カルト問題で二世被害からの毒親問題もクローズアップされましたね。

 

そこにはパーソナリティ問題もあるけど

そういう人にはどうしてもできないことがあるので、そこを気をつけたら、事前に避けたり被害を抑えたりできる場合もあるかと思うんですよね。

 

それはね、自分以外を大事できない。

 

いつの時も自分の都合を優先しちゃう。

たとえばパートナーや子供を愛してると言っていても、いつも自分の都合を最優先してたりね。

 

そういう人も打算的に相手にやさしい時もあるんですよ。きまぐれや都合でね。

 

でも、そういう人を好きになったり家族だったりしたら判断がにぶったり遅れちゃう

 

また、違う意見がでたりで自分が否定されると瞬間湯沸かし器のように頭に血がのぼり激高したり、平気で身近な人をけなせる人。

 

怒るのを我慢できない。

 

人を信用したり、大事にできなくて支配しちゃう。

「日本人と精神病」でいえば5の線をすぐ超えちゃう人。

逆に言えば6の線を維持できない人

 

また上に加えて自己肯定感が低くて卑下と劣等感で自分で自分を大事にできない人

 

こういう人は承認欲求に飢えているから、おだてや、あまやかしや都合がいい方法の提示や自分に都合がいい人生のHOWTOを提示されるのに弱かったり利用される場合もあったりします。時には乗せられているうちに何か他団体や世間を叩く扇動運動に使われちゃう。宗教してるつもりが他者や他団体の罵ってもいいと思わされて、だんだん怒ったり自団体に賛成しない人をけなすのが正しく思っちゃう。

またこういう役職にしてもらえたとか、認めてもらえたというのでは、自分のアイデンティティを相手の評価に依存している。つまり自我が確立していない。

こういうのは操りやすいのだと思います。

あやつる人は相手の人格を認めることができないから簡単に操作する。

あやつられる人は自分がないから判断ができない。

 

こういうような人たちが主導権を握っている。例えば親だったりすると身近な人は迷惑で不幸ですよね。いつも何かに制限されているようで心が自由ではないでしょう。

これが気にならなかったり、なにかこじつけて、この人はこうだから、こうなんだわと慰めているようなら、それは共依存の可能性がありませんか?それはそれで本人たちが幸せなら良いと思いますが、それも自分の家庭内でおさまって、人様に迷惑をかけていなければの話だと思います。

 

つまり足るを知って満足できない人 とも言えるでしょうか?

 

こういう考えで世間に布教したり訴えているのは非常識な団体だと思いますし、そもそもこういう考えを正して救うのが教祖の言う正しい信仰だと思われます。

 

自制ができない。きかない。

 

これができないことですね。

 

つまり、こういうことをしないように自制ができない宗教は入らないほうがいいように思います。

 

これも教祖の教えをいただく宗教の中でひとつを選ぶ判断基準かなあと思います。

 

自制ができるレベルに向上できるなら、けなすより御守護を伝えた方が早いと思います。けなしていては幸せもいいことも寄っては来ないです。

相手を落とさないと優位性を伝えれないならたかが知れてるのです。

そして御守護といっても職員にお世話になったとか、そういう別に信仰でなくてもいいことではないですよ?それもあったらよいですが奇蹟や生き方の話です。生き方や心を良い方向に変えるのはよっぽど何かにショックを受けるか気づくか奇蹟でもなければ難しいと思います。

今日紹介したできないことから脱却したり脱却しようとしていたら、自然に幸福に近づくと思いますね。ただ、こういう状態だという人は周りもそういう人だっていう場合もありますので、人間関係の清算も必要かもしれませんが、人より自分の人生を生きて正しいことをした方がいい場合もありますよね。

苦しめている人より苦しめられている人の方がきっと良識があるし正しいという場合も多分にあると思いますよ。

 

こういうのを自制できるようになるというのも、また方向性の中に含まれるというのがよいかなと思います。正しい信仰の目的の一つですからね。実際どういう団体かは、それでもわかるように思います。

きっとそういう人や宗教は思いもよらない幸せをいただいていると思いますよ。

 

自己主張と説得、相手の欠点の暴露が主の団体は人格の向上が望めません。方向が矛盾しますからね。絶対無理ですよ()

 

「世を呪い人を恨みし其頃(そのころ)の心の曇りは消えて跡なき(教祖詠)」

 

でも世界メシア教は人格の向上が可能に感じるのです。それも以前思っていた我慢による副霊の制御というより自然そういう制御した状態に近づくような感じがします。押さえつけるのではなく自然に思わなくなる。

 

そういえば、教祖がメシア教が良いと分かっていても入らない人について、入ると悪いことができないからっていう場面があったのですが、以前の状態だとあまり信じられなかったのです。

世界救世教って内部で戦ってばかりですけど、世界メシア教が4代教主様のもとに二つの教団が一つになって協力していることそのものがすごいと思います。

 

ちなみに悪口言ったり争ったり、そういうのが好きな人いるんですが、これ科学的にはドーパミン中毒という説もあるらしいです。悪口は依存症。

 

悪口言うと快楽物質がでるんですが、依存性があるらしく、次はより強い刺激を求める。つまりより相手を悪く言う思い知らせるということになりかねないそうですね。精神が未熟だとその快楽によって自分が正しいって勘違いしたり、一瞬気持ちよくなるから麻痺してやっちゃうんでしょうね。それを利用するっていう団体もあるかもですよ。

だからやめられないって人もいたりして…。

正しい批評を否定しているのではないですが、ことの始まりを偽ったり嘘を混ぜてくるのは違います。長くなるので別のところで教祖がいう批評や戦った悪はこれじゃない?っていう考察ができたらと思います。立ち位置を考えずにいたずらに戦うと言っている人がいるように思います。

 

ちなみにある信仰で伝える夜の時代になったときに神々と人間が持った欲は

所有欲、恋愛欲、支配欲だったかと思います。禁断の木の実のひとつの現れなのかなって思ったりもします。

 

なぜ「勿れ」と付くの教えを教祖が残されたのか、なぜ人間は想念次第なのか、深い意味もあるのかもしれませんね。

 

#追記

一番大事なできないを忘れてました。

許すことができない。

そして、謝ることができない。

 

これですね。紹介した「できない」は自分の非を認めれないからできることなのですからね。

何をあやまっていいか分からないので謝れない。

これにも2パターン以上あって、

一つは自分がちっぽけに感じて死にたくなるから非を認めれない人

 

一つは、何に対して自分に非があったか分からないから謝れない人

 

とかもありますね。
 
きちんと謝れる人は逆に尊敬されます。謝って立場が悪くなるなら、それはミスレベルではすまない本当に悪いことをしているか、見当違いを謝っているという場合があると思います。
 
ちなみに今回の「できない」人たちには、こちらに非がないのに社交辞令でごめんねとか言わないほうがいいです。できないがより強く表れて例えば激高する人はさらに罵るでしょう。相手のごめんねの意味が分からないタイプの人いるので、そういう人たちからは早々に会話を切り上げて退散すべきなのです。