ドナルド・フェイゲン(Donald Fagen/本名:Donald Jay Fagen/1948年1月10日~)は、アメリカ合衆国のシンガーソングライター、キーボーディスト。バンド「スティーリー・ダン」の創設者。

 

 

 

1948年1月10日、ドナルド・ジェイ・フェイゲンは、アメリカ合衆国ニュージャージー州パサイク郡(Passaic County, New Jersey)で、会計士ジョセフ・“ジェリー”・フェイゲンを父親に、ニューヨーク州北部のキャッツキルでスイング歌手だった主婦エリノアを母に、ユダヤ人夫婦の間に生まれた。

 

幼少期、彼の家族はパサイク近くの小さな町フェアローンに引っ越した。 

 

10歳の時、両親と妹とともに、ニュージャージー州サウスブランズウィックの郊外に新しく建設されたケンダル・パークに引っ越した。転居に伴う環境の変化はフェイゲンを動揺させた。彼は郊外に住むことを嫌っていた。フェイゲンは後に、「まるで刑務所のようだった。(両親の)判断を信じることができなくなったと思う…自分には自分の人生観があることに初めて気づいたのかもしれない」と振り返った。

 

10代の頃の深夜ラジオへの愛情を育てたケンダル・パークでの生活は、後のアルバム『ナイトフライ』にインスピレーションを与えた。

1950年代後半、フェイゲンはロックとリズム・アンド・ブルーズ (R&B) に興味を持ち始めた。彼が最初に買ったレコードは、チャック・ベリー(Chuck Berry/1926年10月18日-2017年3月18日) の "Reelin' and Rockin'" だった。

 

11歳の時、従妹のバーバラ・コーエンからジャズ音楽を勧められたフェイゲンは、ニューポート・ジャズ・フェスティバルに行き、彼が言うところの「ジャズ・スノッブ」になった。「ロックンロールへの興味を失い、反社会的な性格になり始めた」。 

 

1960年代初頭、12歳からヴィレッジ・ヴァンガードによく通い、そこで特にアール・ハインズ、ウィリー・"ザ・ライオン"・スミス、ビル・エヴァンスに感銘を受けた。 彼は定期的にバスに乗ってマンハッタンに行き、ジャズ・ミュージシャンのチャールズ・ミンガス、ソニー・ローリンズ、セロニアス・モンク、マイルス・デイヴィスの演奏を鑑賞した。

彼はピアノを習い、高校のマーチングバンドではバリトンホルンを演奏した。 彼は生涯を通じて卓球に熱中した。

 

10代後半、フェイゲンはソウルミュージック、ファンク、モータウン、特にスライ&ザ・ファミリー・ストーンに惹かれた。彼はまた、ボズウェル・シスターズ、ヘンリー・マンシーニ、レイ・チャールズへの賞賛を表明している。

1965年、サウスブランズウィック高校を卒業後、英文学を学ぶためにニューヨークのバード・カレッジに入学する。

 

1967年、バード・カレッジ在学中にフェイゲンは、コーヒーハウスでウォルター・ベッカーと邂逅。ベッカーとフェイゲンは、後に俳優となるチェビー・チェイスを含む様々なミュージシャンたちと次々交流を持ち、「レザー・カナリー」、「ドン・フェイゲン・ジャズ・トリオ」、「バッド・ロック・バンド」を結成。これに伴いフェイゲンとベッカーは共同で曲作りを始める。

どのグループも長続きしなかったが、フェイゲンとベッカーのパートナーシップは途切れることはなかった。デュオの初期のキャリアには、ジェイ&ジ・アメリカンズとの仕事が含まれており、そのために彼らは偽名を使用していました。

 

 

1970年代初頭、カレッジを卒業したフェイゲンと中退したベッカーは、ABC/ダンヒル・レコードでポップソングライターとして働く。だが仕事には恵まれず、ジェイ&ジ・アメリカンズ(Jay & The Americans)のバックミュージシャン等で糊口を凌いだ。

この頃に作られたデモテープは、後に「ベッカー&フェイゲン」名義の作品集としてレコード、CD化されている。

 

 

1972年、ようやくABCレコードのプロデューサーのゲイリー・カッツに才能を見出された2人はロサンゼルスに移住、バンドとしてレコード・デビューするために旧知のミュージシャンを呼び寄せ、「スティーリー・ダン」(Steely Dan)を結成した。バンド名は、ウィリアム・S・バロウズの小説『裸のランチ』に登場する男性器の張型「Steely Dan III from Yokohama」に由来する。

フェイゲンとベッカーはこのバンドの中心メンバーであり、共同で作曲を行った。ツアーやレコーディングでフェイゲンはキーボード演奏を担当し、またレコーディング曲ほぼ全てのリードヴォーカルも担当。印象的なコード転調などが彼らの楽曲の主な特徴である。

同年、シングル"Dallas"でスティーリー・ダンの一員としてデビュー。

 

同年、ラテンの影響を受けた“ドゥ・イット・アゲイン”(Do It Again)が全米6位・全英39位と初のヒットとなる。

 

11月、1stアルバム『キャント・バイ・ア・スリル』(Can't Buy A Thrill)をABCから発売、全米17位。ここからは他に、"Reelin' In the Years"が全米11位に入った。

 

 

1973年7月、2ndアルバム『エクスタシー』(Countdown To Ecstasy)をリリース、全米35位。ここからの主なシングルは、"Show Biz Kids"が全米61位、"My Old School"が全米63位に達した。

 

 

3枚目のアルバム制作の頃から、演奏者にもより高いレベルの演奏を要求するようになったため、腕の良いスタジオミュージシャンを呼んで演奏をさせることが多くなり、オリジナル・メンバーの出番が次第に減少。それはフェイゲン、ベッカー自身にも当てはまり、彼らも演奏に参加しなくなる曲も増えていた。ツアーもやめることで、2人以外の人間の仕事は余計なくなっていった。ただし、2人はすぐに他のメンバーをクビにした訳ではなく、アルバムでほとんどプレイしていないメンバーも、その後の活動の準備が整った段階で自ら脱退を決めてもらうようにしていた。

 


1974年2月20日、3rdアルバム『プレッツェル・ロジック』(Pretzel Logic) を発表。旧邦題『プリッツェル・ロジック (さわやか革命)』。全米8位。ここからのシングル“リキの電話番号”(Rikki Don't Lose That Number)は全米4位・カナダ3位になった北米だけでなく、日本でもヒット。また、タイトル・トラック"Pretzel Logic"が全米57位に達した。

 

 

 

本アルバムのリリース後、他のメンバーはバンドを離脱、スティーリー・ダンはフェイゲンとベッカーが率いるスタジオ・プロジェクトに変化した。この時に離脱したメンバーの中には、ジェフ・バクスター (Jeff "Skunk" Baxter) 、マイケル・マクドナルド(Michael McDonald) 、ジェフ・ポーカロ (Jeff Porcaro)らがいた。

これ以降、アメリカのジャズ、R&B、クロスオーバー、ロックのスタジオ・ミュージシャンの精鋭を集めて行うレコーディングが主要な活動となる。

 

 

1975年、4thアルバム『うそつきケイティ』(Katy Lied)をリリース、全米13位。ここからは、"Black Friday"が全米37位になった。

 

 

 

1976年、5thアルバム『幻想の摩天楼』(The Royal Scam)をリリース、全米15位。ここからは、"The Fez"が全米59位、"Kid Charlemagne"が全米82位に入った。

 

 

 

1977年9月23日、6thアルバム『彩(エイジャ)』(Aja)が全米3位・全英4位をマーク、プラチナディスクに認定される大成功を収めた。同アルバムからは“ペグ”(Peg)が全米11位、“ディーコン・ブルース”(Deacon Blues)が全米19位、"Josie"が全米26位とヒットした。

 

 

 

 

1980年、7thアルバム『ガウチョ』(Gaucho)をリリース、全米9位。ここからは、"Hey Nineteen"が全米10位、"Time Out of Mind"が全米22位を記録した。

 

 

 

 

1981年、スティーリー・ダンが解散。

 

 

1982年10月1日、ドナルド・フェイゲンは初のソロ・アルバム『ナイトフライ』(The Nightfly)を発表、全米11位・全英44位に達し、スティーリー・ダン時代の作品に匹敵する評価を得た。同アルバムは3M製32トラックのデジタル・マルチトラックレコーダーを使用した音響面のクオリティの高さも絶賛され、一時期はPAエンジニアのサウンド・チェックの定番となっていた程「音のいいアルバム」といわれていた。アルバムからはレゲエ調の“I.G.Y.”が全米26位とヒットした。

 

 

 


彼は音楽雑誌に寄稿したことがあり、ヘンリー・マンシーニやエンニオ・モリコーネの機知に富んだ作品などについて論評している。

1980年代、フェイゲンは映画や多くの他のアーティストのための作曲や、「ニューヨーク・ロック・アンド・ソウル・レビュー」(The New York Rock and Soul Revue)に参加してのツアー活動などを行った。

 

 

1993年5月25日、フェイゲンの2ndソロ・アルバム『カマキリアド』(Kamakiriad)はベッカーによってプロデュースされ、全米10位・全英3位と、前作に続いてヒットした。“トランス・アイランド・スカイウェイ”、“カウンタームーン”、“スプリングタイム”等を収録。

 

 

 

これがきっかけで彼らの作曲チームとしての再結成と、スティーリー・ダンとしての新たなツアー活動、そしてスタジオ制作が実現した。

同年、フェイゲンは、ニューヨーク・ロック・アンド・ソウル・レビューのプロデューサーであったリビー・タイタスと結婚。

 

 

1994年にはフェイゲンはベッカーのソロ・デビュー作品『11の心象 11 Tracks of Whack』を共同でプロデュースしている。
この2人組によってスティーリー・ダンは新たな体系でより確固としたものとなる。

 

 

1995年、スティーリー・ダンとして、ライヴ・アルバム『アライヴ・イン・アメリカ』(Alive in America)をリリース、全米40位・全英62位。

 

 

1999年、先行シングル"Cousin Dupree"をリリース。

 

 

2000年、8thアルバム『トゥー・アゲインスト・ネイチャー』(Two Against Nature)をリリース、全米6位・全英11位。

 

 

2001年2月21日、第43回グラミー賞(43rd Grammy Awards)にて、『トゥー・アゲインスト・ネイチャー』が「年間最優秀アルバム賞」、「最優秀ポップ・ボーカル・アルバム賞」をダブル受賞、また、同アルバム収録曲の"Cousin Dupree"が「最優秀ポップ・パフォーマンス(デュオもしくはグループ)」を受賞と、スティーリー・ダンは3部門で栄誉に輝いた。

同年、スティーリー・ダンのメンバーとして「ロックの殿堂」入り。

 

 

2003年、9thアルバム『エヴリシング・マスト・ゴー』(Everything Must Go)をリリース、全米9位・全英21位。ここからは"Blues Beach"をカットした。

 

 

 

2006年3月7日、フェイゲンは3rdソロ・アルバム『モーフ・ザ・キャット』 (Morph the Cat)をリリース、全米26位・全英35位をマークした。

 

 

2012年、フェイゲンはマイケル・マクドナルド(Michael McDonald)とボズ・スキャッグス(Boz Scaggs)をフィーチャーしたスーパーグループ「デュークス・オブ・セプテンバー」(the Dukes of September)とツアーを催行。ニューヨーク市のリンカーンセンターで行われたコンサートの模様はレコーディングされ、2014年に『PBSグレート・パフォーマンス』で放送された。

 

10月16日、4thソロ・アルバム『サンケン・コンドズ』(Sunken Condos)をリリース、全米12位・全英23位をマークしている。

 


2013年、フェイゲンは『Eminent Hipsters』というタイトルの自伝を出版した。


2017年9月3日、盟友のウォルター・ベッカーが死去。67歳没。

フェイゲンは追悼声明で、大学時代からの長年の友人であり、バンドメイトでもあったベッカーを回想するとともに、スティーリー・ダンとして作り上げてきた音楽を、自分ができうる限り続けていきたいと語った。

ベッカー死去の翌週から、意向の通りバンド活動を継続。これ以降、フェイゲンはスティーリー・ダンをソロ・プロジェクトとして継続し、精力的に活動している。

10月13日、ベッカー亡き後の初ツアーは、オクラホマ州タッカービル公演から始まり、「ドゥービー・ブラザーズ」とのジョイントライヴを英国で3公演を開催した。

 

 

2019年秋、過去の名作『幻想の摩天楼』『彩(エイジャ)』『ガウチョ』『ナイトフライ』のアルバム全曲を再現する日替り企画を、米東海岸ツアーにて実施した。

 

 

2021年、ライヴ・アルバム『ノースイースト・コリドー:スティーリー・ダン・ライヴ!』をUniversal Musicからリリース。

 

 

2022年、ピーター・ジョーンズによる伝記『Nightfly: The Life of Steely Dan's Donald Fagen』が出版された。

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「ドナルド・フェイゲン」「Donald Fagen」「スティーリー・ダン」「Steely Dan」

 

 

 

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