少しモチベーションが落ちていたのと、だいたい良いかなと思い一月ほど書かなかったのですが、アクセス数は変わらないのを見て、興味があるのかなということと、またあることは書いた方がいいような感じがしたので、今回はアイディア元のメモをひとつ投下
世界メシア教と世界救世教 裁判の勝ち負けはあまり意味はないと思われます。
ただ、当然の権利の侵害に対して世界メシア教は訴えていますね。
裁判は信仰や教義上の正否は論点ではないのです。
そもそもその部分に国が干渉するわけがないですからね。
ちなみに世界メシア教の教団マークやバッジである教祖ご在世時代のデザインは正式に世界メシア教の商標登録ができているようです。だから書類の不正や不備や改ざんなどが無ければ、世界救世教だろうと世界メシア教だろうと通っちゃうみたいですね。そこでも内部の話し合いの部分に国は関与しない旨、書かれていますね。
つまり、教主様変更や役員変更、主之光教団を世界救世教から一方的に外すとしている書類が正当性があるかどうかですね。ただこの正当性とは善悪ではなく、書類に問題がないかどうかなんですよ。
そのため抗議の姿勢は大事ですが、書類がそろっているため、なかなか難しいようですね。
しかし、世界救世教内部の取り決めから言うとできない方法ではあるのです。
ようするに4代教主様と時の管長が承認しないで役員変更と教主変更をして書類を揃えたのが実際ですね。どうしても変更には4代教主様の承認がいる内部規定があるようです。でも国には要らないのでそこを押し通したというのがメシア教の説明だったかと思います。
そうなると世界救世教って内部規定は重要視しない、役員の思うままの宗教団体なのかな?って印象になっちゃいますけどね…。
この内部の変更を国は考慮しないんですよね。内政干渉になるからかな。
なので、裁判にくっつけて私の信仰は正しいというのは違ったりします。
どこを選ぶのかは自由なのですが、判断基準にするならここじゃないよってことですね。
それで内部の論点の一つは昭和29年以前でまとめるか、昭和29年4月以降の発言も取り入れるか?この差なんですね。
もう一つは今の世界救世教は神道と仏教が融合したような形式ですね?29年以降を取り入れると、さらにキリスト教を融合しないといけなくなります。
というより神道仏教キリスト教は極端に言えば、もとは一つであった主神の教えの部分部分のかじり取り、時代や状況に合わせたその時代時代の最大限の表現なので、かじり取らないで元の状態に戻すだけなのですね。
ただ、間抜けな人は自分で正体をあらわしているので、そこは見ていくといいと思います。自分を正しい立場において相手を攻撃しようという教祖の教えの発想にない行動を起こした方も居ますね。その辺りでも教団とか所属支部の良識が分かるように思います。
こういうお祭り騒ぎがあると本性をだしちゃう人が居ますからね。真実を知る一つのヒントですよね。
布教に際して使う発言、取り上げる内容、個人情報、著作権等々このあたりも見ていくと良いですよね。
精神が子供でない限り、自分を正しい立場に置いて自分のしている非常識な行動を正当化するということは無いと思います。ここに寄っちゃうと恨みつらみを正当化するので、そういうのが集まってきます。逆に幸せな人は逃げちゃいます。幸せな人が居て救いは成されていくと思います。
幸せがないなら救いがないじゃないですか?
この幸せにもいちいち説明が要るような状態の人もいるそうですが、自己満足の話じゃないのはもちろんですよね。
つまり、いろいろ言ってるけど論点は明主様がメシア降誕後、メシアと名乗られてからの教えや行動も教義としてお受けするか、降誕後は非公式や無かったこととして降誕前の教えだけで整理するか?この方向性の違いによる争いということですね。
昭和29年以前で教えを完結させるか、昭和29年以降の教祖の発言から歴代教主を中心に時代に合わせて経綸を大幅に進化させていくか?この2たくです。いいとこどりをしようと言うのはうまくいかなかったように思います。
東方の光か?世界メシア教か?でまとまるのが筋が通っていると思いますね。
今更その裏でいいとこどりしようと自分の団体を作ろうと動くのは良くないですよね。
だから本当を言えば降誕前の教えで整理するなら、過去に向かって帰一するので時代によって変えちゃいけないことになります。
そうすると歴代の教主の変更を全て取り消さないといけないですね。一応は今まで預言者形式でご在世時代にない方法を加えていますね。そもそも護持委員会系の動きを取り入れるなら三代教主様、4代教主様のご変更は取り消されるべきと思います。
これは前回書きましたが、昭和の紛争で護持委員会が目指したのはここだと思います。ちなみに不十分な原点回帰で終わったのはご存じだと思います。善言讃詞一つとってもたしかミスである個所が抜けてたんじゃなかったでしょうか。
また教祖時代は「みたまや」はありませんし「おひかり」という呼称もありません。教祖時代は「御守り様」です。「おひかり」は三代教主様からです。
これがきちんと成されないと4代教主を排斥して、岡田家とは血縁のない関係ない方を5代教主として象徴としたことが意味がないですね。好き嫌いで信仰してるんじゃないよと個人的には思います。自分がまるで教主様や大先生みたいに教えの取捨選択するなら、どこかに所属しているのはおかしいでしょ?それはただ利用しているだけになりませんか?
そうじゃないと利害打算とか商売上とかそういう他の理由を勘ぐってしまいますよね。どうしてもそこに不誠実なものが残ってしまいすっきりしないんですよ。信仰上ならすぱっと直すべきだと思います。
商売上で言えばですよ、祖霊祭祀は献金を求めやすいらしいですね?そう聞いたんですけどね(笑)。だからその的になるみたまや、祖霊祭祀は要りますよね。
ちなみに私が信じられないのはなぜ他の教団に祖霊祭祀を委託できるのかなと思いますね。
信仰をきちんとしてると先祖の存在と霊界の存在の片鱗は知れますが、商売にすると効果は薄くなりますね。祖霊祭祀ばかりになると祖霊祭祀が成し遂げられないですね。一時的にお金は集まるかもしれませんけどね。
するなということではないですよ?これは所属の教会が教えることでここで説くことじゃないですね。祖霊祭祀をさせていれば安泰だみたいに、商売にしていると、この重大なあたりを説くことができないように私は感じました。
祈ったり慰霊したりお墓参りは大切だけど、大切なことを持ってないと効果が減殺されますよね。誠を持って先祖の願いを実行していると効果はより大きくなりますね。一生懸命だけど願いがあいまいでいると願いがしっかりしている人が主導権にぎったりしますね。それで争う必要もないのですけどね、それが先祖の願いだからですね。
例えばオレンジジュース飲みたいっていう人に自分の思いでひたすらにコーラとか持っていったら、悪い気はしないけど回数が増えるにつれて人の話聞いてる?ってなりますよね。
先祖の願いは実は自分の生活の中に出ていると思います。交流や感応は身近なところにあるのですが最初は少々勉強と慣れと感覚が必要に思います。
話を戻して世界メシア教はメシア降誕以後のことをするのが目的です。つまり教祖が最終説かれたことをお受けし、その時代時代の教主様を通して今、主神がなされたいことをなすのが使命ですね。
預言者形式はキリスト教の特権ではなく、古代の日本の形式でもありますね。天津金木このことです。
交流、交信、感応という霊的なレベル無しだと教祖の教えは哲学や方法論に見えますね。
では教祖はなぜその方法を示せたのでしょう。やり方を知っているというより、世の中の法則そのもの神様の目的そのものを感得してないと、方向とか今すべきことを指し示すことはできないんじゃないでしょうか。相談を受けたときに相手の想念の軸のずれが分からないと方向修正はできないのではないでしょうか?
そもそも教祖はまた決めること実行することのスピードもとてつもなく早く、「おひかり」だって数年のうちに何度変わったか分かりませんね。教団名も何回変わっているか分かりません。早変わりのメシア教なんて言われてそういう中で大発展してきたのです。そのたびに大変革があり、そのたびについて来た人ついてこなかった人が居ます。
でもね、ついてき続けた人も居るんですよ。
また世界救世教時代はずっとメシア降誕仮祝典や、それからその後の教祖がどのような行動や言動をなされたのか、そのお姿、お言葉が謎でした。全然分からなかったのです。
かろうじて残っているのは、メシア様と呼ぶように変わったことと、新しく生まれたとおっしゃったこと、そしてメシア降誕仮祝典では天照皇大神とお唱えしたこと。
封印という言葉がふさわしいくらい分からなかった。
メシア降誕とメシア様という御名がまるでなかったかのように、一つのセレモニーのように年表上に載っていてその後亡くなったくらいしか分からなかったのですね。
4代教主様はそこを徹底的に求め調べられたように思われます。
ちなみにそもそも当時の教団はキリスト教用語も機関誌面にとびかっています。普通ね誌面にのせる場合は意味をよくよく考え調べるはずですので、キリスト教への理解が必須になりますし、絶対に教祖の許可のもと載っているわけですね。
面白いのは他のみ教えは言葉どおり受け取るのにキリスト教関連の教祖のお言葉や論文となるとあれは違うんだとか、こういう意味なんだと解説や解釈を極端に加える人いますね。
み教えの解釈はダメだ派の人がそうなんですね。キリスト教に関する教祖の膨大な短歌は取り上げなかったりしますね。なぜかキリスト教が出ると解釈を解禁します(笑)
ちなみに私はキリスト教と呼応するけど、学ぶのはキリスト教ではなくキリストであり聖書であったようにも思います。厳密にはですけどね。
ここを分からない人がグノーシスって言っちゃったんですね。神秘主義でも違うほうですね。教祖は思考は現実化するという方向を含みます。そうじゃないと人間は想念次第が否定されます。
唯物的に教祖のテクニックや霊的力を利用しようとしている人は霊的な事、神様の事を知った人からすると支離滅裂具合がありありと分かるので実にひどい唯物とわかるのですが、唯物的には都合がよかったり理屈に合っているように見えるんですね。
唯心的には一貫してないんですよ。それが都合いいっていうんなら到達するレベルはたかが知れています。真理に都合をつけたら高くにはいかないですよね。
逆に唯物的には一貫してるのでわかりやすい。ここに立て分けが自然にありますよね。
そういう人の判断基準は教祖じゃないですよね。だって教祖の言葉ですからね。つまり判断し取捨選択をしているのは一般の専従者ですよね。その人の思想になりますよ。
み教えを唯物的に使う人はいます。実際そう個人的にまとめられた抜粋集を読んで気持ち悪くなったことがあります。
教主様への指摘がブーメランの人がいますね。
もともと教団の決まりではそういう解釈とか整理は教主様にしか権利がないんですよ。
ちなみにそれをして長い間に内部がバラバラになり風前の灯だった団体があるそうですね。
それが教主様により救われたようです。
ちなみにこれは浄霊力とも関係があります。
世界メシア教では晩年の教祖にならい、手をかざす浄霊は辞めました。で、奇蹟がなくなってないんですよね。
そもそも私自身、手をかざす浄霊の時もそんなに時間かからなかったんですよ。掛かるのは浄霊力が高まらない何かをしているように思ったことがあり、ある程度目星は付いたのですが、今となってはそれも必要ないレベルですね。
また他の離脱教団でも、昼になってもうだいぶんたつんだから本来2分くらいで浄霊がきかないとおかしいという人もいます。そしてそういう浄霊をしているところもあるのです。
教祖は昭和のあの時代で1時間も2時間もしてないですよ?
手をかざさないで浄霊できてるというのはどういう威力か分かりますよね。
ここに行くには信じてないとできないと思います。
家族内でも手をかざさない浄霊ができる人できない人いたりしてね。子供はできるし、子供にお願いしたら効くのに自分がやったらどうも効かない。
一つは分かるわからない以前にそうなったんだって信じてない疑問だらけで定まってない。場合がありますね。信仰が何か基礎を忘れさせられている。
迷いと分からないと疑問をごっちゃにしてたら信仰ではないのだからダメですよね。
そもそもね自分に分かるレベル理解できるレベルの信仰って怖いですよ?だってあなたはせめて東大でもでてるんですか?神様より頭いいんですか?自分に分かるレベルの信仰、それたかが知れてません?分かるならそれは自分より以下の思想ですよそれ。
教祖の教えを勝手に抜粋してレベルを下げているんだから、価値がないですね。
信仰は分かるのではなく、求め続け思考して行くことが最高の状態ですよね。分かったら終わりなんですよ。
求める中で昨日より今日、今日より明日と成長し向上している状態を維持するのが最高の状態なんですよね。
ちなみにこの考えは神様であり善の思想なので、相手を攻撃したり相変わらずをといたり、クレーマー的な方には維持できない考えになるのは知っていると思います。
そういう考えを持ったままで真理の探究はできないようになっています。でも思っちゃうのでそれを悔い改めて一歩一歩進むので、自分を正しい立場に置くのではないですね。
正しさをもって教えてくれるのは神様ですよね。科学的には変えられない法則そのものです。
自分を間違った正しい立場に置くとどうなるか?
それは暴きだてます。
神様がなさっている、もしかしたら自分が間違ってるのか?ということができず。自己正当化によってどこまでも手段を択ばないで進みます。
この間もNHK党などで個人情報のことがありましたけど、主之光をでてるのにそこの信徒の個人情報を使ったりね。
またソフトウェアのデジタルコピーなどの倫理観が緩かったりしてるとビンゴですけどね。
正しさを主張するために尾行盗聴盗撮まで正当化したりね。それなら、権力持ったもん勝ちでしょ。
またメシア降誕に繋がる29年4月の脳溢血のような浄化から、キリスト教と関係があるとしてメサイアや特にハレルヤコーラスをお聞きになられたり、ハレルヤコーラスを信徒に歌わせたいと教祖はおっしゃったということです。
そもそも大本教から観音会と仏教になり、そこから世界メシア教とキリスト教の名前になったのですから、キリスト教化というかキリスト教要素が入るのは当たり前ですね?
ただしかしあくまで教祖による聖書の解釈です。
ここを否定するのは、メリット・デメリットが個々人に存在して、はっきりさせないのだと思われますが、教祖はメリット・デメリットではなく、主神の御目的を表現し地上天国を実現しないと人間の幸福も存在価値も無いくらいに思っていたのではないかと思います。
大きな方針変更は流れではなく神様の意志を優先したらそうなったのではないかと推察します。
また最終が教祖が主神に託された目的で最初の方法のところではないですね。
ですが、最初の目的と最後の目的の一致点で線を引くとキリスト教が強く浮かび上がってきたりします。
主神は
カムナガラ・南無・アーメン
らしいですね。
つまり三つの要素を一人で持たれた存在が主神であり法身であり天の父
それを表現する五六七
五は日 観音 メシア 天照大神
六は月 阿弥陀 素戔嗚尊
七は土 釈迦 若姫
南無による先祖慰霊
アーメンによる罪の許し
というか変に信仰を勧めてくる人とはいったん縁を切ったらいいのです。
そうして物足りないとか必要とか思ったらまた繋がればいいし
相手がカルトだったらいなくなったらより運勢が上がったり、実は足を引っ張られていたことが分かるかもです。その場合、一時期執拗に本人ではなく周りに悪い噂を蒔いたりする人も居ますが、それこそが証拠ですしまともな人こそ一方的な罵りをする人こそ拒絶するのでほおっておくのが良いですね。
付き合うべき人があぶりだされると思えばよいと思います。
(適当文章なり)