ジェイ・ケイ(Jason Kay/本名:Jason Luís Cheetham/1969年12月30日 4:00am~)は、イギリスのシンガーソングライター。自ら率いる「ジャミロクワイ」はバンド形態であるがケイのソロ・プロジェクトであり、またケイのもう一つのステージネームでもある。

 

 

 

1969年12月30日 4:00am~、ジェイソン・ルイス・チーサムは、英国イングランドのストラットフォード(Stretford, England)で、一卵性双生児として生まれる。だが、兄デイヴィッドはへその緒が首に絡まって生まれた事による脳障害により、生後6週間で死去。なお、この兄は、彼の初期の歌詞に頻繁に登場する。
母は、カレン・ケイ(Karen Kay/1947年7月18日-)という芸名のジャズシンガーで、英国各地の劇場で歌ったり、BBCの深夜帯で自分の番組を持って既存のヒット曲やスタンダードナンバーをショー形式で歌ったり、さらにクイズ番組の回答者をするなどテレビタレントでもあった。実父ルイス・サライヴァはポルトガル人のギタリストであるが、両親が一緒に暮らすことはなく、ケイは30歳になるまで父親と面識はなかった。母は実父とは別の男性と結婚し、継父や、母のマネージャが父親代わりだった。

母は息子を連れて劇場で仕事をしていたため、母の楽屋で過ごしたり、舞台裏を見たり、他のプロの歌手やダンサーがステージをこなす姿も見て育った。時には母がステージに上げてくれる事もあり、一番小さい頃の記憶は、母の腕に抱かれながらたくさんの観客の前に出た光景を覚えているとのこと。幼児期に母の仕事場やライヴツアーに付き添ったことによりステージセンスや音楽的素養が培われた。

 

幼い頃にケイが影響を受けた音楽として、母が好きでよく聴いていたアレサ・フランクリン、ビリー・ホリデイ、ダイアナ・ワシントン、スティーヴィー・ワンダー、ビートルズを挙げている。

母の巡業に帯同し、幼少期をマンチェスター、サフォーク、デヴォンで過ごす。13歳の頃は母と母のマネージャーをしていたジェームス・ロイヤルとともに半年間タイに居住し、その後は一時期レスターシャーの寄宿学校に在学していた。

 

14歳頃、ロンドン郊外のイーリングに引っ越し、アクトンにあるTwyford Church高校に通うが、15歳で母と喧嘩して家出してホームレスに。生存のため少々の軽犯罪を犯しながらホームレス生活をしていたが、ある日襲われて刺され瀕死になる。この時誤認逮捕されたが無実と判明後に取り消され、退院後は母親の所に戻った。

15歳頃、住宅の上階にドラムマシンやキーボード等を持っているペルシャ系のアレムという友達ができ二人でギグにハマる。アレムはレコードや音響機器も色々持っており、この頃よく一緒にデクスター・ワンセルの音楽を聴き、特にアルバム『What the world is coming to』は15歳のケイに多大な音楽的影響を及ぼした。アレムとは成功後も交流があり、一緒にジャズバーに行ったり自宅音楽スタジオに遊びにきたこともある。

15歳で音楽に夢中になった頃はデクスター・ワンセルに強く影響された。

10代の頃は自宅付近の人通りの少ない小道で一人で歌の練習もしていた。スケートボードにもハマり、遊びの他移動手段にも毎日乗っていた。2001年の楽曲“ユー・ギヴ・ミー・サムシング”のMVではスケボーで360度スピン等の技を披露している。

人生での初仕事はモヤシのパック詰めである。その他ピザ配達やヘロイン中毒者がいる化粧品工場で作業員をしたり、電話で意見を聞く市場調査員など様々なアルバイトをしながら生活し、現実逃避のためにパブで飲む生活をしており、当時のアシッドジャズ、レア・グルーヴ・シーンの真っ只中のクラブ文化に居場所を見出す。1980年代後半のロンドンではハウスも流行り始めるが、ハウスは好きではなかった。

1986年、16歳の時、現状打破のため歌うことで生きていこうと決め、作詞作曲と、アレムとデモテープ制作を開始。イーリングのパブ「The Haven (Haven Green 1番地にあったが現在は閉店)」で人前でギグを初披露、ナイトクラブ「Broadway Boulevard (High Street 11番地にあったが現在は閉店)」でも披露した。

 

ケイは、レコード会社に曲を送っていた。この間、ケイはネイティブ アメリカンとファースト ネーションの人々とその哲学に影響を受けた。これが、社会問題をカバーする曲“When You Gonna Learn”の作成につながった。

 

 

1991年、ケイは、ジャイルス・ピーターソンとエディ・ピラーが1987年に設立したイースト・ロンドンを拠点とするレコード・レーベル「アシッド・ジャズ・レコーズ」(Acid Jazz Records)と契約。

レコーディング後、ケイは流行りの音を作ろうとするプロデューサーと戦い、やっとのことで自分好みのトラックに戻した。この経験からケイは、適切なライヴサウンドを備えた適切なライヴバンドが必要なことに気付く。バンドは「ジャム」(jam)とネイティブアメリカンの同盟であるイロコイ族(the Iroquois)の名前と組み合わせた「かばん語」(2つ以上の言葉を組み合わせて作る造語)で、「ジャミロクワイ」(Jamiroquai)と名付けた。

当初よりアシッド・ジャズ側は、契約はあくまでケイ個人と交わしたものであり、契約上は「ジャミロクワイ」という名のソロアーティストであるとしている。このため、ケイ一人が前面に出てジャミロクワイ自体の責任を負う。バンドメンバーはケイに雇われる形でバンド形態を成している。ケイ曰く「ジャミロクワイがバンドというのはコンセプト('93来日時)」とのこと。1作目のシングルリリース以前から現在までにすべての楽器パートにおいてバンドメンバーは入れ替わっている。

また、バンドのロゴは「バッファローマン」と名付けられており、角が生えた帽子を被りフレアパンツを履いた少年が向かって左側に首を傾げ、手首と足先を外側にむけているシルエットのイラストである。ケイ自身が描いたもの。

 

 

1992年、ケイとキーボードのトビー・スミスはデビュー前に二人でマーヴィン・ゲイを聴いて影響を受けた。

7月1日、ロンドンのジャズ・カフェでライヴを実施。このライヴは映像として残っているジャミロクワイ最古のライブと言われている。後にファーストアルバムに含まれる“When you gonna learn?”や“Too Young To Die”など数曲がライヴで披露された。BNHメンバーを含むシーンのミュージシャン達をも率いて、ノーマン・ジェイやジャイルス・ピーターソン(アシッドジャズ共同創業者)のDJクラブイベントなどでライヴやオリジナル曲を披露することができ、評判となっていった。
同年夏、ロンドンのKiss FMでファーストシングル“When you gonna learn?”のデモ版が放送された。ケイとしては、この放送がジャミロクワイとして初めてメディアに出た瞬間として記憶しているそう。

10月19日、1stシングル“When you gonna learn?”をリリース、全英28位になった。

 

 

1993年2月頃、ソニーと8枚のアルバムのレコード契約を締結。1stシングルたった1枚でメジャーレコード会社と大型契約を結んだジェイ・ケイはマスコミで大きく取り上げられ、20世紀最後の大物と噂された。

6月14日、1stアルバム『ジャミロクワイ』(Emergency on Planet Earth)をリリース、全英1位となった。ここには“When you gonna learn?”を収録した他、シングル"Too Young to Die"が全英10位、"Blow Your Mind" が全英12位・米国のダンス・チャート(以下「米ダンス」)4位に入った。

 

 

 

 

1994年6月30日、シングル“ザ・キッズ”(The Kids)が日本限定で発売、その後2ndアルバムに収録された。

 

10月17日、2ndアルバム『スペース・カウボーイの逆襲』(1994–2000: The Return of the Space Cowboy–Synkronized)をリリース、全英2位。ここからのシングルは、"スペース・カウボーイ"(Space Cowboy)が全英17位・米ダンス1位、 "Half the Man"が全英15位、"Light Years"が米ダンス6位、"Stillness in Time"が全英9位になった。

 

 

 

 

 

1996年8月28日、3rdアルバム『トラベリング・ウィズアウト・ムービング』(Travelling Without Moving)をリリース、全英2位。ここからの最大のヒット曲は“ヴァーチャル・インサニティ”(Virtual Insanity)で、全英3位になったのをはじめ、イタリアで1位になるなど各国でチャート上位に入った。他には、M-Beatと共演した"Do U Know Where You're Coming From"が全英12位、"コスミック・ガール"(Cosmic Girl)と "オールライト"(Alright)が全英6位・米ダンス7位、そして"High Times"が全英20位・米ダンス9位になった。

 

 

 

 

 

 

 

1998年、ジャミロクワイは、映画『ゴジラ』に“ディーパー・アンダーグラウンド”(Deeper Underground)を提供、全英1位・米ダンス22位になった。

 

 

1999年6月8日、4thアルバム『シンクロナイズド』(Synkronized)をリリース、全英1位。ここからは、"キャンド・ヒート"(Canned Heat)が全英4位・米ダンス1位、"Supersonic"が全英22位・米ダンス1位、"King for a Day"が20位になった。

 

 

 

 

 

2001年9月3日、5thアルバム『ファンク オデッセイ』(A Funk Odyssey)をリリース、全英1位。ここからは、"リトル・エル"(Little L)が全英5位・米ダンス2位になったのを筆頭に世界的ヒットになった他、"You Give Me Something"が全英16位・米ダンス2位、 "Love Foolosophy"が全英14位、"Corner of the Earth"が全英31位になった。

 

 

 

 

 

 

2005年6月15日、6thアルバム『ダイナマイト』(Dynamite)を発売、全英3位。本アルバムからカットしたシングルは、"Feels Just Like It Should"が全英8い・米ダンス1位、"Seven Days in Sunny June"が全英14位、"(Don't) Give Hate a Chance"が全英27位になった。

 

 

 

 

 

2006年11月6日、ベストアルバム『High Times: Singles 1992–2006』をリリース、全英1位になったのに加え、日本では4位にチャートインした。ここからリカットした"Runaway"が全英18位・米ダンス1位になった。

 

 

 

2010年11月1日、7thアルバム『Rock Dust Light Star』をリリース、全英7位。ここからの主なシングルは、"White Knuckle Ride"が全英39位・米ダンス7位、"Blue Skies"が全英76位になった。

 

 

 

2017年3月31日、8thアルバム『オートマトン』(Automaton)を発売、全英4位。リカットした"Cloud 9"が数か国でチャート入りした。

 

 

 

2022年、ジェイ・ケイの資産は推定7000万ドルと報道された。

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「ジェイ・ケイ」「Jay Kay」「ジャミロクワイ」「Jamiroquai」

 

 

 

 

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