与えるものが受け取るもの 「山上の垂訓」より | Yokoi Hideaki

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先のブログの最後で「8月4日はもう一つ「光」についてお話しましたので、これは次回紹介します」と書いたのですが、今朝読んだ五井先生の「聖書講義」の一節と、これを読んだ後視聴したyou-tube動画に思うところが多かったので、今日はそれをテーマに書くことにします。


「聖書講義」の一節は後述しますが、you-tube動画はマスコミなどが報じない中国関連の情報を提供してくれている「妙佛」さんの下の動画です。ちなみにサムネタイトルは「マスコミが隠してきた中国の実態 円明園で絡まれた日本人 これがリアル」です。

 

 

今日のブログタイトルの「与えるものが受け取るもの」はバシャールの言葉として有名になったものですが、「what you put out what you get back」が英語のオリジナル表現です。

バシャールは、「これは純粋に物理学を表現した言葉である」という趣旨のことを述べていますが、存在の大元が波動であり、波動は同じ波動を引き寄せる、という性質を持っていることを考えれば、この英語の表現は「物理学」であるという事を示しているといえそうです。

 

私は先のブログで西式健康法の創始者、西勝造先生の人間精神解析図を紹介し、そこに以下のように書きました。(以下引用)

 

下は西先生が人間存在の構造を図にされた「精神分析図」で、仏教と神道の考え方に従って図示されています。

 

 

左肩に「阿頼耶識(あらやしき)と奇魂(けしみたま)」とあり、4つの神経系統が示され、右には顕在意識、潜在意識とあり、その間に横の点線が引かれています。

 

仏教の基本摂理は因果応報ということです。左肩の「阿頼耶識」とは潜在意識のことで、人間の身口意の三業はすべてここに記録され、それが運命として現れるとします。身口意の三業とは人生で行った「行い」「言葉」「思考」すべてということです。

(前回ブログ引用おわり)

 

ここに書いたことも「与えるものが受け取るもの」という真理を「潜在意識の働き」という面で解説したものです。仏教ではこれを「因果応報」とし、良き想念、言葉、行いには良き報いがあり、悪しき想念、言葉、行いには悪しき報いが生じる、ということをその中心教義としてきました。

 

仏教の様々な宗派の宗祖たちも、この原理に基づいて「良き想念」、「良き言葉」、「良き行動」を習慣とするための修行法を様々に説いてきたわけです。

 

さて、話しを先のyou-tube動画に戻します。サムネタイトルは前述のものですが、テキストタイトルは「円明園で日本人が絡まれた!中国の現状は一般的なイメージよりももっと危険です」というものです。

 

この動画では、最近ある日本人が北京の有名観光地である円明園に行った折、そこにいた中国人から難癖をつけられ、困った日本人が観光地の警備員に救いを求めたところ、その警備員も難癖をつけた中国人に加担して、ついに観光を中止して、そこを出て行かざるを得なくなった、ということが紹介されていました。

 

この動画を発信しているのは「妙佛」さんは中国駐在経験がある中国通の方です。彼がこの話題を取り上げ、主張していたのはおよそ以下のようなことでした。

 

① 日本のマスコミは親日的な中国人のことは報じるが、そのような中国人はごくわずかである。大半の中国人は幼いころから日本がひどい国家で、日本人がひどい民族であるという反日教育を繰り返し受けてきた人たちだ。

 

② さらに視聴率を稼ぎたいテレビ局が鬼畜の如くの悪漢日本軍を正義の中国軍が成敗するという「勧善懲悪」のTV番組を無数に作り、一般の中国人に対する「日本=悪」の刷り込みをさらに強固にしてきた。

 

③ 中国共産党もこれを利用し、大衆の不満の対象が自らに及ばないように「日本=悪」を防御壁として利用してきた。世界中が「問題なし」としている福島原発の「処理水」を「汚染水」と国内宣伝しているのもそのためだ。

 

④ さらに最近のSNSブームが反日感情を加速させている。反日をテーマにした動画を上げると視聴回数が上がり、それが手っ取り早い金稼ぎになるので、反日的投稿が増え、それがますます反日的感情を煽る事態になっているのだ。

 

⑤ そんな状況の中、先日、二階前自民党幹事長を団長とする「議員団」が訪中した。彼らは中国側との会談で、領空侵犯、領海侵犯など最近の中国の様々な問題には一切触れず、留学生の交換をもっと活発にするなどの提案のみを熱心に行った。

 

⑥ アメリカ政府は「中国に行くことは見合わせたほうが良い」という発信を米国民に行っている。米中間に様々な軋轢がある状況で、米国人が拘束される可能性があるからだ。

 

⑦ これに対して日本の政治家、政府、外務省は今中国に行くことの危険性を全く国民に知らせず、むしろ留学生を送ろうとしている。これは極めて危険なことだ。仕事で行かねばならない人は仕方がないが、駐在員の家族帯同など以ての外だ。

 

このようなことが「妙佛」さんの主張でしたが、私は最近このような動画を見たり、主張を聞いても全く腹が立たなくなりました。感情もほとんど動きません。

もちろん日本の議員訪中団や外務省の仕事ぶりには「ガッカリ」はしますし、マスコミにはキチンとした報道を求めたいと思いますが、それらにもやはり腹は立ちません。その理由は今日のタイトル「与えるものが受け取るもの」だからで、世界を支配しているのが「因果応報」、「因果の理法」だからです。

 

中国共産党やその政治的扇動に煽られて反日的行動をとる人たちのことを本当に気の毒に思います。それらは早晩すべて彼らに還ってくるからです。早晩と書きましたが、その還ってくる時間的速度は速くなっています。地球の次元上昇が加速しているからです。

 

波動が変わり、時空が縮小している

少し理解しがたい表現かも知れませんが、これまでの地球は時空という厚いクッションに覆われていました。この厚いクッションが悪行にせよ、善行にせよ、それが自分に還ってる時間をゆっくりさせ、遅くさせて来ました。とは言え、あちらの世界に移行してしまえば(死んでしまえば)、時空というクッションのない世界ですから、肉体世界で行った想念行為はすべてわが身に還ってきますので何れ全て引き受けねばなりません。

 

だからこの肉体世界は、それらの想念行為を改める修行、または修正する為の「次元世界」とも言えます。

その肉体世界、現界の時空のクッションはどんどん薄くなってきました。やったことの報いはそう時間を置かずに自分に還って来るようになっています。

 

これは地球世界のそれまでの遅鈍な低い波動圏が微細で高い波動圏へと移行するプロセスで、私たちの地球はそのプロセスの最終章を迎えようとしているのです。

だから、私は先のような動画に接して、一層、中国共産党やその扇動に乗って悪行を働く中国人たちを本当に気の毒に思うのです。

 

冒頭、私は「今朝読んだ五井先生の「聖書講義」の一節と同じく今朝視聴したyou-tube動画に思うところが多かった」と書きました。

 

私は毎朝のお祈りの後「五井先生の祈りの会」の会報「白光」を古い号から少しづつ拝読しています。

今読んでいるのは昭和42年8月号ですが、今朝は「聖書講義」の第十二回目、有名な「山上の垂訓」に関する五井先生の解説を拝読しました。

それを読んで読者の皆さんにその内容を共有したくなり、今日のブログを書き出しました。よって以下にそれを紹介したいと思います。以下、上の白光誌よりの五井先生のお話の転載です。

 

聖書講義 (第十二回) 山上の垂訓 (九)

なんぢら人を審(さば)くな、審かれざる為なり。己がさばく審判(さばき)にてもさばかれ、己がはかる量(はかり)にて己も量らるべし。何ゆえ兄弟の目にある塵(ちり)を見て、おのが目にある梁木(うつばり)を認めぬか。視よ、おのが目に梁木のあるに、いかで兄弟にむかいて、汝の目よりを塵をとり除かせよと言ひ得んや。

まづ己が目より梁木をとり除け、さらば明かに見えて兄弟の目より塵を取りのぞき得ん。

 

マタイ伝第七章(1-5)にはこう書いてあります。

全くこの言葉に今日の人や今日の国家にこそ、声を大にして言いきかせたいところでしょう。昔もそうであったでしょうが、今日でも全くこの種の偽善者、偽善国が多過ぎて、昔ならその被害が個々の小さな範囲で済んだものが、今日ではうっかりすると、この偽善行為のやりとりで、地球世界そのものが、滅亡しかねない様相を示しているのであります。

 

個人は個人で、自分のしている誤った行為、つまりおのが目にある梁木を認めずに、他人の誤った行為だけを責め、自己を優位な立場に置こうとし、国家や民族は、自国や自民族に有利なことだけを正義と考えるような、本心をかくした(梁木で目を覆ってしまった)行為を押し通そうとして、他国や他民族の主義主張を誤ったものなり、と審きつづけて、この地球世界を常に争乱の世にしてしまっているのです。

 

イスラエルとアラブ諸国との争いなどは、二千年、否もっと昔から、お互いが、自己の目にある梁木を認めずに、自分勝手の正義を振り廻して、争いつづけて今日に至っておるのであります。

 

アメリカやソ連、中共にしても、いずれも自国の心をかくした、権力欲や憎悪の感情で他国に対しているのでありまして、この状態がつづけば、ついにはイエスの説くごとく、己が審判(さばき)にて己もさばかれ、己がはかる量(はかり)にて己も量られて、お互いに傷つき損い合い、地球世界は滅び去ってしまうのです。

 

アメリカにとって中共は目の上のこぶでありまして、原爆を使ってでも、中共を滅ぼしてしまいたい気持であり、中共の方もどんなことをしてででも、アメリカを滅ぼしてしまいたいところでしょう。

そして、ソ連にしても、アメリカの衰退をひたすら願い、中共がこれの膝下にひざまづくことを策しているのであります。そういう大国間の気持が、ベトナム戦争を長引かせ、イスラエル、アラブ連合の争いに拍車をかけているわけで、こういう本心、神のみ心に外れたの想念行為は、業(カルマ)の法則として、お互いに自国の想念行為が自国に還えってくるので、そういう大国が傷つかず自国を損ぜずに無事でいられるわけがないのです。これは正にイエスさまの言われる通りなのです。

 

相手国の自分勝手な主張をきいたら、ああ自国にもこういう気持があるのではないか、と自国の心を顧みて、本心に外れた想いや行為を取りのぞいた時に、はじめて、はっきりと相手国にものが言える立場に立つのでありまして、そういう立場でものを言えば、相手国もその国の光明ある態度に打たれて、自我の主張を和らげて調和してくるのである、というのが、イエスの言う、「偽善者よ、まず己が目より梁木をとり除け、さらば明らかに見えて、兄弟の目より塵を取りのぞき得ん」ということなのであります。

 

原水爆の問題など、個人的な常識で考えても実におかしなくらいで、米ソ中、共に原爆をつくり実験しながら、常に他国の実験を非難しつづけているのです。他国の原水爆の製造や実験を非難するのなら、自国の原水爆を放棄してから言うべきで、自国のことはすべて棚に上げておい他国ばかりを責め裁くというのは、聖書のこの章の言う通りの偽善者というべきであります。

 

聖書の言ごとく、人間はすべて兄弟姉妹であります。誰も彼も神の分生命(わけいのち)であり、本体は一つの大生命から出ているものです。他人を殺め、他国を攻め滅ぼす、ということは、自らの手を傷つけ、脚を傷つけ、胸を痛める、と同じ原理でありまして、実に愚かしき行為であります。その実に愚かしい行為を個人も国家民族も、常に行いつづけているのです。

 

全く親鸞の言うがごとく、罪悪深重の凡夫というべきであり、イエスのいう罪の子ともいうべきでしょう。

しかし、やはり人間は、本質は神の子なのであります。私は体験としてそれをよく知っております。人間に神の子の本質を現わさせないものは、過去世からの神のみ心を外れた想念行為なのです。

 

この神のみ心を外れた、人間は肉体なのだ、という習慣の想い、自と他を、別の者としてみる個我の想い、そういう過去からの習慣の想念の道を、神の道にふりかえてしまわねば、人間は遂には滅びの門に至ってしまいます。

 

神の道にふりかえてしまうのが、すなわち祈りなのです。そしてその祈りの最も高く広いものが、イエスの主の祈りであり、今日の世界平和の祈りなのであります。

個人だけの願い事を祈りと考え違いしていて、祈りなどで何ができる、という祈りの否定論者が随分といますが、祈りとは、神のみ心と人間の心とを素直に真直ぐにつなぐ方法でありまして、神のみ心がこの地上に流れ易くなる方法です。主の祈りや世界平和の祈りは、自己の誤っていた想念波動が、神のみ心の中で消滅されて、時々刻々神の光明波動が自己の体(神体、霊体、幽体、肉体)を通して、世界人類の平和の光明となって、宇宙一杯にひびきわたり、ひろがってゆく祈りなのです。

 

ですから、この祈りは、自己の為にもなり人類の本心開発の為の祈りでもあるわけです。

祈りとは本来そういうものであって、祈りなくして世界平和を実現することは到底でき得ぬことなのです。

 

神のみ心を外れていた過去世から今日までの想念行為をすべて消えてゆく姿として、神のみ心の中で世界平和の大光明に入れかえて頂くことによって、人間は、神の子として新生できるのであります。イエスがことごとに祈りを説いておられるのも、その理を知っておられるからなのです。

次の6-14節は祈りという言葉は使っていませんが、神を求めよ、という風に説きながら、祈りの大事なことを説いています。

 

聖なる物を犬に与ふな。また真珠を豚の前に投くな、恐くは足にて踏みつけ、向き反りて汝らを噛みやぶらん。

求めよ、然(さ)らば与へられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん。すべて求むる者は得、たづぬる者は見いだし、門を叩く者は開かるるなり。汝等のうち、誰かその子パンを求めんに石を与へ、魚を求めんに蛇を与へんや。然らば、汝ら悪しき者ながら、善き賜物(たまもの)をその子らに与ふるを知る。まして、天にいます汝らの父は、求むる者に善き物を賜はざらんや。然らば凡て人に為られんと思ふことは、人にもその如くせよ。これに律法(おきて)なり。預言者なり。

狭き門より入れ、滅にいたる門は大きく、その路は広く、之より入る者おほし、生命にいたる門は狭く、その路は細く、之を見出すもの少し

 

祈り心のない者、神を求めてもいない者に神の道を説いたところで、聖なる物を犬に与え、真珠を豚に投げるようなものだ、とイエスは、はっきり言っております。

実際に、神の存在を信じもしない。従って、求めもしない。つまり祈り心の全く無い者に、神の道を説くほどつまらぬことはありません。豚ではありませんが、かえって噛みついてきます。神は求める者、祈り心ある者に、神の道を知らせ、真の幸福を与えるのであります。

 

「求めよ、然らば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん。」

全く、その通りでありまして、神を求め、尋ね、神の門を叩く、その想念行為が、すなわち祈りなので祈り心なくして、一体どうして神を求め、尋ねることができましょうか、神様!と呼ぶその心が祈りそのものなのです。

 

何々してくれ、こうしてくれ、というような必要は実際にはないので、神様を呼びつづけて、神様のみ心と波長が合えば、神様の愛はそのまま流れこんできて、その人に必要な物、事柄を与えて下さるのです。

 

ですから、深く深く神様を呼び、神のみ心と自分の心との波長を合わせることが必要なのです。求め、尋ね、叩く、その心は祈りそのものであって、神のみ心に通ずる道なのです。その心が純粋であればある程、神のみ心深く通じ、その人の光が増大するのです。

 

自分が多くの人に愛され、優しくされたければ、人にもそうしてやればよい、自分のした行為はそのまま神のみ心に通じて、自己にかえってくるのである、とイエスもいっています。

 

求め、尋ね、叩く、その最も深く高いものは、やはり、自己の幸福のためばかりに、神を求めるのではなく、世界人類、すべての人々の幸福の来らん為に、求め、尋ね、叩く、祈りであるのです。ただ、神様!神様!でも勿論、神のみ心に通じます。しかし、それがもっと深く広い人類愛の心でなされれば、神のみ心深く通じることは当然のことです。

 

そこで、個人個人の願い事のような祈り方をするよりも、世界平和の祈りのような、人類愛そのものの祈りを、すべての信仰者が実行するようになれば、神の光明はどんなに力強くこの地球界に輝き出すことでしょう。その日のくることを私は待ち望んでいるのです。

 

確に、イエスのいうように、滅びに至る門は大きく広く、生命に至る門は狭いのです。この世の生活は、物質万能の生活でありますので、金銭や物質が、非常に大きな役を致します。 そこで、その金銭や物質を得るために、どうしても、優位な立場に自分を置こうとします。善い学校を出るのも、善い職場を得るのも、大半の人はそういう気持に支配されているのです。そのうちに自分でも気づかぬうちに権力欲というようなものがついてきて、益々滅びに至る門に近づいてゆき、生命に至る門から遠ざかってゆくのであります。

 

そういう愚かさに気がついて、永遠の生命を得るための道を求めつづける人たちも出てきているのですが、永遠の生命の道に至る門があまりにも狭いので、その門を叩き得ずに、唯物論の門を叩いて社会主義、共産主義の道に至り、その行為は人類愛の行為でありながら、祈り心が欠けている為に、死後の世界で闇の中を手さぐりで歩いているような、気の毒な人もいるのです。

そして、僅かな人たちが、祈り心で狭き門を叩きつづけて、遂に神のみ心と交流することができ、天のみ心地に顕現する新しい世界の為の、永遠の生命の道を自己のものとすることができたのです。

 

真のクリスチャン、仏教者、その他宗祖、教祖の道を素直に真直ぐにつき従った者たちは、この永遠の生命の道に至り、霊界にあっては、天使や守護の神霊となり、現界にあっては、聖者賢者として、この世の完全平和樹立の為に働いているのであります。

 

私はこの狭き門を尋ね易く求め易く叩き易いものにするために、消えてゆく姿という教えを説きつづけ、守護の神霊の存在を教え、ついに世界平和の祈りに結びつけるに至ったのです。生命に至る道があまりに細くて、見出しにくくては、この地球界に神のみ心が顕現されることが困難になりますので、何んとかして、この狭い門、細い道を、広い、大きな道にしようと、私は日夜求めつづけたのです。そして生れたのが、消えてゆく姿で世界平和の祈りの道であったのです。つづく---(転載おわり)

 

 この講義にある以下の聖書の言葉、

 

なんぢら人を審(さば)くな、審かれざる為なり。己がさばく審判(さばき)にてもさばかれ、己がはかる量(はかり)にて己も量らるべし。

 

 

そして、

天にいます汝らの父は、求むる者に善き物を賜はざらんや。然らば凡て人に為られんと思ふことは、人にもその如くせよ。これに律法(おきて)なり。預言者なり。

これらの言葉は「因果応報」「与えるものが、受け取るもの」の原理をイエスが示されたものです。

 

 

かつて私は、先のような動画を見れば中国の理不尽な振る舞いに怒り、日本の政治家の情けない言動に怒り、さかんに自分自身を傷つける自傷行為を行っていました。

 

 

五井先生は、その愚かさを教えて下さいました。

たとえそれが正義感によるものであってもその憤りがさらなるカルマを生むことを教えてくださいました。そしてそのカルマを根本から解消する、解決する方法も教えてくださいました。

 

今はこのような動画を見たり、ニュースを耳にしたりするたびに私の世界平和の祈りは強く、深くなっていく感すらします。

そしてこの祈りがキリスト教でいう最後の審判の大禍を小さくし、「神の国」、仏教でいえば「仏国土」のいち早い到来をもたらすものであることも知ることができました。

 

尚、今日書いた次元上昇に関して、2年前に「ヨハネの黙示録」をテーマに関した以下のブログを書きました。今日書いたことに興味を持たれた方はこれも併せてお読みください。

 

 

上のブログの最後に私は黙示録の最終章にある言葉を紹介しつつ、次のように書きました。以下転載です。

 

この書の預言の言葉を封じてはならない。時が近づいているからである。不義な者はさらに不義を行ない、汚れた者ものはさらに汚れたことを行ない、義なる者ものはさらに義を行ない、聖なる者ものはさらに聖なることを行なうままにさせよ。見よ、わたしはすぐに来くる。報いを携さえ、それぞれのしわざに応じて報いよう。」(ヨハネの黙示録12章)

 

次元上昇の速度が速くなっています。黙示録が予言する「キリストの再臨」も霊的次元上昇と考えればアセンションそのものを述べたものということが出来るのでないでしょうか。

そう感じるがゆえに、間近に迫った、というより現在進行中でもあるアセンションを地球人類が無事乗り切り、地上天国の世界へと昇華できるよう、それぞれの皆さんが、それぞれの場所、時間で、世界平和の祈りを行ってくださるよう、心からお願いするものです。それが私たちにすぐできる「義」なること、「聖」なることと思うからです。(転載おわり)

 

五井先生は先に転載した講義の中で「祈りの最も高く広いものが、イエスの主の祈りであり、今日の世界平和の祈りなのであります。」とおっしゃっています。ちなみに「主の祈り」は以下のお祈りです。

 

天にまします我らの父よ、

願わくは,み名をあがめさせたまえ。

み国を来たらせたまえ。

みこころの天に成るごとく

地にも成させたまえ。

我らの日用の糧を、きょうも与えたまえ。

我らに罪をおかす者を我らが赦すごとく、

我らの罪をも赦したまえ。

我らを試みに遭わせず、

悪より救いいだしたまえ。

国と力と栄えとは、

限りなく汝のものなればなり。

 

素晴らしいお祈りです。

もう一つ私が素晴らしいと思う聖フランチェスコの祈りも紹介します。今日取り上げた「山上の垂訓」に通づるものだからです。

 

主よ、わたしを平和の器とならせてください。

憎しみがあるところに愛を、

争いがあるところに赦しを、

分裂があるところに一致を、

疑いのあるところに信仰を、

誤りがあるところに真理を、

絶望があるところに希望を、

闇あるところに光を、

悲しみあるところに喜びを。

 

ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください。

理解されるよりも理解する者に、

愛されるよりも愛する者に。

それは、わたしたちが、自ら与えることによって受け、

許すことによって赦され、

自分のからだをささげて死ぬことによって

とこしえの命を得ることができるからです。

 

いずれも素晴らしいお祈りですが、これら長いお祈りを日常の折々に行うのは大変です。

しかし、五井先生の「世界人類が平和でありますように」というお祈りは何時でも何処でも日常のあらゆる瞬間、瞬間に行うことが出来ます。敢えて申し上げれば、その効果(カルマの浄化)も抜群です。

 

世界平和の祈りは勿論宗教的な祈りですが、宗派、教派とは無縁です。対象はいずれの神様でも、いずれの仏様でも構いません。私はこの「世界平和の祈り」を日常の習慣になさることをお薦めするものです。

 

 

さて、最後に今日紹介した「聖書講義」のことを紹介しておきます。

このブログに掲載した一節は、この講義の12回目のものですが、その後まとめられ一冊の本になっています。

私はこの本で聖書の文言への理解が本当に深くなりました。キリスト教徒の方は勿論、そうでない方にも一読をお薦めします。

 

 

 

今日の記事が読者の皆さんのお役に立つものであれば幸いです。

世界人類が平和でありますように