ポール・マッカートニー(本名Sir James Paul McCartney/1942年6月18日~)は、
イギリスのミュージシャン、シンガー・ソングライター。マルチプレイヤー。
『ギネス世界記録』に「ポピュラー音楽史上最も成功した作曲家」として掲載。
1960年代にザ・ビートルズの一員としてジョン・レノンとともにLennon-McCartney名義で数多くの楽曲を作詞作曲し、ヴォーカルと主にベース演奏を担当。
ビートルズ解散後はウイングスのメンバーまたはソロ・ミュージシャンとして活動。左利き。
デビューから半世紀以上の間に制作した楽曲は2019年までで500曲以上。
ファーストネームはジェイムズだが、父のファーストネームも同じジェイムズである為、ミドルネームのポールを主に用いている。
セールスマンや工場勤務で働く一方、アマチュア・ジャズ・ミュージシャンとして
セミプロ級の腕を持つ父と、母メアリーとの間に、リヴァプールで生まれる。
母方の祖父はアイルランド系で、父方の曽祖父もアイルランド系だった。
因みにビートルズは4人全員にアイルランド人の血が入っている。
1956年、14歳で母親が乳癌で他界。15歳の時にセント・ピーターズ教会で
ジョン・レノンと出会い、彼のバンド、クオリーメンに加入。
翌年ポールの紹介でジョージ・ハリスンもバンドに加わり、
1960年からビートルズとしてハンブルグ巡業をスタート。
翌年、2度目のハンブルグ巡業中、リズム・ギターだったポールが正式にベース担当となる。
1962年にはドラマーのリンゴ・スターも加わった4人となり、
10月5日に“ラヴ・ミー・ドゥ”でレコード・デビューを果たす。
以後、1970年4月に事実上解散するまでに母国イギリスで12作のオリジナル・アルバムを発売、その内11作が全英アルバムチャート1位を獲得。シングルは22作発売し、その内17作が1位を獲得。さらに米国をはじめ各国でも高いセールスを記録し、ギネス・ワールド・レコーズに「最も成功したグループアーティスト」と認定された。
また「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」第1位に選出。本国イギリスでは1965年に外貨獲得への貢献からエリザベス2世よりMBE勲章を授与、1988年にはロックの殿堂入りを果たしている。
ビートルズのオリジナル曲で最多の「レノン=マッカートニー」名義の作品はNo.1曲が多く、「ギネス・ワールド・レコーズ」に最も成功したシンガー・ソングライターとして記載されている。
レノンもしくはマッカートニーによって書かれた楽曲は、常に「レノン=マッカートニー」という共同名義が作曲者として表記されているが、いずれかが単独で書いた楽曲も存在しており、“イエスタデイ”、“ヘイ・ジュード”、“レット・イット・ビー”などの楽曲はマッカートニーによって書かれたことが有名だが、他にも“アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア”や“オール・マイ・ラヴィング”、“ヒア・ゼア・アンド・エヴリホエア”、“オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ”、“ブラックバード”、“ペイパーバック・ライター”、“オー!ダーリン”、“ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード”などがマッカートニーの単独もしくは主導で書かれた。
1969年3月12日、ロック・ミュージシャン専門カメラマンだったリンダ・イーストマンと結婚。リンダは結婚後、コーラスやキーボード奏者としてポールの音楽制作やライヴ活動に参加し、1998年に亡くなるまで、ポールを公私ともに支え続けた。
1970年4月10日、ポールは音楽的意見の相違等を理由にビートルズ脱退を表明。
その1週間後に発売した初のソロ・アルバム『ポール・マッカートニー』は
米国の『ビルボード』と『キャッシュボックス』でも1位を獲得。
1971年、妻リンダとの連名でアルバム『RAM』を発表、英国1位、ビルボードで最高2位。
同年、リンダ、元ムーディー・ブルースのデニー・レインを中心に「ウイングス」を結成。
1972年、“メアリーの子羊”、“アイルランドに平和を”、“ハイ・ハイ・ハイ”などを発表。
1973年には“マイ・ラヴ”でウイングス初の全米1位を記録。
また、初の映画主題歌“007 死ぬのは奴らだ”も全米2位を記録。
アルバム『レッド・ローズ・スピードウェイ』も全米で1位を獲得した。
同年暮れにリリースされたアルバム『バンド・オン・ザ・ラン』は
全世界で600万枚以上のセールスを記録し、ビートルズ解散後のポールのアルバムとしては最大級の成功を収め、評論家からも極めて高い評価を受けることとなった。
同アルバムからは、表題曲のほか、“ジェット”など、ヒット曲も多く出た。
1976年、ポール以外のメンバーもヴォーカルを取った『スピード・オブ・サウンド』を発表。全英2位・全米1位(アメリカでは5週)の大ヒットを記録したシングル“心のラヴ・ソング”、全英2位・全米3位“幸せのノック”等ポール歌唱は6曲収録されている。
1977年にリリースされたマッカートニーとレインの共作によるシングル“夢の旅人”(Mull of Kintyre)は、ポールにとってソロ初の全英シングルチャート1位獲得作品となり、9週連続1位を獲得。当時ビートルズ“シー・ラヴズ・ユー”が持っていた英国シングル最多売上枚数記録を更新、200万枚以上のセールスを記録し”第2の国歌”とも呼ばれるほどの大ヒットになった。
1979年、クリスマス・ナンバー“ワンダフル・クリスマスタイム”(Wonderful Christmastime)をリリース、全英6位を記録した。
1980年、初の来日ツアーを予定し成田空港に到着したポールは
大麻取締法違反(不法所持)で現行犯逮捕され、ツアーは全て急遽中止となる。
ポールの逮捕で活動休止状態に陥ったウイングスは、
翌1981年4月デニー・レインの脱退表明で終焉を迎える。
同年、ポールは10年にソロ名義のアルバム『マッカートニーII』を発表。
しかし、12月8日のジョン・レノンの突然の訃報にポールは大きなショックを受け、
数か月間、自宅に引き篭もることに。
1982年、3枚目のオリジナル・ソロ・アルバム『タッグ・オブ・ウォー』リリース。
スティーヴィー・ワンダーとのデュエット“エボニー・アンド・アイヴォリー”が全米・全英No.1。
1983年、4枚目『パイプス・オブ・ピース』をリリース。マイケル・ジャクソンが参加し、デュエット曲“セイ・セイ・セイ”が全米・全英No. 1を獲得。
1984年、自らが脚本・音楽・主演した初の映画『ヤァ! ブロード・ストリート』を制作・公開。リンゴ・スターも参加し、 ビートルズの曲やウイングス時代のセルフ・カヴァーが話題に。
1985年7月、アフリカ難民救済の為に行われた20世紀最大のチャリティー・コンサート「LIVE AID(ライヴ・エイド)」に参加、英国ステージのトリを飾った。
1986年、アルバム『プレス・トゥ・プレイ』を発表。
1988年、ロックのスタンダード曲を歌った初のカヴァー集『バック・イン・ザ・U.S.S.R.』をソ連(当時)限定で発表。
1989年にはエルヴィス・コステロとの共作『フラワーズ・イン・ザ・ダート』を発表、全世界で250万枚以上のセールスを記録。
同年から翌1990年にかけて、10年ぶりとなるワールド・ツアーを敢行。
長年演奏を躊躇していたザ・ビートルズ時代の作品がセットリストの約半分を占める割合で演奏された本ツアーは、「ゲット・バック・ツアー」と後に称された。
1990年3月には、24年ぶりの来日公演が実現。
4月21日のブラジル、リオのマラカナン・スタジアム公演では18万人以上の観客を集め、有料コンサートの観客動員数の世界最高記録を更新。
本ツアーでの演奏はライヴ盤『ポール・マッカートニー・ライブ!!』として発表され、映像は映画『ゲット・バック』として公開された。
1991年初頭、MTVアンプラグドの収録を行い、その模様が後に『公式海賊盤』として発売。
ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニー管弦楽団の創立150周年を記念した
初のクラシック作品『リヴァプール・オラトリオ』を上演。同名のライヴ盤もリリースされた。
1993年にアルバム『オフ・ザ・グラウンド』を発表し、「ニュー・ワールド・ツアー」を敢行。
ポールは新たに覆面インストゥルメンタル・アンビエント・ミュージック・プロジェクト、ザ・ファイアーマンを始動、『ストロベリーズ・オーシャンズ・シップ・フォレスト』を発表。
1994年、ビートルズの歴史を振り返るドキュメンタリー作品および
未発表音源集などの『ザ・ビートルズ・アンソロジー』プロジェクトを本格的に始動、ジョン・レノン以外の3人のメンバーがジョンの1970年代後半に録音したデモテープに音を重ねて完成させるという企画で、エレクトリック・ライト・オーケストラのジェフ・リンの協力で、“フリー・アズ・ア・バード”、“リアル・ラヴ”という2曲の新曲を発表。
1995年、リンを共同プロデューサーに迎えてアルバムを制作し、
1997年に『フレイミング・パイ』としてリリース、全英1位、全米2位を記録。
同年にEMI創業100周年記念作品としてクラシック作品『スタンディング・ストーン』を発表。同年、英国のナイトの爵位を授与。
1998年、第40回グラミー賞『フレイミング・パイ』がアルバム・オブ・ザ・イヤーにノミネート。
4月17日、長年連れ添った妻のリンダが乳癌によりアリゾナ州のツーソンで他界。
ポールは愛妻の死を悼んでクラシック作品『マイ・ラヴ~ワーキング・クラシカル』を捧げ、1999年、生前リンダに提案されたロックンロールのカヴァー集『ラン・デヴィル・ラン』を発表し、ロックの殿堂入りを果たした。
2001年、ウイングスの軌跡を辿るドキュメンタリー『夢の翼~ヒッツ&ヒストリー~』を発表。同名2枚組ベスト盤も同時発売され、米国で100万セットを売上げプラチナ・ディスク認定。
同年秋、リンダが亡くなって以来初のオリジナル・アルバム『ドライヴィング・レイン』も発表。
10月、9月11日のアメリカ同時多発テロ事件で亡くなった消防士の追悼&チャリティを目的に、マディソン・スクエア・ガーデンで『ザ・コンサート・フォー・ニューヨーク・シティ』を開催。ポールの呼びかけに、デヴィッド・ボウイはじめ多数のミュージシャンが参加した。
2002年、アメリカで9年ぶりにコンサート・ツアーを行う。
同ツアーを収めたライヴ盤『バック・イン・ザ・U.S.~ライヴ2002』は米国でミリオン・セラーに。
7月、元モデルで平和運動家のヘザー・ミルズと再婚。
11月、ソロで3度目の来日公演。
2003年、モスクワの「赤の広場」で、外国人アーティスト初の大規模コンサートを開催。
2004年、第56回エミー賞で露公演の2時間ドキュメンタリー番組『イン・レッド・スクエア』が、
マルチカメラ編集賞(ミニシリーズ、映画、特別番組)を受賞。
2005年秋、ポールがほぼ一人ですべての楽器を手掛けた『ケイオス・アンド・クリエイション・イン・ザ・バックヤード~裏庭の混沌と創造』を発表。本作は2006年の第48回グラミー賞に3部門でノミネート。さらに先行シングルの“ファイン・ライン”がソング・オブ・ザ・イヤーにノミネートされる。
2007年、第49回グラミー賞最優秀男性ポップ・ヴォーカル賞に“ジェニー・レン”がノミネート。
2007年、EMIからヒア・ミュージックに電撃移籍。
6月、移籍第1弾アルバム『追憶の彼方に〜メモリー・オールモスト・フル』を発表。
同アルバムも2008年の第50回グラミー賞に3部門でノミネートされるとともに
全米では25年ぶりとなるオリジナル・アルバムでのプラチナ・ディスクに認定。
2008年、ブリット・アワードで特別功労賞を受賞。
5月、米エール大学から名誉音楽博士号を授与。
ヘザー・ミルズとの離婚が正式に成立。
ザ・ファイアーマンの3rdアルバム『エレクトリック・アーギュメンツ』をリリース。
この作品でザ・ファイアーマンがポールとユースであることを初めて公表した。
2009年には4年ぶりに大規模なツアーを敢行。
後にライヴ盤『グッド・イヴニング・ニューヨーク・シティ~ベスト・ヒッツ・ライヴ』でリリース。
2010年、米国議会図書館が2007年に創設した「ガーシュウィン賞」を受賞。
2011年、ナンシー・シェヴェルと3度目の結婚。
2012年、ジャズ・スタンダード・アルバム『キス・オン・ザ・ボトム』をリリー。
同年、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェイムの星を獲得、
フランス政府からはレジオンドヌール勲章オフィシエを贈られた。
英国エリザベス2世の女王即位60周年祝賀のトリを飾り、
さらにはロンドン五輪の開幕式で「ヘイ・ジュード」を熱唱した。
2013年、第55回グラミー賞で『キス・オン・ザ・ボトム』が
最優秀トラディショナル・ポップ・ヴォーカル・アルバム賞を受賞、
グラミー賞開設40周年を記念し、1973年発表の『バンド・オン・ザ・ラン』が名誉の殿堂賞獲得。
2013年、オリジナル作品としては5年ぶりとなる『NEW』を発表。
全英・全米3位、日本では2位とヒットし、ゴールドディスクにも認定。
11月、ツアーの一環で11年ぶり4回目の来日公演で大阪、福岡、東京で26万人を動員。
2014年5月、来日公演が体調不良で中止・緊急帰国。
2015年1月、リアーナ、カニエ・ウェストと共演した“フォー・ファイヴ・セカンズ”が大ヒット。
4月には改めて再来日公演「アウト・ゼアー・ジャパン・ツアー2015」が大阪、東京で計4回、そして追加公演として1966年のザ・ビートルズ以来49年ぶりの日本武道館公演が実現。
2016年、4月13日、ワールド・ツアー「ワン・オン・ワン・ツアー」をスタート。
6月10日、オール・タイム・ベスト『ピュア・マッカートニー~オール・タイム・ベスト』を発売。
2018年9月7日、古巣キャピトルに戻りリリースしたアルバム『エジプト・ステーション』が
『タッグ・オブ・ウォー』以来36年ぶりの全米チャート1位を獲得。
10~11月、東京ドーム、初となる両国国技館、名古屋ドームで公演を行う。
本日78歳を迎えたポール・マッカートニー。
過去の作品群のすばらしさは今さら言うまでもないが、
今なおチャートのトップに新作を送り込み、若手とのコラボにも積極的に取り組む、
現役バリバリのトップミュージシャンであり続けているのが何より凄い。
そんなポールに贈りたい、誕生日を祝うには最高の、このナンバー。
Happy birthday, Paul !!
(参照)
Wikipedia「ポール・マッカートニー」「ビートルズ」「ウイングス」
Paul McCartney(公式サイト)
ユニヴァーサルミュージックジャパン