教祖は一神教?多神教?

今回はいつもより思うままに殴り書きなので後日なおすかもです。
そもそも個人的エンタメ考察でございます。

教祖は一神教か多神教か?
これは言葉は知っていても、意味を知らないので別の意味でつかわれる人がいます。
その辺も判断基準です。


教祖は「キリスト教と呼応する」という以上、一神教にも説得力ある答えがあると思います。

それは

一神にして多神です。


これを拡大解釈して

一神にして多神、多神にして一神

と逆の意味の言葉を付け加える人がいます。

これ、全然別の意味です。

多神から始まると唯物的意味になります。
集合的存在が主神となると、これは人間が神様を生み出したという表現の方になります。

私たちは神様から生まれたという方向ですね。

また多神からはじまると日本精神にもなりません。

ひとつの神から分かれてさまざまな神々になっているから兄弟姉妹として受け入れられるのが日本の信仰感だと思われます。

人間の想像上の神とか妄想以外はすべて仲間に思えてしまって受け入れてしまう。キリスト教的行事、仏教的行事、神道的行事全部日本にはありますね。

ただ長らく何から分かれたのか、誰が始まりでトップなのかが夜の時代には分からなかったのです。

それを教祖はいろいろな宗派で言われている、また表そうとしているこの方ですよと言っています。

それが日本では天御中主神、西洋ではエホバ、ヤハウェ等、仏教だとそういうのはないけれど法身などでしょうね。あとはゴッド、ジュウス、アラーなどですね。

またその神様の代理をした神というのもいますね。
天照皇大御神(天照日大神)、国常立大神などですね。他の宗教をさがすともう少し増えます。

その中で教祖が国常立大神をメシアとはっきり表現しているところがあります。
ただ国常立大神をただひとりのメシアとすると素戔嗚尊がメシアという説が強くなりますよね。

ただしかし、メシア降誕仮祝典でのご神名は天照皇大神です。そこもヒントだと思われます。それを解決するとするとメシアはある一定の資格を得た神格を得た方に与えられるものという解釈にもなります。それでつなぐと理屈が通りやすいですね。

そもそも、教祖は全人類に力を与えるのを型として見せてますね。修業なしで浄霊ができたのはもっと大きな意味があると思われます。また昼の時代、始まりを告げる使命が日蓮上人にあったようです。そして、その方が広められた法華経はみんながブッダになれるでしたよね。私がブッダとか釈迦がただ一人の仏陀ではないと思われます。
もちろん各宗の教祖は先人として本当に尊敬し崇拝する方、神のごとき偉人であります。


ちなみに実は教祖は主神以外を神としていないですね。神のごとき力を持った神人?かな、そういう受け止めだったと思います。

別格として主神の表現をされた天照皇大神を含む五六七大神(みろくおおみかみ/いづのめのかみ)や国常立大神(国万造主大神)は神様としていいとのことです。

大神は本来は主神を表し、また神とする方には尊をつけるのが本来だったのかなと思います。なので教祖存命中の機関誌で神々の名前が出るとき、尊や神ではなく命を敬称にしていることが多かったのではないかと思います。

観音講座にも権限を付与とかそういう表現ですよね。主神の許しを得てそういう能力を与えられた存在、代行者が八百万の神々ではないかと思います。その方を通して今までは神様を拝んでいた。

権限の大本、本来お持ちであった方は主神ですよと教祖は教えているのでこれからは主神に帰一するということが大事なのだと思います。またその方は私たちの魂にもなっているのですということですね。

ただ教祖は主神を表現する時、みろくではなくてエホバと表現することが結構あります。天の父と主神は同じ存在と時々に強調しています。

またいづのめの神は9大龍王の長であるいづのめの神の事と言ってもよいし、9大全員を含めていってもよいと言っています。いづのめ神はみろく神の化身といっていますので五六七大神のことになりますが、この神様はじつは集合神だと思われます。その中心にいるのは、おそらく天照皇大神ですし、ここを紐解くとさらに奥の神様の話になりますので、じつは主神そのものではないような感じがします。

だから私たちは大神様と崇めても、教祖はミロク様と崇めてないでしょう?主神としてはっきり分けているんですね。この辺も考察すると面白いのですが、ここまでくるとあまり意味もないんですよね。

ただ善悪の開示、進むべき方向の参考にはなるかもしれないけれど一般的ではないと思っています。

そういう意味では人を救うのに必要かどうか?という話になりますが。

ただしかし、これを利用して善悪の概念をあいまいにし、自分が行う非常識で道理にも叶わない行動を肯定するのであれば、それは意味が違います。

それは善ではなく神様を隠す悪の働きでしかありません。これが人間の原罪であるし、そういう行動をさせてしまう魂を覆う悪い霊の働きの根本的なところです。これが目に見える形にまで思考が具体化し行いにまでなった時に犯罪になったり、人を苦しめたりするわけだから無関係ではないのです。

ただね、こういう悪い気持ちと正しくあろうとする気持ちで揺れ動いているのが人間ですので、揺れ動くのを悪の方でとどめた状態を教祖は何と言っていたでしょうか?ということですね。

今日はこの辺で