◆想念で浄霊ができるレベルとできないレベル
想念が反対だと何事も結果が悪になる
前回の霊の事というか、信仰の基本である霊の事を分からないようされていると、手をかざす分かりやすい浄霊もたいして偉力がなかったりしますよね。それでは形にしない想念の浄霊なんてできっこないわけです。手をかざす浄霊すら満足にできないのですからね。
悪い人間は自分の欲は一番に肯定する中で、表面善人ぶりたい、偉ぶりたいので、善人ではないですね。想念はごまかせないようになっていますね。
だからやるやらないもありますが、悪い人はやってもできないので信じる事なんてできないし、手をかざすという補助がないと困るわけです。
でも、これができないと太古の浄霊はできないし理解もできないと思います。
逆に手をかざす浄霊を知らない善人のほうが自然に太古の本来の浄霊に行きつく可能性すらありますね。
なぜなら、本来の浄霊は方法ではなく神々の御経綸、ご都合、霊界の推移を信じるしかないからです。
かみのまにまに、カムナガラとナムとアーメンのことですね。
神様は人間の上位者なので神様の作った法則が人間の欲望より優先されます。なので、ある程度までだましだまし神様、明主様のお言葉や方法を使って奇跡をだせても、あるレベル以上にはなれなかったりしますよね。
神様はそういう存在ではありませんからね。
ただ神様は既往の罪をとがめないとありますので、その人が心から改心したら、できるようになるはずなんですよね。現在進行形でやましくないかどうかなのですね。
どこまでかの基準はその時代時代で神様が決めるのでそういう方針で悔い改めていくとできてきたりしますね。
これも実は最後の浄霊の基準だったりします。
以下は明主様が側近におっしゃったメモです。
”今迄はお詫びすればよかったのであるが、これからはお詫びをする時期ではない。悔い改める時機である。”
”之からは一切御言霊と御想念で自由に遊ばすのである。奥様でも御浄化遊ばせば、お詫びなさるだけでお治りになるのである。”
”之からはお詫びの時代ではない。悔改めの時代である。悔改めて想念でおわびすればお許しが戴けるのである。”
”お詫申上げてもお許しあるのは、それだけの理由がなくてはならない。”
これらはメシア降誕のご浄化後に側近におっしゃった記録の一部です。
ここを読むと、手をかざさずに、ご浄霊つまりは御守護をいただくのに何が引っかかるかわかるでしょう?邪念があるとうまくいかないわけです。
”又、今度は水晶世界になるのであるから一寸でも間違った事があってはいけない。”
このようにもおおせです。
神様は一時的なとらえ違い、勘違い、失敗、ミスなど前向きなものはあまり問題になさらないように思いますが、あきらかな私利私欲による邪念による行動は最終的には許されないように思われます。
ただ、あまり問題になさらないといっても、そこは信仰の未熟からくるので問題は問題だけれど致命的までは行かないのかなと思っています。
またね、この浄霊というと最後まで説明すると実は語弊があるのです。浄霊作用は本当は手をかざすものではないからです。
話が少しかわりますが、
引き寄せの法則ってありますね、これ自体の賛否はさておき、こういった法則で使われる話の流れは、想念の理解に有用に思います。
例えば、お金持ちになりたいというと、お金を引き寄せるようでいて本当は貧乏を引き寄せるんですよね。
なぜならお金がない状態の方を認めているからです。お金が「無い」から「欲しい」ので、想念の状態はお金が「有って」、「足りている」状態ではないからです。
浄霊もきかんきが強い人が治るといいますね。
またもう治ってるとか、なんとかなる、大丈夫と気楽に思っているほうが治ったりしますね。
逆に、治ってほしい、どうにか救われてほしいとか、苦しみから解放されてほしい。
というとやっぱり「救われてない」「苦しい」ほうを主にしているわけですね。
だから何も考えないほうがいいとか漫然とするとか、力を抜くというのが初歩的な指導で、そういう人間の想念の自力で神様の光の邪魔をしないようにしているわけでしょう。
別の言い方をすれば「執着」ですね。
もちろんそれ以上に天国的な発想ができて、神様を信じ切ることができれば、それだけ浄霊の偉力もましますよね。明主様はどのような思いでいたでしょうか?
メシア教ではすでに霊界は天国であることを認める、念じる訓練をして、現れたことを自分の許された姿や先祖の中や全人類にそういう人がいたことを認めて、許し救われたことを祈るということなどをされていますね。
天国を認めてがキーですが、現れた事象を許され救われたとするのは、祈りとしては高度に思います。
明主様も、言葉によって変わることを言っていますね。なんでも結構といっていると良かったりするように言っていますね。
それと逆に執着など負の感情をあおると浄化を固めることもできるので、そうやっている人もいるかもしれませんね。ただ固まったものはいつかは出るしかないので、小出しではなく一気に出てしまうので命に関わるわけですね。
負の感情を崇拝させるのは邪神であり悪魔ですね。
神様のほうではないわけです。
そういう人は前回書いたように自分のことだけです。
そういう人のする儀礼はいくら明主様のお言葉を使ってそれっぽく話したところで、形だけのものです。
明主様を狙う悪魔は大悪魔ですので、大きな光の中でも動けるほどの相手ですよ?狙われたらひとたまりもないのです。
理屈というより方法を主にしてると、体主霊従で悪の働きになり、霊の方を主に考えていくと霊主体従で結果的な善の働きになりますが、実はこの霊の肝心な部分を説かないようにして、体的よりな都合の良い霊作用ばかりを説いて、現当利益を中心にすると霊主体従と勘違いさせて体主霊従にできると思います。
正しい論理はいりますが、理屈をこねた方法論や屁理屈はよくありません。
方法を主にする人は自分に従うもの従わないもので分けているでしょう。実はお言葉を使って脅しているでしょう。しつこいとか熱意とはまた違うものです。これは見つけにくい隠しやすい悪なのです。
そういう場合、その人より立場の低い人たちは全員被害者なんですよね。ある意味浄化による磨きでもありますが、その人たちから上告するというのはまず難しい。逆にここが狙われやすいし、今の邪神の生息地のひとつとも言えそうですよね。
これは、いろいろなところでの詐欺テクニック、人を隷属化、奴隷化するテクニックとしても使われます。
その信仰を信じているほど、変な人が来てもどこかに代わるわけにもいかないから、こういう脅しはある意味有効ですね(笑)笑い事じゃないけれど、かなり恨まれますがね。たださすがに続くと我慢できなくて信仰をなくしやめることもあります。
成果のわりに脱会者が多い支部とかはこういうのがあったりもしますね。報告には相手の気持ちに状況に気づいてもないわけですから、実際のところはあがらない。
毒親問題もここにありますね。親をチェンジできないですからね(笑)、だから信仰しているのに毒親いるでしょ。だからいくら明主様のお言葉を使おうが明主様信仰ではないわけです。
今の毒親は暴力という分かりやすいのばかりではなく、最後の悪である嘘、天邪鬼の眷族(けんぞく/部下みたいなもの)によるものも多いのです。
本当の中に嘘を混ぜて結果を偽らせる、方向を逆にして隷属化するという思想の暴力です。都合の悪い事実を見ないように見せないようにする。また原因の点を偽る、出発点を偽り加害者なのに被害者を装うとかもそれです。
脅すといっても暴力をぎりぎり使わない、そうしなければ承知しないような状態や、そうしなければ取り合わないという誘導をしたりしますね。報告上は問題としてあがらないけれど、れっきとした支配ですね。
わかりやすい暴力を奪われた悪はこのあたりを生息地にしているようにも思います。
このあたりの悪は別の項目がいりますね。
つまり自己愛性パーソナリティ障害やサイコパス的な性質や発想ともいえると思います。ここを意識しなかったり正当化している人はもれなく偽信仰者ですよね。
そういう人は想念の浄霊、悔い改めて許しを得ることは難しいでしょう?
なぜならこれらの病気の性質として「あやまれない」ということがあるからです。