パトリック・シモンズ(Patrick Simmons/1948年10月19日~)は、アメリカ合衆国出身のロック・ミュージシャン。アメリカを代表するロック・バンド、ドゥービー・ブラザーズの創設メンバーであり、同グループの活動期間のすべてに在籍している唯一の人物でもある。ギター、ボーカルを担当し、バンドの代表曲の多くを作詞・作曲した。

 

 

アメリカ合衆国ワシントン州(State of Washington)アバディーン(Aberdeen)西海岸の町で生まれる。両親がともに教師として働いていたため、ベビーシッターに面倒を見てもらっていた。そのベビーシッターがたまたまピアノの教師であったことが、パトリックが音楽に関心を抱く最初のきっかけになった。

 

6歳の時、家族とともにカリフォルニア州サンノゼに移住。

8歳の時にギターと出会う。近所に住む8歳年上の友人に手ほどきを受け、ギターの基礎と歌を学んだ。

彼は小学校時代から活発にプレイし、13歳までには最初のロックンロール・バンドを結成。高校では聖歌隊でも歌った。

 

15歳の時、サラトガにある「ブラス・ノッカー・コーヒー・ハウス」で初めてプロとしてのギグを行う。フォークソング、ブルース、トラディショナル・ミュージックなどと一緒にいくつかのオリジナル・ナンバーも披露した。

彼は高校を卒業するまでの間、ベイ・エリアのコーヒー・ハウス、バー、レストラン、クラブなどを、ある時はひとりで、また様々なバンドでサーキットし続けた。

 

1967年にサンノゼ州立大学に入学し、心理学を学ぶ傍ら週末に演奏する生活を続ける。

 

1969年、カリフォルニア州キャンベルの「ガス・ライター・シアター」でステージを務めた際に、スキップ・スペンスの仲介で「Pud」というバンドで活動していたトム・ジョンストン、ジョン・ハートマンと出会う。パトリックは当時、後にドゥービーズに加入するタイラン・ポーター(B)、マイク・ミンデル(バイオリン)と「スクラッチ」というバンドで活動中だった。

 

1970年、トムとジョンの誘いに応じ、新バンドを結成。トム・ジョンストン(G、Vo)、ジョン・ハートマン(Ds)、パトリック・シモンズ(G、Vo)と、デイヴ・ショグレン(B)の4人が、オリジナルのドゥービー・ブラザーズ(The Doobie Brothers)のメンバー。

グループ名の「ドゥービー」(doobie)はスラングで「マリファナ煙草」の意。

 

1971年、解散までドゥービーズのアルバムを手がけることになるテッド・テンプルマンのプロデュースにより、ワーナー・ブラザース・レコードからデビュー・アルバム『ドゥービー・ブラザーズ・ファースト』(The Doobie Brothers)をリリース。レザー・ジャケットにジーンズという典型的なバイカー・ファッションに身を包んだスナップをあしらったアルバム・ジャケットに象徴されるハードなロックと、アコースティック・ギターによるフォーク、カントリー色の強い楽曲を配置したが、商業的には成功しなかった。

 

デビュー・アルバムの発表後間もなく、2人目のドラマー、マイケル・ホサックが加入。長くバンドのトレードマークとなるツイン・ギター、ツイン・ドラムスの5人編成が完成する。

セカンド・アルバムのレコーディング中にデイヴが脱退、後任のベーシストにタイラン・ポーターが加入し、1970年代前半の黄金期を支えるメンバーが揃う。

 

1972年、セカンド・アルバム『トゥールーズ・ストリート』(Toulouse Street)をリリース。同作からシングルカットされた“リッスン・トゥ・ザ・ミュージック”(Listen to the Music)が「ビルボード Hot 100」(以下「全米」)の11位まで上昇するヒットとなり、“希望の炎”(Jesus Is Just Alright)は全米35位に到達、アルバムも全米チャート21位を記録した。サザン・ロック色の濃い音楽性に加え、二人のドラマーにベーシストを加えた、力強いファンキーなリズムセクションは評判を呼び、バンドは一躍全米規模の人気バンドとなる。

 

1973年、アルバム『キャプテン・アンド・ミー』(The Captain and Me)から“ロング・トレイン・ランニン”(Long Train Runnin')が全米8位、“チャイナ・グローヴ”(China Grove)が全米15位とヒット。アルバムもバンド初のトップ10入りとなる全米7位を記録した。

 

1974年のアルバム『ドゥービー天国』(What Were Once Vices Are Now Habits)からは

パトリック作の“ブラック・ウォーター”(Black Water)が翌1975年に初の全米No.1ヒットとなり、アルバムも全米4位に到達。イーグルスと並びアメリカン・ロックを代表する

人気バンドのひとつとなった。

 

『ドゥービー天国』レコーディング直後にマイケル・ホサックが脱退し、キース・ヌードセン(Ds)が後任に加入、同時期に、これまでも度々ゲスト参加していた元スティーリー・ダンのジェフ・バクスター(G)が正式加入し、トリプル・ギター編成となる。

 

1975年、新ラインナップによる5thアルバム『スタンピード』(Stampede)をリリース。前作に続き全米4位まで上昇するヒットとなり、RIAA認定のゴールドディスクを獲得。本作からの第1弾シングル“君の胸に抱かれたい”(Take Me in Your Arms [Rock Me a Little While])はキム・ウェストンが放った1965年のヒット曲のカヴァーだが、ドゥ―ビーのヴァージョンは全米11位と本家の記録を上回るヒットとなった。

 

しかしこの頃から、バンドの顔でありヒット作を数多く作曲していたトム・ジョンストンの健康状態が悪化し、バンドを一時脱退してしまう。間近に控えたツアーのため、トムの代役としてバクスターの紹介により、スティーリー・ダンのツアーメンバーだったマイケル・マクドナルド(Key、Vo)が正式加入する。卓越した歌唱力に加え、スティーリー・ダンで培った作曲能力を持ったマクドナルドの存在は大きく、バンドの音楽性はトム・ジョンストン期の野性味あふれる快活なギターロックから、R&Bの影響を受け洗練されたAOR色の強いものへと変容していった。

 

1976年、アルバム『ドゥービー・ストリート』(Takin' It to the Streets)をリリース、全米8位を記録。本作からのシングルは、タイトルトラックが全米13位、“運命の轍”(Wheels of Fortune)はパトリック他2人との共作で、全米87位に達した。収録曲“イット・キープス・ユー・ランニン”

(It Keeps You Runnin')はカーリー・サイモンのアルバム『見知らぬ二人』(1976年)で

カヴァーされた。

 

1977年、アルバム『運命の掟』 (Livin' on the Fault Line) をリリース、全米10位を記録。本作からのシングル“リトル・ダーリン”(Little Darling [I Need You])は全米48位、“エコーズ・オブ・ラヴ”(Echoes of Love)は全米66位に達した。

 

1978年12月1日リリースのアルバム『ミニット・バイ・ミニット』(Minute by Minute)と、マイケルがケニー・ロギンスと共作した翌1978年1月リリースのシングル“ホワット・ア・フール・ビリーヴス”(What A Fool Believes)はともに全米1位を獲得。“ホワット・ア・フール・ビリーヴス”は元々、共作者のケニー・ロギンスが1978年7月にソロアルバム収録曲として発表したものだが、ドゥ―ビーヴァ―ジョンは第22回グラミー賞にて「最優秀レコード賞」を受賞、また、最優秀楽曲(ケニー・ロギンス &マイケル・マクドナルド)にも輝き、さらに収録アルバム『ミニット・バイ・ミニット』は最優秀ポップ・ボーカル(デュオ、グループまたはコーラス部門)賞を受賞。これによりバンドはファン層を広げ、さらに高い評価を確立した。

 

大ヒットとなった『ミニット・バイ・ミニット』をリリースした後、ジョン・ハートマンがバンドを脱退。この時点で、パトリックは唯一のオリジナル・メンバーとなった。

 

音楽性の変化に伴いメンバーの入れ替わりが何度かあったものの、ジョン・マクフィーやコーネリアス・バンパスといった優れたミュージシャンに支えられ、また、脱退しソロ活動を行っていたトム・ジョンストンの客演や、初期のレパートリーにも抜群のサポートを見せるマイケル・マクドナルドの活躍などにより、新旧のファン層に支えられ順調に活動する。

 

1980年、アルバム『ワン・ステップ・クローサー』 (One Step Closer)をリリース、

全米3位を記録。アルバムからのシングルカット“リアル・ラヴ”(Real Love)は

全米シングルチャート5位のヒットとなった。

 

80年代に入ると各人のソロ活動が活発化する中、唯一のオリジナル・メンバーでリーダーのパトリックは活動休止を提案。

 

1982年、初期のメンバーも参加して「フェアウェル・ツアー」と銘打った大規模なライヴツアーを行なった後、バンドは解散した。

 

1983年、パトリックは初のソロアルバム『アーケード』(Arcade)をリリース。

 

1987年、チャリティーコンサートのため一時的に再結成した。

 

1989年、オリジナル・メンバーのトム・ジョンストン(G、Vo)、パトリック・シモンズ(G、Vo)、ジョン・ハートマン(Ds)に、初期黄金期を支えたマイケル・ホサック(Ds)、タイラン・ポーター(B)、『ミニット・バイ・ミニット』のレコーディングやフェアウェル・ツアーでもグループを支えたボビー・ラカインド(Per)の6人編成で正式に再結成、復活アルバム『サイクルズ』(Cycles)をリリースし活動を再開する。

初期を髣髴とさせる力強いロック・サウンドをフィーチャーした本作は全米17位まで上昇、シングルカットされた“ザ・ドクター”(The Doctor)も全米9位まで上昇するスマッシュ・ヒットとなり、健在振りをアピールした。

 

1991年、再結成から正式メンバーとなったボビーが末期ガンのため引退し、5人編成に戻って制作されたアルバム『ブラザーフッド』(Brotherhood)をリリース。アルバムはチャートは全米82位と奮わなかったが、シングルカットされたパトリック作の“デンジャラス”(Dangerous)はビルボード・メインストリーム・ロック・チャートの2位まで上昇した。

 

1995年、パトリックが日本限定リリースとなるソロアルバム『テイク・ミー・トゥ・ザ・ハイウェイ』(Take Me To The Highway)をリリース。

 

2000年、アルバム『シブリング・ライヴァルリー』 (Sibling Rivalry) をリリース。アルバムはチャート入りを逃すが、収録曲“オーディナリー・マン”(Ordinary Man)は『ビルボード』のアダルト・コンテンポラリー・チャートで29位を記録した。

 

2005年2月10日にドラマーのキース・ヌードセンが死去するなど、かつてのメンバー中5人(ボビー・ラカインド、デイヴ・ショグレン、コーネリアス・バンパス、キース・ヌードセン、マイケル・ホサック)が相次いで鬼籍に入るという悲劇を乗り越え、地道な活動を続けている。

 

2010年9月、前回アルバムから幾度かのメンバーチェンジを経て、13枚目のスタジオ・アルバム『ワールド・ゴーン・クレイジー』(World Gone Crazy)をリリース、このアルバムには1971年のデビュー・シングル“ノーバディ”(Nobody)の再録バージョンが収録された。

 

2014年、前作から4年ぶりとなるスタジオ・アルバム『サウスバウンド』 (Southbound)をリリース。豪華ゲストたちを迎え、全米ナンバーワンの“ブラック・ウォーター”やグラミー賞受賞曲“ホワット・ア・フール・ビリーヴス”等のヒット曲をレコーディングし直したセルフ・カヴァー・ベスト。

 

 

 

(参照)

Wikipedia「パトリック・シモンズ」「ドゥービー・ブラザーズ」

ドゥービー・ブラザーズ公式サイト

thedoobiebrothers.com

ワーナーミュージックジャパン「ドゥービー・ブラザーズ」

wmg.jp/doobiebros