スティーヴィー・ワンダー(Stevie Wonder/出生名スティーヴランド・ハーダウェイ・ジャドキンズ/後に改名し、現在は「​モーリス」姓/ 1950年5月13日~)は、アメリカ合衆国出身の歌手、キーボード奏者、ミュージシャン、作曲家、音楽プロデューサー。「スティービー・ワンダー」と表記されることもある。

 

 

 

ミシガン州サギノウで誕生したが、6週間の早産だったため、生後すぐ保育器に入る。

この保育器内の過量酸素が原因で、生まれてすぐに視力を失う。

 

1961年、モータウン社のオーディションにて、社長ベリー・ゴーディの前で初めて歌と演奏を披露。ゴーディはその場で11歳のスティーヴィーとTamlaレーベルで契約した。

なお、最初の契約内容には、スティーヴィーの年齢を考慮し、印税収入は彼が21歳になるまで基金に蓄えられるという条項があり、それまでは週給2ドル50セントの支払いであったという。

以来、現在に至るまでモータウン一筋で活動する。

 

1962年夏、シングル“I Call It Pretty Music, But the Old People Call It the Blues”でデビューしたものの、「リトル・スティーヴィー・ワンダー」はなかなかヒットに恵まれなかった。

しかし、所属レコード会社のアーティストが集う「モータウン・レビュー」の全米ツアーに参加した際の様子を収録したライヴ・アルバム『Recorded Live: The 12 Year Old Genius』が

1963年5月に発売されると、全米アルバムチャート「Billboard 200」(以下「全米」)で自身初の1位になる大ヒットを記録。

4枚目のシングルとなった“フィンガーティップス”(Fingertips)も全米ポップシングルチャート「Billboard Hot 100」(以下「全米」)で1位の大ヒットとなる。

なお、13歳3カ月での同チャート1位獲得は21世紀に入っても史上最年少の記録である。

 

 

だが、その後ヒットが続かず、また声変わりなど難しい状況もあったが、

その間、表立った音楽活動は抑え、作曲の勉強に取り組むなど努力を重ねた。

 

「リトル・スティーヴィー・ワンダー」というこれまでのステージネームから「リトル」を取り、「スティーヴィー・ワンダー」としたのはこの頃。

 

 

1966年1月にリリースしたシングル“アップタイト”(Uptight)が全米3位、R&Bチャート1位を記録。

 

同年は、“太陽のあたる場所”(A Place in the Sun)と、ボブ・ディランのカヴァー

“風に吹かれて”(Blowin' in the Wind)がともに全米9位になるなど、5曲がチャート・イン。

 

 

1967年、1968年も、"I Was Made to Love Her"と“フォー・ワンス・イン・マイ・ライフ”(For Once in My Life)がともに全米2位に入るなど、ヒットが続いた。

 

 

 

1969年1月リリースのシングル“マイ・シェリー・アモール”(My Cherie Amour)が大ヒットし、全米・全英ともに4位を記録。

 

8月29日に発売されたアルバム『マイ・シェリー・アモール』(My Cherie Amour)の収録曲“イエスター・ミー”(Yester-Me, Yester-You, Yesterday)も全米7位・全英2位とヒットした。

 

 

1970年に、モータウンから自作のプロデュース権を獲得し、

音楽出版会社「タウラス・プロダクション」を設立。

8月7日、初のセルフ・プロデュースとなったアルバム『Signed, Sealed, Delivered I'm Yours』をリリース、タイトルトラック"Signed, Sealed, Delivered I'm Yours"が全米3位になった。

9月14日、モータウンの元秘書で作詞家・歌手のシリータ・ライトと結婚(1972年に離婚)。

この頃、当時開発されたばかりのモーグ・シンセサイザーに感銘を受ける。

以後、スティーヴィーはシンセサイザーを駆使し、

ほとんどの楽器を自分で演奏してアルバムを作るスタイルを確立してゆく。

 

 

1971年5月13日の誕生日に、モータウンから未成年時代の印税100万ドルを受け取る。

 

 

1972年6月からのローリング・ストーンズ全米ツアーに自らのグループを率いて参加。

10月にアルバム『トーキング・ブック』(Talking Book)をリリース、全米3位・全英16位まで上昇した。

 

 

 

1973年1月、 “迷信”(Superstition)が全米チャートでトップを記録。本曲は元々『トーキング・ブック』セッションに参加したジェフ・ベックへの礼として。彼の在籍するバンド「ベック・ボガート & アピス」のために書いた楽曲だったが、スティーヴィーのマネージャーが他人への提供に反対したため、自身が先にレコーディングしてリリースした。

 

スティーヴィーはこのことへの詫びとして、

1975年リリースのジェフの『ブロウ・バイ・ブロウ』に“哀しみの恋人達”(Cause We've Ended As Lovers)を提供している。

なお、ジェフ自身の演奏による“迷信”は、1973年発売の

ベック・ボガート & アピスのデビューアルバムに収録された。

2月、『トーキング・ブック』から“サンシャイン”(You Are the Sunshine of My Life)をシングルカット、全米1位・全英7位に輝いた。

 

同年8月4日に交通事故で瀕死の重傷を負い、四日間も生死の間を彷徨う。

同8月、アルバム『インナーヴィジョンズ』をリリース。ここからは、“ハイアー・グラウンド”(Higher Ground)が全米4位、“汚れた街”(Living for the City)が全米8位になった。

 

 

 

 

1974年3月、グラミー賞で「アルバム・オブ・ザ・イヤー」をはじめ5部門を受賞。

8月には『ファースト・フィナーレ』(Fulfillingness' First Finale)をリリース、全米チャート1位を獲得。ここからのシングル"悪夢"(You Haven't Done Nothin')が全米1位、“レゲエ・ウーマン”(Boogie On Reggae Woman)が全米3位を獲得した。

 

 

 

 

1975年3月、グラミーで再び主要5部門を独占。4月、ヨランダとのあいだに愛娘アイシャ誕生。

彼女の誕生を祝して “可愛いアイシャ”(Isn't She Lovely)を歌っている。

 

 

1976年8月、7年間で1300万ドルというレコード産業史上最高金額でモータウンと契約更改。9月、2枚組LP『キー・オブ・ライフ』(Songs in the Key of Life)を発表し、全米で14週間連続1位を記録。ここから“回想”(I Wish)が全米1位、また、チャート動向は芳しくなかったが"Isn't She Lovely"が米英でヒットした。

 

 

 

 

翌1977年、『キー・オブ・ライフ』からリカットされた“愛するデューク”(Sir Duke)が全米シングルチャートで1位、全英シングルチャートで2位を記録。同曲は1974年に亡くなった伝説的ジャズマン、デューク・エリントンへ捧げられた曲であり、歌詞にはカウント・ベイシー、グレン・ミラー、ルイ・アームストロング、そしてエラ・フィッツジェラルドといったジャズマン達の名が歌われている。

 

 

1979年10月、2枚組LPのサウンドトラック盤『シークレット・ライフ』をリリース。

 

 

1980年10月、アルバム『ホッター・ザン・ジュライ』(Hotter than July)をリリース。シングル“マスター・ブラスター”(Master Blaster [Jammin'])も全米5位・全英2位と大ヒット。“レイトリー”(Lately)は米国内では64位だったが、全英では3位を記録した。

 

 

 

 

1982年4月、ポール・マッカトニーとの“エボニー・アンド・アイヴォリー”が7週全米1位。米国『ビルボード』(Billboard)誌では、1982年5月15日に週間第1位、1982年年間第4位。『キャッシュボックス』誌では、5月15日から第1位を6週間獲得し、年間第4位を記録した。英国でも週間チャート第1位を獲得し、ポールにとってはビートルズ解散後、ウイングス時代を含めて米英両方の国で1位を獲得した初めて、かつ唯一の曲となった。日本でもオリコン洋楽チャートで第1位を記録した。

 

5月4日、2枚組ベストアルバム『ミュージックエイリアム』(Stevie Wonder Original Musiquarium I)を発表、全米4位・全英8位のヒットになった。ここから"That Girl"が全米4位、"Do I Do"が全米13位・全英10位になった。

 

 

 

1984年9月、映画『ウーマン・イン・レッド』サウンドトラック盤(The Woman in Red soundtrack)から“心の愛”(I Just Called to Say I Love You)がメガヒット。

同曲は日本でも電話会社のCMに使われるなどして大ヒットした。

 

 

1985年1月、USA・フォー・アフリカの“ウィ・アー・ザ・ワールド”(We are the world)に参加。

 

2月14日、南ア大使館前でアパルトヘイト抗議デモの先頭に立ち、逮捕される。

9月、“パートタイム・ラヴァー”が全米1位を記録。

 

10月、アルバム『イン・スクエア・サークル』(In Square Circle)発表。全米5位・全英5位。

 

11月、ディオンヌ&フレンズ名義のエイズ・チャリティ曲“愛のハーモニー”に参加、

これも全米1位を記録。

 

 

1986年、『イン・スクエア・サークル』から“オーヴァージョイド”(Overjoyed)をリカット。本曲は「環境パーカッション」としてコオロギ、ナイチンゲールやその他の鳥の声、海や池に小石が落ちた音、葉を押しつぶした音がクレジットされている。

ホンダ・シビックのテレビCMや、オンワード23区のテレビCMで使用されていたなど、日本での認知度は高く、小野リサらがカヴァーしている。

 

 

1987年10月、アルバム『キャラクターズ』をリリース、

シングル“スケルトンズ”(Skeletons)、“ユー・ウィル・ノウ”(You Will Know)がR&Bチャートの首位を獲得。

 

 

 

1989年1月、「ロックの殿堂」入り。

 

 

1991年5月、スパイク・リー映画のサウンドトラック盤『ジャングル・フィーヴァー』を発表。

 

 

1993年6月、JODECIによる“レイトリー”のカヴァーが全米3位を記録。

 

 

1995年3月21日、アルバム『カンバセーション・ピース』(Conversation Peace)をリリース。ここから“For Your Love”が全米53位・全英23位になった。

 

 

1996年8月5日、アトランタ・オリンピック閉会式で“ハッピー・バースデイ”を熱演。

 

 

1999年、日本でキリンの缶コーヒー「FIRE」CMソングに“フィール・ザ・ファイア”が起用され、自身も出演して同曲を披露した。

 

 

2001年9月21日、全米同時多発テロの犠牲者追悼チャリティ・イヴェント

「アメリカ:ア・トリビュート・トゥ・ヒーローズ」に参加し、“ある愛の伝説”を世界に向けて披露。

 

 

2005年、最新アルバム『タイム・トゥ・ラヴ』発売。アルバムのプロモーションで来日。

 

 

2007年、約3年ぶりの来日ツアー「STEVIE WONDER LIVE IN JAPAN 2007」催行。

 

 

2009年12月、国連平和大使に任命。

 

 

2016年、アリアナ・グランデとコラボしたシングル“フェイス”を発表。

 

 

 

 

長いキャリアを誇るスティー・ヴィーワンダーの膨大な楽曲群にあって、

1980年のアルバム『ホッター・ザン・ジュライ』収録の“ハッピー・バースデイ”(Happy Birthday)は、

特別な曲なのではないだろうかと思う。

 

キング牧師(マーティン・ルーサー・キング・Jr.)の誕生日である1月15日を祝日とする法案は、1968年に起こった彼の衝撃的な暗殺のあとすぐに作られた。

イリノイ、コネチカット、マサチューセッツといった一部の州は、1970年代に彼の誕生日を祝日と制定。しかしアメリカ連邦議会は記念日を成立させる手前で停止させた。

1979年11月には、ジミー・カーター大統領の承認がおりたにも関わらず、

法案可決に5票足りず牧師記念日は成立されなかった。

1983年の後半、当時のロナルド・レーガン大統領が祝日を承認し、

毎年1月の第3週目の月曜日を記念日とすることになったのだが、

こうした運動に関わっていたスティーヴィーがキング牧師に捧げたのが 

“ハッピー・バースデイ”だ。

 

現在でもバースデーソングの定番として広く親しまれているこの曲を

今日は、古希を迎えたスティーヴィーに贈りたい。

 

Happy Birthday!

 

 

 

 

 

 

 

(一部加筆)

2022年11月8日

 

 

(参照)

Wikipedia「スティーヴィー・ワンダー」「Stevie Wonder」

 

 

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