(長くなったのでさわりだけにしときます。)
たまに誤解があるのは、教祖は神道、仏教、キリスト教を主神がおつくりになったというお立場です。(仏教は観音様、「天の父と言うのは主神ですからねs27.3.5」)
それらを統合して最高のものを作られますので、神道ではないのです。
記録に「之からは神道でも仏教でもいけない風潮になる(講補)」とあります。
またこの話の前提として
メシア教はご晩年のご昇天までの最終的に説かれたことを基準として教えの整理をされているように感じます。
手かざしになった後に、指圧の教えをそのまま使わないでしょ?
そもそも専従者といっても講話集補(先達のメモ)を読んだことがなかったり、側近の日記を知らなかったりする人も多いです。
経験豊かで問題解決力があっても、持っていなかった人がいました。
そうすると教祖の目的の部分がずれてきます。ある方は教団にいながら、自分の団体を作るのを目的としていたので完全に教団を下に見ていました。自分が神様になるそういう人がでるのですね。
また、持っていても読んでなかったり、理解できなかったり、拒絶したり、無かったことにする人もいます。思っているのと違うからです。それはただ単に自分の常識で教祖を当てはめて決めつけているだけなのですけどね。
万人向けに説かれたご論文と違い、ご質問などでの真理の開示やまたお歌からの真理の理解は、ある程度どころではなく、かなりのIQと神様の知識と霊界の法則への理解、それ以上に神様との感応が必要だと思われます。
感応がないなら、それは信仰というよりシステムですからね。哲学レベルの理解になってしまうと思います。それでも立派な教えだから間違えてしまうのですね。
ただ令和の今は昭和と違って教祖の目的に近い雰囲気が世間でもあり、また目に見えない世界の興味や情報の開示もあり、より進んできています。自然と信徒じゃないほうが、生活の中で無意識に知っている場合も多いです。
ですので実は昭和に世界救世教信徒がこうだと受け止めていた感覚が、実は教祖の感覚と違うと気づいている人も多いでしょう。
昭和時代以上に世間とのズレを悪い意味で感じている人もいるでしょう。
自然農法や芸術など負けてる部分を感じる人もいたでしょう。
これまた極端に自然農法がいらないとかそういう意味で取らないでほしいと思います。
極端も神様とのつながりをといちゃうところあるかもです。
これは教祖のもと自然農法の普及が進んだことですね。でもそれを育んでいる神様をお伝えできるのは世界メシア教かと思います。
教祖の教えは、さらに霊的に最先端を提示できるのに、それをしないからです。
霊界が教祖が時々に示したすべての方法の大本です。
今のレベルだと当時としては最先端の方法を提唱した者でしかありません。教祖はその程度ではないでしょう。
それをなぜか体的に埋めようとしていた、ということもあるのではないでしょうか?
世間の方が霊的に進んできているので、埋めるところを間違えてないかなと思います。
時節には神も敵わぬぞよ、とあるように人間のこの雰囲気ができてこないといくら最先端のことを言っても通じないというのがありますよね。時節を読んで一歩前に一歩前にしないといけないので、目指す先を照らせても、今までの方法をもとに整理して完成することはまだまだできないでしょう。
そもそも教祖はメシア降誕後のご晩年に「現在の教団にも真の信者は一人もない」とおっしゃったそうです。
希少な記録を持っていても読まない人や持っていない人の信仰や教義のもとは、教祖の教えではなく、お世話になった先生の言葉や経験に依存しています。先生は補助です。教義の元は教主であり教祖です。そうでないと一介の職員が教主になっていることになります。もっといえば神様ではなく自分に取り次いじゃってませんか?会社でも社長の方針を無視して勝手に違うことをしてることになりますよね。
筋が通らないところでは徹底した力は発揮されません。
また時には信仰という本筋を忘れて、サービスやお世話を主体に考える人もいます。それは神様に力がないか、筋がずれていて取り次げないからということになります。奇蹟が多いから自立できるし自分で考えられるのです。
教えを説く肝心のその人の周りに奇蹟は多いですか?神様に見守られている人に感じますか?喜びにあふれ表情は豊かですか?
精神的に病んでいたり、攻撃的感情に支配されている人、またそういう人がそばにいる人はそういうのがどんどん減っていきます。
また、サービスに依存させるという方法もありますが、御用聞きなどね、これが主となると一つの洗脳であり支配に寄っていきます。依存心と思考放棄になりますよね。そうなると罪悪信仰に近寄ってしまう、罪深いから、曇っているからこうしなければならないとなります。
教祖の目的や4代教主様の目的はそこにはないと思われます。サービスがないわけじゃないけれど、神様が主であるのですね。人間が主になると奇蹟や御守護が減るから体的なサービスに重きを置くのですが、宗教形式でそれすると宗教じゃなくなってきませんか?
話を神道に戻しまして
また記録に
「之からは神道でも仏教でもいけない風潮になる(講補)」とありますね。
誤解したり取り上げる人が居るのは以下の教えなどですね。
昭和24年6月3日に礼拝についてお伺いになられて、教祖がお答えになった中にこうあります。
「こっちは神道ぢゃないんですからね、神主的意味で御丁寧にやらなくていいんです。この道は神道でもあり、仏教でもあるんですからね。拍手にしたって坊さんは拍手を打たないでしょ。だからそこんとこは臨機応変にすればいいですよ。ただ敬ふ形は崩さない様にね。s24.6.3」
神道でも仏教でもあるから神道だというのは暴論ですよ。仏教でもあるんですからそれはどんな状態ですか?
また昭和25年4月26日に祝詞についての解説をお伺いした際、教祖は以下のように答えています。
「天津祝詞は、神武以前の言葉でつづってある。浄める。天地浄化の言霊である。解説はほとんどコジツケである。ある程度解釈出来る。何れはなくなるものである。新しい祝詞形式のものが出来る。大祓祝詞は、素盞嗚尊が罪犯し、世を曇らしたのを浄めの言葉である。もう必要はない。」
天津祝詞はなくなるとおおせですね。
祝詞には「祭典に奉仕する神職が神様に奏上する言葉」という意味もあるようです。祝詞言葉である必要もないかもです。
そもそも以前にも書いたのですが昭和10年に大本教という神道から大日本観音会となり仏教化したともいえるし仏教によほど近寄ったのですね。
教祖のいう神道とは大本教の可能性があるのですよね。教祖の教えの中に「神道では天国…」と表現しているところもあるのですが、普通神道には天国という概念はなかったと思います。
世界救世教は天国で神道だというとそれは世界救世教は大本教の分かれであると世間的には認識されちゃうかもしれませんね。
それで、教祖の言う神道と仏教の違いのひとつは”先祖慰霊”なんですよ。神道とキリスト教になくて仏教にあるとして取り入れているのは先祖慰霊です。
キリスト教は最後の審判とキリストの再臨などですね。もっと言えば罪の解剖と天の父である主神のとらえ方。
また、日本を救うには仏教である、として仏教要素なのです。世界としたときはキリスト教だとおおせです。これは井上先生におっしゃっているのです。
つまりね、昭和初期の世界救世教(せかいメシアきょう)を神道化大本化したのが世界救世教(せかいきゅうせいきょう)と世間には見えると思います。
ちなみに、表現が少しずれるかもですが、東方之光は「教主は象徴」、直結の会は前身である護持委員会の流れをくむのなら「教主は不要」という考えになりそうですね。
そうすると世界救世教はもはや歴代教主の決定のいいとこどりをしてはいけないと思うのですね。「みたまや」も「御神体」もなにもかも変更と削除が必要だと思いますけど。みたまやは変えないといけないし、御神体も大光明如来にもどさないといけないように感じてしまいます。