鮎川 誠(あゆかわ まこと、1948年5月2日 - )は、日本のギタリスト、作曲家、俳優。
シーナ&ザ・ロケッツ(Sheena & The Rokkets)のリーダー、ボーカル・ギタリスト。
鮎川誠は、生まれた時からロックである。
1948年、福岡県久留米市にて、アメリカ軍の軍人だった父と日本人の母の間に生まれる。
父が転任する時、母は誠と共に日本に残ることを選んだ。
手紙での交流は続いていたが、誠が中学生の時、父の訃報が伝えられた。
父が遺したフランク・シナトラやビング・クロスビーのレコードが誠のアメリカとの最初の邂逅。
小学校5年生の時、誕生日プレゼントとして母からガットギターを贈られ、練習を重ねる一方、
久留米のレコード店で、レイ・チャールズやエルヴィス・プレスリーのレコードを買う。
中学時代、高校受験勉強中のFENでビートルズの音楽に接する。
1964年、久留米の名門・福岡県立明善高校に入学。同年、ローリング・ストーンズを知る。
高校在学中に友人からマディ・ウォーターズなどブルースのレコードを借りて聴く。
1965年冬、修学旅行に行く代わりに費用を払い戻させて、テスコのセミアコを4500円で購入。
1966年、ビートルズ日本公演に刺激されバンド活動を始めストーンズやビートルズをコピー。
バンド活動を母に反対されるが、九州大学への進学を条件に許され、1年間の浪人の後、
1968年、九州大学農学部に入学。
同時期、浪人時代に知り合ったバンド「ジ・アタック」に加入。
奨学金を貰って大学に通いつつ福岡市中洲のダンスホールでハコバン(専属バンド)生活。
当時は、主にモータウンナンバーや、ウィルソン・ピケット、オーティス・レディング、
ジェームス・ブラウン、ブッカー・T&ザ・MG'sなどのスタックスナンバーを演奏していた。
鮎川誠は、日本のブルースロックの草分けである。
1970年、ジ・アタックのギタリストだった篠山哲雄や、バンド活動を通して知り合った
柴山俊之(菊)らと「サンハウス」(SONHOUSE)を結成。
バンド名は、ロバード・ジョンソンにギターを教えた「師匠」と言われ、戦前から活躍していた
デルタ・ブルースの父とも称される、サン・ハウス(Son House)から借名。
1974年、九州大学農学部農政経済学科を卒業。
同年、ワンステップフェスティバルにて、ジョン・レノンのプラスティック・オノ・バンドと共演。
1975年、テイチクレコード/ブラックレーベルより1stアルバム『有頂天』でメジャーデビュー、
日比谷野外音楽堂にてデビューライブを行う。
1976年、セカンド・アルバム『仁輪加』をリリース。
1978年3月25日、3枚目となるライヴ・アルバム『ドライヴ・サンハウス』を発表し、解散。
1982年12月31日、新宿ロフトでの企画ライブに、菊、鮎川、川島に、
ルースターズの花田裕之を迎えたメンバーで、サンハウス時代のナンバーをプレイした。
1983年、サンハウス再結成。
東京、福岡、仙台でライヴを行い、9月23日 日比谷野外音楽堂での模様を収録した
ライヴ・アルバム『CRAZY DIAMONDS〜ABSOLUTELY LIVE』をリリース。
2010年、3度目となる復活を果たし、結成35周年を記念して全国5箇所を回るツアーを行った。
2015年9月12日サンハウス初期のメンバー、菊、鮎川、奈良敏博(現シーナ&ザ・ロケッツ)、
浦田賢一の4人で、鮎川主謀ライブ「マディ・ウォーターズ生誕100年祝賀祭」のため再結集。
また、同年2月に亡くなったシーナの生誕記念ライブに参加。
この為に全盛期の面子が集まったサンハウスのリハーサル音源を40周年を記念にCD化。
『サンハウス/HAKATA』全26曲(2CD/30Tracks)118分収録でシーナの誕生日11月23日に発売。
2016年4月7日「シーナの日」にシーナ&ザ・ロケッツ、サンハウス(菊、鮎川、奈良、篠山、
鬼平)の2バンドでライブを行った。
鮎川誠は、夫婦でロックンローラーである。
1976年、シーナの妊娠を機に結婚。
1978年、シーナの父に励まされて単身上京の後、シーナもすぐに上京。
ヴォーカルをシーナに、ギター鮎川、サンハウス解散時のリズム隊、ベース浅田猛、ドラムス川嶋秀一と
シーナ&ザ・ロケッツ結成。当初の名義は「鮎川誠&シーナ・ロケット」、「鮎川誠&ミラクルメン」だった。
この年に母を亡くしている。
同年にシングル“涙のハイウェイ”でエルボン・レコードよりデビュー。
同年、エルヴィス・コステロの来日公演のオープニング・アクト(名目上・看板では対バン表記)
を福岡・大阪・東京で務めたとき、東京初日のステージで高橋幸宏から注目され、
YMOのライブ・セッション(二度目の六本木ピットインでのライブ)に参加。
1979年3月25日に、アルバム『Sheena & the Rokkets #1』をリリースした。
1979年にはアルファレコードへ移籍。
イエロー・マジック・オーケストラのメンバーの協力を得て、
1979年10月25日、2ndアルバム『真空パック』を発表。
同年12月5日シングルカットされた“ユー・メイ・ドリーム”が、
日本航空の「マイ・ハート・キャンペーン」のCMに起用され、ブレイクを果たす。
、
その後、米国のA&Mレコード、フランスのスカイドッグ・レコードなど海外でもアルバムを発売。
同年のYMOの2ndアルバムで、鮎川が表題曲含む2曲にギターで参加。
YMO世界ツアー後の「凱旋公演」では、シーナ&ザ・ロケッツがオープニング・アクトを務める。
1980年9月、3rdアルバム『チャンネル・グー』でプロデュースや演奏などYMOが全面参加。
1981年、ライブレコーディングした4thアルバム『ピンナップベイビーブルース』を発売。
同年、鮎川のヴォーカルトラックを集めた、鮎川誠初のソロ名義『COOL SOLO』をリリース。
1984年にビクター・レコードへ移籍。またビクター内レーベルのSPEEDSTAR RECORDSには創設以来20年在籍している。
同年、シーナが3人目の子どもを身ごもり産休中、
鮎川、浅田、川嶋の3人によるThe Rokketsu名義で『Rokket Size』をリリース。
同年11月21日、シーナ復帰作として『New Hippies』リリース。
最初はザ・ロケッツが数曲演奏し、その後シーナが登場してシーナ&ザ・ロケッツの演奏が
スタートという、以前からライヴで行われていた流れが完全に定着する。
1988年にはニューヨークのCBGBでライブデビューを果たす。
1993年には『LONDON SESSION』というタイトルでウィルコ・ジョンソンバンドと
鮎川とシーナとでロンドン・レコーディングによる2枚のアルバムを制作。
これ以降、ジョンソンとはプライベートも含めた親交を深めていく。
・・・その2に続く