聖地と霊界の一考察 聖地中心の信仰は教祖は言っていない件

・聖地中心の信仰、これは岡田茂吉教祖がおっしゃったことではありません。

聖地中心の信仰これは昭和の教団浄化でも議論になっていた部分のようです。離脱された教団の中にはここを問題視しているところもありました。

またそもそも聖地、美術館、自然農法等はよくよく教祖の残された記録を拝読していくと、当時ではかなり破天荒な岡田茂吉教祖が神様よりさすがった真実を信じてもらう一つの手段方法だったように感じました。教祖は私のこの説によれば美術館もこのようになるし、農業もこのようになり、また医療もこのようになるよということをおっしゃりたかったのかもしれません。

今は量子理論が一般化してきたのでだいぶん分かりよいと私は思います。

といいいますか、量子論が本当だとすると今までのとらえ方と180度違ってしまうと思います。今までのだと科学と宗教が一致に向かわないのです。

学校では現代物理である量理論は教えないので、学校で教える古典物理的(ニュートン力学など)で捉えると、美術館の美術品がすごい、浄霊による治療技術がすごい、自然農法と言う農業理論がすごいというようにアプローチが逆方向になるのかなと思います。

努力と根性と積み上げの世界にもなります。イメージトレーニングなどが有効と分かっている今の時代には宗教と関係なくても少々不十分な考えなのです。


簡単にいうと今までニュートン力学などに代表される古典物理で世の中のことは全部計算できると思っていたのが、ある一定以上の小さい物質になると計算が合わないことが分かったのです。密度の荒い世界は今までに見つけた法則で計算できても無限小の世界、目に見えないような粒子の世界はまた違う法則のもとにあると分かったのでした。そしてそこから形ある世界は来ているのです。

そこは人間の想念さえも影響を与える世界というか、そういう世界です。明主様は素粒子(物質を構成する最小の単位)から霊界の一歩にはいるとおっしゃっていますので量子論を解き明かすと霊界の片鱗が見え、その奥と全ての法則にいる神様が見つかるのだと思われます。

ここで大事なのは始まりは、形あるこちらから超微粒子のあちらなのか、それとも超微粒子からこちらの私たち側に進化しているのか?というとまぎれもなく超微粒子から私たちは生まれますよね?赤ちゃんも細胞から分裂してここまで大きくなります。これは新発見といえども、もともとある世界を見つけたということですし、この超微粒子の世界がなければ現実世界はないわけです。


ここに霊界は無限で地上が有限で限定的な法則の下にある世界というのも分かってくると思います。だってある一定の形を持った世界からは計算が簡単になるからです。だからこちらを主体にものを見ると霊界や神様のことは行き詰まるし、どんどん計算間違いが起きると思われます。

ちなみに量子論が日本で表れだしたのは昭和十年頃と何かで読みました。世界メシア教の前身である大日本観音会の立教とも合うのは面白いと思います。

ですので形に表れた分かりやすい目に見えた結果のところを知ってほしいのではなくて、原因の世界である神様のことを信じてほしかったのだと思われます。

そうみると宗教科学者とおっしゃった教祖の言葉は嘘ではないのだと思います。

また原因の世界に求めないと各種のいわゆる技術や芸術も本来の力を発揮し無いように思われます。

なぜなら見えない世界から見える世界に向かって表れているのですが、見えているのは本当に氷山の一角だからです。魂や霊は見えないけれど体は見えるとして、そこだけでとらえるなら、浄霊の効能しか見ていないことと同じになるのです。


ですので、教祖は岡田茂吉研究が始まると言っていましたが、研究してほしかった中身は教祖の偉業や奇蹟ではなく、浄霊の奇跡が表れた側ではなく、それを起こす側、現界で普通に生活していては知ることがないけど存在する霊界や天界や神様の事だと思われます。見えない世界すべてですね。

そしてこの世では「見えない世界」の一部分が現象として表れているに過ぎないということ…というより厳密には見えない世界がないと見えている世界が存在しないのですから、一部しか見たり触ったり感知できないということですね。

それを伝えるためにも、その片鱗であり到達点というか、それが目に見える形というか模型としてあらわした浄霊、自然農法、芸術に触れることで、魂が目覚め、教祖がおっしゃっていることが正しいのではないかという信憑性を持たせたかったように思われました。

こういうと現世に表れていることを軽視したり、まるで肉体を捨てるように思う人がいるのですが、現世だけじゃなく天界も現世も含めた全部ということです。ただ天界が主であり深いし全体ということだと思います。だから分けると破滅志向になりかねません。これはある意味ご守護を追い続けると現世主義、おかげ信仰になりかねないので、そういう人がメシア教の教えを聞くとそう勘違いするように私は思います。

信仰を御利益や良いことが起きる事として捉えると、美術館で最高の美が見れるとか、自然農法でおいしい安全な食物が取れるという、つまり氷山の一角を拝んで部分部分を点で学んで教祖の神意を汲み取ろうとしていない結論になるという事だと思います。

そこで、はっとしたなら、もう一度学びなおす機会をいただくのだと思います。その時に自己正当化してはもう信仰の奥に行けないという事だと思います。

メシア教ではその点詳しく説明しますが、学ばない人がグノーシスやらなんやらと言っています。学ばないなら勝手に違う信仰して勝手に生きればいいのに、こちらにわざわざ難癖をつけるのはわがままです。しかし、そういう人たちの姿がメシア教の正しさをより際立たせるのでいうに言われないところですね。

注:本来のグノーシス主義のことではなく、破滅思考的に解釈してメシア教とこじつけたものが流布されたことがありました。

霊界を信じているようで霊界が現界に及ぼす都合のいい作用だけを追っていると、天界と現象界を別々にし、どっちをとろうかという考えになっちゃうのです。そうしてるとある程度まで行くと自分で自分に自滅しちゃう部分を感じるのですね。欲は隠せないのです。

そもそもこれは宗教ではなく無神論を唱える側の考えではないかと思うのです。

なぜなら、霊界や神様を信じていないのと同義だと私は思うのです。明主様が未信徒に向かって使われた”信じても疑っても治る”ということばを信徒に使ってませんでしたか?これが本当であれば明主様は宗教で活動する必要はないのです。

神様の事が分かって人が救えるのか?という言葉を使って主神を知る機会をつぶしていませんでしたか?明主様は主神に向かっての神観は最期までおときでした。ある時、古事記などに載っている神々の経緯を知ろうとして怒られた人がそういわれたので、意味が全然違うのです。

ただ御守護主義成果主義であるなら都合のいい言葉なのですよねこれは、質問を回避できます。

話がそれましたが、つまり肉体のある命は尊いし大事です。目に見えない世界の私がこの現象界にあらわれているのです。だけど、たとえ不治の病で肉体の命がなくても本来の居場所に帰るということになるので無にならない、霊界で生きているという事を知る救いは大きいものと思います。

それが、奇蹟を追っていると、霊界に本体があるというと、今の肉体は無くてもいいと言う人がいます。おひかりも御神体も要らないという人が居ますが、そういう人はメシア教の教えを勘違いしていると私は思います。

今メシア教は以前より厳しい基準で入信者をいただいています。

ですので、本来辞めた人も、「私にはなじまなかった」や「理解できなかったので自分に合ったところに行った」ということで終わりのはずです。それがどうしても思い知らせようとか暴露しようというのは、そういうのはどこの明主様団体でも教えにないと思います。これは「日本人と精神病」という教えを読むとわかるように思います。

そういう信徒を放置している団体は裏で許可や黙認をしてるのでしょうか?という疑問や団体への警戒心のほうが強くなりますね。

信仰は自由です。そこを自分の主張で否定してくるのであれば、それは信仰ではなく独裁と洗脳になってしまいます。これは自分が正しくてもです。相手の自由を尊重しないのですから、家族であればパートナーやこどもを所有物扱いにしています。だから正しければこちらは非常識でも少々法を犯してもいいというのは、逮捕できなくても、その証拠として充分だと思います。このことは宗教よりパーソナリティ障害などを調べると具体的に分かりますし、もうそういうのは医学でも暴かれている時代なのです。

自分でいっぱいになって、他者を罵り比較布教してる人がいるのを耳にしますけど、立派な侮辱で名誉棄損なのです。それで1万人も2万人も導けたなら話は違うかもですが、たった数百程度だと何をしているのかわからなくなると思います。まともな人はそんなことよりあなたの信仰のメリットを話しなさいとなります。貶す余地はないのです。ただ貶されたり罵られた人は防衛する資格があると思いますよ。

ですので、御神体等もその表現ですので、霊界に光があるからとか、すでに救われているからと言って、現象界の末端で受けるのを拒否したら何にもならないのです。そう思って御神体などを否定すること自体実は分かってないと思います。

教主の座で御神体が必要ないとなればまた違うのですよ?なら最初からというのなら、明主様にもそういいますか?そういうこともおかしいとか分からないと思うなら、学べばいいし、学ぶ気ならあらゆる教えは手に入る時代なのです。

形自体はどんどん変わりますけどね。だって無限の創造の世界であり世の中の進歩を見ればそうでしょう。それに明主様の作られた建造物も永遠のものではないですね。水晶殿も一度壊してますし、救世会館も立て直して、しかも設計も大幅に変えています。

いつの時代も最新のもので更新していくのが岡田教祖式だと私は思います。

 

 

・怒るなかれ これも慢心
神様を信じたら「怒るなかれ」「これも慢心」ができると思います。

教主様を追い出した時点で信仰としてはここを説明できないといけないと私は思うのです。

こう考えていると原因は神様を求めないことであるように思えます。求めているようでなにか求めるものを間違えたり見失っていたのではないかと思うときがあります。

岡田茂吉教祖は神様からの啓示で真理として受けているわけですが、私達に分かりやすくするには?取っ掛かりは?というのを常々心を砕いていたように思われます。

繰り返しですが、その神の導きでこのようなものが作れるし、このような世界を私たちは持たされているし、神様がいらっしゃるんですよ。そして神様の分霊を持たされ、霊界が本来の居場所(現世の自分も含めるので、生を否定する破滅思考ではない)ということを伝えたかった。

3次元と4次元の話と聖地は教主様の祭具という話をする前に長くなったのでここで終わります。