初めにここは個人の考察サイトです。そういう考えもあるんだという感じでお願いします。
ただ信仰を暗記で考えてるとここの話は分かりにくいかもしれません。
そもそも覚えたら信仰完了なら、それは信仰じゃなくて義務教育レベルの学問です。暗記すれば点数とれるけど、それでみんなが一流になるわけでもない。そして別に宗教学者を作りたいわけじゃないのですよね。
外部の人がすることで、内部の信徒や職員がすることではないですよね。そもそもそういう考えだったら何か神様を利用して軽んじているようにも感じます。こうすれば人間の都合の良い奇跡が起きるってだけになります。
丸暗記って実は自分の物の見かた考え方が変わるってことじゃなくて、ただ覚えたことを用途に応じて話しているだけの中途の状態だと思っています。そこから一歩進んでこその物だと思います。
それって実はね相手の受け取り方、相手の思い、相手の頭次第、何かそれらしいことを話せているようでいて肝心な結論やまとめや判断など、智慧が必要なことは相手の頭脳を借りているわけですね。その域だと判断できたとしても過去の事例や真似事に基づいているレベルになっちゃう。
それでは深いところにはなかなか行けないし、後手後手に回ります。
また理性がはたらかなかったりね。「日本人と精神病」は大事な教えですね。ここに引っかかるなら信仰じゃなくて信仰を利用した何かだからです。
教祖は常に最先端のことをしてきましたが、その教祖のまねをした段階で本当は一周遅れです。さらにその真似をした人を真似するなら二周遅れです。伝えんとされたことを学ばせていただきたいと思い、せめて一周遅れでありたいと思います。教祖や時の教主に求めないと周回遅れになっちゃうわけですね。
だから丸暗記はまだ肝心な現場にも立っていない準備の段階だと思います。
ちなみに高度な丸暗記はあらすじです。一ページの文章を簡略化して話したりとかもそのうちの一つですね。簡略化と分かりやすくは違います。発言の丸パクリも同様ですね。
それで本題ですが、
教祖は昭和10年に立教しそして昭和30年2月10日に昇天…帰幽されました。そのうちで今でいう聖地があったのは実質3年くらいじゃないでしょうか?
箱根造営が昭和20年に始まり一応の完成というのは27年だったかと思います(違ってたらごめんなさい)
それまでは別のところで、最初は丸の内中央亭でそこが中心とおっしゃっていた。
”東京で最初にやり始める時分には丸の内ですね。丸の内の中央亭と言う西洋料理屋があるが、私があそこで始終やっていた。あれが、霊界で言うと中心になるんです。だから、名前で言っても「マル」の「ウチ」の中央亭でしょう。ですから、ここで喋った事は――言霊で、言霊界に一つの波紋を起すんです。言霊が世界に拡がつて、それが具体化して来る。(昭和二十六年十月一日)”
”ある地点にいて私がしゃべる言葉は全世界にひびく。どこでもとは言えぬ。その位置により違う。霊界には所々に高天原があり都会もある。熱海、箱根も高天原である。そこでしゃべる事は日本中へ響く。以前東京、丸ノ内の中央亭で時々講話をした。丸の内はス(〇に、)でその中央で大いに意味がある。今その時話した事が日本中に実現しつつある。(昭和二十六年五月二十日)
これが一つの聖地の役目かなと思います。教祖がそこで真理を説くと全世界に響く。
波紋と言ってますが、正しいことは強く響くみたいです。
ある地点にたって”私が”しゃべる言葉とありますね。真理をお持ちなのはだれなのか?ということですね。教祖が聖地もしくは高天原となっているところで真理を話すことは全世界に響き波紋を起こす。そのような動きを生むということですね。邪神はこれをもっとも嫌うということになりますよね。だから教祖が真理を話す時間を少しでも削りたいというエピソードが景仰などにもありますよね。
聖地と教祖は一体の関係だと思います。
そしてどちらが主かと言えば教祖の方、真理をお持ちの方です。
だから聖地がない時代も教祖が中心だったのです。聖地が主なら聖地できるまでなにもできなくなりますよ。聖地ではなくどこに向かっていくのか、そしてその方がお使いになるならということですね。
そして今その教祖の言葉を現界で表せる代行者は誰なのか?ということです。人間側から見てじゃないですよ?神様から見たときにです。誰に託しますか?教祖おひとりに託して広められた主神。今主神と明主様は誰に託すか?それが信じられないなら主神の存在と権威なんて最初から信じていないことにならないですか?だから聖地は教主の座にあるものの祭具になるんじゃないかと思います。それによって光増しそこに包まれるとどうなるか…。それができるのは教主の座にある方おひとりなのです。そう教祖が選んだからそうなるってだけのことです。それが信じられないなら教祖の示したところからは路線変更をしていくことになると思います。
規則上教主を引きづり下ろせてもですね。教主に敬意を持てないのであれば、もうすでに以前の信仰とは違う、路線変更をしたと思います。これは主之光教団が世界メシア教になった以上の変化が世界救世教内で起きたことになるのかなと思っています。
教主の意向が表に出るかどうかですね。そもそもこのことを信じないなら教祖のいう宗教形式じゃないんですよね。
ご存じだと思いますが、教祖の形式はキリスト教と同じく預言者形式だと思います。だから代行者を神が立てるはずなのです。説いたものは中心にあってもときどきの在り方が変わる宗教なのです。
ただしかし、最終的に宗教はなくなるともおときですので、全世界のベースが神様ありきになったら、祭具もいらないから聖地も歴史的史跡になったり観光地とかに神様がしちゃったりするんでしょうか?
そういえば教祖が美術品を集めることをができた原因の一つは一流の美術品の所持者が金銭に困って維持できなくて手放したからというのもありましたね。
神様は自由自在に必要な形式になるように人々を誘導しちゃうように見えるけど、そうじゃなくて結論が先でそこに向かって動いちゃうんですね。そこでよい役をするのか悪い役をするのかってのはその人の運命と魂が握っているのかもしれないですね。神様のなさること宿命は変えられないけれど、その中で運命は変えられるとお時なのですから…。
霊層界が高ければ人を恨むようなことは起きないし、また根にもたないし、自己正当化する必要もなく距離を置けるし、必要で質のいい物事が集まってきます。だって天国にいるのですからね。
形式じゃなくてやってみてそういうところに導いてくれる信仰こそ大事だと思います。
世界メシア教の信仰で幸せになった人、今まで超えられなかった壁を越えて幸運になった人も数多くいます。でも今までの信仰の方法が大事でそのことを否定したり、認めない人もいますね。
また3次元4次元の話にいかなかったのでそれだけの話に次はできたらと思います。