信仰のつもりが、
いつの間にか「支配」になっていることがあります。
しかもそれは、
善意や正しさの顔をして現れます。
この違いに気づけるかどうかが、
これからの時代の分岐点です。
ダイバーシティが打ち出されて以降、
1970年代以前に価値観を形成した世代――特に男性――には、
その本質が理解しづらいという空気を感じます。
これは実は、所属や立場に関係なく、
その年代特有の「理解できない構造」によるものです。
そして厄介なのは、
「分からないことが分からない」状態に陥ると、
結果的に80年代以降の価値観を無意識に全否定してしまう点です。
表面的には教団方針に従っているようでいて、
実際には理解が伴っておらず、
結果として“全否定しながら従う”という矛盾した状態――
いわば小乗的な信仰に陥ります。
この状態になると、特有の言動が現れます。
思い当たるものがあるはずです。
もちろんどのような年代でもわかる人分からない人がいます。
つまり価値観のアップデートができているか、いないかです。
そのためには古い家庭環境、古い親子関係の認識が必要です。
1970年代以前は、家父長制や強い上下関係の中で、
親は「正しい存在」「従うべき存在」とされてきました。
そのため、根強く残っている価値観があります。
・親に逆らう=不孝
・親の言うことは、たとえ間違っていても従うもの
しかし実際には、
この前提から脱却した家庭ほど健全であり、
とらわれ続けた家庭ほど不和を抱えています。
信仰とは、本来こうした「誤った支配」からの脱却です。
神様に権限はあっても、
人が人を支配する権限はありません。
神様の権限を人間――つまり親が“借りる”ことも、
本来はあり得ないのです。
実は、自我が十分に確立されていないまま大人になっている人は少なくありません。
過去に精神的な不調を経験し、
それを新しい思想のインプットで乗り越えたとしても、
それは必ずしも「成長」とは言えません。
むしろその土台を直視しようとすると、
脆いアイデンティティが崩れる恐れがあるため、
人は無意識にそれを避けます。
その結果、怒りや恐怖が生まれ、
他者を否定する方向へと向かってしまうのです。
この誤った前提のままでは、
たとえ支配的・暴力的な行為であっても、
「しつけ」
「愛情」
と解釈されてしまいます。
この矛盾に気づけなければ、
問題は永遠に解けません。
現代では、映画やドラマにおいても
“毒親”をベースにした家族像が増えています。
それは社会がこの問題を可視化し始めている証拠です。
人は「分からないもの」を否定します。
さらに言えば、
「自分が分かっていない」という自覚――いわゆる“無知の知”がなければ、
他者を尊重することはできません。
それはそのまま、支配へとつながります。
ここに違和感を持てないのであれば、
すでに支配の側に立っている可能性があります。
高圧的か、穏やかか――
その違いはあっても、本質は変わりません。
信仰の世界における支配は、極めて深刻です。
それは組織の発展を確実に止め、
「帰幽」ではなく「離脱」という形で信徒減少を招きます。
支配の中に、喜びある信仰は生まれません。
自己満足であり、本来の信仰の味ではありません。
その程度と思っているその人自身が問題なのです。
それでも残るのは、
支配に適応してしまった人――
いわば自由を手放した人たちだけです。
これは言い過ぎではなく、
本来宗教が向き合うべき“問題の本質”です。
だからこそ、これは対立や批判のための話ではありません。
メシア教の対抗勢力を喜ばせる話でもありません。
むしろ、ここに踏み込めているのであれば、
それは一歩先に進んでいる証でもあります。
世代的に理解が難しいこと自体は問題ではありません。
問題は、それでもなお変わろうとしないことです。
これからの時代に何を成すのか。
そこに向き合えないのであれば、
立場にしがみつくことはむしろ害になります。
メシア教が示しているのは、
「信仰の幼児性からの脱却」もあると個人的には感じています。
つまり、
“支配とは何か”を問い直す段階に来ているのです。
しかし、その前提となる新しい価値観自体が、
上の世代には分かないため、
自覚しにくいという現実があります。
不快に感じて攻撃したり無視したりすることもあるでしょう。
逆に、それに気づいた人は、
この指摘を不快には感じません。
むしろ本質として受け止めるでしょう。
そして、そうした家庭や個人は、
すでに穏やかさと健全さを備えています。
※そういえば「あめのみなかけんぜんおおかみ」というご神名を
明主様に向けて側近の方がおっしゃった記録があったように思います。
現代の20代・30代は、明確に価値観が異なります。
40代(80年代)はその過渡期にあります。
若い世代に響く言葉は、
テクニックではなく「内面」から生まれます。
いくら表面的に整えても、
土台が変わっていなければ意味がありません。
支配を理解しないままダイバーシティを語ると、
言葉だけが空回りします。
その結果、
「人を尊重する」という本質すら見失われます。
自分を否定し、ロボットのように従うことを
“お仕え”だと誤認してしまう。
しかし本来の“お仕え”と、
無自覚な従属はまったく別物です。
支配構造は、人を無意識にロボット化し、
自己否定を肯定させます。
その状態では、
真のお仕えは成立しません。
そしてその歪みを、
部下や信徒、さらには家族にまで強いることで、
関係性は徐々にそして確実に崩壊していきます。
にもかかわらず、うまくいかなくなると
その原因を自分ではなく「神様」に求めてしまう――
神様を恨み信仰を無くす。
これは昔から繰り返されてきた構造です。
実際は、恨んだ人自身が
神様からいただいた魂の本質を否定しているのです。
そのため他者も家族もパートナーも子供も
小乗信仰のもと否定するのです。
このあたりが、
現代の若い世代との決定的な違いです。
もちろんそういう人ばかりではありませんが、
これは“空気感”の話です。
今の良い意味での空気感も、
戦前・戦後の良識ある“良き親たち”の祈りそして活動があってこそです。
その結果として、今――
時代はすでに変わっています。
価値観のアップデートはなされるべきです。
実は、
立場をお返しできていなかった自分、
言葉だけで動作は支配、
信徒を絶望させた責任――
そのあたりが問われているのかもしれません。
せっかくの機会です。
神様を否定する方向へ進まないことを願います。
