ただ、正しい教えでも自分が神様の声を聴けるわけでもないのに、受け売りで神様の代行者と同じ立場で自分を守って人に発言しているようでは表面だけまねた唯物信仰状態です。
無信仰を作る信仰
欲を正当化する教えは、神様信仰ではない
近年、親子関係についての研究が進み、「虐待」という言葉の意味も広がってきました。
昔は「しつけ」「親だから」で許されていたことが、今では精神的虐待として理解されることも少なくありません。
殴る蹴るだけが暴力ではありません。
相手を支配し、人格を否定し、自分の都合のために相手を傷つけ続けることも攻撃性です。
そして、この攻撃性こそ、多くの信仰が最初に向き合うべき問題です。
信仰は感情を解放することではない
「私のしたいことをして何が悪い。」
この考え方は、一見すると自由に見えます。
しかし信仰が目指す自由とは違います。
信仰とは、自分の欲や怒り、執着と向き合い、それを神様に委ねていくことです。
「神様の御心が成し遂げられますように。」
この祈りのほうが、人間としても成熟した姿勢ではないでしょうか。
欲をそのまま正当化する教えは、宗教であっても神様信仰ではありません。
それは「信仰の形をした無信仰」です。
我・執着・欲が攻撃性を生む
攻撃性の根には「我」「執着」「欲」があります。
正しい信仰は、その扱い方が土台になります。
精神修養として抑える道もあります。
世界メシア教では、自分の我を認め、神様に委ねることを大切にします。
共通しているのは、欲の自己正当化ではないということです。
家庭では虐待になり、組織では支配になる
親が自分の未熟さを認めず、子どものせいにし続けるなら、それは子どもの人格を否定することになります。
家庭では虐待になり、組織では支配になります。
「親だから絶対。」
「指導者だから絶対。」
そうやって相手の選択肢を奪うことは、神様の働きとは反対です。
子どもには縁を続ける自由も、距離を置く自由もあります。
親だからといって、攻撃され続ける義務はありません。
徳を積んでも、土台が変わらなければ戻る
信仰をして徳を積み、運勢が良くなることはあるでしょう。
しかし土台が「欲の自己正当化」のままなら、結局また元の苦しみに戻ります。
さらに「もっと徳を積め」「もっと献金を」「もっと従え」となると、終わりのない堂々巡りになります。
これでは神様に近づくのではなく、人を縛る信仰になってしまいます。
本当にまともな指導者は疑問を持つ
まともな指導者ほど、途中で考えます。
「これで本当に人は救われるのだろうか。」
その違和感を持てる人は、まだ神様を見ようとしている人です。
最後に教団が試される時には、「誰についていったか」ではなく、「どんな思想についていったか」が現れます。
信仰は人を神様へ近づけるもの
信仰は、人を従属させるためではありません。
欲を正当化するためでもありません。
神様の御心を第一にし、自分の我と向き合い続けること。
そこから家庭も組織も少しずつ健全になっていきます。
信仰の形をしていても、人を神様から遠ざけるなら、それは「無信仰を作る信仰」になってしまうのです。

