改めて森美智代さんのこと、断食のこと | Yokoi Hideaki

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前回は仏教的に言えば煩悩、キリスト教的に言えば原罪に当たる人類の業想念(貪・瞋・痴の三毒)の克服がいかに難事であり、また重要かということ、そしてその除去、浄化も決して成しえないものでないことを書きました。

 

前回も書いたように、三毒にはそれぞれ以下の意味があります。

『貪』とは「貪欲(とんよく)」、むさぼって飽くことをしらないことです。
『瞋』とは「瞋恚(しんに)または(しんい)」、憎しみ。 嫌うこと、いかること。 心にかなわない対象に憎悪をもつことです。
『痴』とは「愚痴(ぐち)」、心性が愚かで、一切の道理にくらいことです。
 

元は仏教用語ですが、甲田光雄先生はこの三毒を「病の真因」、「心の宿便」であるとされ、これを除かねば本当の治病も、健康もないとお考えでした。

 

さて、一年も終わり、師走に入りましたが、この年末(~年始)も三重県名張市の「あわあわ」で森美智代さんが主宰されている断食健康合宿が行われます。森さんは一番身近にいらっしゃる煩悩消滅、三毒除去の難事を成し遂げられた方です。

 

下は甲田先生のご遺作とも言える「少食の実行で世界は救われる」からの転載図です。

 

甲田先生は「人間は本来皆、神の子なのだが、今世だけでなく幾世にもわたって潜在意識に刷り込んできた過てる想念、業想念(三毒)が本心、本体を覆う暗雲となって、光を妨げているのだ」と常々おっしゃり、本当の治病、健康、さらには幸せな人生には業想念(心の宿便)の除去こそが重要であることを強調なさっていました。

 

ヨハネの福音書の冒頭には以下の有名な言葉があります。

太初(はじめ)に言(ことば)あり、言は神と偕(とも)にあり、言は神なりき。この言は太初に神とともに在り、万(よろず)のものこれに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。之に生命あり、この生命は人の光なりき。

 

五井先生はこれを、以下のように解説なさっています。(以下、聖書講義より)

 

 

太初(はじめ)に言(ことば)あり、というこの言とはどういう意味なのでありましょうか。

 私たち人間が使っている肉体の声帯を振動させて出てくる言葉とは深さが違っていることは判ります。しかもこの言は神と偕にある言であり、神そのものでもある言なのであります。そして、この言によらないで成ったものは、万物のうちに一つもないのであり、人の光である生命をこの言はもっているというのです。

 

さあ、この言とは一体何を現わしているのでしょう。一口にいってしまえば、波動のことなのであり、ひびきのことなのであります。

 

ここで五井先生は人類が近年になってようやくたどり着いた量子力学の世界観の一端を述べられています。量子力学は私たちの本質は光の粒子と波動の二重性を持った素粒子であることを発見しましたが、ヨハネの福音書の冒頭のこの言葉はまさしく、人間の本体が光(光子)と波(ひびき)の二重性を持ったものであることを述べたものです。

 

人間の本体は甲田先生が先の図で示されたように「高いひびきをもった光」なのです。

そしてこの太初の光、ひびきは現在も私たちの本質として、創造の営みを続けているのですが、それを妨げるのが潜在意識の業想念、心の宿便なのです。

 

森さんが業想念を除去されたのは「断食」によってでした。小脳失調症という難病克服のために甲田先生が処方された療法を忠実に実行し、その過程で森さんは一日、青汁一杯だけで健康に生活できる体質を獲得されました。

要は貪欲を断じたのです。もともと森さんは瞋恚(怒り)の心は無いか、極小であったのでしょう。

 

そうなれば本体の光は森さんの肉体を通じてこの世に放射されます。その光を浴びた皆さんがそこに「癒し」を見出されています。また光は「智慧の光」として森さんの頭脳に「直観」として働きます。それが患者毎の最適な治療法のひらめきとなります。また龍体文字などの形で天の智慧が(高次の森さんから)降ろされます。そこには「貪・瞋・痴」の最後、痴(おろか)も存在できないのは明らかです。

 

暗雲をすっかり払った森さんのこの本体の光はカメラに映ることがあります。

「あわあわ」の合宿で私が紹介しているのは、森さんがパネリストで参加された映画監督の白鳥さんのシンポジウムの舞台写真です。

 

写真のように舞台中央に座れた森さんの本体の光は舞台全体に大きく広がりました。

私はこの写真を見た直後にたまたま本棚から取り出した「ヒマラヤ聖者の生活探求(第2巻)」の中に以下の一文を発見しました。以下抜粋します。

 

わたしたちがこの正当なる相続に目覚めた時(注 神の子としての認識=神との一体に気づいた時)、わたしたちの身体が常に美しく純粋なる霊体であり、最も神聖、荘厳、真実なる神の宮であるという、永遠の昔から伝えられて来た真理の美しさと純粋さに、又目覚めるのである。

 

その時、わたしたちの身体は、本来この至高の状態より未だ曾て低下したことはなかったのだという確信が出てくる。低下したというのは、実は人間が勝手にそう思い込んでいたのである。このような迷いが消える時、わたしたちの体はその本来の神性なる相を取り戻す。

 

その時、丁度炎熱の程よく冷めた夏の宵の香りがすべての風物に漲るが如くにも、わたしたちの体に光りが耀(かがよ)い始める。

 

間もなく純粋な白光線が体内に現われ、次第に輝きを増して体全体にみなぎり、この柔らかく輝く生きた光は丁度、白金色の雰囲気のように周囲の周囲の清澄な大気に及んでゆき、次第に光を増していって、遂には一切の周囲のものを蔽い、一切のものに浸み渡ってゆく。

 

更にこの輝きの中にあって、純粋なダイヤモンドよりも尚まぶしくきらめく結晶状の白光が現われる。それが実にわたしたちの体より発し、純粋な光を放って美しく輝くのである。

ここにおいてわたしたちは、神の生命に完全に浸り、美しく光り輝く体をもって『聖なる変貌の山』にイエスと共に立つ。即ち、人の子が神のキリストとなったのである。(抜粋おわり)

 

 

 

 

この一文はここで森さんに起こったことを美しい文章で語ってくれています。と言っても、森さんは決して特別な人ではありません。私たちも森さんと同様に神の光の一筋です。

 

森さんが太初(はじめ)の光を放射されている理由は3つあります。

一つは貪欲を克服された「超少食」です。

二つ目は常時脳波がα波(リラックス状態)を超えるθ波(瞑想状態)にある「超少思」です。聖書にある「心の貧しきものは幸いなり」は「思いの少ない人」と考えれば森さんを指していると私は思います。

三つ目は森さんの仕事です。鍼灸師として病で苦しむ人を救いたいという「愛の思いと行為」が光をより強くするのでしょう。

 

さて、私たちにも森さん同様にわが身を通して天の光を降ろす方法があります。

それも森さんと同じです。

一つ目は少食、さらに断食です。

二つ目は日常の様々な雑念を払う祈りを持つことです。

三つめは自分にできる「愛の行為」を行うことです。

 

実は、今日のブログは昨日、古い五井先生の会の会報にあった「断食」の記事を読み、これを紹介したく書き始めたものです。

記事は1966年(昭和41年)8月の白光誌に掲載された「断食で知る神の摂理」というタイトルの一文です。

これは作家の青木泰三さんという方が寄せられた氏の断食体験記で「断食、現代医学の及ばぬ自然療能」という副題がついています。以下に転載します。

 

断食して世界平和を祈る

今年も五月に断食をした。 十四日間、水だけ飲んで、一切の食物を絶った。私にとってはこれが八回目の断食であるから、もう馴れきって不安は少しもない。

ことに昨今は五井先生の尊い真理の教義が心にあるから、本心開発の好機とばかり、勇躍の日々に明け暮れた。世界平和の祈りも雑念をまじえず、静かに落ちついて心から唱えることができた。非常な感謝のうちに、予定の二週間断食を終えたのである。

 

「白光」六月号(会員誌)は、ちょうど断食十二日目に配達された。体重は十キロ減り、痩身の肉落ち骨と皮ばかりの状態にあったが、心気はかえって、冴え澄み、初頁から最後の頁まで一行もあまさず、一気に読了した。まるで乾いた砂が水を吸いこむように、心をうるおし理解を深めたのだった。

 

私の断食は医療では治らぬ持病の胃弱を好転させるためだった。キリストが荒野で断食したように四十日も続ければ、恐らく一挙に全治するだろうと思うのだが、現実生活を控えていてはそうした長期の断食はなかなかできにくい。

 

それで一週間、十日、二週間といった断食をくりかえして来たのだが、効果はそれなりに著しく、とうてい現代医学の比ではない。いかに自然療能の効力が、人工医学にまさっているか、身をもって体験したわけである。

 

大自然の摂理の偉大さ、微妙さは、とても区々たる人間の小智小才で計り知ることはできない。ひたすらひれ伏すのみである。そこに当然、神仏への讃仰がわき起らずにいられない。

かつてはキリスト教会へかよい、また寺院で仏説を聞き、坐禅をしたものの、いずれにもあきたらず、一旦宗教を放擲した私が、再び神仏に心を向け得たのは、実に断食の体験からだった。

 

宇宙の真理に純粋な関心を

断食の状態はふつう一般人が想像するものとはだいぶ違う。断食は飢餓状態で空腹にたえがたいものと、ふつう想像しがちであるが、実際はそうでない。ひもじいのは一食か二食抜いたころだけで、一日か二日すぎると、口中がネバネバして来て黄白色の舌苔を生じ、食欲は全く無くなる。

 

頭重、倦怠、嘔気、口臭などを催し、全身の皮膚から一種独特の臭気を発散する。これらの反応現象は体内にとどこおる老廃有毒素が盛んに排泄されるために起る。病気のある人は病気の箇所がうずいたり痛んだりする。

 

初めて断食を試みる人は、当初に起る反応現象に驚き怖れ、これじゃたちまち体が参ってしまう、と中止するものである。だが、反応現象の苦しみは、二、三日ないし四、五日で終り、そのあとは全身をおおう厚雲が晴れ行くように、すっきりと爽快になって来る。

つまり反応現象の苦痛によって病気が良くなるのである。これはちょうど五井先生が常に説かれる「業想念の消えてゆく姿」に似ている。

 

反応現象の苦痛が多ければ多いほど、それだけ体内に累積した病因が消滅して、自然体の健康に戻るわけである。 こんどの私の場合、断食に入った初日から三日目では、頭重、倦怠、嘔気、胃部重圧感、口中の不快なねばりに全身が重くるしかったが、四日目からそれらが薄れて五日目から心身共に爽快となり、読書が大いに進んだ。

 

私は断食中にふだん難解高度の宗教、哲学、文学書を選んで読むことにしている。

 

断食中は食欲やセックスを始め、世俗の名利欲から全く解放されるから、宇宙の真理に関心が向けられ、聖哲の言行が抵抗なく理解できるのである。この観点からも五井先生の教義は実にすばらしく、真理に満ち満ちて一抹の疑念もない。ただただ讃仰するばかりである。

全く私たちはよき日のもとにめぐり合せたものと、今さらながら感激を新たにする。

 

現代医学を超える自然治癒力

ところでふつう一般の考えでは、断食の行につれて心身共に衰弱して、死滅に向い、意識もまた朦朧(もうろう)になるように思うものだが、実際は大ちがいである。

 

なるほど肉体は削減して、体力も弱まるけれど、それは決して死滅に向うのではない。肉体の削減に反して、心気は鋭く冴えて意識は明晰(めいせき)となる。肉体と共に生命までが死滅するなどとは到底考えられない。

 

五井先生が説かれるように、肉体はあくまでも生命の器にすぎないことが、霊能力のない私にもはっきり納得が行くのである。現代の常識となってしまった肉体人間観は、全くの誤謬(ごびゅう)であることを、数回の断食体験によって私は確信をもって言える。

 

また肉体人間観からみれば、断食による肉体の削減は生命力を衰弱させるだけとしか考えないが、真実はまるで違う。肉体の削減は再生力を刺激し、細胞の復原を新たに促すのである。言わば古家を新築するようなもので、生命力は弱まるどころか活気を高める結果をもたらせる。

 

一週間以上の断食を一回すれば十年若返るといわれるが、確かに肉体の大掃除ができ、あらゆる病気は軽快する。

 

現代医学はめざましい進歩をとげたとはいえ、あくまでもそれは細分化された基礎医学や外科技術、それに抗生物質の発見などの側面だけであって、依然として内臓疾患の治療ははかばかしくない。多くの慢性病に苦悩する人があとを絶たない。そればかりか文明病と称する得体の知れない病気が新たに発生して、治療に手を焼く現状にある。

 

人工医学には限度があるが、天の自然療能には計り知れない無限の治癒が実在する。現在全国に主なる断食道場が七カ所、東京近辺には辻堂と国府津海岸とにあり、長年の経験をへた専門家が指導に当っているが、医者から不治と見なされた慢性疾患や難病がずんずん治って行く事実は、自然の摂理がいかに人力を越えて遥かに偉大なことを如実に証明するものである。

われわれ人間は決して自力で生きているのではなく、神によって生かされていることがよくわかる。

 

人工調味にまさる天然の味

断食を終って補食に入るときは、必ず少量の流動食から始めねばならぬ。いきなり固形物を大食しては、胃腸を損じ大害をこうむるばかりか 腸閉塞または腸捻転を起して死の危険を招く。

 

初日は薄い重湯をご飯茶碗一杯ぐらい朝夕二回。二日目にやや濃い重湯一椀に梅干の実をちょっぴり。三日目に一碗に梅干一個、それに野菜少量。四日目に一碗に梅干一個、すまし汁一、野菜少量。五日目になって普通のご飯一椀に味噌汁一、野菜に小魚、梅干。それから次第に量を増して、断食日数の二倍ぐらいの後、元の食事量に返るようにする。

 

しかしこうした斬新的食事量を守るには、かなりの忍耐努力を要する。捕食の初めはさほど食欲は起らないが、三日目ごろから絶食の反応で猛然と食欲が台頭する。これを抑制するには相当の意志力が必要である。

 

もし食欲の募るに任せて過食しては、せっかくの断食の効果は台無しになってしまう。旺盛化する食欲に極力善処しなければならない。この体験は意志を強めるのに非常に役立つ。方法としては宗教、哲学書を読んで気をそらすのもよいし、自然観賞に心を向けるのもよい。とにかく食物のことを念頭から放逐することである。

この際、五井先生の著書を精読し、世界平和の祈りを続ければ、最も効果的である。

 

断食後の食事は何を食べても美味である。塩や醤油、砂糖などで味付けしない野菜そのものの味が最もうまく感じられる。天然の味はとうてい人工調味などの及ばぬことがよくわかるのである。単なるふかしいもが、じゃがいもであれ、さつまいもであれ、舌がとろけるようにおいしい。

 

平素の高級料理の味でもこれには遠く及ばない感がする。値段にすれば最も安いものが、最も高い料理の味よりまさるのである。これは断食を体験した者でなければ、わからぬ味覚境である。この自然のありがたさがしみじみわかる。

 

したがって、平素嫌いだった食物も喜んで食べられるようになり、健康をそこなう偏食が矯正される。体重は日増しに恢復し、一ヵ月もすれば元へ戻るか、それ以上に増加する。しかしなるべく食量を控えて、徐々に体重を回復させることが、全身の健康のためよいのである。

 

大自然の摂理の前に

多忙な現代生活にあっては、かなりな日数を要する断食を誰でもするわけに行かない。また治病も信仰への到達も、真理への開眼も、必ずしも断食を要しない。易行道の極致をきわめた五井先生の教義と世界平和の祈りで、十分目的は達せられる。

 

しかし、多くの人々の中には、業想念の厚さによって、五井先生の尊い教義をもってしても容易に神仏の実在を納得できぬ人があるかも知れない。そういう人は機会をつくって一度断食してごらんになるといい。区々たる人智の、大自然の摂理の前に、いかに小さく浅はかなものであるかが、身をもって体験できるからである。ご参考までに東京近在の断食道場の場所を記しておく。(割愛)

(筆者は作家・現在警視庁誌「自警」に「明治剣豪伝」を連載中)(記事転載おわり)

 

ここで青木さんが書かれたことは100%理解できます。断食と祈りによって少食、少思の習慣を体得できれば、森さん同様に太初(はじめ)の光をこの現実生活に降ろすことができ、本当の健康、本当の幸せへの道を歩むことができるというのは私の実感だからです。

 

冒頭紹介したように、「あわあわ」での一週間の断食健康合宿はそれを知る絶好の機会になることでしょう。私も初日、二日目はこれに参加し、毎回、甲田先生のこと、五井先生のことをお話しています。

もうこの年末年始はキャンセル待ち状態のようですが、つづいてGW、お盆にも開催されますので、宜しければ森鍼灸院にお問い合わせください。

 

 

 

また、4年前のブログですが、ここでも森さんのことを書いていますので、ご興味あればお読みください。

 

 

余談ですが、今日紹介した五井先生の聖書講義はキリスト教徒の方にこそ読んでいただきたい名著であることを付記し、一読をおススメするものです。

 

世界人類が平和でありますように