結局のところ、商売と違い信仰の場合、欲を捨てて物事を見れば、真実は見えるようになっています。

たとえば世界の飢餓や食の供給の問題と同じで、自分の欲と向き合い、乗り越えていく中で、本来どの方向へ進むべきかは自ずと分かるはずです。

明主様は「必要であれば肥担桶(こえたご)担ぎにでもなる」と説かれています。

これは比喩であり、特定の職業の人を批判しているのではありません。

つまり、必要であれば人が避けたがるどんな仕事や立場であっても、御用として担う覚悟がある、という意味です。

もちろん、だからといって信徒や部下等に意図的に負荷を与えたり、困らせたり、立場を悪くしたりすることを指しているわけではありません。

しかし、こうした言葉さえも歪めて利用しようとする傾向があるのがこの時代です。とくに自己愛的な気質は、このような表現を支配の道具として使おうとするため、注意が必要です。

人が意図的に作り出した試練には、本来何の価値もありません。

それはただ罪を生むだけです。

 


 

では、「欲を捨てて物を見る」ということですが、これは実は若い時期にこそ自覚すべきことです。

年齢を重ねてからでも不可能ではありませんが、極めて難しいと言えるでしょう。

なぜなら、経験や実績そのものは、信仰とは本質的に関係がないからです。

本質的に関係がないというと、何もしなくてよいように思われがちですが、そうではありません。

問われるのは、その行いの本当の意味、核心をつかんでいるかどうかです。

そうすると、その動作ではなく、その行為が生まれる真意を知るようになります。

そして、何をしたかという表面的な行為は、実は些細なことであると分かってきます。

結果的に無数の成果が生まれることもありますが、それは行いだけによるものではありません。

これを知識だけで理解したつもりになり、成果に興味がないふりをしても、すぐに見抜かれてしまいます。

結局は「覚り」です。

しかし多くの場合、人は「実績を積めば悟れる」と思い込んでいます。

大切なのは行動そのものではなく、そこから何を学んだかです。

自己正当化のための実績であれば、そこには何の学びも、覚りも、気づきもありません。

せいぜい起きた問題点やあらすじを書き記すだけに終わります。

問われるのは、そこから何を学び、人間的にどう成長したか。

つまり、魂の成長を伴った人間的成長です。

 


 

この「魂の成長」、さらに言えば最初に与えられた魂の種が発芽し、表に現れてくるという感覚。

これを理解せずに信仰や聖書を説く指導者がいるとすれば、その目的には疑問を感じざるを得ません。

また、この本質を知らずに言葉だけを投げる指導者も、覚りを理解しているとは言えないでしょう。

メッセンジャーに相手を覚らせる力はありません。

成果や功績を積むことで曇りが取れ、行いがしやすくなることはあります。

しかし意識していない人は、曇りを取る以上に曇りを増やしてしまうことの方が多いのではないでしょうか。

それは、実績だけを積んできた人の晩年を見れば分かることです。

 


 

これは、かつてヴィーガン食を取り入れずに浄霊をしていた時代と似ています。

浄霊で曇りを取っても、それ以上の曇りを自ら取り入れてしまえば意味がありません。

その原因は心にあります。

ある意味で、「想念の肉食」をしている自覚がないのです。

悪しき行為や思いは、確実に曇りを生みます。

それがないなら、信仰の意味はないでしょう。

この「想念の肉食」とも言うべき欲をどう克服するか。

本来の判断力、すなわち魂からのインスピレーションを得ることが重要です。

インスピレーションとは、霊界との交流にほかなりません。

欲をただ抑え込むのではなく、どうすれば克服できるのか。

その問いを持ち続ける人だけが、次の段階へ進んでいきます。

一方で、偉くなること、人に指示すること、功績を上げること、誰かに認められること――

それ自体には大きな意味はありません。

それが意味を持つのは、どのような状態においてか。

そこを理解しなければなりません。

ヴィーガン食は確かに助けにはなりますが、十分条件ではありません。

ただし必要条件ではあると、個人的には感じます。

これだけをしているからといって、高みに至るわけではないでしょう。

 


 

信仰の目的とは、目に見えない世界とのつながりを得ること、すなわち第六感を開くことです。

それが理解できて初めて、地上天国建設や「メシア」となるという教えの本質に至るのだと思います。

しかし、言葉だけを知っているために、あたかも理解したかのような錯覚に陥りやすいのです。

その結果、どれだけ経験を積み、努力を重ねても、人格が伴わないということが起こります。

 


 

時間が経ち、場が落ち着いたときに見えてくるものがあります。

もし発展していないのであれば、それは「慣れただけ」です。

自分の欠点や、人に不快感を与える部分、場合によっては他者に害を与える部分。

それらへの対処法を、相手が覚えただけに過ぎません。

立場によって無視されないだけで、本質は変わっていない場合もあります。

これは決して言い過ぎではありません。

こうした人にチャンスを与えるために、転勤が繰り返される場合もあります。

短期間であれば表面上問題がないように見えることもありますが、知っている人には分かります。

そういう人ほど、つじつまの合わない美談を作る傾向があります。

 


 

本来、発展とはそれほど難しいものではありません。

神様が働かれているからです。

その片鱗はすでに現れています。

一見何もしていないように見える人が、わずかな行動で結果を出すことがあります。

もしそのような人が指揮を執れば、どうなるでしょうか。

ただし、その人はその立場で苦労する必要がないだけかもしれません。

「幹部ほどその罪は重い」(明主様)

 


 

もちろん、頭の良さも必要です。

それがなければ、現代においては現実的に成り立ちません。

しかしそれ以上に重要なのは、普段何もしていないときの霊的な層の高さです。

良いことをしたかどうかではなく、日常の霊的地位です。

ここが決定的な差になります。

どれほど成功している人のやり方を真似ても、その人と同じ霊的段階にいなければ、同じ結果は得られません。

そう説かれています。