尊重の勘違い ― 企画において、すべての立場の意見が尊重されるということ
真理を信じていない人には、なかなか理解しにくい話かもしれません。
教主様から流れてくるものを真理として受け止めていない場合、企画や運営に対する考え方そのものが大きく変わってしまいます。
私は、これまでの宗教指導の中には「これから私たちが真理を作り出していく」という発想の誤解が少なからずあるように感じています。
「自分が歩んだ先に真理がある」
「自分の伝道の先に真理がある」
そう考えてしまうのです。
しかし信仰とは、本来そういうものではありません。
真理は最初から存在しています。
私たちはそれを発見し、受け取っていく立場です。
だからこそ、さまざまな人の意見を正しい目で見ていけば、互いの足りない部分を補い合いながら、自然と真理へ引き寄せられていくはずです。
そこには、
「神様はすべての人を通して働かれる」
という信頼があります。
全ての人、目上だけでなく目下(この考えがそもそもいけない、上下関係を否定しているわけではない)
夫なら奥さん、子供もそうです。
指導者にこの視点がないと何が起こるのか
その結果として生まれるのが、
「話し合いという名の、答えの決まった会議」
です。
最初から結論が決まっていて、意見を聞いているようで実際には聞いていない。
そのような状態になりやすくなります。
例えば、
-
和食ヴィーガンデー
-
ヴィーガンピクニック
といった企画を考える場合でも、本当に多様な意見を尊重しているところでは、さまざまな方法が生まれます。
人々が試行錯誤し、考え、工夫し、創造する。
その過程が形となり、真理に近づいていくのです。
同じ真理を受け取ったとしても、その地域によって表現は変わります。
地球上でも咲く花は違い、温度も気候も違います。
ならば、そこで生きる人々が生み出す企画の形が多少異なるのは当然でしょう。
しかし、聞かなくなって何年もたつ地域は意見がでなかったり、出にくくなるものです。
私が信仰的な監査するなら、意見を出させるよう指示するより、意見が集めれない指導者のそういうところに着目します。
第一印象だけで人を判断すると創造は止まる
ところが、赴任してきた管理者が地域を理解する前に、自分の第一印象や思い込みだけで方向性を決めてしまったらどうなるでしょうか。
多様な意見は淘汰されます。
結果として、
「持ち寄ったおかずを食べる」
「近くの公園で食事をする」
といった無難な形に収まりがちになります。
もちろん、それ自体が悪いわけではありません。
問題は、その地域ならではの創造性が発揮される前に可能性が閉ざされてしまうことです。
本来、外部から赴任してくる管理者には二つの役割があるはずです。
一つは新しい風を吹き込むこと。
そしてもう一つは、その土地の人々から学ぶことです。
もし最初から結論だけを持ち込み、お仕着せの運営をしてしまうなら、それは信徒の持つ可能性や神様から与えられた賜物を拒絶していることにもなりかねません。
創造の中に真理が現れる
私自身の考察ですが、水の聖地で行われているヒーリングプロジェクトなどは、本部主導のヴィーガンピクニックの一つの発展形ではないかと感じています。
日本でも多くの人が考え、祈り、試行錯誤した結果として、そのような創造的な企画にたどり着いた地域もあるのではないでしょうか。
そこに至るまでの「想像」と「思考」の過程こそが大切なのだと思います。
また結論だけパクろうという保守的な考えはいけないですね。
ただそうやって、人間の向上を妨げるような人を見つける手掛かりにはなりますが…。
現在進められているキリスト農法や自然農法の取り組み、ヴィーガンプロジェクトなどを見させていただいても、私はそこに大自然を感じます。
神様が用意されたエデンの園を体感する機会。
そんな印象を受けます。
もちろん、これは私自身の一つの考察に過ぎません。
独善からは真理にたどり着けない
反対に、想像や思考を伴わず、教会長一人の思い付きだけで企画が進められたらどうでしょうか。
それは独りよがりになりやすく、独善に陥ります。
そして独善からは、いくら考えても真理には到達できません。
そうなっているのです。
なぜなら、真理は自分一人の中に閉じ込められているものではないからです。
以前も書きましたが、「尊重する」ということは、自分の立場を脅かされることではありません。
卑下することでもありません。
むしろ神様が与えてくださったものを受け取るための条件の一つです。
ところが、人は自分の思い通りにならないと面白くありません。
その結果、有能な人や貢献できる人ほど離れていきます。
つまらない時間を過ごすより、個人的に行った方がより良いからです。
これは非常に分かりやすい立場への執着の姿です。
しかし当事者になると意外なほど気づけません。
教祖は
「威張るな。怒るな。早まるな」
と教えられました。
もし本当にこれを指導者の条件として考えるなら、一つでも欠けていてよいとは言えないでしょう。
ところが現実には、威張っているのに「威張っていない」と言い、怒っているのに「怒っていない」と言葉で自分の弱点を知り向上をする機会を否定してしまう人もいます。
しかし周囲の人は態度を見ています。
信徒からすれば、
「この人とは話が通じないな」
「変わることは無いな」
「機嫌が悪くなるところは適当にしよう」
「イライラしてない?すごくイライラしているじゃないか」
で終わってしまうのです。
立場と人格は別のもの
現代社会では、立場の上下と人間としての価値を混同しがちです。
しかし本来、立場と人格は別のものです。
役職があるからといって、その人が偉いわけではありません。
ところが、立場を持つことで自分の意見を通したくなったり、自分だけで決めたくなったりすることがあります。
つまり立場と権力ばかりに目を奪われ、責任は放棄してしまうのです。
これが欲の姿、罪の姿、曇りの姿です。
その結果が良い方向へ向かうこともありますが、そうならない場合が多いのは前述した通りです。
慢心を超えた慢心というように天才的な洞察力やインスピレーションがあれば可能ですが、それはほんのひとにぎりです。
霊主体従という基本原則から見れば、この問題は非常に本質的なものです。
部分的には理解できても、組織運営全体を通して霊主体従で見ることは簡単ではありません。
だからこそ、自分自身の霊的向上が重要になります。
魂が向上すれば、自分では気づけなかった欠点や執着も、神様によって少しずつ教えられていくはずだからです。
念のために書きますが、これは組織ではより下のレイヤーの話です。
自由意志を失うと企画は形骸化する
もし霊的な理解が伴わないまま、
「ヴィーガン弁当を持ってピクニックをしなさい」
という指示だけが伝わったらどうなるでしょうか。
やがて企画は教条的になり、本来の目的から離れていく可能性があります。
指示を厳密に守ること自体が目的になってしまうからです。
自由意志が制限されれば、人々の発想は一つの方法へと収束します。
意識がなければ、より以上の事はできません。
だからこそ、企画においても単なる形式や指示の遵守ではなく、人々の真心と創造性が生かされる環境を大切にしなければならない。
心の力が失われるということは、活動力を失い、その人の中にある魂を封印している。メシアの封印にもなりそうです。
そのことを改めて考えさせられます。
中間が指示に従うのと上記は共存できるし、そうする度量と努力が管理職に求められるものでしょう。最初からしないとなると話が変わってきます。
そういう人がさらに上位に行く中で中間管理職へのアドバイスも可能になりますが、管理職になる前のまま、時間だけなんとか過ぎてやりきってとなると問題が山積みになります。そして本人は気づかない、もしくは指摘を拒絶したり敵視したりするようになります。
結局これは善と悪の戦いではなく、悪同士の戦い、やちまた(天国の一歩手前の段)以下で私のほうがましと戦いあっている状態です。
勝ったところでやちまたどまりです。
だから争いをともないます。
天国にほとんどの人がいないのはそういう意味もあります。
正しいことをすると、特にメシアを出すと攻撃される邪魔されるのは分かりますが、
自分が喧嘩しに行くのは違うでしょう。怒るな威張るな?でしょう。
相手が邪神と言いながら自分もしっかり天国ではないわけです。
それで、神様のご意向は受けるんだ。で、それを受けろというなら、その受けろの形を決めているのは、それをお仕着せている人の個人の構想になります。この感覚が分からないでしょうか?共にではなく言うことを聞けに代わっている感覚が大事です。
だから尊重なのです。尊重が自分を卑下することに思うなら心の病気です。
真理は人間が作るものではなく、神様が既に用意されているものです。
私たちに求められているのは、それを一人で決めることではなく、互いを尊重しながら共に受け取っていくことなのかもしれません。
本当に天国にいるなら、その言霊は本当の意味で人を動かし事象を動かし導くはずなのです。
