スチュアート・アダムソン(Stuart Adamson/出生名:William Stuart Adamson/ 1958年4月11日~2001年12月16日)は、イギリスのミュージシャン。

 

 

 

1958年4月11日、ウィリアム・スチュアート・アダムソンが生まれる。英国イングランドのマンチェスター(Manchester)出身。両親はスコットランド人であり、ともに民族音楽に関心を持っていた。

 

4歳の時、アダムソン一家はスコットランドに移住、エジンバラのダンファームリン(Dunfermline)から東に約1マイル離れたクロスゲイツ(Crossgates)という小さな鉱山村に居を構えた。

 

12歳の時、カントリー・ミュージックを好んだ両親の影響を受け、また、レッドツェッペリンのライヴに感化されたアダムソンは、ギターを買ってもらう。

なお、父親は漁業会社の重役で世界中を旅しており、息子のアダムソンに文学を読むよう勧めた。

 

 

アダムソンはビース高校で正式な教育を受けた。

 

 

1970年代半ば、パンク・ロック・ムーブメントの渦中にあったイギリスでアダムソンはロック音楽に興味を持った。


1976年、アダムソンは、ザ・ダムド(The Damned)のライヴをエディンバラで観て影響を受け、最初のバンド「Tatoo」をダンファームリンで結成。バンドには友人のウィリアム・シンプソンも参加しており、彼は次のバンドであるザ・スキッズでもベースギターを演奏し、地元地域とエディンバラで演奏を始めた。


1977年、18歳の時、ヴォーカリストのリチャード・ジョブソンを迎え、バンド「ザ・スキッズ」(The Skids)を改めて結成。この時のラインナップは、リチャード・ジョブソン(Richard Jobson/ Vo)、スキッズから引き続きウィリアム・シンプソン(William Simpson/B)、トーマス・ケリハン(Thomas Kellichan/Ds)、そしてスチュアート・アダムソン(Stuart Adamson/G)の4名。

 

 

1978年、シングル"Sweet Suburbia"をリリースしてデビュー、全英70位に達した。

 

 

1979年2月23日、1stアルバム『スケアード・トゥ・ダンス』(Scared to Dance)を発売、全英19位。本アルバムは日本でも、当時『恐怖のダンス』の邦題で発売された。ここからは、"Into the Valley"が全英10位・アイルランド15位をマークした。

 

 

デビュー・アルバムを発表後、すぐにケリハンが脱退。

同年、シングル"Masquerade"をリリース、全英14位・アイルランド6位を記録した。

 

10月12日、2ndアルバム『デイズ・イン・ヨーロッパ』(Days in Europa)をリリース、全英32位。ドラムはゲストとしてラスティ・イーガンが担当した。ここからは、"Charade"が全英31位、"Working for the Yankee Dollar"が全英20位、 "Animation"が全英56位をマークした。

 

 

 

2ndアルバム発表後、シンプソンまで脱退してしまう。

 

 

1980年、新たにマイク・ベイリー(Ds)と、ラッセル・ウェッブ(B)が加入。

9月19日、3rdアルバム『アブソルート・ゲーム』(The Absolute Game)を発表。全英9位という大ヒット作品となった。ここからは、"Circus Games"が全英32位、 "Goodbye Civilian"が全英52位、"Woman in Winter"が全英49位に入った。

 

 

 

 

だが、3rdアルバム発表後、すぐにベイリーが脱退。

また、スチュアート・アダムソンは音楽的な意見の違いでリチャード・ジョブソンともめていた。それが原因でアダムソンもバンドを去ることになる。

 

 

1981年、ジョブソンとの方向性の問題でスキッズを脱退したスチュアート・アダムソン(Vo,G)は、古くからの友人ブルース・ワトソン(G)と、ピート、アランのウィシャート兄弟とともに「ランリグ」を結成。ザ・スキッズではリードギターだったアダムソンだが、ここではヴォーカル兼ギターを担当した。

その後、ウィシャート兄弟が脱退し、元オン・ジ・エアーのトニー・バトラー(B)と、マーク・ブレゼジッキー(Ds)が加入、バンド名を「ビッグ・カントリー」(Big Country)に決定した。

バンドはアリス・クーパーの前座などを務める。

叙情的な歌詞は、スコットランドの英雄詩人ロバート・バーンズに継ぐとも評された。また、サウンド面ではスコットランドのバグパイプの音をギターで出すなどの、特色のある音作りを見せた。

 

 

1982年、クリス・トーマスをプロデューサーに迎え、デビュー・シングル“ハーヴェスト・ホーム”(Harvest Home)を発売したが、全英82位と不発に終わる。そのため同じくトーマスのプロデュースで進めていたアルバムのレコーディングを中断し、プロデューサーをスティーヴ・リリーホワイトに代えてレコーディングを再開した。

 

同年、最初の妻サンドラとの間に長男カラム・アダムソンをもうける。彼は後にミュージシャンになり、バンド「エイハブ」のギタリストとなる。

 

 

1983年2月18日、リリーホワイトのプロデュースにより2ndシングル“フィールズ・オブ・ファイヤー”(Fields of Fire [400 Miles])をリリース。全英10位・全米52位をマークした。

 

5月20日、3rdシングル“インナ・ビッグ・カントリー”(In a Big Country)をリリース、全米17位・全英17位、米音楽誌『ビルボード』の「メインストリーム・ロック」チャート(以下「メインロック」)では3位という好記録を残した。本曲は日本でも大ヒットし、当時柳ジョージがカヴァーした。

 

7月29日、1stアルバム『インナ・ビッグ・カントリー』(The Crossing)を発売、全英3位・全米18位にランク・インするなど、早くも人気バンドになった。

 

8月29日、デビュー・アルバムから4枚目かつ最後のシングル"Chance"をリカット、全英9位をマークした。

 

 

1984年1月、EP『ワンダーランド』(Wonderland)をMercuryから発表、全米65位。タイトル・トラック“ワンダーランド”(Wonderland)が全英8位・全米86位になった。

 

10月19日、2ndアルバム『スティールタウン~ビッグ・カントリーⅡ』(Steeltown)を発表。初の全英1位を獲得する大ヒットとなったが、全米70位と米国では商業的成功は叶わなかった。ここからは、"East of Eden"が全英17位、"Where the Rose Is Sown"が全英29位、“Just a Shadow"が全英26位に入った。

 

 

 

 

同年、初来日公演を行った。

 

 

1985年、サンドラとの間に2人目となる娘のキルステンが誕生、彼女も後に音楽の道に進み、ソロで活動する。

 

 

1986年4月4日、次のアルバムからのリード・シングル"Look Away"を発表、全英7位をはじめ、アイルランドでは1位、メインロック5位を記録した。

 

6月13日、リード・シングル第二弾"The Teacher"を発表、全英28位。

 

6月30日、ロビン・ミラーのプロデュースによる3rdアルバム『ザ・シーア』(The Seer)を発表。タイトル・トラックにケイト・ブッシュ(Kate Bush、CBE/ 1958年7月30日~)が参加する等ゲストを迎えて制作した本アルバムは全英2位に入ったが、米国市場では全米59位とまたも振るわなかった。ここからは他に、"One Great Thing"が全英19位、"Hold the Heart"が全英55位になった。

 

 

 

 

1988年、オーストリア人ピーター・ウルフをプロデューサーに迎えた4thアルバム『ピース・イン・アワー・タイム』(Peace In Our Time)を発売、全英9位。それまでのアルバムとは異なり、前作でセールスが不振だった米国市場を強く意識した内容となっているが、結果は全米160位に終わった。本アルバムからは“キング・オブ・エモーション”(King of Emotion)が全英16位・メインロック20位、 "Broken Heart (Thirteen Valleys)"が全英47位、"Peace in Our Time"が全英39位を記録した。

 

 

 

 

 

1990年、ドラマーのマーク・ブレゼジッキーが脱退。しかし、全英41位になった“セイヴ・ミー”(Save Me)、全英50位に入った“ハート・オブ・ザ・ワールド”(Heart of the World)という2枚のシングルを発表して健在ぶりをアピールした。

 

 

5月、初のベスト・アルバム『スルー・ア・ビッグ・カントリー・グレイテスト・ヒッツ』(Through A Big Country Greatest Hits)をリリースし、全英2位に達した。

 

9月16日、5thアルバム『ノー・プレイス・ライク・ホーム』(No Place Like Home) をリリース。前作のアメリカン・サウンドと初期のケルト風サウンドをうまく融合させた作品となり、全英28位をマークした。ここからは、"Republican Party Reptile"が全英37位、"Beautiful People"が全英72位になった。

 

 

 

 

1993年3月22日、6thアルバム『バッファロー・スキナーズ』(The Buffalo Skinners)を発表、全英25位を記録した。本作ではアディショナル・ドラマーとして、腕利きセッション・ミュージシャンのサイモン・フィリップス(Simon Phillips/ 1957年2月6日-)がゲスト参加。ここからは、"Alone"が全英24位、"Ships (Where Were You)"が全英29位になった他、"The One I Love" がオルタナ17位・メインロック34位に入った。

 

 

 

 

 

1995年、マーク・ブレゼジッキーが復帰。

6月12日、7thアルバム『ホワイ・ザ・ロング・フェイス?』(Why the Long Face)を発表、全英48位。ここからは、"I'm Not Ashamed"が全英69位、 "You Dreamer"が全英68位になった。

 

 

 

1996年、アダムソンはサンドラと別れ、米国テネシー州ナッシュビルに移住した。

 


1999年、アダムソンはナッシュビルで美容師のメラニー・シェリーと2度目の結婚。

同年、バンドは元フェアーグラウンド・アトラクション(Fairground Attraction)のエディ・リーダー(Eddi Reader)と共演し、シングル“Fragile Things”を発表。全英69位をマークした。

 

同年、東京国際映画祭に出品されたコメディ映画『おかしなバスジャック』のサウンドトラックも担当。

9月27日、8thアルバム『ドライヴィング・トゥ・ダマスカス』(Driving to Damascus)を発売。しかし全英82位とチャートでは過去最低を記録するなど苦戦し、シングルも、先の"Fragile Thing"の他、両A面の "See You/Perfect World"が全英77位、"Somebody Else"が全英126位に止まる。この結果にアダムソンは失望する。

 

 

 

同年暮れ、アダムソンは休息が必要だとして公の場から姿を消す。

 

 

2000年、アダムソンも復帰してフェアウェル・ツアーを敢行した。

5月31日、グラスゴーのバローランド・ボールルームでの満員コンサートで最高潮に達した。

10月、マレーシアのクアラルンプールで結果的に最後のライヴとなった公演を開催。

結局、グループは解散。ブルース・ワトソンとマーク・ブレゼジッキーはカスバ・クラブに加入。トニー・バトラーはソロ活動に入る。


2001年、ビッグ・カントリー解散後、アダムソンは地元ナッシュビルのソングライターであるマーカス・ハモン(Marcus Hummon)とのデュオで、最後のバンドとなるオルタナティブ・カントリー・バンド「ザ・ラファエルズ」(The Raphaels)を結成。アルバムを一枚出している。

 

だが、音楽面や私生活での諸問題が続いていて、アダムソンは追い詰められていた。

11月26日、アダムソンは再び失踪し、それを知った別居中の妻メラニーが通報した。そしてメラニーはアダムソンが失踪したその日に離婚を申請した。アダムソンは翌2002年3月に飲酒運転の罪で起訴される予定であり、アルコホーリクス・アノニマス(AA)への出席を命じられていた。彼は以前にもアルコール依存症に関連した問題を経験しており、10年以上禁酒していた後に再び飲酒を始めていた。

 

 

 


2001年12月16日、ウィリアム・スチュアート・アダムソンは、アメリカ合衆国ハワイ州ホノルルのベストウエスタンプラザ・ホテルの部屋で首を吊った状態で発見された。43歳没。司法解剖の結果は窒息死であった。その後の検視局の報告書では、彼が死亡前後に「非常に強い」量のアルコールを摂取していたことが判明した。

 

 

 

 

彼の遺体は故郷スコットランドに飛行機で戻り、ファイフのダンファームリン火葬場で密葬が行われた後、火葬された。
2001年12月27日夕方、ダンファームリンのカーネギーホールで彼の生涯とキャリアを祝う公開追悼式が開催され、リチャード・ジョブソンの他、アダムソンの家族や友人、ビッグ・カントリーの元メンバーなど数百人の弔問客が参列した。哀悼のメッセージが公に読み上げられ、その中にはU2のジ・エッジからのメッセージも含まれており、ビッグ・カントリーのアダムソンがU2に書いてほしかった曲を書いたと述べた。

アダムソンの死後、彼の財産をめぐる法的紛争がアダムソンの二人の元妻、サンドラとメラニーの間で起こった。

 

 

2002年1月、アダムソン・メモリアル・コンサートがダンファームリンのカーネギー・ホールで開催された。

5月、バロウランドでトリビュート・コンサートが開催。このコンサートにはビッグ・カントリーとザ・スキッズのメンバー、アダムソンの2人の子ども、スティーブ・ハーレー、ランリグのメンバー、サイモン・タウンゼント、ミッジ・ユーロ、ビル・ネルソンらが参加した。

 

 

2007年、ビッグ・カントリーがアダムソンを除くオリジナル・メンバー3人で再結成。

 

 

2009年4月、アダムソンの壁画が、彼が生前ファンだったダンファームリン・アスレティック・フットボール・クラブ(Dunfermline Athletic Football Club)の本拠地イースト・エンド・パーク(East End Park)北スタンドの壁で除幕。壁画は地元のクイーン・アン高校とダンファームリン高校の美術学生により描かれ、会場を飾った。

 

 

2011年9月、ダンファームリンのピッテンクリーフ・パークでアダムソンの記念ベンチが除幕された。ファンの寄付によって建立されたこのベンチには、ファンのオンライン投票で選ばれたアダムソンの歌詞の一部が刻まれている。
 

 

2013年9月、マニック・ストリート・プリーチャーズはアダムソンにインスピレーションを得た“3 Ways To See Despair”という曲を収録したアルバム『Rewind the Film』をリリースした。


2021年にオープンしたクロスゲイツ(Crossgates)の住宅開発は「スチュアート・アダムソン・クレセント」(Stuart Adamson Crescent)と名付けられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「スチュアート・アダムソン」「Stuart Adamson」「ザ・スキッズ」「Skids (band)」「ビッグ・カントリー」「Big Country」

 

 

 

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