アベ フトシ(本名:安部 太/1966年12月16日~2009年7月22日)は、日本のギタリスト。1994年~2003年、THEE MICHELLE GUN ELEPHANTのギタリストとして活動。

 

 

 

1966年12月16日、安部太が生まれる。広島県広島市中区江波出身。

 

広島工業大学附属工業高等学校(現:広島工業大学高等学校)卒業。身長187cm。

 

 

1987年、地元広島で後藤達也(Vo)らとともに、バンド「STRAWBERRY JEAN」を結成。折からのバンドブームに飲み込まれ、ビートパンクなどと称される。

 

セルフタイトルのアルバム『TRAWBERRY JEAN』1枚をインディーズからリリース。

 

 

3年の活動の後、アベは音楽性の違いによりバンドを脱退、これによりSTRAWBERRY JEANは解散した。

 

 

1994年6月、知人の仲介により、ギタリストを探しているバンド「thee michelle gun elephant」のチバと邂逅。この時チバからバンド加入に際して2つの条件が提示された。一つはライヴにおけるスーツ着用と、もう一つが薬物禁止だった。無論アベは即座に承諾し、バンドへの加入が決まった。

これにより揃った、チバ ユウスケ(1968年7月10日-2023年11月26日/神奈川県藤沢市出身/Vo,G)、ウエノ コウジ(1968年3月27日-/広島県広島市出身/B)、クハラ カズユキ(1969年4月3日-/北海道北見市出身/Ds)、アベフトシ(G)のラインナップは、バンド解散時まで変わることはなかった。

なお、バンド名は「TMGE」または「ミッシェル」の略称がしばしば使われる。

この時期クハラは春に就職した北見市役所勤務で北海道在住だったため、週末に上京し、在京メンバーと合流してライヴに出演していた。

7月9日、下北沢屋根裏にてワンマン・ライヴを実施。チケットは完売であった。

 

 

1995年1月、クハラが市役所を10ヶ月で退職し、東京に戻ってくる。

10月21日、インディーズからミニ・アルバム『wonder style』を発売、本作は1997年5月1日に日本コロムビアより再発された。オリコン40位。

 

 

1996年2月1日、thee michelle gun elephantのギタリストとして、シングル“世界の終わり”で日本コロムビア内レーベルの「トライアド」よりメジャーデビュー。

 

なお、楽曲制作は、基本的に全作詞をチバが手掛けるのに対し、作曲と編曲はメンバーそれぞれがリフなりメロディなりのアイデアを持ち寄り、それを他のメンバーと完成させていくスタイルのため、バンド名でクレジットされる。

3月1日、メジャー初のアルバム『cult grass stars』をリリース。オリコン67位。

 

8月1日、2ndシングル“キャンディ・ハウス”発売、オリコン60位。

 

10月19日、3rdシングル“リリィ”発売、オリコン50位。

 

11月1日、2ndアルバム『High Time』を発売、オリコン13位。なお、アナログ盤のタイトルは『is this High Time ?』である。

 

 

1997年5月1日、4thシングル“カルチャー”発売、オリコン29位。

 

8月1日、5thシングル“ゲット・アップ・ルーシー”を発売、オリコン24位。

 

10月21日、6thシングル“バードメン”をリリース。『ぷらちなロンドンブーツ』OPテーマにも使われヒットする。オリコン23位。

 

11月1日、3rdアルバム『Chicken Zombies』を発売、オリコン5位。


1998年8月1日、8thシングル“G.W.D”を発売、オリコン17位。

 

8月、東京・豊洲で行われたフジロックフェスティバルに出演。激しいモッシュが巻き起こり安全のために何度か演奏が中断されるほどに白熱したライヴを披露。

9月1日、9thシングル“アウト・ブルーズ”を発売、オリコン7位。

 

11月3日、10thシングル“スモーキン・ビリー”を発売、オリコン13位。

 

11月、4thアルバム『ギヤ・ブルーズ』をリリース。オリコン6位。

直後、ホール・アリーナクラスでありながらオールスタンディング仕様で行われたツアー「WORLD PSYCHO BLUES TOUR」を実施。このツアーのファイナルの会場は横浜アリーナが選ばれ、横浜アリーナとしては前代未聞のオール・スタンディング・ライブを開催。チケットは即完売となり、観客の動員人数は延べ1万5000人であるとされている。当日観客席にいたロッキング・オン社長の渋谷陽一はこの光景を見て「音楽評論家を始めて30年、いつか日本にもこういう日が来るのではと夢見てきたが、本当に来た、と思わず涙ぐみそうになった」と心情を表した。


1999年4月2日~8月6日、「WORLD GEAR BLUES TOUR」と銘打ち、まずは国内40ヶ所62公演をツアーで回る。

8月27日~10月4日、「WORLD GEAR BLUES TOUR」の一環で、イギリス4公演、アメリカ17公演を行う。

その間にもライジング・サン・ロックフェスティバルおよび各種イベントに参加し精力的なライヴ活動を展開した。

 

 

2000年2月2日、11thシングル“GT400”を発売。オリコン18位。

 

3月1日、5thアルバム『カサノバ・スネイク』を発表。本作からバンド名を、すべて大文字の「THEE MICHELLE GUN ELEPHANT」と表記。オリコン7位。

 

4月14~21日、ヨーロッパを廻る「TMGE EUROPE TOUR 2000」を実施。

帰国後『WORLD CASANOVA SNAKE TOUR』を開催したが、観客がペットボトルをステージ上に投げ入れるなどの妨害行為によりライヴが中断するという逆境に数ヶ月間見舞われた。

7月29日、ツアー終了後の「FUJI ROCK FESTIVAL」では、二日目のグリーンステージのトリを飾る。

9月27日、12thシングル“ベイビー・スターダスト”をリリース、オリコン12位。

 


2001年3月1日、ザ・パイレーツのメンバーであるミック・グリーンの来日時にアベ、ウエノ、クハラの3人がセッション。その際レコーディングした曲を「MICK GREEN with THEE MICHELLE GUN ELEPHANT」名義のシングル“KWACKER”としてリリースした。

 

3月22日、13thシングル“暴かれた世界”をリリース、オリコン9位。

 

5月23日、6thアルバム『ロデオ・タンデム・ビート・スペクター』発売と同時に代々木公園にてフリーライヴ「TMGE YOYOGI RIOT 2001523」を開催。当日の午前0時から会場の情報が解禁されたが、朝から体育館前には長蛇の列ができ、雨天の中2万人を動員しライヴを成功させた。アルバムhオリコンで自己最高となる3位を記録した。

6~11月、新作アルバムを引っさげて行われた全国ツアー「RODEO TANDEM BEAT SPECTER TOUR」は、国内32ヶ所で43公演をこなす長いツアーとなった。

 

7・8月、ツアーと並行して全国のロックフェスにも出演。

ツアー終了後は一時的に活動が休止され、ライヴや作品発表が途絶える。

 

 

2002年3月1日、バンド活動休止中、DVD『GOD JAZZ TIME』をリリース。
7月1日付でユニバーサルミュージック内のレーベルであるユニバーサルシグマに移籍し活動再開。

フェス等に出演後、9月6日から「Where is Susie? TOUR」がスタート。

12月25日、トライアドからのベスト・アルバム『THEE MICHELLE GUN ELEPHANT GRATEFUL TRIAD YEARS』をリリース。

同日、ユニバーサルミュージック移籍後初のシングルとして、14枚目の“太陽をつかんでしまった”を発売、オリコン8位。

 

 

2003年3月5日、7thアルバム『SABRINA HEAVEN』をリリース。オリコン6位。

 

4月からは「WILD WILD SABRINA HEAVEN TOUR」を実施。『SABRINA NO HEAVEN』はリリース前であったが、収録曲はツアーで演奏された。

4月7日、15thシングル“Girl Friend”を発売、オリコン25位。

 

6月21日、前作からわずか3カ月余りで8thアルバム『SABRINA NO HEAVEN』をリリース。オリコン6位。

 

6月27日、『ミュージックステーション』に初出演し、『SABRINA NO HEAVEN』収録曲の“デッドマンズ・ギャラクシー・デイズ”を演奏。その際の別のゲスト、t.A.T.u.が生放送中に出演を放棄するというハプニングが発生。既に演奏を終えていたTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTが埋め合わせとして急遽“ミッドナイト・クラクション・ベイビー”を番組の最後に追加で演奏した。

※映像は両曲とも、当該番組での演奏音源とは異なる。

 

 

8月31日、人気絶頂、ファンクラブ会員へ向けた封書で解散を通知。

9月1日、自身の公式ウェブサイトにて正式に解散が発表される。

9月5日、『ミュージックステーション』に再び出演し“エレクトリック・サーカス”を演奏したが、これが最後のテレビ出演となった。
10月11日、ラストツアー「LAST HEAVEN TOUR」最終日のこの日、16thシングル“エレクトリック・サーカス”の発表と同時に幕張メッセで約37000人を動員したライブをもって、THEE MICHELLE GUN ELEPHANTはその活動に幕を下ろした。最後の演奏曲は“世界の終わり”だった。

 

メジャーデビュー後、ライヴでは殆どMCをしてこなかったアベだったが、解散ライヴの最後には笑みを浮かべながら「ありがとう」とだけ述べ、THEE MICHELLE GUN ELEPHANTの活動を終了した。
 

 

2004年、元SNAIL RAMPのAKIOのソロプロジェクト「KOOLOGI」に参加。

 

 

2005年、ルースターズトリビュート盤に「BAREBONES+アベフトシ」で参加。BAREBONESは、アベがTMGE加入以前に参加していたバンドTRAWBERRY JEANで一緒だった後藤達也が所属するバンドである。

 

12月、恵比寿LIQUIDROOMでのレコ発にて、BAREBONES+アベフトシでライヴを実施。
 

 

2006年、和氣亜耶、惑星の元ベース清水義将、山岡卓寛とともにバンド「CARRIE」を結成するも、同年12月21日に解散。

 

 

2008年9月15日、シーナ&ザ・ロケッツの広島公演にSpecialGuestとして参加、敬愛する鮎川誠との共演で5曲を演奏した。
晩年は故郷の広島に帰り、ペンキ屋として生計を立てていた。

同郷の先輩・吉川晃司に東京に呼び出され、自身のライヴへの参加を要請されるが泥酔していた2人は会談の席で殴り合いの喧嘩になる。

翌日、アベは吉川に謝罪し、オファーを快諾。

12月29日〜31日の代々木第二体育館で行われた吉川晃司のライヴに出演し、吉川を「アニキ」と呼び慕うまでに親睦を深めた。しかし、これがアベの生涯最後のライヴ出演となった。





2009年7月22日未明、急性硬膜外血腫のためアベフトシが死去。42歳没。この日は、結果的に最後のライヴ出演となった演奏が収録されている、吉川晃司のアルバム『Double-edged sword』 (初回限定盤のDisc2 「25th Year's Eve Live」)の発売日であった。

 

 

 

 

7月25日、The Birthdayのヴォーカルとしてフジロック・フェスティバルに出演したチバユウスケは、ライヴの冒頭で「今日のライブは、俺達の大親友だったアベフトシに捧げます。」と述べた。

同年末~2010年初頭、アベフトシ追悼プロジェクト「FOREVER MICHELLE -Final works of rockin' blues-」が始動。

12月16日、ベスト・アルバム『THEE GREATEST HITS』を、コロムビア・ユニバーサルのレーベルを超えたコンプリート・ベスト・アルバムとして2枚組で発売。 初回盤はSHM-CD+DVD+豪華写真集。オリコン8位。

 

追悼プロジェクトの一環として、ラストライブを編集した映画公開、ラストツアーでのステージショットの上映が行われた。

 

 

2010年1月20日、DVD-BOX『THEE LIVE』を完全初回限定生産で発売。テレビ収録されたライヴ映像、イベント、フェスティバル、特番などの中から厳選されたアーカイブDVD-BOX。ライブ映像を収録したDVD10枚に、ボーナスDVDが2枚ついた全12枚組。

12月16日、アベフトシのムック本『アベフトシ THEE MICHELLE GUN ELEPHANT (Guitar Magazine Special Feature Series)』がリットーミュージックから発刊。

 

 

2015年5月、TMGEのラストツアー『LAST HEAVEN TOUR』で撮影された写真、全400ページの写真集『THEE MICHELLE GUN ELEPHANT −LAST HEAVEN−』(赤々舎)が刊行された。


2023年11月26日、チバユウスケが食道ガンのため死去。4月に同病にかかっていることを公表し、以降音楽活動を休止し療養していた。

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「アベフトシ」「THEE MICHELLE GUN ELEPHANT」

 

 

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