理に同一化しないこと
が重要になります。
それでも、そこに一つの「符合」を見ることはできます。
第六段階 スポーツとヴィーガン
そして、かつて完全菜食について語る際に大きな問題となったのが、
「肉を食べなければ体力がつかないのではないか」
という問題です。
これは非常に現実的な問題でした。
特に激しい肉体労働やスポーツをする人にとって、動物性食品を食べないことは、体力や筋力の面で不利なのではないかという考えは根強くあります。
ところが現在では、植物性中心の食生活をしながら競技生活を送るアスリートが存在すること自体は、もはや特別なことではありません。
さらに研究の面でも、2024年に発表された植物性食と運動能力についての系統的レビューでは、植物性食が運動能力を損なうという証拠はなく、一部の指標では改善の可能性も示されています。ただし、プロアスリートにおける長期的な影響については、なお研究が必要とされています。(PubMed)
別の系統的レビューでも、菜食者と雑食者との間で、VO₂max、筋力・パワー、スプリントなどの身体能力に有意な差が認められなかったとされています。つまり、少なくとも「菜食だからスポーツができない」という単純な見方は支持されていません。(PubMed)
ただし、
「ヴィーガンでもトップアスリートになれる」
ことと、
「ヴィーガンのほうが必ず運動能力に優れる」
ことは全く違います。
現時点の研究から後者を断定することはできません。
また、ヴィーガンのアスリートでは、エネルギー、タンパク質、鉄、カルシウム、ビタミンB12、ビタミンDなどを適切に確保するため、食事設計が重要だという指摘もあります。(PubMed)
だからこそ、ここで重要なのは「ヴィーガンなら万能」という話ではありません。
むしろ、
「かつて当然だと思われていた『動物性食品がなければ十分な身体能力を維持できない』という考えが、絶対的なものではなかった」
ということです。
これは、明主様が昭和の時代に語った「菜食でも人間は活動できる」という主張を考えるうえで、興味深い現代的な状況ではないでしょうか。
それは「科学が明主様を証明した」ということなのか
ここは一度、立ち止まる必要があります。
私は、そう単純に結論づけるべきではないと思います。
明主様の思想は宗教的世界観に基づいています。
一方、現代科学は観察、実験、統計、疫学などによって仮説を検証します。
両者はそもそも方法が違います。
したがって、
「科学が明主様の預言を証明した」
という言い方ではなく、
「明主様が先に示した方向について、現代社会の科学・医学・スポーツ科学が、少なくとも『それは現実には不可能なのではないか』という従来の常識を問い直す材料を積み重ねている」
と考えるほうが適切です。
これは、むしろ預言という考え方とよく合います。
預言とは、現在の常識から未来を推測することではありません。
まだ十分に見えていないものを先に示すことだからです。
第七段階 そしてメシア教はどうするのか
ここで、ようやく現在の問題に戻ってきます。
明主様の菜食論を考えることは、
「肉を食べるのは悪いのか」
という話だけではありません。
本当の問題は、
明主様が示した未来を、信仰者はいつから自分たちの生活の中に取り入れるのか
ということではないでしょうか。
もしミロクの世において人類が菜食になるのであれば、そこには二つの考え方があります。
一つは、
「ミロクの世になれば自然にそうなるのだから、今は無理をする必要はない」
という考え方です。
もう一つは、
「ミロクの世へ向かっているのだから、その未来を現在から先取りしていこう」
という考え方です。
どちらが正しいのか。
これは単純な教義の一文だけでは決められない問題かもしれません。
しかし、もし明主様の教えを「未来を示すもの」として受け取るのであれば、後者には大きな意味があります。
なぜなら、預言とは単に、
「いつかこうなりますよ」
と教えるためだけのものではないからです。
「だから今から、その方向へ進みなさい」
という意味を持つからです。
ノアが洪水を待ってから箱舟を作ったのではなく、まだ何も起きていない段階から準備したように、未来を信じるということは、現在の生き方を変えることにもなります。
そう考えれば、メシア教が菜食を現在から実践しようとすることには、一つの明確な思想的意味が出てきます。
それは、
ミロクの世を待っているのではなく、ミロクの世へ向かう人間として、現在から生きる。
ということです。
「先延ばし」なのか「先取り」なのか
ここで、教団による違いも見えてきます。
明主様を信仰する団体であっても、
「菜食は将来的なものだ」
と考えることはできるでしょう。
一方で、
「明主様がそこまで示されているのであれば、現代の私たちはそこへ向かう実践を始めるべきだ」
と判断することもできます。
つまり、
同じ明主様の言葉を受け取っても、未来との距離の取り方が違う。
ということです。
「いつかそうなる」
と考えるのか。
それとも、
「いつかそうなるからこそ、今から始める」
と考えるのか。
この違いは、単なる食事の違いではありません。
それは、
明主様が示した未来を、信仰者がどのように受け取るか
という信仰姿勢の違いにもなります。
そして、現代は昭和初期とは違います。
当時には選択肢が少なかった完全菜食も、現在では植物性食品の種類が増え、栄養学も大きく進歩しています。
もちろん、誰もが同じ方法で食生活を変えられるわけではありません。
健康状態、年齢、仕事、運動量、生活環境なども考慮する必要があります。
だからこそ、現代における菜食化は、単純な精神論ではなく、知識を持って実践することが求められます。
「肉を食べなければよい」というだけではなく、
「植物性食品からどう栄養を確保するのか」
まで含めて考える必要があります。
しかし、それが可能になってきたということ自体が、昭和の時代との大きな違いなのです。
終章 未来を待つのか、未来を生き始めるのか
明主様の菜食論を調べていくと、最後には食事の問題を越えて、一つの大きな問いに行き着きます。
ミロクの世とは、いつか突然やってくる世界なのか。
それとも、
人間がそこへ向かって、一つ一つの生活を変えていく過程そのものなのか。
明主様の世界観では、より上位の世界で先に変化が起こり、それが時間差をもって現界に現れてくる。
もしそうであるならば、現界にまだ完全には現れていない未来を、先に示す人が存在する意味があります。
それが預言者という存在なのかもしれません。
そして、預言として示されたものが、時間の経過とともに少しずつ現実の可能性になっていく。
かつては、
「肉を食べなければ体力が出ない」
「完全菜食では人間は生きられない」
という考えが強かった。
しかし現在では、植物性食でも十分な栄養を設計でき、菜食・ヴィーガンの食生活をしながら高い身体能力を発揮する人も存在します。研究上も、植物性食が運動能力を必ず損なうという結論にはなっていません。(PubMed)
また、肉、とりわけ加工肉については、現代医学において明確に研究対象となり、IARCは加工肉を発がん性のあるもの、赤肉をおそらく発がん性のあるものとして分類しています。(世界保健機関)
これらをもって「明主様の教えが科学的に証明された」と言う必要はありません。
しかし、
昭和の時代に明主様が語ったことが、現代において全く非現実的なものではなくなってきている。
そのことは確かに考える価値があります。
そして、ここに現代の信仰者にとっての問題があります。
明主様が示した未来を、
「いつかそうなるだろう」
と遠くから眺めるのか。
それとも、
「そうなるのであれば、私たちは今からその方向へ進もう」
と考えるのか。
未来を信じるということは、未来を待つことだけではありません。
未来を信じるからこそ、現在の生き方を変えるということもできるのです。
菜食は、その一つの象徴になり得ます。
それは肉を食べる人を否定するための思想ではありません。
また、現在の科学を宗教の証明に利用するためのものでもありません。
むしろ、
明主様が示した「ミロクの世」という未来を、現在の私たちはどこまで先取りして生きられるのか。
という問いです。
明主様の言葉を未来への預言として受け取るなら、私たちはその未来をただ待つだけでよいのでしょうか。
それとも、その未来へ向かう人間として、今日の食卓から変えていくのでしょうか。
明主様が示した未来を、未来として待つのか。
それとも、その未来を現在から生き始めるのか。
この問いこそが、現代における「明主様と菜食」を考える出発点なのではないでしょうか。

