アセンションと次元上昇、ヨハネの黙示録の考察 | Yokoi Hideaki

Yokoi Hideaki

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今日のテーマにあるアセンションは「上昇」の意で、宗教的には「昇天」という意味があります。

近年この言葉は「次元上昇」という意味で使われ、宇宙の運行が次のレベルに進化することを意味し、古の昔から様々な形でこれが予言されてきました。

 

西洋占星術では魚座から水瓶座(アクエリアス)の時代への移行時期として、現在が宇宙の進化の大きな節目であると考えられてきました。仏教やインド哲学でも「劫」という極めて長い時間単位での宇宙の進化が語られており、現代はその最終段階、第七劫の末に当たっていると言われています。

 

アセンションとは宇宙が次のレベル、次の次元へ進化、移行することを意味します。その「次元」とは何でしょう。

私たちは「次元」という言葉を縦、横、高さの3次元(空間)、これに時間を足して4次元、というように使います。この4つの次元が私たちの知覚できる次元です。こう考えれば次元とは時空を表す言葉、と考えることができます。

 

この4次元に対して「高次元」の不可知の次元が存在することが最新の物理学の研究で徐々に明らかになっています。

私は文科系頭なので数学的説明はできませんが、ここで、私が理解する「高次元世界」を説明したいと思います。

文科系の私が、説明してみよう、と思うほどに理解ができたのはアメリカの日系人物理学者ミチオ・カクさん(NY市立大、物理学教授)による量子論の入門書のおかげです。

そのカクさんの最新版が先日出版されました。下の「神の方程式 『万物の理論』をもとめて」です。

 

 

 

タイトルの「神の方程式」を私なりの理解で言えば、全く違って見えるマクロの宇宙空間を観測して得た物理学の定理とミクロの粒子の観測から得た量子論の定理を矛盾なく統合し、計算式で証明できる方程式を意味します。

その統合しうる最先端の理論の一つが、カクさんの研究している「ひも理論」で、上の最新刊には、次のような記載があります。以下同書よりの転載です。

 

理論(ひも理論)が発展するにつれ、奇妙でまったく予想外の特徴が次々と明らかになっていった。たとえば、この理論は10次元でしかありえないことがわかったのだ! 

物理学者たちは愕然とした。 そんな理論は前代未聞だったからだ。通常、 どんな理論も任意の次元で記述できる。

われわれは明らかに三次元の世界に住んでいるので、三次元以外で表した理論を切り捨てているだけなのだ(われわれが動けるのは、前後、左右、上下の方向に限られる。これに時間を加えれば、宇宙におけるどんな出来事も四つの次元で所在を特定できる。たとえばマンハッタンでだれかと待ち合わせをするなら、「五番街、42丁目の角の10階で正午にお会いしましょう」などと言えばいい。しかし、四次元より上の次元に入ることは、どんなにがんばってもできない。それどころか、われわれの脳では、高次元に入るさまを思い浮かべることすらできないのだ。そのため、高次元でのひも理論の研究は、すべて純粋数学によっておこなわれている)。

 ところがひも理論では、時空の次元数は10に固定されている。ほかの次元では理論が数学的に破綻してしまうのである。ひも理論が「われわれは10次元の宇宙に住んでいる」という前提を示して物理学者たちに衝撃を与えたことを、今でも私は覚えている。(転載おわり)

 

ここでは10次元世界が示されていますが、同書には「ひも理論」をさらに発展させた「M理論」についても記載されています。その部分も転載します。

 

われわれはまだ、理論の根底にある物理学原理を見出すという、ひも理論の最後の段階を終えていない。どうすれば理論全体をひとつの方程式から導けるのかがわかっていないのだ。

 1995年、そこに衝撃が走った。 ひも理論がまたもや変化を遂げ、M理論という新理論が生まれたのである。元のひも理論には、量子重力が5種類もあり、どれも有限で明確な値をもつという問題があった。

この5つのひも理論は、スピンの値がわずかに異なることを除けばよく似ていた。なぜ5種類もあるのか? そんな疑問が抱かれだした。 ほとんどの物理学者は、宇宙は唯一無二でなければならないと考えていたからだ。

物理学者のエドワード・ウィッテンは、ただのひもではなく(球やドーナツの表面のような)膜を基本要素とする、M理論という11次元の理論が実は隠れていることに気づいた。これにより彼は、5種類もひも理論があるのは、11次元の膜をつぶして10次元のひもにする方法が5通りあるからだと説明できた。 

つまり、5種類のひも理論はどれも、同じM理論を異なる形で数学的に表現したものだったのだ(すると、ひも理論が11次元のM理論を10次元にしたものという点を除けば、ひも理論とM理論は実は同じ理論だということになる)。(転載おわり)

 

これを読んでもほとんどの人は理解できないでしょうが、ここでカクさんの言葉を引用しているのは、今日のテーマであるアセンションを考えるうえでの科学的根拠になる基本的な認識がここに述べられていると思うからです。

10次元、さらに11次元の高次元世界について、本書にはさらに次のような記載があります。これも転載します。

 

われわれは、当然だが、自分たちが縦・横・高さの三つの座標で定義された空間を動く三次元の存在だと思い込んでいる。だが、それは幻なのかもしれない。ひょっとして、われわれはホログラムのなかで生きているのだろうか。

われわれが体験している三次元の世界は、本当は10次元や11次元である現実世界が落とす影にすぎないのかもしれない。われわれが三次元空間を動くとき、本当のわれわれは10次元か11次元のなかを動いている。

われわれが街路を歩くとき、影も付いてきて同じ動きをするが、影は二次元にある。これと同じように、われわれは三次元を動く影で、本当のわれわれは10次元か11次元を動いているのかもしれないのだ。(中略)

ひも理論で探し求めるのは10次元や11次元の残響である。ひょっとすると、ひも理論の証拠は身のまわりのいたるところにひそんでいるのかもしれないが、それを直接観測するのではなく、残響に耳を澄ます必要があるのだ。たとえば、超空間からのシグナルとして、ダークマターが候補に挙がっている。

最近まで、宇宙の主成分は原子だと広く考えられていた。天文学者たちは、水素やヘリウムといった原子が宇宙の4.9%しか占めていないと知ると、愕然とした。なんと、宇宙のほとんどがわれわれには見えず、ダークマターやダークエネルギーとして存在していたのだ。(ダークマターとダークエネルギーは別物であることを思い出そう。 宇宙の26.8%を占めるダークマターは、見えない物質として銀河を取り囲み、銀河がばらばらになるのを防いでいる。そして宇宙の68.3%は、さらに謎めいたダークエネルギーだ。これは空っぽの空間がもつエネルギーで、銀河を互いに引き離している)。

「万物の理論」の証拠は、この見えない宇宙にひそんでいるのかもしれない。

 

ますます理解不能であれば申し訳ないのですが、ここにあるダークマターやダークエネルギーも物理学の常識で、われわれの宇宙を100とすれば、科学的に知見できる物質は4%ほどで、残りは27%を占める正体不明の物質的な何か(ダークマター)、さらにこれも正体不明の69%を占めるエネルギーである何か(ダークエネルギー)、であることは観測によって既に証明されています。

 

私はこのダークマターやダークエネルギーが高次元が私たちの物質次元に沁み出している姿ではないかと想像していましたが、このことをカクさんも述べられているようで、意を強くしました。

五井先生は私たちが存在しているこの物質世界は最も波動の低い次元であり、より高次な次元が大きくは幽界、霊界、神界という段階で実在しており、高次元がわれわれの実体、実在である、と最初のご著作である下の「神と人間」の中で解説なさいました。

 

 

 

上のカクさんの「われわれが体験している三次元の世界は、本当は10次元や11次元である現実世界が落とす影にすぎないのかもしれない。われわれが三次元空間を動くとき、本当のわれわれは10次元か11次元のなかを動いている。われわれが街路を歩くとき、影も付いてきて同じ動きをするが、影は二次元にある。これと同じように、われわれは三次元を動く影で、本当のわれわれは10次元か11次元を動いているのかもしれないのだ。」という記述はまさにこの五井先生の言葉を科学の最先端の知見から説明したものと言えます。

 

上に「大きくは」と書いたのは「物質界」「幽界」「霊界」「神界」の4つは大ぐくりにした世界観で、それぞれの階層にも様々な次元があり、その意味で無限のレベルの波動世界(無限次元)が実在している、と五井先生がお述べだからです。そして私たちはこの物質次元に存在すると同時に無限次元にも実在しています。

 

この無限次元について面白い記事をネットで見つけました。ITインサイトに読売新聞論説委員の吉田典之さんが書かれた記事です。古田さんは論説委員の前に科学部記者だった人でこの分野にも詳しく、ひも理論と11次元世界を次のように解説されています。(以下転載)

 

1、2、3と順に10まで足した合計は? 足し算を繰り返してもよいが、簡単な計算方法を子供の頃に考えた人は多いだろう。

では、これが10ではなく無限大だとどうなるか。有限の場合の方法は使えない。この答えは驚くべきことに「-1/12」になると、18世紀の数学者、オイラーが複素数の解析学を用いて導き出した。今回の数字「11次元」を導き出す重要な小道具である。

この「次元」とは何か。「1点の位置を決めるのに必要な数値の個数」という説明がわかりやすいだろう。1次元は直線の世界で、原点からの距離だけで位置は決まる。2次元は平面で縦と横の2個の、3次元ならそれに高さを加えた3個の数値があれば良い。我々が住んでいる空間は3次元、時間を加えると4次元の時空間とされる。でも5次元以上は途端に見当がつかなくなる。

無理を承知で言えば、データベースで1つのサンプルが日付、場所、年齢、数量など多くの属性(次元)を持ち、それぞれの値を使えばデータ空間の中の位置を特定できるのと似ているかもしれない。もっとも、データの属性は互いに無関係だし、空間の次元とは本質的に違うが。

話を戻すと、そんな世界を提示するのが、宇宙の究極の成り立ちを探る「超ひも理論」あるいは「超弦理論」だ。物質の細部を見ていくと、原子、原子核、素粒子と新たな粒子が現れてくる。その先には、1種類の極微の「弦」があると考えるのがその名の由来だ。弦が様々な振動をすることで、多種多様な素粒子が現れる。

弦の振動は1、2、3倍…と整数倍になる。振動はエネルギーでもあり、すなわち質量にも結びつく。これを超弦理論で光子の質量を求める式に当てはめてみる。詳細は省くが、式は、2+(次元数-1)×(1+2+3+・・・・)×3=0と表せる。

(1+2+3+…)は、振動数を表す部分だ。ここに先のオイラーの答え「-1/12」を代入する。光子の質量はゼロなので、次元数は9になることが導かれる。でも現実の世界は3次元。残りの6次元はどこにあるのだろうか。

例えとして使われるのが綱渡りだ。綱渡りをする人には、綱は前か後ろにしか進めない1次元の世界。でも綱の上を這うアリがいたら、アリは前後左右と平面のように動ける2次元の世界と認識するだろう。つまりアリの見ている平面は綱渡りをしている人には隠されているということになる。

そう、残りの6次元の空間は、極めて小さくなっていて、認識はできないけれど、この3次元空間の中に畳み込まれている。都合の良いつじつま合わせに聞こえるが、きちんと数学的に示される考えだ。

この超弦理論の9次元は、弦と弦の間に働く力が強くなった特殊な場合には、次元が1つ増えて10次元に。そして時間を足して11次元の時空間になる。

空間が増えたり減ったりするなんて、想像の彼方である。「空間は幻想である」と、理論物理学者の大栗博司氏は著書で表現している。

超弦理論はまだ理論の段階で、実験で確かめられるのはずっと先だ。だが、100年前にアインシュタインが生み出した相対性理論が、今では全地球測位システム(GPS)の正確性を保つのに欠かせないように、超弦理論もいつか実際の技術と結びつくかもしれない。いつ、どんな形で現実に現れてくるのか。楽しみだ。(転載おわり)

 

ここに「-1/12」が11次元世界を導く公式とあり、それはオイラーの「無限大」を示す公式でもある、ということが述べられています。すなわち、ここに五井先生がお述べになった無限次元の存在の可能性が強く示唆されているとも言えます。

 

この記事が私の目を引いたのにはもう一つ理由があります。それは最後のアインシュタインの相対性理論に関する記述です。

そこには「100年前にアインシュタインが生み出した相対性理論が、今では全地球測位システム(GPS)の正確性を保つのに欠かせない」とあります。

これは特殊相対性理論を指したものです。ここにあるように、自動車のナビゲーションにも使われているGPSには特殊相対性理論の数式を用いた補正が常に行われています。特殊相対性理論の説明は難しいのですが、単純化すれば我々が別のものと考えている「空間」と「時間」が「時空」という一つのものであることを証明した理論、と言うことができます。

 

SF小説やSF映画の題材にタイムマシンがありますが、タイムマシンの根拠になっているのも特殊相対性理論です。光速に近いスピードで宇宙旅行に旅立った飛行士が数日ののち、帰還すると出発前に彼を見送った人たちがすべて老人、または亡くなっていた、というようなSFのエピソードがありますが、これは高速で空間を移動する人と一つの空間に留まっている人の時間が違うことを意味します。

 

そしてこのことは実験で証明されています。精密な電波時計を2つ用意し、ひとつを地上に置き、もう一つをジェット機に積み込み、最高速で世界を一周させます。この2つの時計をジェット機の帰還後調べると、そこには小さいものの明確な誤差が生じています。地上はおそく(長く)、ジェット機は早い(短い)のです。この誤差はアインスタインが100年前に特殊相対性論で予言した数式と正確に一致しました。

これは移動する距離、速度によって時間に誤差が生じることを意味しますから、GPSで移動中の自動車、船舶、航空機などが正確な場所を把握するにはこの誤差の補正が必要になります。そしてGPSではこの補正が数式に基づいて常に行われています。

 

先に五井先生が無限次元を分かり易く解説なさっていたことを紹介しましたが、五井先生はこの特殊相対性理論と次元上昇についてもお話になっています。正確に書けないのですが、Youtubeに上げられている五井先生の講話の中に「飛行機の発明と普及によって遠くまで短時間に旅行できるようになったということの本質は『次元上昇』にあります」というお話がありました。

これを聞いて「なるほど、そういうことか」と特殊相対性理論が示す世界観への理解が進んだことがありました。五井先生がこれを述べられた時代に比べ、現在はネットによって世界中リアルタイムでのアクセスが可能になっていますから、さらに次元上昇は加速しています。

 

このことを時空に当てはめ2次元的に表現すれば、遠くまで短時間に移動できる、ということは空間が縮み、時間が伸びた、ということができるでしょう。時間が伸びたというのは時間が長くなったと聞こえますが、実質は従来(実現するのに、現れるのに)長くかかったこと、ものが速く実現する、または現われる、ということです。そしてアセンション、次元上昇とはこの変化が加速する、ということを意味しています。すなわち、事象があらわれる原因、結果の時間的距離が短く、すなわち速くなります。

 

思ったことが実現し、為した行いには報いがある、という因果の理法はこの世界の基本原則ですが、時空という仕掛け、ある種の緩衝材があることによって、この原則は時間と空間の制限を受けてきました。我々がいる、この次元でも、思ったことは実現するし、為したことは報いを受けるのですが、時間、空間という制限があり、時間を経て、または違った場所で現われます。

 

先に書いたように、存在の実体は無限次元ではありますが、そこには明らかに節目があります。五井先生がなさった表現で言えば幽界、霊界がこの節目に当たります。五井先生は物質界と幽、霊界の違いを聖書講義の中で以下のようにお話になっています。

 

人間の肉体は長くても百年の間しかこの世にいません。しかし生命自体は永遠に生きつづけているものでありまして、その生命にまつわる想念波動の種類によりまして、その人の運命や境遇がきまるのです。

それは肉体にあっても霊の世界にあっても同じであります。ただ異なることは肉体界は波動の粗い世界なので、原因が結果として現われるのに年限がかかりますが、霊幽の世界においては一瞬の内に原因が結果として現われるのです。

そこが恐ろしいところなので、地獄の世界もそういうところなのです。反省する隙もやり直す時間もなく、その人の想念がそのまま現実の状態として現われつづけるのです。火に焼かれたら焼かれたまい、その苦しみが、ずっとつづくのです。

肉体世界なら絶息するとか死とかがあるのですが、地獄にはそういうことがないのです。長い間苦しみつづけるのです。考えてみて下さい。肉体界の苦しみなど問題にはなりません。

 

五井先生はこの肉体世界で生きることを「潜水服」を着て活動するようなもの、としばしば表現されていました。潜水服とはアクアラングではなく、昔の空気ホース付きの古いタイプのことですが、五井先生は活動を制限する動きにくさの表現として使われました。

潜水服に当たるのが「時空」の制約です。時間と空間という制約が、宇宙法則である「意識が創造する」「思ったことが現れる」という基本原理の働きを制約する緩衝材となってきました。そしてこの制約が幼ない魂である人類にとって恵(めぐみ)であったわけです。自分中心の低レベルの想念は、五井先生が先の聖書講義のお話でおっしゃったような地獄の世界、次元へ人類や個人をただちに引き入れてしまうことになります。そうならないように、幼稚な魂が正しい想念、行為を学ぶ学校、修業の場としてこの世界がある、と考えるのが良いようです。

 

その修業の場である地球世界が、次の波動レベル、段階へと移行しつつあるのが現在で、この先に幽界と霊界があります。

五井先生のお話にある「地獄」とは幽界の下位のレベル、天国とは霊界の上位のレベルと考えるのが分かり易いと思いますが、それを振り分けるのが聖書で言う「最後の審判」でしょう。しかし、バチカンにあるミケランジェロの絵のように神様が「君はあっち」、「あなたはこっち」と振り分けるのではありません。自らの想念レベル(習慣的な思い)がおのずと自身の往く場所、棲む場所を決めてゆくのです。

 

そこで、「ヨハネの黙示録」です。全部読んでもおらず、断片的なのですが、黙示録の予言の実現を最近よく感じます。

黙示録を書いたヨハネはイエスの弟子12使徒のひとりです。ヨハネのことを五井先生は聖書講義で「神秘家ヨハネ」と一項を設けられ、解説されています。以下のその一部を転載します。

 

神秘家ヨハネ

ヤコブの弟のヨハネは霊的な瞑想家であり、神秘なものにひかれる性格の人でしたので、イエスの神秘性には特に強く心をひかれていたのです。イエスは尊敬おくあたわざる大師であったわけです。

ヨハネは神秘性において、十二弟子のうちでも最もイエスに近いものがありますので、イエスのいうこと行なうことの一つ一つが、心に沁みる弟子であったのです。

ですから『義のために責められたる者、天国はその人のものなり』などという言葉には魂がふるえるぐらい、感動をおぼえたのです。

ヨハネは表面は静かな態度をしておりますが、内に燃えあがるものは、抑えようのないほど烈しいものでありまして、イエスを慕って燃え上がった想いは、日とともに烈しくなり、この主のためには生命もいとわずの想いになっていたのであります。

そういう一本気の愛情とイエスの心を直伝してゆく神秘性は、イエスのほうにもうつっておりまして、何やかとヨハネには命じやすく、一番身近に親しくするようになっていたのです。

イエスの最も愛した弟子はヨハネともいえるのです。いかなる神の使徒といえど、肉体を纏えば、肉体自体のもっている波動想念があるのです。神霊そのままの生き方で、この世が救えるものなら、何もわざわざ肉体身に化身しなくとも、この世は救えるわけなのですが、神霊波動そのままの心では、この業想念波動につつまれた地球世界を救うわけにはゆかないのです。

そこでイエスにしても、肉体身を纏っておりますから、肉体身自身の好き嫌いというものがあったのでありまして、ヨハネのような自分の肉体波動によく似通ったしかも、自分を慕いに慕っているような者を強く愛さずにはおられません。

ぺテロなども主を愛することにおいては、ヨハネにおとるものではなかったでしょうが、ヨハネの、肉体的にすでにもっている神秘性において、イエスとの間隔を、ペテロは一歩ヨハネに譲っていたようであります。

ヨハネは十二弟子中で、ただ一人無事に長寿を完うした人でありまして、ヨハネ伝とヨハネ黙示録を残しております。これは彼の天命の故にそうなされたのでありましょうが、一つには彼の神秘力が、幾多の難を遅れさせ、天寿を完うさせたことによるのでありましょう。(転載おわり)

 

さて、その霊覚の鋭いヨハネが記した黙示録です。五井先生は聖書講義の中で黙示録についても少し触れられています。以下は昭和46年に発刊された聖書講義の第3巻(現在はまとめられて全一巻)からの転載です。

 

世の終わりの予言

私は宗教の予言めいた言葉が嫌いです。少年の頃は、未来のことを知りたくて、未来の予言などに非常に興味をもったものでしたが、正確に神のみ心を知って以来、予言めいた言葉には一切耳をかさぬことにしています。

ところが、新約聖書にも、ヨハネ黙示録のように、全くの予言書があります。この黙示録は種々とまちまちの解釈がされていますけれど、これが正しいのだ、という正確な解釈を私はまだ見たこともありませんし、私自身も現在その解釈をしようとも思いません。

もっともっと先の将来にいたってこそ、人々に納得できる解釈がなし得ると思うからです。それにしても、予言の書などに私はあまり重点を置く気にはなれません。 宗教の教えは、常に現在の立場において、神のみ心を実行に現わしてゆけるように教えるべきでありまして、未来にばかり眼をむけさせるべきではないのです。(転載おわり)

 

ここにあるように五井先生は「予言」、特に暗い未来を示すものに否定的でいらっしゃいました。思いは実現するという原則から言うとそれらの予言が人類の集合意識をその方向へ誘うということもあったと思います。

しかし、ここにあるように「先の将来にいたってこそ納得できる解釈がなしうる」ということも事実あると思います。先のようにヨハネは12使徒の中でイエスに最も近い特別な能力を持った人でした。

 

そこで黙示録の予言が実際に起こった例として、よく上げられるのが、第8章10~の「第三の天使がラッパを吹いた、すると松明のように燃えている大きな星が天から落ちてきて川という川の三分の一とその水源の上に落ちた。この星の名は「ニガヨモギ」といい、水の三分の一がニガヨモギのように苦くなってそのために多くの人が死んだ。」という記述です。

ニガヨモギは植物の名前で、ウクライナ語でこれを「チェルノブイリ」と呼ぶことから、1986年に起こったロシアの原発事故を示唆するものだということがキリスト教社会で喧伝されるようになりました。

 

最近では、13章16~の「小さな者にも大きな者にも、富める者にも貧しい者にも、自由な身分の者にも奴隷にも、すべての者にその右手か額に刻印を押させた。そこで、この刻印のある者でなければ、物を買うことも、売ることもできないようになった。この刻印とはあの獣の名、あるいはその名の数字である。」も話題になりました。

ここにある獣の刻印がコロナワクチンを意味するという解釈が保守的なキリスト教団体から示されたりしています。獣とは反キリストを指します。

 

最終戦争である有名なアルマゲドンはイスラエルの北方にあるゴグ、マゴクによって引き起こされると旧約聖書のエゼキエル書に書かれており、これがロシアとペルシャ(イラン)の連合軍であるという解釈があります。現在のウクライナ紛争もそういう視点で考えれば、黙示録的解釈も可能でしょう。

 

一言申し添えれば、これは「ロシア、プーチンが悪い」という単純な話ではありません。もし反キリストが存在するとしたら、むしろロシアの反対側の勢力にいるようにも思います。

 

牧師さんによる黙示録の解説動画もたくさんYoutubeに上げられており、聖書の勉強になりますが、聖書を字義通りに受け止める福音派系の解釈が多く、教条主義的です。それらの多くは艱難時代(7年間)はまだ到来せず、大バビロンの崩壊は勿論影すらもない、という解釈ですが、私には黙示録が予言した終末は現在進行中と思えます。

 

聖書は当時のイスラエル、ユダヤを中心にした世界観で貫かれているので、その点非常に偏ったものです。黙示録もこれに考慮して読まねばならないと思います。例えば大バビロンは現在のイラクのことですが、イラクが政治や経済の中心地であるはずがありません。黙示録が書かれた当時の世界で言えばバビロンのような存在、と考えれば良いのでないでしょうか。それが一日で崩壊する、というのも思いもしないような速さで・・・、と考えれば良いと思います。

 

聖書にある不自然な記述や偏った解釈については五井先生も聖書講義で言及、解説されています。

五井先生の聖書講義は高い霊覚によって書かれた聖書の最も優れた解説書です。よって聖書を学びたい人、特にキリスト教徒の方には是非一読を勧めるものです。

 

 

さて長くなりました。黙示録はアセンション、次元上昇によって、キリスト教世界、さらにイスラエル、ユダヤを中心にした世界で起こること記した予言書であると思います。それをさらに世界に普遍し述べられた五井先生のお話がありますので、ここからはこれを紹介し、五井先生が説かれたアセンションの時代に我々がなすべきことを読者の皆さんとと一緒に学び、考えたいと思います。

 

以下に昭和40年(1965年)に発行された五井先生の会の会報、白光誌の2月号に掲載された法話「これからの生き方」から、次元上昇、アセンションにかかわる部分を抜粋、転載します。

 

宇宙の運行は大きく変化している

以前に申しましたように、現在は宇宙の運行が大きく変化しつつあるのでして、地球も宇宙の一環として、その大きな変化に沿って変化してゆかねばならぬ時期になっているのであります。

科学的にいえば、今日までの肉体波動のままでは生存でき得ない時代に遭遇するので、どうしても波動、霊波動に合わせ得る想念や体につくり変えなければいけない時になっているのです。

 

地軸が傾いていると、予言者もいうし科学者の一部もいっておりますが、地軸が傾くということを言い変えますと、地球界の波動が変化しつつある、ということなのであります。

地球界の物質波動が変化してきますと、それに適合して、肉体波動も変化しなければ、この地球界での生存はおぼつかなくなります。 そうした「ずれ」は、病気に災難に、天変地異に戦争に、というような現われとなって地球人類の前に不幸な事態を現出してくるのです。

 

こうした事態は、現在の人間の心の状態ではどうしてもまぬがれないところなのです。ヨハネ黙示録をはじめ、種々の昔からの予言にそうしたことが、はっきり書かれてあります。

今日の人間の生き方としては、例え少しくらいの善いことをした、 或いは悪いことなどしていないぐらいのことでは、とてもどうにも仕様のない事態なのです。そうした予言を別にしても、よくよく心をひらいて今日の世界の情勢をみてごらんなさい。 とても只では済みそうもないことが、諸所において見受けられます。(中略)

 

この後、先生は当時の緊迫した世界情勢について述べられます。それは現在も世界中に存在する事態で、中でも象徴的なのがウクライナ紛争です。五井先生はそれらの緊迫した情勢に触れられ、以下のように続けられます。

 

これらの状態は今日までの習慣性の波動の変化、つまり人類の業生の消えてゆく姿として現われようとしているのです。こんなすさまじい変化の時期を迎えているのにこの地球の人間たちは、まあ、なんて呑気に構えていることだろう、と宇宙人ならずとも少しは先の見える人々は、人間の呑気さというか怠惰な生き方に驚き入っているのであります。

 

自分たちがいくら騒いでもどうにもならないと諦めて、呑気にしているのか、先のことは何も考える能力がなくて、一日一日を享楽しているのか、何んにしても、地球という自分たちの居住地に対する、この無責任さというものには、どうにもやり切れない気がしてきます。今の心境のままで、地球が滅びたら、あなた方は一体何処へ行くつもりなのか、と反問したくなります。「死んでしまえばそれまでさ」とたかをくくった答をする人もあるでしょう。死んでしまえばそれまで、などという考えほどとんでもない考えはありません。死んだ先の世界が何処までもつづいていることを御存知ないから、そんな呑気なことがいえるので、死んだ先の世界が、自分自身の想念行為のままに厳然として現われてくるのだ、ということを知ったら、その人は慄然(りつぜん)としてしまうに違いありません。

投げやりな怠惰な生き方で死んでしまった人の、この世以上の悲惨な世界を、私など嫌という程見て知っています。私のように、あの世のことや神の世界のことの判るものにとっては、この世で不まじめな生活をしていた人の哀れさを思うと、ひっぱたいてでもいいから、その真理を知らせてやりたい気がするのです。

 

何んにしても、この世の生を大事に真剣に生きなければなりません。自分の生き方を常にみつめ、人々の為に人類の為に、少しでも役に立つ人間として生きてゆくことが、何人にとっても大切なことなのです。それにしかも今日からの地球の状態は、全く伸るか(のるか)反るか(そるか)の状態なのです。 全く死んでしまうか、真実に生きるかの瀬戸際に立たされているのです。

 

中途半端の生き方は通用しない

もう生半かの生き方、中途半端な生き方のできない時代になってきているのです。 宇宙の運行の変化につれて、地球世界の今日までの習慣性の波動が、いや応なしに変化してゆくのです。変化してゆく姿が、病気や不幸災難、天変地異、戦争などとなって現われてくるのです。 これは先程も申しましたように、少しぐらいの善事をなしたからといってふせげるものではありません。

 

今日までの習慣性の想念行為を、すっかり変えきってしまわねば防ぎ得ない状態なのです。防ぎ得る方法は、只一つしかありません。それは自分たちも宇宙の運行と同じ軌道に乗ってしまうことであります。宇宙の運行というのはいったいどういうことかが、きっと判らないと思います。それは自然に花が咲き自然に実が成るような、そうした生命に対する従順さ、ということなのです。

 

今こそ、昔からの聖者たちの教えた、空の心境、無為の心境、みこころ(心)のごとくなさしめ給えの全託の心境になり切らねばならないのです。なれぬもなれないも無いのです。是非共そうならなければ、そうならないだけの痛手を心身に受けねばならないのです。それは誰がするのでもない。過去世からの自分たち自身の神のみ心の軌道を外れた想念行為の分だけするのであります。これを、因縁因果の摂理というのです。

 

神のみ心から分れた生命体として種々な世界で生きつづけた人間が、最後にはどうしても神のみ心と全く一つになり切って生きることになる為なのでして、何人といえどこの摂理の外にあるものはないのです。神など無い、などといっている人たち程、神のみ心と一つになり切ることが難いので、それだけ、この世またはあの世における苦悩は烈しいものとなります。

そんなことあるものか、という人は、その苦悩を味わってはじめて真理を知るのでありまして、それも致し方ないと思うのですが、致し方ないだけでは済まされぬものを、私たちの愛の心は強く感じるのです。

 

私たちのとるべき道

そこで生れ出でたのが、消えてゆく姿で世界平和の祈りという教えなのです。この教えは、守護の神霊方が、人類すべての苦悩を届がわりしてあげたい、というみこころ(心)でなされたもので、この祈りをする人々に対して、救済の光明を放射して下さり、その人及びその人にまつわる縁ある人々や諸々の魂を浄化して下さるのです。

 

今日からの地球世界の状態は、古来からの聖者方の教え通りにしてゆかねば、生存してゆけない状態になることが必然とされているのですが、なかなかそうした、空や無為や全託の状態にはなり切れない。そこで、消えてゆく姿という教え方が現われたのであります。空や無為や全託になれない想念を、序々にそうならしめる易行の道として現われた「消えてゆく姿で世界平和の祈り」というのは一体どういう道かと申しますと、これは毎月白光を読んでいらっしゃる方はよく判っておられると存じますが、新しい人の為のものとして、新しい気持でお読み下さい。

 

空や無為の心境にならなければ、地球人類は滅びてしまうことは、宇宙の運行の変化に伴う、地球自身の波動の変化によるのですから、どうにもしかたがありません。といって空や無為や全託の心境にはとてもなり得ない、一体どうしたらよいのだろう、というのが、道を求めている人々の等しく考えることなのです。

 

今日は本当に生易しい時ではないのです。 全く死か生かをはっきりきめねばならぬ時代なのです。ですから、いいかげんな中途半端な信仰などは赦されない時代なのです。赦されないというのは、自分の本心が自分自身を赦さないということなのです。

嫌でも応でも、人間が神の子の本体を現わさねばいられぬ時代が今日からの時代なのです。これは試験をパスしなければ上級学校に進めない、ということと全く同じことでありまして、絶対絶命なのです。

 

しかし神は愛でありますから、最後に救いのみ手を差しのべられているのです。それが、消えてゆく姿で世界平和の祈り、という教えの道なのであります。人間の心臓や肺臓やあらゆる機関は、人間の想いで動かそうとしなくとも、自然に動いております。 赤ん坊は大きくな大きくなれといわなくとも、お乳を一体誰が成長の要素にして下さるのか、自然と大きくなってきます。

 

そういう肉体内の諸機関のように、人間の頭脳を駆け巡る想念波動を、自然のままに託かせきってしまう、 神のみ心に全託し切ってしまうことを 空とか無為とかいうのであります。心臓や肺臓が自然に働いているのだから、想念だって自然に働いてもよいわけです。よいわけではなく、自然に働くことがよいのです。その真理を体得していたのが、老子であり釈尊であり、イエスであり、古来からの諸聖者で、私もそれを体得して知ったのです。

 

自分で動かさなければ想いは動かない、と思っているのは、真実は馬鹿気きったことなのです。自分自身で動かそうと思わない時、いわゆる空の状態になった時、無為になった時、想念は光となって、四囲を照すのです。自分でコチョコチョ動かす想念は、 小智才覚というので、聖人たちの嫌うところなのです。ですからどの聖者でも、小智才覚を捨てよといっているのです。

 

小智才覚も消えてゆく姿である

小智才覚を働かせている間は、深いところからくる神智は現われないのです。小智才覚を捨て切った時、即ち空になった時はじめて神智がそこにひらめくのであります。自分で考えなければ智慧がでてこないと思う愚かさを、地球人類は捨て去らねばなりません。それは単なる習慣性なのであります。つまり業なのであります。 神と人間との間にある隙間が、そうした習慣性をつくり、小智才覚で人類を支配するようになってしまったのです。

 

そこで神々は聖者賢者をこの世につかわして、その習慣性を改めさせようとなさっておられたのです。 そして今日の最後的時期に到達してきたのであります。しかし、幾多の聖者賢者のみ教えも、習慣性の想念が厚い波動の帯となって、真理の光を散ってしまっているので、なかなか人々に実行させるまでに至らないのです。

 

そこで、一度に空や無為という心境にさせるむずかしさを一段低くして、「消えてゆく姿」という教えにしてきたのです。あなたのやってしまった過去からの誤ちも、誤ちをとがめる想いも、他人のした誤ちも、自他の悪い想念も不幸も災難も、小智才覚も、すべて過去世からの習慣性の消えてゆく姿であって、あなたが悪いのでも相手が悪いのでもない。

すべては自他の本心開発の為の、神の子の姿が現われる為の邪魔な想念波動の消え去ってしまう為に現われたものなのだ、というように善悪に把われる想念を、一度消えてゆく姿とし放してしまうのであります。

 

そしてその放した消えてゆく姿は、何処で消されるかというと、世界人類が平和でありますように、という、世界人類の平和を祈念する、世界平和の祈りという、救世の大光明の光り輝く波動の中で消して貰ってしまうのであります。

どうして世界人類の平和を祈ることが、光り輝やくことなのかと申しますと、神は光そのものなのであり、神のみ心は平和であり、大調和そのものなのです。

 

ですから人間側が平和の祈りをする時には、その人の想念は、神のみ心と一つになって自ずから神の光を導入し光り輝くのです。そこで、本来の人間、真人の姿となり、神我一体の光明体となるのであります。まして世界平和の祈りをするところに、救世の大光明は輝きわたる、という、神の宣言がなされているのでありますから、光明化するのは当然なのであります。

 

こうして、すべての想念行為を消えてゆく姿と思い、空や無為に至る道に一歩足を踏み入れ、そして世界平和の祈りによって大光明世界の住者となるのです。この祈りをつづけてゆきますと、自分でも気づかないうちに無為に近い行為ができるようになり、自然法爾の生き方のできる、無礙自在の行為の人になってゆくのであります。

 

これはその人の過去世からの因縁によりまして、早くなり得る人と、年月の長くかかる人とがありますが、この祈りをつづけていれば必ず無為の境地に到達できるようになるのです。消えてゆく姿という教え方は、空、無為、全託に至るエレベーターであり、世界平和の祈りは、宇宙神のみ心の中ということになるのであります。(中略)

 

今日では、肉体波動、物質波動が急速に霊波動に変ってきています。 いいかえれば、粗雑であった波動が、微妙な波動に変ってきているのであります。いつまでも旧態然たる物質波動、肉体波動の想念にしがみついていては、滅びの門に至るだけです。人々は一日も早く微妙なる霊波動にならなければいません。これは好むと好まぬとにかかわりなく、そういう時になっているのでありますから、どうしてもそうならなければならぬのです。そこで私共は口をすっぱくして、肉体想念だけでは駄目だ、もう肉体だけではどうにもならない時代になってきたのだから、想いをすべて一度神のみ心にお還えしして、改めて神様から運命を頂き直せ、といっているのであります。

今日ではもう単なる現世利益の信仰だけでは駄目になってきました。たとえ一時病気が直り貧乏から解放されたようにみえましょうとも、それは単なる業波動の転回に過ぎませんので、肉体人間が、霊性の人間に変化したわけではありません。

 

永遠につづく生命の道を自己のものに

肉体人間観を、 真実の神の子観、霊性人間としての生き方に変えていかなければ、今日この地球に生きている意義が薄れてしまうのです。今日この地球世界に生きている、誰れも彼れもが、完全平和達成の為の一役を神様から役目づけられているのです。

その役目を済まさないことには、人間は決して安心立命できる世界に住むことはできないのであります。その為に消えてゆく姿の教えが生れ、世界平和の祈りの行法が生れ出たのであります。表紙うらの教義(人間と真実の生き方)をよくごらんになって、消えてゆく姿で世界平和の祈りという、神の大愛の道を日々行じつづけて下さい。必ずあなた方の安心立命の道は開かれて参ります。

 

人間は肉体だけではありません。永遠につづく生命です。永遠につづく生命の道を、今生の世界において、はっきり自己のものとしてゆく幸を、貴方も貴女もどうぞじっくりと噛みしめてみて下さい。生成発展してゆく大宇宙の素晴しいロマン、そしてその運行をつつがなく成し遂げられている神々の大偉業、そして私たちの背後にあって、愚かな数々の行為に対しても、少しのあなどりもなく、守りつづけていて下さる守護の神霊方、こうした神々の恩愛に対しては、どれ程の感謝を捧げても捧げつくせないものなのです。私はそれを身心に染みて知っております。 どうぞ皆さんも、守護の神霊への感謝と世界平和の祈りを、大らかにそして真剣につづけていって下さい。完全平和の道は世界平和の祈りによって先ず開かれてゆくのであります。

 

以上、次元上昇、アセンションに際して、習慣の想念、業生の転換法「消えてゆく姿で世界平和の祈り」についての五井先生のお話でした。

 

このところ、思ったことが実現する、良い悪いにかかわらず行為の報いを受ける速度は早くなっている、と思うことが度々あります。また今まで潜んでいた現れるべき因縁因果が急速に現れだした、ということも強く感じます。

黙示録、終章にあるこの言葉はそれを示したものでしょう。

 

この書の預言の言葉を封じてはならない。時が近づいているからである。
不義な者はさらに不義を行ない、汚れた者ものはさらに汚れたことを行ない、義なる者ものはさらに義を行ない、聖なる者ものはさらに聖なることを行なうままにさせよ。見よ、わたしはすぐに来くる。報いを携さえ、それぞれのしわざに応じて報いよう。

 

次元上昇の速度が速くなっています。黙示録が予言する「キリストの再臨」も霊的次元上昇と考えればアセンションそのものを述べたものということが出来るのでないでしょうか。

そう感じるがゆえに、間近に迫った、というより現在進行中でもあるアセンションを地球人類が無事乗り切り、地上天国の世界へと昇華できるよう、それぞれの皆さんが、それぞれの場所、時間で、世界平和の祈りを行ってくださるよう、心からお願いするものです。それが私たちにすぐできる「義」なること、「聖」なることと思うからです。

 

それをお伝えしたく今日のブログを書きました。

 

長くなり文字数が制限を超えそうなので、この続きは次回書きます。

 

世界人類が平和でありますように