久しぶりにブログ更新します。今日のテーマは「霊感、直観力を磨く法」です。
これをテーマにしようと持ったのは、前回のブログで中村天風師が天然痘ワクチン(種痘)に反対する理由をお話になり、なぜそのようなことを知りえたのかをお話になったからです。
以下は上ブログからの転載、天風師の言葉です。
私はただ、思うがゆえに思うと、こう言ってるだけなんだ。しかも、私は考えて言ってるんじゃないんだ。私が言ってることはすべて霊感であります。こうして講演しながら、フー、とあなた方の顔を見るときだって、私、「ああ、あそこにあの人がいるから、あの人を見よう」とか、「この人がいるからこの人を見よう」といって見てるんじゃないんですよ。天が私を向かせるほうを向いてるだけなんです。ですから、「なんで先生、今夜、私ばかり見るんだ」と思ったら、神様に聞きなさい。私にはわからねえから。私がこうやってしゃべってることだって、いつも同じようなことばっかり言ってやしねえ。そのとき、パッパッパっと出る言葉、それは霊感的な言葉ですよ。
前回のブログで「次回は天風師がこのようなことを知りえた霊感について書きます」と予告しましたが、まず私に身近にもいらっしゃる霊感をお持ちの方のことを書きたいと思います。一番身近なのは森美智代さんです。
先月末、森さんが最新刊(下)を送ってくださいました。
この本の帯には「この本のために神様とつながり、龍体文字全48文字の一つ一つの意味を尋ねました」とあります。
天風師は「神様に聞きなさい。私にはわからねえから」とおっしゃいましたが、森さんも「神様に聞いた」と言われています。
このブログの読者なら「神様」とは「自身の霊性」であることがお分かりだと思います。
またそれは守護霊と言っても良いし、さらに文字通り神様と言っても同じです。
天地を貫く人間存在の全体から見れば神様とは「ハイヤーセルフ=自身の霊性」とも言えますし、肉体として存在している部分から見れば文字通り、守護の神霊=「神様」とも言えるからです。
森美智代さんと甲田光雄先生の霊感、直観力
森さんの霊感、直観力が優れているのは、森さんの診断、治療が「神がかり的」であることからも明らかです。森さんとのお付き合いの中でその優れた霊感、直観力を見聞きする機会は何度もありましたが、このブログの初投稿に書いた私自身の体験がその一番の例になるでしょう。未だお読みでなければ、以下をご覧ください。
森さんの診断や治療を希望される方は以下をご覧ください。
森さんと私の共通の恩人で、師でもある甲田光雄先生も森さん以上の霊感、直観力を持っていらっしゃいました。甲田先生は医学博士です。ご講演などで、原稿なしでお話になる医学的知識の博識ぶりに驚かされることが多くありました。しかし先生のご診断や治療の大半は霊感、直観によるものでした。それを私自身、わが身で体験しました。そのことは下のブログで書きました。
私のブログでは甲田先生のご講演録や患者さんの治病体験も紹介してきましたが、その中で以下のように書いたことがあります。その部分を転載します。
これら(治病体験)を読んで改めて感ずるのは、甲田先生の神業ともいえる診断、治療への感慨と驚きです。それは文字通りの神業です。甲田先生の診断は勿論、科学的な裏付けや万余の臨床経験に基づいたものですが、同時に人智を超えた神霊の働きがあったものと私は確信しています。
それをインスピレーションや直観と言っても良いのですが、これがなければ、問診も検査もなしに病名、症状、さらに日頃の患者の習慣(昨日何を食べたかまで)などまで分かるわけがありません。その人智を超えた甲田先生の診断、治療の一端は今回紹介する体験談の中にも伺えます。
その正確無比な診断と先生の慈愛あふれるご指導、励ましによって、患者さんたちは厳しい療法に取り組む熱意と勇気を持つことが出来ました。逆に言えば、甲田先生がいらっしゃらない現在は、甲田療法の実践はなかなか容易なことではありません。そしてこの甲田先生の不在を補ってくれるのが森美智代さんです。(転載おわり)
私が一番身近で実際に体験した優れた霊感、直観力をお持ちの方はこの甲田先生と森美智代さんです。
田中至さんと山本桃仙さんの霊感、直観力
もう一人身近な人で霊感に優れた方がいます。五井昌久先生とのご縁が深いコンサルタントの田中至さんです。田中さんのこともこのブログに書いたことがあります。
田中さんの能力にも驚かされることが度々ありました。以前書いた私が神秘体験をした理由を教えてくださったときなどは感心、感謝しました。
ただし田中さんはそのようなご自分の能力を全く表に出されません。田中さんはコンサルティング会社をされていますが、ごく普通のコンサルティング業務をされています。しかし田中さんのアドバイスは優れた霊感、直観力に基いていると思います。
田中さんには面白いエピソードがおありです。田中さんは若いころ、いろいろなものが見えたり、聞こえたりして大変困っておられました。それが五井先生とご縁を得て、五井先生が主宰されていた統一会に行かれた折、壇上の五井先生からの強い光がご自身の眉間に放射されたことを感じたそうです。
それ以来、変なものが見えたり、聞こえたりすることはなくなり、「直観」として必要な情報のみを受け取れるようになったと話してくれたことがありました。だから田中さんは見たところも、お話していても全く普通の方です。
もし事業をされている方で、何か迷い、悩みがある方はコンサルタントとして相談されると良いと思います。ご参考まで、以下田中さんの会社のホームページです。
その田中さんに教えられ、会うことを勧められたのが山本印店の山本桃仙さんです。桃仙さんには何度かお目にかかり、そのたびにその霊感、直観力に驚かされました。その体験もこのブログで書きました。
中でも一番驚いたのは、私が前職の会社の役員を辞めさせられる(クビになる)ときに貰ったアドバイスです。サラリーマン人生の中で一番思い悩んだその時の状況を「あなたのご先祖の悟った方が導いてのこと、悩む必要はない」とおっしゃり、さらに二年後に起こる事態も予言されました。それは私を退任させた社長自身がその座を追われることでしたが、時期や社長退任の理由までも予言、的中されたことには本当に驚きました。
このように私の身近にも驚くような霊感、直観をお持ちの方がいらっしゃいます(ました)。
それらの方に共通するのは皆さん大変「穏やかな方」であるということです。そしてなぜ穏やかな方に霊感が働くのかにも理由があります。
インスピレーションはどこから来るか
それは後述するとして、天風師が霊感について語っていらしたことをもう少し紹介したいと思います。ある方が亡くなる日や時間を当てられたことについて話されたときに、このようにお話になりました。
死ぬ時刻まで言ったろ。奥さんがこれを聞いて、そのときは『ほんまにそんな時刻に死ぬやろか』と思ったらしいが、そのとおり、ピシャッと、1分も違わなかった。そういうときね、事情のわからない人は、病人が私の言うことに影響されて、そのとおりになったと思うけれども、そうじゃないんですよ。そういうことを知ってるのは宇宙生命なんです。はかり知れざる微妙なる働きをもつ造物主が知っている。そのスーパーノリッジ(超越的知識)が、私の頭脳に発達すると、インスピレーションがでるんです。
だから、自分でも、自分で言う場合、最初の間は不思議だなあと思う。疑いやしないけど、当たるとね、不思議だなあと思う。もうこのごろは何にも不思議だと思いやしませんけど、何十年のことですから。間違いなくピタッとなるのは不思議だなあと思うよ。これは本当に、どんな場合がきても、ワンダフルと思いますよ。
師はさらにそのような能力を得る秘訣についても語っていらっしゃいます。
だから、あなた方もね、論より証拠、うそじゃない。雑念、妄念、なるべくださないようにしてごらん。それで、心が一点ちり汚れのない磨きたての鏡のように八面玲瓏(はちめんれいろう)たる状態になると、出てくれるなと言っても霊性心はすぐでるように自然傾向で出来ているんです。
現在、あなた方だって、こういう経験ありやしないかい?忘れたものを考えてるときには思い出さないで、考えない、心が空になった時に思い出されることがありゃしないかい?とにかくあなた方は、雑念、妄念がしょっちゅう、もうもうと浅間山の煙のごとし噴出して絶え間ないから、肝心な心が曇りどおしだもん。考える中に雑念があると、いつか心のレンズは曇らせられているんですぜ。曇ったレンズにインスピレーションは映らないの。
天風師がこの能力を得たきっかけはこのブログを始めたころに書きました。それが以下です。
天風師が死病を克服し、霊感を得たのはヨガの聖者、カリアッパ師と出会い、インド山中で無念無想になる修行をされたことに拠りました。そのことを「心が一点ちり汚れのない磨きたての鏡のように八面玲瓏たる状態になると、出てくれるなと言っても霊性心はすぐでるように自然傾向で出来ているんです。」とおっしゃっています。
インスピレーションは湖面に映る月
人間の心を湖面と考えればこの天風師の言葉は理解できます。
天には満月があります。満月の明るい光は湖面に降り注いでいます。
しかし湖面が波立っていては月の姿は湖面に浮かびません。
湖面に風がなく、天風師のおっしゃる「磨きたての鏡のように八面玲瓏(はちめんれいろう)たる状態」になれば、月の姿はそのまま湖面に現れます。この月の姿がインスピレーション、霊感、直観です。
上のブログで紹介していますが、天風師はこうもお話です。
人間と言うものは厳密な意味からいうと、その本性において、知る知らざるとを問わず宇宙本体と自分の生命が何時も一体化されるように出来ている。宗教的にいえば神、仏の持つ智恵、哲学的に言えば宇宙創造の造物主の智恵も当然、人間の心に一つのつながりを持っているわけなんだ。
ちょうどそれはね、電灯と発電所の発電機がつながっているのと同じだ。さてそう考え付いたら、電灯はスイッチをひねると燈がつくだろう。スイッチをひねらないと燈がつかない。人間もまた同じで、宇宙の本体の造物主、いわゆる人間と神を結びつけるのも、やはり結び付けのスイッチというものがあるわけです。そのスイッチがどこだというと心なんであります。もっと判りやすく言うと心を特別な状態にすると、造物主と人間の生命がピターッとつながちまう。電灯と発電所がつながるようにね。
それじゃー特別な状態とはどんな状態かという事だが、英語で言うとトランスの状態にする事なんだ。トランスとは無念無想のこと。こういうと「さあそこだ。それが一番難しいんだ」と大なり小なり座禅の真似事をした人ならみな口をそろえていうでしょう。そういう人は無念無想がどういう状態か、ハッキリ理解していないんだ。
ジャーどういう状態かというと一口で言うと、心が命の一切を考えない時が無念無想なんだ。我々の心は、特に煩悩、執着を持っている人の心は、しょっちゅう自分の命に自分の心がくっついて歩いてまわっている。心が命の一切を考えない時、更にわかりやすくいうと、肉体を思わない、また心が心を思わないときが無念無想なんです。「とにかく心が出来るだけ折りあるごとにこの無念無想の状態になればいやでも、応でも人間の生命は、生命の本源である宇宙本体とピタリと結びつくように出来てんだ。さっきの電灯と発電所と同じなんだ。
ところが普通の人間は特に病があったり、運命が悪い人間は、そういうときに一層宇宙本体の無限の力を自分の生命に招き入れないといけないのに、反対にその結びつきを自ら妨げるような愚かな事をやっちまっているんです。ここのところが大事なところなんだ。心が肉体を考えない、あるいは心が心の動きを思わないとき、心が即座に霊性境地にしぜーんと、入りたくなくとも、入る事になっているんだ。
五井先生がおっしゃるインスピレーションの源
五井先生はご著書の老子講義でインスピレーションについてこのように仰せです。
人間の体というものは大きく分けて肉体身、幽身、霊身、神体というように四つに分かれております。(中略)細かく分ければ、数限りなく分かれているのであります。ですからあらゆる体から智慧が湧きいで、あらゆる階層の知識もあるのです。肉体身は一番鈍なる体なのであります。そこで肉体頭脳にまつわる知識や想念を肉体身より微妙なる体のどこかの頭脳に一致させてしまえば、肉体身の頭脳で考えるより微妙な考えが湧いてくるのであります。普通インスピレーションというのは、人の肉体身以外のどこかの階層の頭脳波動から肉体頭脳に伝わってきた智慧なのであります。
五井先生のこのお話は「人間も宇宙も多元的存在である」という量子力学の最先端の認識を宗教的立場からお話になってのことですが、インスピレーションの源も多元的で、どの階層から得ているかが問題であることを示唆されています。
船井幸雄先生のこと
若いころ私が身近に接し、学ばせてもらった方に船井幸雄先生がいらっしゃいます。
船井先生は日本で最初の上場コンサルティング会社の創業者にして、スピリチャルブームの先導役を果たした方ですが、船井先生の不思議な能力を身近で体験したこともありました。
船井先生は「直観力研究会」という入会費、年会費各100万円の研究会をなさっていて、その講師にいわゆる霊能者を呼ばれたりされていました。船井先生の周りをその種の能力を持たれた沢山の方がいましたが、中には低次元(幽界)の存在の力で能力を発揮されている方もいました。
そのような方のアドバイスは一時的に当たっても、のちには必ずおかしなことになります。
心の中を我欲、邪心でいっぱいにしているので、そのたぐいのものを引き寄せるからです。そのようなことも若いころ、船井先生から学ばせて頂きました。
先に優れた霊感、直観力をお持ちの方には穏やかな方が多い、と書きましたが、そのような方は上のような人とは逆に「我欲」が少ないのです。
だから先に紹介した森さんや田中さん、甲田先生や桃仙さんの態度、行動、言葉は大変穏やかです。我が強いとどうしても「穏やか」ではいられません。
高次のレベルとつながるにはやはり湖面の波風である「我の想い」を無くす、または少なくする必要があります。そのことを天風師はこうお話です。
心身を統一するときに、いちばん心身統一の妨害になるのは心なんだ。心の中のいろんなよくない思いごとや考えごとをとるために難行苦行するんですが、その難行苦行してる間に悟ったんです。山の中で、ポツーンと朝から晩まで一人で座って座禅を組んでるんですから、最初の間は雑念、妄念、むら雲のごとしです。けれども、日がたつにしたがって、何を考えようったって、どうにもしようがねえ、山の中だもん。そうすると、自然に雑念、妄念がだんだんだんたん出なくなるんですよ。
そのとき、スーィ、スーィと、自分でも全然考えてなかったような名案、工夫がでるんだよ。それで、朝と晩だけはカリアッパ先生が一緒に山へくっついてくるから、帰りがけ、先生がロバに乗っていく後ろを歩きながら、『先生、今日、座ってる間にこんなこと考えました』、すると『おう、インスピレーションがでてきたな』と、こう言ってくれたんです。
このように心を平らかにすることで、天の月を映せる状態にすればインスピレーションは自然に降りてきます。そういうとすぐ瞑想や座禅などを思い浮かべるでしょうが、もっと身近な方法もあります。
誰にでもできる方法は無我夢中になること
それは「我を忘れる」、「無我夢中になる」ことです。
エックハルトトールをこのブログで取り上げたことがありますが、エックハルトトールのいう「悟りの秘訣」=「Power of Now」の意味は、「今」「ここ」に集中するということです。
今の仕事、主婦なら例えば掃除や洗濯だって集中すれば、我を忘れます。子育ては勿論です。
商売している方ならなら目の前にいるお客さんへの接客に集中することもそうです。その時はお金儲け(我)より、奉仕(利他)の比重を高めることも条件なのはお分かりですね。また大好きな趣味、特に手先を使うようなこと、例えば陶芸やプラモデル作り、ジグソーパズルなどは、自然と心を無念無想の状態に誘ってくれます。
さらにスポーツ、ジョギングなどでも「我を忘れる」状態にしてくれます。そういったことで無我夢中になる時間を増やせば、直観力が磨かれ、インスピレーションを得ることが多くなります。私たちはこのことをあまり意識していませんが、実は日常的に体験しています。
余談ですが、五井先生は最初に頭に浮かんだことが、正しいインスピレーションであるというお話をされていました。
下はたまたま本棚にあった一冊ですが、この本の趣旨もファーストインスピレーションが正しい、ということです。そして論理的思考が洞察力を損なわせる、ということを主張しています。
インスピレーションがやってくる場を高める「祈り」
方法はなんにせよ、受け取るインスピレーションが高度な次元からのものであることもありますし、そうでもないこともあります。それを決めるのはその人の日常の「想い」や「行動」(どちらもその実体は波、波動)のレベルです。
その日常の想い、行動のレベルを高くし、高次元からのインスピレーションの受け取えるようになるための方法が五井先生の「世界平和の祈り」です。それは想いの波を高く(波動を微妙に)する祈りだからです。
このブログでは五井先生の会の古い会報「白光誌」から先生のお話を紹介していますが、今回も昭和39年、1964年2月の同誌から関連するお話を転載したいと思います。
お話は「五井先生を囲む座談会」のもので、テーマは「人間の深さ、広さは限りない」です。
五井先生が「人類の業を集めてそれを浄める場がある」ということをお話になったことへ高弟の伊藤顕先生が、「一見、悪に見えることも(単に悪そのものでなく)それを浄めるために現れたものと考えてよいのですか?」と質問されました。その質問へのお答えです。
自分というものを何処におくか。現われているほうに自分を置くか。奥のほうに自分を置くか、その違いです。例えば二十段階あるとすれば、二段目においている人もあれば、二十段階目に置いている人もある。もっと奥があるのですが、どこに自分を置いているか、それだけの話です。想ったところが自分なのです。だから無為にしてなせば、奥の、奥のどこまでも行くわけです。それを大概(たいがい)自分というと、一人いるような気がするんですよね、ここに。
自分というのは一人だなんてとんでもない話です。一人じゃなく、神々のあらゆる光が総合して生きているんです。あらゆる星の光が混ざり合わさって来ているんです。例えば七色の光なら光がまぜ合あさって来ている。七色の光の一色一色は神霊ですから、神霊の光が伝わっている。伝わっているということはここにいるということと同じです。それを一人だと思っている。一人じゃないんです。だから私は大概お話をしている時『私たち』と云っているでしょう。私はというのはあまり使わない。
『私』という一人はいないんですよ。体から云えば私だけれど、働きとしてはすべて『私たち」なんですね。『私』なんていう個人はないんです。個人があるという人はまだ悟っていない。判っていない。何んの誰某(だれがし)という人がここにいて、それがやったなんて思うけれどネ。“私たち”がうんと集って大きな「私たち」になる。そうすると気が楽だし、力もつくし勇気も出る。だからつまらない「私」たちにならないで、奥の、奥の『私たち』にならないといけませんね。
人間も宇宙もヒエラルキー構造
ここで五井先生は「人間は無限の多元的存在である」ということをおっしゃっています。
高い立場から見れば、一見悪に見えることも「悪が消えてゆくために現れている」善なる働きであるということをおっしゃると同時に、本当の自分はヒエラルキー(ハイラーキー=ピラミッド型)構造であり、高次元に行くほどより全体と一体化した存在になると仰せになっています。
高次になればなるほど「私」という個我は薄れてゆくということです。しかしこれは個我が消えるということで、消えれば消えるほど、そこには真我が現れます。それこそが私たちの実体で確固たる「我」であることを五井先生はたびたび教えてくださっていました。
冒頭紹介した私の身近にいらっしゃる霊感、直観力に優れた方は皆さん、我欲の無い、個の思いの少ない方です。例えば森美智代さんです。森さんは一日青汁一杯という超少食の道を歩まれていますが、同時に少思の人でもあります。森さんの脳波がいつもアルファー波やシーター波の状態であることからもそれが判ります。
要は森さんの心はいつも鏡面のような状態であるということです。我が少ないほど、高次元からのインスピレーションを得ることが出来ます。
現われの自分はいくつもある
また座談会で別の方(山崎雄造さん)が五井先生の御教えの柱、「消えてゆく姿」に関してこう尋ねられました。
(山崎)自分ではスーッとしているような気持の時とそうじゃない時、その程度しかわからないのですが、消えてゆく姿と世界平和の祈りをやっていて、消えてゆく姿の想いの座というのが仮定されるんですが……
(先生)そこがむずかしいところね。悪い自分はどこかへ行っちゃって、悪いなぁ、と思う時の自分はどこいるんだろう、と思うでしょうね。そこのところが面白い。自分というものがいくつにもいくつにも分れているんです。奥の自分と表面の自分と中程の自分と、時計の振子のように動くでしょ。振幅の範囲があるわけですよ。その範囲の中に記録されているものがたくさんある。それがヒョッ、ヒョッと思うんですね。
その揺れ動く幅を10に分ければ、9の所でもなければ5の所でもなければ、1の所でもない。現れの自分は、振子のように年中動いているから。道のようなものが、波がついているわけです。そうすると1の点の自分が思って見たり、3の自分、5の自分、6の自分、8の自分が思ってみたりするわけですよ。だから想いの現れの世界の自分というものは幾つも幾つもあるんだ、ということ。
本当の自分は一つ。奥にある。その自分というのは神我一体の自分です。その奥を行けば宇宙神になっちゃう。宇宙神を円とすればその中に自分がいる。その自分だけが本当の自分なんで、後の自分は現われた影絵に過ぎない。悟ろうが、悟るまいがそんなものは影絵に過ぎない。
これを聞いた山崎さんはさらにお尋ねになります。
(山崎)そうしますと、消えてゆく姿と思っている自分も、平和の祈りを祈っている自分さえも消えてゆく姿……、ということでやらして貰っているつもりなんですが、結局、それも消えてゆく姿、消えてゆく姿と思っている自分も消えてゆく姿なんだ、それでなおやっぱり自分というものは、寝ている時以外はあるわけなんです。それが時々……
先生はこうお答えです。
(先生)だんだんやっていくと、奥の自分に知らないうちになって来ます。初めは表面の自分で想う。次にはそれより奥、又それより奥で想う。その奥より更に一歩奥で想うようになる。しまいに何も想わないでそのままスースーと行なえる。
さらに山崎さんはお尋ねになります。
(山崎)例えば統一会などで、口笛をズーときいていると、何か想っているようでいながら、非常に落着いた感じがするんです。
(先生)かなり奥へ行っているんですね。統一している自分とか、これから統一するとか、これから悟るとかそんなもんじゃない。そう思っている自分もまだ奥の自分じゃない。駄目かなぁ、と思う自分はそう思わない人よりこれはズッと上なんですよ。しまいになるとそのまま、例えば雑念が出ても、遠くの遠くの遠い所でかすかに流れ去ってしまうようになります。
さらに問答は続きます。
中から湧き出てくる言葉で
(山崎)やっぱり消えてゆく姿で世界平和の祈りということですね。
(先生)そうなんですよ。結局、一番簡単な、かいつまんで、切りつまんで、最後に残ったのは『消えてゆく姿で世界平和の祈り』というんですよ。これは凄いんですよ。初歩の人にも判るし、うんと深く入っている人にもわかる。どちらにもいい。
私はどうなっているかといいますと、何も思っていない。といって冗談もいうし、心配もしてみるし、喜ぶし悲しむし、いろいろするでしょ。先生はあんなことを云ってるけれど、本当に思わないのかしら、と思うでしょうけれど、何も思わない。そこんところは判りにくいでしょうね。霊的に見なきや判らないでしょうね。
皆さんはどこの自分で自分を見つめているか、という反省は必要でしょうね。まだこんな自分で見つめているのか、と思ったらそれは消えてゆく姿にしておけばいい。一寸はましになった、少しは悟ったなと思った時、誰でもそう思いますよ。その時、これも消えてゆく姿だな、と思った時、また一段階、奥へ行くのです。
人に何も思わないで善いことをした。嬉しいな、と嬉しがってもいいんです。ああ私も立派になった嬉しいな、しかしこれもまだ(消えてゆく姿)、と思った時もっと上へ行きますよ。一寸はましになった、とそこに止まっていては駄目なのです。汚れちゃいますからね。
それから大事なことは、人に真理のことをお話しする場合でも、真理の言葉として「愛することが一番いいんですよ」と教わって、それを憶えて、その真理をそのまま云ったって光がありません。
自分の中で溜っている意識で云っている場合、古い宇宙子(存在の大元、最小単位)になって汚れているんです。そうではなく、中から湧いて来て自分の言葉として出てくる場合には光ってくるんです。本当に思っているから、中から溢れ出てくるから相手を打つんですよ。例え言葉の使い方が間違っていても中味が伝わっていくのですよ。いくら言葉が折目正しくても、中味が一寸も伝わらない場合もあるでしょ。
それは知識になって溜ったものでいうから、いくらうまいことを云っても相手を打たない。拙(まず)くとも、奥から湧き出てくる言葉で云うと相手を打つ。だから教養のないおばあさんの云った言葉でも胸を打つ場合心あるし、学者の言葉でも胸を打たない場合もある。
中から湧き出てくる、というがそれはどこから湧き出てくるか、奥の、奥の一番深い奥から湧き出てくればしめたものです。そうでなくとも中から出てくればいいですよね。中から出てくるというのは空から出てくるのです。中といっても巾があって、空の、空の又空のという所があるんですよ。成りたての空の中から出てくるのか、どこまで行った空から出てくるか、空の奥処(おくど)のみ心のまま、で出てくるかね。
ここで五井先生がおっしゃっていることは量子力学の世界観と同様に無限の段階が同時に存在している、ということです。そして創造の源は最も高い次元から放射される光であり、波動である(量子力学でいう素粒子の光と波の二重性)ということです。
そのあり方を「奥の、奥の、また空の、空の、そのまた空」と表現されたと考えれば良いと思います。
先に仕事や生活上のこと、また趣味やスポーツでも「我を忘れる」「無我夢中になる」ことができ、それがインスピレーションを得るためのいちばん簡単な方法と書きました。
そして、そのインスピレーションがやってくるレベルを決めるのは、それぞれの日常の想い(波)のレベルであることも述べました。
ここで五井先生がお話なのは、私たちの実体である日常の想い(波)が世界平和の祈りによってエスカレーターに乗ったようにいつの間にか創造の源の高みへと運ばれる、ということです。
そろそろ文字数が制限近くなったので、最後に五井先生の「大調和の世界」という詩を紹介します。
大調和の世界 五井昌久
すべての光が調和している
すべての人々が調和している
ありとしあらゆる物事が調和している
そういう世界がこの広い宇宙のどこかの星にあるという
その星の人たちは男女ともに美しく
三百才でも二十才の若さを保っているという
そういう真偽は別として
私たちの地球世界にも
それに近い未来が来ないとは誰れもいえない
人々はお互いに信じ合い愛し合い
国と国との争いもなく
みんなの心が豊かに美しく
いつもすこやかで物質を奪い合うこともない
それが理想の世界であっても
誰れもがそういう世界を欲っしている
欲っしていながら現実世界では
争い合い奪い合いいがみ合う
貧と病と不調和の累積
欲っしている世界が仲々来ないで
欲っしない世界がいつも眼前にある
こんな面妖な事態はどうして起る
美しい大調和の世界の実現は
一体どういう道から生れてくる
それは本心の欲っする道を
ただひたすらに進むこと
貧も病も争いも
すべての不調和な出来事を
本心の前を通りすぎてゆく影として
消えてゆく姿として
世界平和の祈りの中に投げ入れて
すべては守護の神霊に任せきる
愛と感謝の光明一筋
そんな生き方をすべての人々がしてくれたら
世界は忽ち明るくなって
理想の世界の扉が開く
私の道はそうした道
天の理想と地の現実を
一つにつなぐ光の柱
その光の柱の中に私のエスカレーターがある
どうぞ気楽にお乗り下さい
どこかの星にあるような
大調和世界が光の柱の頂上に開けているのです
『五井昌久詩集純白』より
五井先生がここでおっしゃるように、気楽に光のエスカレーターに乗ることをお奨めして、本稿を締めます。
世界人類が平和でありますように






