ボビー・ウーマック(Bobby Womack/1944年3月4日~2014年6月27日)は、アメリカ合衆国のソウル・R&Bシンガーソングライター、ギタリスト、プロデューサー。

 

 

 

1944年3月4日、ロバート・ドウェイン・ウーマックは、アメリカ合衆国オハイオ州クリーブランド(Cleveland, Ohio)のフェアファックス地区、イースト85番街とクインシー・アベニューの近くで、ナオミ・ウーマックとフレンドリー・ウーマックの間に、5人兄弟の3番目として生まれた。フレンドリー・ジュニアとカーティスはボビーの兄であり、ハリーとセシルはボビーの弟であった。彼らは皆、クリーブランドのスラム街で育ち、家族が地元スーパーマーケットのゴミ箱から豚の鼻を釣り出し、兄弟たちとベッドを共有しなければならなかった程貧しかった。母親はボビーに、「歌えばゲットーから抜け出すことができる」と言った。ボビーは子ども時代を回想して、「私たちはとても貧しかった。私の子どもたちは、私が想像していたよりもはるかに良い生活を送っている。そして、近所はまさにゲットーだったので、私たちはネズミを気にすることはなかったし、彼らも私たちを気にすることはなかった。」と語った。

ボビーをバプテストとして育てた両親は、母親が教会の聖歌隊でオルガンを演奏し、父親は鉄鋼労働者や非常勤牧師として働きながら、ギターを弾き、ゴスペルも歌う音楽家であった。父は息子たちに、自分の外出中はギターに触れないよう何度も命令していたが、5人の兄弟全員が父親の仕事中は定期的にギターを弾いていた。

 

8歳のある夜、ボビーはギターの弦を切ってしまい、その弦を靴紐に取り替えようとした。父フレンドリーは靴紐がなくなっていたボビーが弦を切ったのだと推測し、鞭打ちの代わりにギターを弾く機会をボビーに提供した。
その後すぐに、フレンドリーは5人の息子全員にギターを購入した。左利きだったボビーは、左利きのプレイヤーに合わせてギターの弦を張り直せるとは知らず、ギターをひっくり返して演奏した。

 

 

1950年代半ば、10歳のボビーは、オルガンのナオミとギターのフレンドリー・シニアとともに、ゴスペル・グループ「ウーマック・ブラザーズ」(The Womack Brothers)を結成、兄弟たちとともに中西部のゴスペル・サーキットをツアーしていた。

 

 

1954年、グループは「カーティス・ウーマック&ウーマック・ブラザーズ」(Curtis Womack and the Womack Brothers)という名前でペナント・シングル“バッファロー・ビル”(Buffalo Bill)を発表し、さらに多くのレコードをリリースした。

 

 

この頃、ソウル・スターラーズ(The Soul Stirrers)のリード・シンガーであるサム・クック(Sam Cooke)はグループのパフォーマンスを初めて見て、彼らの指導者となり、ツアーを手伝った。グループはザ・ステイプル・シンガーズ(The Staple Singers)とともに全国ツアーを行った。グループでは主にカーティスがリードを歌ったが、兄の滑らかなテナーとは対照的に無愛想なバリトン・ヴォーカルのボビーはその歌声を披露して一緒に歌うことを許された。パフォーマンス中、ボビーは時々説教者の役を真似ることがあったが、それが後に彼のニックネームとなった。

 

16歳の時、ボビーは音楽に専念するため高校を中退した。

 

 

1960年代初頭、クックが自身のレーベル「SARレコード」を立ち上げた。

 

1961年、グループはSARと契約し、ウーマック・ブラザーズ名義のシングル “Somebody's Wrong”をリリースするもヒットしなかったが、数枚のゴスペル・シングルのリリースが続いた。

 

 

1962年、クックはグループに、名前を「ヴァレンティノス」(The Valentinos)に変更し、拠点をロサンゼルスに移転、ゴスペル音楽から世俗的なソウルやポップスの影響を受けたサウンドへ移行するよう説得した。

3月、グループ最初のヒットシングル“ルッキング・フォー・ア・ラヴ” (Lookin' for a Love)は、クックによるプロデュース、アレンジでリリースされ、米音楽誌『ビルボード』(Billboard)の総合シングル・チャート「Hot 100」(以下「全米」)72位・同誌「R&Bシングル」チャート(以下「R&B」)では8位を記録した。この曲は、彼らが以前にレコーディングしていたゴスペル・ソング“Couldn't Hear Nobody Pray”のポップ・バージョンであった。この曲がR&Bチャートでヒットしたおかげで、グループはジェームス・ブラウンのツアーの前座を獲得することができた。

 

 

1964年3月24日、ハリウッドのユナイテッド・レコーディングでボビーが共同作曲しリードを歌ったシングル“イッツ・オール・オーヴァー・ナウ”(It's All Over Now)を録音し、2か月後にシングル・リリースした。

 

6月26日、ローリング・ストーンズ(The Rolling Stones)が“イッツ・オール・オーヴァー・ナウ”のカヴァーをシングル・リリースすると全英1位の大ヒットを記録、この影響を受け、クックのプロデュースによるヴァレンティノズ版も6月27日に全米チャート入りを果たし、最高94位を記録、2週間チャート内に留まった。

この頃、ボビーはサム・クックのライヴでもギターを演奏している。
12月11日にサム・クックがロサンゼルスのモーテルで射殺される衝撃的な事件が起きた。この知らせにショックを受け、ヴァレンティノスは分散し、SARレコードは解散した。ボビーは葬儀に際して、クックのスーツを身に着けてクックの未亡人バーバラ・クックと参列したが、これが後に物議を醸す種となった。

 

 

1965年、ボビーはソロ・キャリアを始めようとし、最初はヒム・レコードで、その後チェス・レコードの子会社チェッカー・レコードでレコーディングを行った。

だが、ボビーはクックの死後数カ月もしないうちに未亡人バーバラ・クックと結婚した。クックの死後の行動と早すぎる結婚から、ボビーは様々な方面から疑惑と反感を抱かれ、彼の曲は一時ラジオでオンエアされなくなる事態となった。そのためボビーは、セッション・ギタリスト、作曲家としての活動を開始。アレサ・フランクリンのアルバムでギタリストとして参加したり、ウィルソン・ピケットへ楽曲“アイム・イン・ラブ”(I'm in Love)や "I'm a Midnight Mover"を提供する等の活動を行った。

1965~68年、ボビーはレイ・チャールズと一緒にツアーとレコーディングを行った。

 

 

1969年1月、ボビー・ウーマックのソロ名義では初となるスタジオ・アルバム『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』(Fly Me to the Moon)をMinitから発表、ここからは、タイトル・トラック“フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン”(Fly Me to the Moon)が全米52位・R&B16位、“夢のカリフォルニア”(California Dreamin')が全米43位・R&B20位、"What Is This"がR&B33位を記録した。

 

 

ボビーはまた、“アンド・アイ・ラブ・ハー”、“雨に願いを”などのカヴァー曲を発表しているが、彼の場合は原曲に並ぶか、時には原曲を超えるカヴァー・バージョンとなっている。

 

 

1970年2月、2ndソロ・アルバム『マイ・プリスクリプション』(My Prescription)をリリース、R&B44位に到達。ここからは、"How I Miss You Baby"が全米94位・R&B13位、“More Than I Can Stand"が全米90位・R&B23位になった。

 

 

同年、ハンガリーのジャズ・ミュージシャンであるガボール・ザボ(Gábor Szabó/ 1936年3月8日-1982年2月26日)のアルバム『ハイ・コントラスト』に参加し、“ブリージン”(Breezin')を提供。この曲は1976年にジョージ・ベンソンによるカヴァー・ヴァージョンが大ヒットした。

 

同年、ジャニス・ジョプリン(Janis Joplin)のアルバム『パール』(Pearl)のレコーディングに参加、"Trust Me"でアコースティック・ギターを演奏した。だが、彼女はレコ―ディング期間中の10月4日に27歳で帰らぬ人となった。

 

 

1971年1月11日、ジャニスの遺作『パール』がリリース、全米1位を飾った。

同年、3rdソロ・アルバム『コミュニケーション』(Communication)をUnited Artistsからリリース、全米83位・R&B7位を記録。ここからは、"That's the Way I Feel About Cha"が全米27位・R&B2位をマークした。


11月20日にリリースされた、スライ&ザ・ファミリー・ストーン (Sly & the Family Stone)のアルバム『暴動』(There's a Riot Goin' On) でもギターを担当。アルバムは全米1位を獲得した。


1972年5月30日、4thソロ・アルバム『アンダースタンディング』(Understanding)をリリース、全米43位・R&B7位。ここからのシングル“ウーマンズ・ガッタ・ハヴ・イット”(Woman's Gotta Have It)は、R&Bチャート1位を獲得、ポップ・チャート(全米)でも60位に入った。また、"Harry Hippie"が全米31位・R&B8位、"Sweet Caroline (Good Times Never Seemed So Good)"が全米51位・R&B16位を記録。

 

 

 

同年、映画『110番街交差点』(Across 110th Street)のサウンドトラック『110番街交差点 オリジナル・サウンドトラック』(Across 110th Street)を、J・J・ジョンソンとともに制作。同作の主題歌“110番街交差点”は、ボビーが歌も担当した。なお、同曲は1997年公開の映画『ジャッキー・ブラウン』でも使用された。

 

 

1973年6月8日、5thソロ・アルバム『ファクツ・オブ・ライフ』(Facts of Life)をリリース、全米37位・R&B6位をマークした。ここからは、"Nobody Wants You When You're Down and Out"が全米29位・R&B2位になった。

 

 

 

1974年1月11日、6thソロ・アルバム『ルッキン・フォー・ア・ラヴ・アゲイン』(Lookin' for a Love Again)をリリース、全米85位・R&B5位をマーク。ここからは、ヴァレンティノス時代のヒット曲のセルフ・カヴァー“ルッキン・フォー・ア・ラヴ”(Lookin' for a Love)が全米10位とトップ10入り、R&Bチャートでは1位を獲得。また、"You're Welcome, Stop On By"が全米59位・R&B5位になった。

 

 

 

 

1975年、ロン・ウッドの2ndソロ・アルバム『ナウ・ルック』(Now Look)をロンと共同プロデュースし、ギターやヴォーカルも担当した。

3月28日、7thソロ・アルバム『誰にも未来はわからない』 (I Don't Know What the World Is Coming To/旧邦題『アイ・ドント・ノウ・ホワット・ザ・ワールド・イズ・カミング・トゥ』)をUnited Artistsからリリース、全米126位・R&B20位。ここからは、"Check It Out" が全米91位・R&B6位に入った。

 

 

1981年11月、アルバム『ザ・ポエット』(The Poet/旧邦題『詩人』)をBeverly Glenからリリース、全米29位・R&B1位を獲得した。ここからのシングルは、“If You Think You're Lonely Now”がR&B3位、"Where Do We Go from Here"がR&B26位、"Secrets"がR&B55位のヒットとなる。

 

 

 

 

 

1984年3月には第二弾『ザ・ポエット2』(The Poet II/旧邦題『魂の詩』)も発表、全米60位・R&B5位・全英31位をマークした。ここからの最大のヒット・ナンバーは、Patti LaBelleと共演した"Love Has Finally Come at Last"が全米88位・R&B3位。他に"Tell Me Why"がR&B54位・全英60位、Patti LaBelleとの共演ナンバー"It Takes a Lot of Strength to Say Goodbye"がR&B76位になった。

 

 

 

 

このポエット2作品はソウル・ファンや音楽評論家に高く評価された。

同年、シングル“Love Has Finally Come at Last”では、パティ・ラベルとデュエットしている。

 

 

1985年、アルバム『ソー・メニー・リバーズ』(So Many Rivers)をMCAからリリース、全米66位・R&B5位・全英28位に達した。ここからは“アイ・ウィッシュ・ヒー・ディドント・トラスト・ミー”(I Wish He Didn't Trust Me So Much)がR&B2位・全英64位になった。

 

 

 

1986年3月24日にリリースされた、ローリング・ストーンズのアルバム『ダーティ・ワーク』(Dirty Work)にゲスト参加している。

 

 

1987年、80年代に「ラスト・ソウル・マン」と呼ばれたボビーは、同名のスタジオ・アルバム『ラスト・ソウル・マン』(The Last Soul Man)をMCAから発表した。

 

 

1989年、アルバム『セイヴ・ザ・チルドレン』(Save the Children)をSOLARからリリース。


1994年8月16日の20thスタジオ・アルバム『復活』(Resurrection)には、キース・リチャーズ、ロン・ウッド、チャーリー・ワッツ、スティーヴィー・ワンダー、ロッド・スチュワート等、豪華な面々が参加、R&B91位・全英87位に達した。

 

 

 

2009年、ロックの殿堂入りを果たした。

 

 

2010年、デーモン・アルバーン率いるゴリラズ(Gorillaz)のシングル"Stylo"にMos Defとともにフィーチャーされ、欧米各国でチャート入りした。

 


2012年6月15日、18年ぶりのスタジオ・アルバム『ザ・ブレイベスト・マン・イン・ザ・ユニバース』(The Bravest Man in the Universe)をリリース、全米181位・R&B21位・全英49位。デーモン・アルバーンとリチャード・ラッセルとの共同プロデュースで制作した。

 

 


2014年6月27日に死去。70歳没。死因は明かされていないが、晩年は癌や糖尿病、アルツハイマー病を患っていたといわれている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「ボビー・ウーマック」「Bobby Womack」「The Valentinos」

https://www.rockhall.com/inductees/bobby-womack

 

 

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