ニュージーランド地震で多くの留学生が命を落とした、

富山の専門学校で卒業式が行われたそうだ。


奇跡的に助かった2名も参加したという。


彼らは今、何かを背負っているように見える。

生きることができた、未来への希望と、

亡くなった同志たちに対する罪悪感…

その二つを同時に背負っているように見える。


生き残った人々がこのような心境になるのは

めずらしいことではないようだ。


戦時中、各地に存在した強制収容所という名の

殺戮所から生還した人々の話を聞くと、

みな同じような心境に陥っていることがよくわかる。


そこまで悲惨な状況を、実際に体験したことがない私には

彼らのその心境を心底理解するということは難しいだろう…。


しかし、生き延びた人々が、生きているというその事実は

変わらない。罪悪感も感じるかもしれない。でも生きている。


生きている限り、彼らのその生には何らかの意味があるのだと信じたい。


そして同時に、亡くなった多くの人々の死に意味をもたらすことが

できるのは生き残ったその人たちに他ならないのだと信じたい。



そして、今回の大震災で生き残った私自身。

私も亡くなった人々の死を、意味あるものにできる人間の一人として

何かできることをしていきたい。


鬱々とした毎日が続くが、それを乗り越え、

少しでも良い未来を描いていきたい。

いま、私の周りでは町の復興に向けて

非常に多くの人々が「行動」を起こしている。


「なげいているだけでは始まらない」

「未来に向けて今できることをする」


ボランティアや救援活動、

他にも自らの会社を立て直し経済的に

貢献しようとする人々。


みな考えるだけではなく、「行動」を起こしている。


昔から、あらゆる心理学書やビジネス書において

「行動」というものの、すさまじいエネルギーや影響力が

幾度となく語られている。


確かに、行動と言うものが現実にあたえるインパクトは計り知れない。


行動する前と、行動した後では、必ず何かが変わっている。

行動は世界を変える力を持っている。



しかし、行動というエネルギーはいつもプラスに働くとは限らない。


行動したことによって、現状を悪化させてしまうことだってあり得るだろう。


つまり「行動の質」が問われるのだ。


私は非常に小さな会社を経営しているのだが、

この行動の質によって経営が良くも悪くも傾く

ことを痛いほど知っている。


経営だけではないだろう。

家族、恋人、友人などとの人間関係にも言えることだろうし、

日々の雑多な事柄にもこの行動の質は関係してくるだろう。


行動の質は、その対象やタイミング、その人のパーソナリティーなど

あらゆる要因が関連している。

だから、まったく同じ行動を取っても、いつも結果は異なる。


非凡な人は、そのあらゆる要因を見極め、自らの動くべき時を

冷静に判断し、高い確率で求めていた結果を得る。


彼らは待つことを知っている。

虎視眈々とその時が訪れるのを待ち、

見事なタイミングで一気にアクションを起こし結果を得る。


きっとあなたの周りにも、そのような非凡な人間がいるはずだ。


正直言うと、実にうらやましく思う。


私は、周囲の人々から、とても行動的だと言われる。

確かに、自分でもそのような特徴を持っていることは

前々からよくわかっていた。


しかし同時に、私の行動は先ほど例を挙げた非凡な方々のような

「見事なタイミング」のものではないことが多いように思う。


行動が早すぎたり、遅すぎたり、どうもタイミングが合わず

あとあと自分の足を引っ張ることが多いように思える。


一応、私なりにタイミングを見計らい、ここだと思うタイミングで

動き出しているつもりではあるのだが、満足のいく

結果につながることが少ない。


かと言って、何も行動せずにいることは、もっと恐い。


行動せずにいると、自分を取り巻く物事の結果が、

何か大きな流れによって、自分の意図しない方向に

勝手に持ってい行かれてしまいそうで恐ろしいのだ。


だから私は行動する。

行動して、物事がなるべく良い方向に進んでくれるように

最善の努力をしていたいのだ。


つまり、裏を返せば、待つことが怖い臆病者なのだ。


だから、その恐怖から逃れるために

駆り立てられるように行動せずにはいられない。




私は、今後の人生において、

「耐え忍ぶ」という美徳を学ばなければならないのだと思う。



被災者の一人として、多くの芸能人や、世界各国の

人々が募金などをはじめとして救援活動に参加して

くれている姿を見ると、本当に心が温かくなる。


以前はそういった行為にに対し、どこか偽善的で

嫌悪感を感じることもあったのだが、自分が被災者の

一人となり、それらの光景を目にすると、自然と

感謝の気持ちでいっぱいになる。


たとえそれが偽善であったとしても、その行い自体は

私たちにとって確実に善となるものだ。



このように日本だけではなく、世界の人々が

見知らぬ誰かを助けようとそれぞれのできることを

してくれている。


しかしその一方で、リビアでは軍事介入による

空爆で多数の人々が亡くなっている。


この二つの出来事は、きっと今の世界で最も

矛盾的な出来事に思える。


見知らぬ人に手を差し伸べる一方で、

見知らぬ人を殺している。



確かに、それらの軍事介入という行為の全てを

否定できるものではないのかもしれない。


それによって守られている人々がいることも確かではある。


しかし、私は思う。

いつか、いつの日か、武器による戦いがこの世界からなくなってほしいと。


過去の戦争についてはもう終わってしまった出来事だ。

いまさら過去を変えられるわけではない。


その戦争があったからこそ、今の世界があることも確かだ。

戦争によって得られた平和があることも間違いではないと思う。


しかし、もはや時代は変わったのではないだろうか?


武器による殺し合いで解決する方法は、もはや古典的で、

いまの人類にとってはそぐわないものだと思う。


産業の世界でも、芸術の世界でも、

次々と時代が変わり、日々進化を遂げている。

革新-イノベーション-が起きているのだ。

それは私たちの精神も同じことだと思う。


大義のために人々を殺めることが正義とされた時代が

あったことは紛れもない事実だ。


どの国も通ってきた道だろう。


しかし、現代という新しい時代においては、

それぞれの人々が人間としての平等の価値を持ち、

国や文化を超えて、みな同じ「人間」なのだという考えは

本当に多くに人々の心に根付いている。


もはや私たちは新しい精神的な時代を迎えている。


戦争ももはや変わるべきだ。


国や文化、歴史的背景が違えば、意見の相違が

生まれるのは当然である。


世界中すべての人々が同じ意見を持つなどあり得ないことだ。


だからこそ、これからも国同士の戦いは幾度となく繰り返されるだろう。


しかし、武器などによる殺し合いではなく、

もっと建設的な方法で行われるべきだと思うのだ。


争いはなくならない。絶対になくならない。


しかし、その争い方を改める時代がきているのだと信じたい。