比較は未熟な指導者の精神を幼くさせる

真実を求めない姿に気づくのが始まりであるが
あまりに時期遅いと自分がどこにあるのか分からなくなるから避けがち。

 

すぐ比較する未熟な指導者 ―若手を過ぎても要注意な精神の幼さ

比較は分かりやすい言葉です。

「○○支部はできている。」 「あの人はやっている。」 「あなたはまだ足りない。」

一見すると指導のように聞こえます。しかし信仰の世界では、この「比較」は案外危険です。

神様は一人ひとりを見ておられるのであって、誰かと比べて価値を決める方ではありません。

比較は、人を育てるより支配する道具になりやすいのです。

 

比較は虐待や支配にもなる

苦しみを話した人に、

「あの人よりまし。」 「私よりまし。」

と言ってしまう人がいます。

これは話し手を見ていません。自分の感情を守っているだけです。

相手の現実を受け止めず、比較で打ち消してしまうことは精神的な暴力になることがあります。

 

比較する人は事実より「都合のよい物語」を語る

「ここはこうして成功した。」 「向こうではこうやっている。」

ところが実際に確認すると、その方法は行われていない。

聞きかじった話や思い込みを、自分を正当化する材料として使っていることがあります。

事実から考えるのではなく、結論に合わせて現実を演出している状態です。

 

一人だけ話を聞かない指導者

誤解や苦情が起きたとき、本当に必要なのは全員の話を聞くことです。

ところが未熟な指導者は、

  • 苦情を言う人。

  • 周囲の人。

  • 世話をした人。

ここまでは聞いて終わります。

肝心の「誤解された本人」が抜けています。

その空白を、自分の想像で埋めて悪者を作ってしまう。本人の言い分を聞かないまま判断するので、真実と逆になることさえあります。

 

ただし、上記三人の話を聞いた結果自分に都合が悪いときは別です。

誤解を受けた人まで聞くことがあります。

それは決してあなたのためではありません。

指導者の自己防衛の結果です。

尊重されたいだけの指導者

立場を尊重しろと言う人ほど、自分が尊重される行いをしていないことがあります。

格好よく見られたい。 権威を守りたい。 間違いを認めたくない。

その結果、「まず立場にひれ伏せ」という態度になります。

これは信仰ではなく、幼い自己防衛です。

 

精神年齢は年齢だけでは決まらない

家庭環境やトラウマ、発達特性などは人格形成に影響します。

しかし、一番成長を止めるのは、自分の幼さと向き合わず、立場で自分を守り続けることです。

管理者になった瞬間に成長が止まり、むしろ幼児化してしまう人もいます。

「私は悪くない。」 「相手が悪い。」 「比べれば私が正しい。」

これは子どもの心のまま権限だけを持った状態です。

 

信仰が求めるもの

信仰は比較ではありません。

相手を悪者にして自分を守ることでもありません。

一人ひとりの事実に向き合い、自分自身の欲や恐れ、攻撃性と向き合うことです。

比較を手放したときに初めて、人を裁く信仰ではなく、人を生かす信仰に近づいていけるのだと思います。