サム・クック(Sam Cooke/出生名:Samuel Cook/1931年1月22日~1964年12月11日)は、アメリカ合衆国のソウル歌手、ゴスペル歌手、ミュージシャン。

 

 

 

1931年1月22日、サミュエル・クックは、アメリカ合衆国ミシシッピ州クラークスデイルで、キリスト教(ホーリネス)教会のバプテスト牧師であるチャールズ・クック牧師と元アニー・メイ・キャロルの8人の子どものうちの5番目として生まれた。

彼の弟の一人、L.C. (1932–2017)は、後にドゥーワップ バンド「ジョニー・キーズ・アンド・ザ・マグニフィセンツ」(Johnny Keyes and the Magnificents)のメンバーになった。

クックはバプテスト教徒として育てられ、幼い頃から聖歌隊で歌う。

 

 

1950年、19歳の時にクックはゴスペル・グループ「ソウル・スターラーズ」(The Soul Stirrers)のリード・ヴォーカルとなり、端正なルックスでゴスペル界ではアイドル的人気を博した。

ソウル・スターラーズ時代には、先輩のRHハリスや、センセーショナル・ナイチンゲールズのジュリアス・チークスらに影響を受けた。

クック加入後の初期のシングルのひとつが“ジーザス・ガヴ・ミー・ウォーター” (Jesus Gave Me Water)で、ソウル・スターラーズに称賛をもたらした大ヒットとなった。


1957年にソロ歌手としてR&Bに転向した。この時、人生の新たなスタートを意味するために、生まれ受けた姓「Cook」に「e」を加え、「Cooke」とした。 

同年、シングル“ユー・センド・ミー”(You Send Me)が全米1位・R&B1位・全英29位の大ヒットになった。

 

同年、続く"I'll Come Running Back to You"が全米18位・R&B1位・全英23位、"(I Love You) For Sentimental Reasons"が全米17位・R&B15位を記録。

 

 

これをきっかけにクックはR&B界で数々のヒットを飛ばし、発展目覚ましかったソウル/R&B界のスターとなる。それまでの黒人歌手のスタイルとは一線を画した洗練された音楽性で、声の良さと歌唱力もさることながら、「クック調」と呼ばれる鼻にかかった歌い方は白人にも高く評価され、後世に大きな影響を与えた。


1958年には、マネージャーのJ.W.アレクサンダーとともに音楽出版社を設立。後にはSARレコードを設立する。R&Bが流行した当時、アフリカ系アメリカ人のアーティストは曲を作っても満足な対価を得られず、白人の会社に「搾取」されるのが通例だった中にあって、自らの著作権を管理するのは画期的なことであった。

2月、セルフ・タイトルのアルバム『Sam Cooke』をリリース、ヒット曲“ユー・センド・ミー”を収録し、全米16位をマークした。

 

同年、"You Were Made for Me"が全米27位・R&B7位、"Lonely Island"が全米26位・R&B10位、"Win Your Love for Me"が全米22位・R&B4位、"Love You Most of All"が全米26位・R&B12位を記録した。

 

 

 

 

 

1959年、"Everybody Loves to Cha Cha Cha"が全米31位・R&B2位、"Only Sixteen"が全米28位・R&B13位・全英23位を記録した。

 

 

同年、キーン・レコードを離れる。

 

 

1960年にRCAビクターと契約するも、キーン・レコード時代に録音し未発表だった『ワンダフル・ワールド』(The Wonderful World of Sam Cooke)が同レーベルから発売されヒットする。

 

同年、“チェイン・ギャング”(Chain Gang)が全米2位・R&B2位・全英9位をマークする大ヒットになった。

 

同年、"Wonderful World"が全米12位・R&B2位・全英27位、"Sad Mood"が全米29位・R&B23位をマーク。

 

 

 

1961年、"That's It, I Quit, I'm Movin' On"が全米31位・R&B25位、"Cupid"が全米17位・R&B20位・全英7位をマーク。

 

 


1962年8月、コンピレーション・アルバム『The Best of Sam Cooke』をRCA Victorからリリース、全米22位、BPIシルバーを獲得。

同年、“ツイストで踊りあかそう”(Twistin' the Night Away)が全米9位・R&B1位・全英6位になったのをはじめ、“Bring It On Home to Me"が全米13位・R&B2位、"Having a Party"が全米17位・R&B4位、"Nothing Can Change This Love"が全米12位・R&B2位、"Somebody Have Mercy"が全米70位・R&B3位、"Send Me Some Lovin'"が全米13位・R&B2位と、ヒットが続いた。

 

 

 

 

 

 

 

1963年、“こんどの土曜に恋人を”(Another Saturday Night)が全米10位・R&B1位・全英23位になった他、"Frankie and Johnny"が全米14位・R&B4位・全英30位、 "Little Red Rooster"が全米11位・R&B7位をマークした。

 

 

 

 

この頃、黒人の権利に対する意識が高かったクックは、公民権運動にも積極的な関わりを持ち、マルコムXやモハメド・アリとも親交を深める。

 

 

1964年、"Good News"が全米11位、"Good Times"が全米11位、"Tennessee Waltz"が全米35位になった。

 

 

 

3月1日、アルバム『Ain't That Good News』をRCA Victorからリリース、全米34位。

 

10月、ライヴ・アルバム『Sam Cooke at the Copa』をリリース、全米29位・R&B1位。

 

 

 


1964年12月11日、クックはロサンゼルスのハリウッドにある酒場で知り合った女性を「別の店へ行こう」と誘い出し、そのままイタリア製の高級スポーツカーでサウスセントラル地区にあるモーテルにチェックインした。酒場ではなくモーテルに入った事に驚いた女性はクックがシャワーを浴びている間に、追われないようにと服を隠した上で部屋を飛び出した。シャワーから出たクックは居なくなった女性を探すため、全裸にジャケットと靴だけを身につけてモーテルの管理人室へ押しかけた。この時クックは泥酔した状態で、管理人の女性に掴みかかるなど激しい剣幕であったため、身の危険を感じた管理人が発砲、クックは胸部に被弾して死亡した。33歳没。

 

 

その後の裁判では正当防衛と認定され、管理人は無罪となったが、クックの死をめぐっては後に多くの疑問が呈された。

 

 

1965年1月、死後にスタジオ・アルバム『Shake』がRCA Victorからリリースされ、全米44位・R&B1位をマークした。ここからの最大のヒット・ナンバーは、全米7位・R&B 2位になった“シェイク”(Shake)だった。同シングルB面の“ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム”(A Change Is Gonna Come)は、ボブ・ディラン(Bob Dylan/ 1941年5月24日-)の“風に吹かれて”(Blowin' in the Wind)に影響を受けて生まれた、人種平等社会が訪れることへの期待を込めたメッセージソングで、全米31位・R&B9位・BPIゴールドを獲得した。

 

 

 

1986年2月、コンピレーション・アルバム『The Man and His Music』をリリース、全英8位、BPIゴールドを獲得。

 

 

2003年6月17日、コンピレーション・アルバム『Portrait of a Legend: 1951–1964』がABKCOからリリース、全英19位・BPIプラチナを獲得した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「サム・クック」「Sam Cooke

 

 

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