神様と人権の話が出ましたね。

 

とある方向から書いたほうがよいとのことで書きますが、

正直なところ、少し疲れるテーマでもあります。
放っておけば自滅するような言動も多く、

神様に無礼な発言を繰り返されていると、

正直関わりたくないという気持ちもあります。

 

 


 

 

この話題になると、やはり二つに分かれます。

 

「人権を放棄せよ」と考える人と、
「人間同士でそれを強制するのはおかしい」と考える人です。

 

 

前者は、まだ心に支配の精神が根差している、いわば“えせ信者”“えせ布教師”の姿とも言えるでしょう。

 

自分が神様に成り代わりたい人、そうしてきた歴史の残り香でしょうか。

 

 


 

 

そもそもメシア教におけるヴィーガンは、単なる食の問題ではありません。

信仰の要素はもちろんで、私が語ることではありませんが、


そこには「ヴィーガニズム」という思想、つまりあらゆる命への尊重が含まれていると考えます。

 

たとえば、戦前・戦中のように「家長だけが強い家庭」は、ヴィーガン的な価値観とは言えません。

 

 

時代が進み、女性の人権が保障され、社会進出が可能になりました。
もちろん、すべてが理想通りとは言えませんが、社会全体としては確実に尊重の方向へ進んできました。

 

 


 

 

そして次に問われているのが「子ども」です。

 

子どもの人権も、一応は保障される時代になりました。
パーソナリティの問題や社会状況によって、まだ十分とは言えない部分もありますが、それでも「尊重するのが当たり前」という意識は広がっています。

 

 

つまり、人間社会においては「公正・平等・尊重」というヴィーガン的価値観が、すでに意識の土台になりつつあるのです。

 

 


 

 

では、その次は何か。

 

それは「あらゆる生命」です。
まずは哺乳類、そして昆虫などにも広がっていくでしょう。

 

 

たとえば、ヴィーガンがはちみつを避ける理由は、毒性の問題ではなく、
「ハチの労働の成果を搾取しない、奪わない」という思想にあります。

 

人間関係でも人の手柄を奪わない事にもなるでしょう。

 

人間の場合は複雑で、たとえ率先して奪わなくても

 

自己正当化が過ぎると同じです。

 

これは結果的に自分以外の誰かを悪者に仕立てあげてしまい、その人の立場可能性を奪うことになりかねません。

ですので回避的な自己愛もまた、相手を尊重しているとは言えないため、ヴィーガン的な在り方とは言えないのではないでしょうか。

 

(余談ですが、これはある意味、信仰というよりマキャベリズム的な方向に近づいていくようにも感じます。その結果として、いわば“懲役”のように過大な立場を与えられ、苦労を通して学ばされることもあるのかもしれません。そこで悟れるかどうかが問われている――信徒や部下ではなく、むしろその人自身こそが一番見られている、そんな感じがいたします。)

 

 

また蚕なども同様です。

 

 

つまり根底にあるのは、「公正」と「尊重」なのです。
決して自分の利益のための人権ではありません。

 

 


 

 

しかし現実には、この基本が理解されていない場面も見られます。

 

過去の教団浄化から学べていないのでしょうか。
「家族を後回しにして御用を優先しろ」と強制し、結果的に家庭を崩し、責任から逃げた例も少なくありません。

 

御用が大事だといいつつ仕事が終わったら、飲み歩いていたなんて話も聞いたりします。言い訳に利用された歴史があるようです。

 

 

では、「神様の人権」を語る家庭はどうでしょうか。

 

言うまでもありませんね。


ですので、本来であれば、人同士は互いに尊重し合う関係になっているはずです。

 

 

それにもかかわらず、御用となると、信徒や部下の人権を無視する理由として使われてしまう。
ここに大きな矛盾があります。

 

 


 

 

今回の問題は、ある意味で「自分が神様になろうとしている人」を浮き彫りにしています。

 

確かに、神様のご指示に対して人権は存在しません。
なぜなら、それは人間が逆らえるものではないからです。

 

 

しかし、それを利用して「自分の言葉=神様の言葉」とする人間がいるならば、
その人こそが滅びに向かうでしょう。

 

 

神様を語る人間ほど、無礼なことはないからです。

 

 


 

 

本来、人間同士の関係とは、
神様のご指示をどう受け取り、どう力を合わせ、補い合い、支え合い、励まし合うか、という話のはずです。

 

それなのに、保身や短期的な成果にとらわれ、他者を無視する。
これが「弱さ」です。

 

 

この状態では、長期的な発展はあり得ません。
多くの場合、「自分がいる間だけ」「任期まで持てばいい」といった発想に終始し、利他のかけらも感じられません。

 

 

あるいは、思考を放棄して目の前のことだけをこなしている。

 

 

だからこそ、方向性が定まらず、発展もしない。

 

 


 

 

率直に言って、そのような人が運営している支部は魅力的ではないはずです。

 

信仰とは、本来「自由を広げるもの」です。
一方で、支配や過度な戒律は「自由を奪い」ます。

 

 

自分がどちらに立っているのか。
それを見れば、受け止め方の歪みも見えてくるでしょう。

 

 


 

 

そして本来、それを磨いていくのが信仰であり、指導者であり、布教師の役割です。

 

この基本ができていない。
そこに、今の問題の本質があるのではないでしょうか。