オーティス・レディング(Otis Redding/1941年9月9日~1967年12月10日)は、

アメリカ合衆国のミュージシャン。

 

 

1941年9月9日、ジョージア州ドーソンに生まれた。

その後、リトル・リチャードの故郷でもあり、JBが1950年代半ばに一気に名を上げるきっかけともなった街メイコンで育った。両者は10代のオーティスに強烈な影響を与え、学校のバンドでドラムを叩いたり、教会で歌ったりする少年時代を過ごした。この頃には、数々のタレント・コンテストにも出場、優勝を一人占めしたという。

 

1958年には、メイコンのダグラス・シアターで行なわれたTVショウ『Teemage Party』に出演、そこでリトル・リチャードの“ヒービー・ジービーズ”を物真似したオーティスは観客の大きな喝采を浴びた。また、この時期はオーティスにとって大変意義深い出会いを果たした頃でもあり、未来の妻となるゼルマ、後のマネージャーともなるフィル・ウォルデン、そして売れっ子ブルース・ギタリスト、ジョニー・ジェンキンス達である。

1960年、そのジョニーのツアー・バンドに加わり活動を始めたオーティスが、同バンドでの初めてのレコーディングを行い、プロのミュージシャンとしてのキャリアをスタートさせる。

 

その後、オーティスはスタックス(Stax)の傘下のヴォルト(Volt)レーベルとソロ契約を締結。

1963年3月、ソロ・デビュー・シングル“ジーズ・アームズ・オブ・マイン”(These Arms Of Mine)をリリース、R&Bチャートで最高20位、Billboard Hot 100で85位を記録するヒットとなり、

注目を集める。

 

続く“That's What My Heart Needs”や、代表作のひとつともなった“Pain In My Heart”で

その人気を決定付けた。

 

同年、アポロ・シアターで公演。ドリフターズやルーファス・トーマス、ベン・E・キングといった

当時のスター達をその圧倒的パフォーマンスで驚かせたという逸話も残っている。

 

1964年スタックス傘下のヴォルトからアルバム『ペイン・イン・マイ・ハート』(Pain in My Heart)を発表、アメリカ国内でアトランティック・レコードのもとで全国流通を果たし、全米103位、

全英28位を記録。

 

同年リリースされたシングル“セキュリティ”(Security)をはじめ、“Come To Me”、

“Chained And Bound”はいずれも大きなヒットには結び付かなかったが、

ブッカー・T&ザ・MG'sのギタリスト、スティーヴ・クロッパーと共同制作した

“ミスター・ピティフル”(Mr.Pitiful)がR&Bシングル・チャート最高位10位、

Billboard Hot 100で41位となるヒットとなった。

 

1965年発表のアルバム『ソウル・バラードを歌う』(The Great Otis Redding Sings Soul Ballad)でジェリー・バトラーの“For Your Precioius Love”をカヴァーした。

アルバム自体は全米147 居、全英30位と商業的には今一つだった。

このカヴァーが縁となって生まれたのが、生前のオーティスにとって最高のヒットとなる

“I've Been Loving You Too Long”である。

 

後にアレサ・フランクリンがカヴァーしてナンバー1ヒットとなる“リスペクト”(Respect)を

発表したのもこの年である。

 

同年、アルバム『オーティス・ブルー』(Otis Blue: Otis Redding Sings Soul)をリリース。

全米75、全英では初のトップ10入りとなる6位を記録。

 

11月、オーティスが作詞作曲した“お前をはなさない”(I Can't Turn You Loose)をリリース。シングル“Just One More Day”のB面だったが、ビルボードのR&Bチャートで11位を記録した。

 

1966年、『ソウル・アルバム』(The Soul Album)をリリース。全米54位、全英22位を記録。

同年、ローリング・ストーンズのヒット曲“サティスファクション”(Satisfaction)をカヴァーし、R&Bチャート最高4位を記録。

 

 

同年10月15日に発表された5枚目のオリジナルアルバム『ソウル辞典』(The Dictionary Of Soul)も全米73位、全英23位とヒットした。このアルバムには、代表曲“マイ・ラヴァ-ズ・プレイヤー”(My Lover's Prayer)、“ファ・ファ・ファ”(Fa-Fa-Fa-Fa-Fa[Sad Song])、“トライ・ア・リトル・テンダネス”(Try A Lttle Tenderness)が収録されている。

 

1967年、カーラ・トーマス(Carla Thomas)とのデュエット“Tramp”とシングル“I Love You More Than Words Can Say”がチャートを賑わせている頃、オーティスはヨーロッパでのツアーを成功させていた。

6月にはモンターレー・ポップ・フェスティヴァルに出演、多くの白人オーディエンスに唯一無比のブラック・エンタテイメントを披露し以後人気は急上昇する。

しかし、サム・クックのカヴァー“シェイク”(Shake)、ベニー・グッドマンのカヴァー“グローリー・オブ・ラヴ”(Glory Of Love)のヒットを経て、結果的に生前最後のシングルとなった“"Knock on Wood”をリリースし、これから絶頂期を迎えようとしている時に悲劇は起こった。

 

1967年12月10日、日曜日。オーティスとツアー・バンド「バーケイズ」のメンバー5人、マネージャー及びパイロットの8名が乗った双発機「ビーチクラフト モデル 18」は、クラブ・ショウ出演のため、クリーヴランドからウィスコンシン州マディソンへ向かった。午後3時半を回った頃、機はマディソン付近で着陸体勢に入るが、回りは深い霧に包まれ、滑走路を見失ってしまったパイロットはそのままアノマ湖を覆う鈍色の氷上へ進み、機体は氷を突き破って沈没、トランペットのベン・コーリーを除く7人が死亡した。こうして不世出のソウル・マン、オーティス・レディングは、26歳という若さでその余りに短い生涯の幕を閉じた。

 

同12月、オーティスの死後、この年のヨーロッパツアーの熱狂を記録した

ライヴアルバム『Live In Europe』がリリースされた。全米32位、全英14位。

 

1968年1月8日、オーティスが死の僅か3日前にメンフィスで録音を終えていた遺作

“ドッグ・オブ・ザ・ベイ”([Sittin' On]The Dog Of The Bay)がリリース。

同年3月16日に週間ランキング第1位を獲得し、オーティスにとって初の、そして唯一の

ビルボード誌週間ランキング第1位の曲となった。

それまでの曲調とは違うため、スタックス側やベーシストのドナルド・ダック・ダンは

戸惑っていたが、オーティス本人がレコーディング中からシングル化を望んでおり、

「俺の初めてのナンバー・ワン・ソングになるぜ」と語っていたという。

プロデューサーで名ギタリストでもあるスティーヴ・クロッパーとの共作である同曲は、

それまでのオーティスとは趣を異にするバラードだったが、

全世界で彼の死を惜しむ声とともに多くの人に愛聴されている。

2月23日、同曲をはじめ、アルバム未収録だったシングル・ヒット曲やシングルB面曲を中心としたコンピレーションアルバム『ドッグ・オブ・ザ・ベイ』(The Dock of the Bay)をリリース。

全米4位、全英1位を記録。

同じ年、『History of Otis Redding』がリリースされ、全米9位、全英2位を記録した。

 

 
 
 

オーティスの作品リリースはその後再発も含めて続き、

シングルでは1968年“Amen / Hard to Handle”、

“The Happy Song (Dum-dum) / Open the Door”

1969年“Love Man / Can't Turn You Loose”などがリリースされた。

 

また、アルバムも、ベスト盤を除いても

1968年、『The Immortal Otis Redding』全米58位、全英19位、

同年、『In Person at the Whiskey A Go-Go』全米82位、

1969年、『Love Man』全米46位、

1971年、「Live at the Monterey International Pop Festival」全米16位

などがリリース、その多くが米英でチャートに顔を出している。

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「オーティス・レディング」

HMV&BOOKS online 「Otis Redding (オーティス・レディング) プロフィール」

https://www.hmv.co.jp/artist_Otis-Redding_000000000005444/biography/