今回は引用で浄霊とは何かを考えてみましょう。
実は自分で書いたり話すほうが引用するより楽なんですよね。探すの大変。

現在の教団にも真の信者は一人もない(昭和29年7月11日)」

このようになぜご晩年におっしゃったか、浄霊に関しても、下記に引用したあたりの教えをなかったことにするからではないかなと思うんですね。信仰なのに教祖の言葉をそのまましない。これらを、どのように受け止め実現するかですよね。


◇明主様お言葉
「天国には病気はない(年代不詳/未定稿論文より)」


◇側近奉仕者等が明主様から賜ったお言葉の記録より

昭和29年4月28日
「之からは一切御言霊と御想念で自由に遊ばすのである。奥様でも御浄化遊ばせば、お詫びなさるだけでお治りになるのである。現在、御守護御願は一切受付けられぬ事となった。之からはお詫びの時代ではない。悔改めの時代である。悔改めて想念でおわびすればお許しが戴けるのである」

昭和29年4月28日
非常に大御光も強まらせ給ひ、何万人にても一度に御浄霊給はる事お出来になられ、又御守なども人にかかせて御入霊遊ばすだけでよろしき御由なり。毎日御浄霊を遊ばしているが、御手をかざされず、御想念で遊ばすのみである。今迄お喜びの御事はあっても、何か一抹真からのお喜びはあらせられなかった。今度はもう嬉しくて嬉しくて堪らない。今度の御浄化は特にキリスト教と関係がある。

「お詫申上げてもお許しあるのは、それだけの理由がなくてはならない。」

昭和29年5月13日
「「新しい浄霊を発見した」と仰せられる(想念)」

昭和29年6月2日
御自身が御自身を御浄霊してはいけないと神様から知らされたと仰せ。「浄霊しないでも時期が来たら神様が良い様になさる」」

昭和29年6月3日
御手に世界を治める筋が現われたと御拝見する。
二、三日前にお気附きになったと、この事は昭和六年六月十五日に知らされていたと受け給わる。夜中明主様は神様から浄霊を止められていたのにしたので、夜眠れないと仰せられる。」

◇明主様お言葉
昭和十五年四月二日
「昼は光と熱が充満するゆえ、それによって人間の霊体を浄化できる。この治療は維新前あたりに出ればできない。火素が足りないからである。」
 ※維新前…明治維新1869年

昭和十五年十一月九日
 「少なくともいままで一万年に夜昼ありと仮定し、その夜昼の境目はちょうど今である。(略)昼の世界は夜と反対になる。」

昭和二十七年九月十七日
「昼の世界になるについて、さっき言った通り明治時代になって霊界の……八衢(やちまた)の前……八衢は三段になっており、天国も三段になってますが、言わば第三天国の所に黎明(れいめい)になった。これは私の本に書いてある通り、昭和六年六月一五日に房州の日本寺に行ったときが現界の黎明(れいめい)になったわけです。そうしてだんだん日が出てくる……つまり浄化が強くなってくる。火素が増えてくる。」

昭和二十九年二月四日
「明治二五年のは、霊界から現界に、つまり一段近寄ったわけです。霊界でも三段になっていまして、一段ずつだんだんと近寄ってくるのです。それでいよいよ最後の段をすまして、直接現界に現われるというのが今日からなのです。そうすると、今日は最後の審判の初日というわけです。」

年代不詳
「日本でのお話でありますけれども、三〇〇〇年以上前は病人はなかったそうです。(中略)この世の中を支配されてる神様の御光が強かったからなんだそうであります。それでちょうどその時分は、天照皇大神様が御支配なさった。それがためその御光によって病気がなかった。

年代不詳
「ところで、光の神で絶対力をもった天照大神様が岩戸隠れなされた後は下の神様が支配なさった。神様の世界は人間で想像できぬが、事実そういう下の神様が、
 ──の神が、御守りをこしらえた。(略)御守りを首へかける。病人があると患部を擦(こす)る、あるいは手をあてる、それだけだった。それで病気がないから長生きしたんであります。
 それで長生きしたが、今度私が指圧療法を始め、御守りをかけて治病する人を養成し始めたが、そのときと同し方法なんだそうであります。そうしてみると、ごく昔やったことで、新発見ではないのであります。
 光がなかったら病気を治すことはできぬ。やむを得ず禁厭(まじない)あるいは草根木皮を見つけ出し、それによって一時凌(しの)ぎをやった。そういうものでは病気は治らぬ。」


◇側近奉仕者等が明主様から賜ったお言葉の記録より2

昭和29年6月15日
「箱根御到着後「田力男之命と天宇都売之命の型は永久的に済んだ」と仰せ
本日よりメシヤ様とお呼び申し上げる。
この日御生誕祭会場に於いて、お手の筋、御頭髪について発表あり。更に御神体を天照皇大御神とお称えする。御讃歌ミロク下生、下生ましませりに訂正。
箱根御到着後直ちに観山亭赤いお部屋にお入り。」

昭和29年7月11日
「箱根御移転、日光殿御到着遊ばされし時、〇〇に、「之で宇豆売命の仕事は終った。」
と宣はせ給いし由。即ち最後の岩戸開き行はれし故、宇豆売命は永久になくなる訳である。」
 ※6月15日とは別の側近のため日付がずれているが6月15日にあったことだと推察される


昭和29年7月11日
真に水晶世界になる時は、薬毒は一瞬にして全消すべし。その際、あまりに多量に注ぎゐるものは生命失ふ事あるべし。」との御言葉ありし由なり。従而、子孫に及ぶ事も非ざるべしと。」

今回の引用はこのあたりで、2回くらい戻って拝読したほうが良いかなと思ったりします。

結局、1万年周期の話で、昼から夜になり、そしてまた夜から昼になるというこのポイントで明主様は生まれられてご活躍なされていた。明主様の役目は浄霊が必要がない状態に移行することだったようです。

手をかざすという体的な力は必要なく、悔い改めて念じる。つまり祈ることで浄霊作用はなされるということになります。

手をかざしても御守護はあるかもですが、それはスマホの時代にいまだに黒電話を使って電話はできているといっているようなものです。

 

明主様は霊的にも体的にもその時の最新技術を活用なされた方ですし、それを勧めた方です。

 

いくら頑張っても持ち運べてどこでも使えるスマホにかないません。事実、念じることで何時間も手をかざさずに同じような御守護があったりします。ということは完全に体的力をなくしたお念じは、いったい今までの何倍の力なのでしょうね。

 

こういう話は指圧療法から手かざしになった時にも言われています。

そして、イエス・キリストは神界が昼になり始めた時。日蓮上人は仏界が昼になり始めた時。明主様は現界が昼になり始めた時に地上で活動なされた。

昼間の世界が来たことを教えた方達です。

そして、メシア降誕によって神界と霊界の清算が完全におわり目に見えない世界は天国化を完了したわけですね。そして今は現界の浄化をしている。霊界がなったいじょう、いやがおうでも天国になるし、そこに反対すると滅びるしということが顕著になるようです。

つまり天国化を否定する浄化と天国化を受け入れる浄化ですね。どちらが救いでどちらが滅びでしょうか。どちらも浄化に見えるけれど、進めば進むほどに救われるほうは幸せになりというね。

善の宗教達が説かれた欲とか執着とか自分のために神様の利用することを許されない時期が来たようです。
宗教的偉人はすごいなと思います。今ほどわかりやすくない時代に見えてもない時代に信じていたわけですからね。

知っているかもですが、間違った人を間違ったままにするのは、そういう指導者を逆に利用して、そういう人達を一か所に集めるためや、正しい人の修行や浄めのためなどがあるのです。用事が終わるまでのもので永続性がありません。覚った側は栄える。

正しい人を覚らせるための、”磨きのための悪”の御用になると、悪事での影響力がなくなると本当に用事がなくなってしまうということもあるようです。

ただ、その中でこれはいけないことだと気づいて自分のいたならさに気づき改心したら救われる側に戻ることもあるようです。社会や人でなく、自分の悔い改めがあってのことですね。本当に改心したら、より良い意味で、別次元で社会にも人にも好影響を与えるものだと思います。

ここを否定するなら信仰による人格の向上はありえないし、むしろ堕落するのみでしょう。

また薬毒論についても、メシア降誕後は見解が全然違うのもわかりますよね?
浄霊でとかすとかそういうレベルの話ではない。

ただメシア降誕の時期に関しては明主様も驚かれたのかもしれないのです。主神はこの先にこういうことがあると明主様に明かしてはいても、時期はぼかしているようだったのですね。

白い服を着た昭和29年のメシア降誕仮祝典、これも世界メシア教立教の昭和25年前後の会食でいずれ白い着物を着ると言っていたようです。知ってはいたようですね。

この辺の発言はイエスの話とも被ってきます。

「今度私ははなはだ神秘きわまる浄化でして別に心配はないのですけれど、なにしろだしぬけに来たので、ちょっとまごついたわけです。しかし考えてみると、これはもう神様のほうであるべきことになっていたので、(昭和二九年四月二五日)」とありますよね。

この辺が狙われている。欲を主、つまり副霊の制御があまい信徒は都合がよい方法に惑わされ永遠を失ってしまう。なぜなら最高神の教えだからよけい滅びやすいようです。良くも悪くもふり幅が大きい。

「観音会の人が特別に助かるという事はない。何宗の人でも善い人は助かる。善徳を積んだ罪の少い人は必ず助かる。ただ観音会へ入ると、人を助け徳を施す方法と力が観音会は非常にある。他宗で十年かかるのが一年で出来るだけの違いさはある。
 観音会で間違った事をすればよけいに滅び易い。
 他宗の誹謗はいけない。効能を述べる事となる。誰も気持悪くせぬような話をする。新しい信者の前でもそうである。古い信者の前では差支えない。それを智慧証覚によって適切に判断すべきである。
 医療を否定すると占領政策に反する事となる。医療を否定するのはまづい。先方が悪く言っても意趣返しせぬ方がよろしい。
 観音会を潰さんとする邪神は、獅子身中の虫である。(講話集補)」

獅子身中の虫(内部から災いを起こす者)とあるので、明主様信仰をつぶす人は副霊に負けた信者のようです。信者として、教団の中でどのようであるか?ということですね。

なので、実は明主様の教えの解釈とか理屈よりも、その人が副霊に負けてるか勝ってるかという見方をしたほうが良いと思います。
たくさんお導きをしても地獄に落ちた人の話は有名ですが、こういうのは私たちのために何を大切にすべきか身をもって教えてくれたのです。

浄霊を受けることではないですよ?明主様のお言葉を最後まで信じたか?です。メシア降誕後は頭がおかしくなったとか言っているとそれは信仰ではないので、明主様を使わず自分が教主になって自分の名前の教団を作るべきものです。

この見方をすると激怒する人もいるのです。そこを避けさせて偉ぶりたい人いますよ。
実は角度を変えてみるとすぐわかりますが、相手が悪いというよりも、それこそ相手ではなく自分の未熟さなのです。自分で考えず、正しい教えを受けていても思考放棄している。つまりは邪神に対して隙だらけなのだと思います。

「邪神は何億といるんです。それで階級がいろいろある。神界……神様のほうとだいたい同じですね。そこで、信者一人一人を引き落とそうとして狙っている。ですから信者の人でも、ちょっと考え違いしたり、迷ったり。良いと思って間違ったりする。大本教のお筆先に「今は悪神がそこら中入りて居り、一寸の隙もないぞよ。何時なんどき悪神に侭(まま)にされるか分らないから、気をつけるが上にも気をつけたが良いぞよ」とある。みんな、信仰にある者は、抜き身の中にあるような気持ちで、ちょっとの油断もできないという意味で、なかなかうまいことを書いている。ところが神様にちゃんと手を合わせていると、御守護があり、憑けないで退いてしまう。S26/10/15」

副霊は副霊を見つけられるのを恐れています。認めたりあやまったりできないからね。またポーズでしても、その後改まりませんからね。繰り返します。

私ができてるという話ではなくて、こういう方向性がぶれたとき、やられている状態だと気づくことが大事だと思っています。

一日のうちになんどもぶれているけれど、何とかバランスを保ったりもとに戻ってくるのが人間だと思います。

戻ってこれないとき、獣性人間の誕生です。

目指すべきは、ぶれが少なくなる神性人間に近づいていくことですよね。

今回はこの辺で