坂本 龍一(さかもと りゅういち/Ryūichi Sakamoto/1952年1月17日~)は、日本の作曲家、編曲家、ピアニスト、俳優、音楽プロデューサー。

 

 

 

1952年、東京都中野区に生まれた。父は河出書房(当時)の編集者で、三島由紀夫『仮面の告白』をはじめ、野間宏、中上健次、高橋和巳など純文学作家を数多く担当した坂本一亀(さかもと かずき/1921年12月8日-2002年9月28日)。母の敬子は帽子デザイナーで銀座の宝石商に勤務。母方の祖父は実業家で、共保生命取締役、東亜国内航空会長などを務めた下村彌一で、第五高等学校と京都大学では池田勇人元首相と同級生で生涯の親友として付き合い、池田の葬儀では友人代表として弔辞を読んだという。母方の叔父(母の弟)は歴史学者で、千葉大学名誉教授の下村由一 (1931-) 。

3歳の時、通っていた幼稚園が「全員ピアノを習う」所だったためピアノを習い始める。自由学園幼児生活団に準じた世田谷幼児生活団で作った“うさぎのうた”が最初の作曲。

10歳で東京芸術大学教授の松本民之助に師事し、作曲を学び始める。なお、作曲を勉強し始めて最初に興味を持った作曲家はストラヴィンスキーであった。

この頃は特にピアノが好きではなく、むしろ苦痛だったという。

14歳の頃には「自分はドビュッシーの生まれ変わりだ」と半分信じていて、サインの練習までしていた。人生で最も影響を受けた音楽家も、ドビュッシーとバッハとしている。

1959年から東京都世田谷区給田に育つ。

世田谷区立祖師谷小学校、世田谷区立千歳中学校を卒業後、東京都立新宿高等学校へ進学。

高校時代には読書が趣味で、常に学校図書館の貸出ランキング10位以内に入っていた。風月堂などにたむろするフーテンたちに影響を受け、ジャズを聴くようになり、自分でも演奏する。ロックも好きであったが、フォークは大嫌いであった。学生運動にものめり込む。

 

1970年、新宿高校を卒業。

1970年、東京芸術大学入学。

在学中、民族音楽学研究の泰斗(たいと):小泉文夫の講義を受け、その内容の深さに坂本はそれまで培ってきた音楽観の根底を揺さぶられる程の大きな衝撃を受けたという。様々に変遷してきたと見られる坂本の作風だが、そのベースには、小泉から学び得た民族音楽学の知識や思想が確かにあるようだ。ただし小泉自身は作曲をしなかったので、坂本に作曲技法上の影響を与えた訳ではなかった。大学在学中、一年程作曲家:三善晃にも学んでいる。ただし一度直接指導を受けただけ、と坂本は発言。しかも、三善から「理論的すぎる」の如き指摘を受けたとも。さらには、渋谷で開かれていた高橋悠治の勉強会にも高校・大学を通して顔を出していた。坂本が電子音楽に出会ったのは、そんな大学学部在学中のことである。

 

1974年、東京芸術大学の音楽学部作曲科を卒業、同大学院音響研究科修士課程に進む。

 

1975年、大学院在学中に新宿ゴールデン街で意気投合したという友部正人の『誰もぼくの絵を描けないだろう』にピアノで参加。スタジオ・ミュージシャンとしてのキャリアをスタートさせる。

 

1976年、東京芸術大学大学院音響研究科修士課程修了。修士論文は『坂本龍一 Year Book 1971-1979』のDISC 2にも収録されている「反復と旋」。

同年、竹田賢一と「学習団」という芸術-実践の運動体を組織し、竹田のプロデュースの下、初めてのアルバム『ディスアポイントメント-ハテルマ』(土取利行とのコラボレーション)を発表。

以降、りりィのバックバンド「バイバイセッションバンド」に所属した。

当時のりりィのマネージャー(現:株式会社365代表)が元はっぴいえんどの細野晴臣のマネージャー日笠雅水に坂本を紹介、YMO結成の足がかりとなる。

この頃、初期の山下達郎の楽曲(“2000トンの雨”、“パレード”など)、大瀧詠一、山下達郎、伊藤銀次のアルバム『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』等にキーボードとして参加。大貫妙子のLP『SUNSHOWER』『MIGNONNE』『ROMANTIQUE』等にアレンジャー、プロデューサーとして参加。

 

 

1978年4月25日に発売された細野晴臣(ほその はるおみ/1947年7月9日-)のアルバム『はらいそ』に参加。この時の名義は「細野晴臣 & イエロー・マジック・バンド」。

同年、細野の誘いにより、元サディスティック・ミカ・バンドのドラマー高橋幸宏(たかはし ゆきひろ/1952年6月6日-2023年1月11日)とともに「イエロー・マジック・オーケストラ」(Yellow Magic Orchestra/略称:YMO) を結成、活動を開始する。なお、坂本を「教授」と最初に呼んだのは高橋幸宏だったという。

9月、YMOの初ライヴを日本楽器 池袋店東ショップ (YAMAHA) にて、松武秀樹をサポート・メンバーに迎えて行う。

10月25日、坂本は自身初のソロアルバム『千のナイフ』を日本コロムビアからリリース、ソロデビューも果たす。坂本は本作でシーケンサー・ローランド MC-8を初めて利用したが、この時音楽のノリ(はね方)を数値で分析し、コンピュータで表現することを発見している。本アルバムで坂本やコンピュータ・オペレーター松武秀樹らはイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)に繋がる制作手法のノウハウを得たという。

11月25日、『イエロー・マジック・オーケストラ』(Yellow Magic Orchestra) をアルファ・レコードから発売、日本ではオリコンチャート最高位69位を記録。日本国内では本作からのシングルカットはされていないが、イギリスでは“Yellow Magic (Tong Poo)”、“La Femme Chinoise”、アメリカ合衆国では“Computer Game”、“Cosmic Surfin'”がそれぞれシングルカットされ、ワールドツアーで欧米を回った。

12月、YMOが帰国し、中野サンプラザにてライヴを実施。凱旋公演ライヴでは、シーナ&ザ・ロケッツがオープニング・アクトを務めた。

 

 

1979年、YMOと並行する形で渡辺香津美、矢野顕子、小原礼、村上秀一、本多俊之らとセッションユニット「KYLYN」や、これとほぼ同メンバーで各パート二人ずつで演奏技術を競わせるというコンセプトの「カクトウギセッション」で活動。一部の楽曲で第二ピアノを演奏した高橋悠治のLP『新ウィーン楽派ピアノ音楽集成』が発表後に『新ウィーン楽派ピアノ作品集』としてCD化。参加楽曲シェーンベルク「四手のための六つの小品」は坂本のアルバム『フェイヴァリット・ヴィジョンズ』にも収録されている。

この年、「風の旅団」の前身となるテント劇団「曲馬館」の音楽にも参加した。

5月30日、アルバム『イエロー・マジック・オーケストラ (US版)』が海外でリリース、日本では同年7月25日に発売され、オリコン20位に達した。

9月25日、YMOの2ndアルバム『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』を発売、オリコン1位を記録し、爆発的人気を博す。

 

10月25日、YMOの1stシングル“テクノポリス” (TECHNOPOLIS)をアルバムからリカット、オリコン9位。

 

同年から1980年にかけて、YMOは2度にわたるワールドツアーを実施。
12月、坂本がアレンジを手掛けた「サーカス」のシングル“アメリカン・フィーリング” (作詞:竜真知子/作曲:小田裕一郎)で、日本レコード大賞編曲賞を受賞。

 

 

1980年6月5日、3rdアルバム『増殖』 (X∞MULTIPLIES)を発売、2作連続でオリコンアルバムチャート1位。

 

6月21日、2ndシングル“ライディーン”(RYDEEN)を発売、オリコン15位。

 

12月20日、3rdシングル“タイトゥン・アップ”を発売、オリコン43位。

 


1981年3月21日、YMOの4thアルバム『BGM』を発売、オリコン2位。

4月21日、4thシングル“キュー”(CUE)を『BGM』からリカット。

 

9月5日、5thシングル“マス”(MASS)を『BGM』からリカット。

 

11月21日、YMOの5thアルバム『テクノデリック』(TECHNODELIC)を発売、オリコン4位。

 

同年より、NHK-FM『サウンドストリート』の火曜日パーソナリティを担当、アマチュアミュージシャンから送られるテープを番組内で放送する「デモテープ特集」が不定期に行われていた。この頃、パンクバンド「TACO」(タコ)のオムニバスに“な・い・し・ょのエンペラーマジック”で参加し、同曲を番組で放送したが、放送禁止用語が含まれていたため、即オンエア中止になった。

 

この頃、TACO以外にもアンダーグラウンドロックシーンと交流、自主レーベル「パス・レコード」でフリクション、Phewのプロデュースを行っている。YMOのライヴを期待していた観客から野次られ「うるさいぞ、この野郎!」と怒鳴り返した等の逸話もある。

この頃、立花ハジメ、沢村満、鈴木さえ子らと「B-2UNITS」という名前のユニットを結成、ライヴ活動を散発的に行っている。

 

 

1982年2月21日、YMOの6thシングル“体操”(Taiso)を発売。だが実際にはこの年はYMOとしての活動はほとんど行われなかった。

 

2月14日、RCサクセションの忌野清志郎と組んでシングル“い・け・な・いルージュマジック”(作詞・作曲・編曲:忌野清志郎・坂本龍一)をリリース、資生堂「'82春のキャンペーンソング」として企画されたもので、オリコン1位と大ヒットを記録する。テレビの歌番組に出演した際には、どぎつい化粧をした男同士でキスをするなど、過激なパフォーマンスを展開し話題になった。

 

同年、矢野顕子と結婚。


1983年3月25日、カネボウ化粧品のCMソングに起用された、アルバムからの先行シングル“君に、胸キュン。(浮気なヴァカンス)”(作詞:松本隆/作・編曲:Y.M.O.)を発売し、YMOとしての活動を再開。オリコン2位。YMOのシングルとしては最も売れた。

 

5月11日にフランスで先行公開、日本では同年5月28日に封切られた映画『戦場のメリークリスマス』には、大島渚監督の依頼により「ヨノイ大尉」役で出演し、デヴィッド・ボウイ、ビートたけしと共演。出演の条件として音楽を担当した。同作は第36回カンヌ国際映画祭に出品され、結果は無冠だったものの、坂本の音楽は高く評価され、英国アカデミー賞 作曲賞を日本人として初めて受賞した。同作品のサウンドトラックからシングルカットされたデヴィッド・シルヴィアンとのシングル“Forbidden Colours”(禁じられた色彩)は、全英チャート(Music Week)16位を記録した。

 

 

5月24日、YMOの6thアルバム『浮気なぼくら』を発売、オリコン1位。

10月、雑誌『GORO』のインタビュー記事で初めてYMOの「散開」(解散)について言及。

7月27日、8thシングル“過激な淑女”を発売、オリコン15位。

 

9月28日、9thシングル“以心電信”を発売、オリコン23位。

 

11月23日、旧YMOとしての最後のライヴツアー(散開ライヴツアー)「1983 YMOジャパンツアー」が札幌:道立産業共進会場よりスタート、全国6会場で行われる。

12月14日、YMOの7thアルバム『サーヴィス』 (SERVICE)を発売、オリコン5位。

12月22日、ツアー最終日の日本武道館公演にて、世界コミュニケーション年(WCY)記念、国連大学協力によるチャリティー・コンサート(観客は全て無料招待)を実施。

同年末、YMOは「散開」(解散)する。

 

 

1984年、坂本は矢野顕子らと「MIDIレコード」を設立し、同レコード内にレーベル「school」を立ち上げる。

 

 

1986年、初のソロ・コンサート「メディア・バーン」全国24カ所・28公演を催行。

ソロツアー終了後、YMO以来所属していた「ヨロシタ・ミュージック」から独立し個人事務所「トラフィコ」を設立。


1987年、映画『ラストエンペラー』公開。坂本は「甘粕正彦満映理事長」役で俳優として出演し、音楽をデイヴィッド・バーン、蘇聡とともに担当。これによりグラミー賞 映画・テレビサウンドトラック部門、ゴールデングローブ賞 作曲賞、アカデミー作曲賞等を日本人として初めて受賞し、以後、映画音楽作家としての地位を確立する。溥儀役の主演俳優ジョン・ローンとは、敵役同士という間柄の役作りのために、撮影中は一言も口を利かなかったという。


1989年、都民文化栄誉章を受章。

同年、海外戦略のためヴァージン・レコードに移籍するが、セールス的な成功を収めることはなかった。後にEMIのヴァージン・レコード買収により契約を主導したヴァージン・アメリカの社長の辞任に伴って契約を解消。


1990年4月から、音楽の拠点をニューヨークに移す。別の女性と暮らし始め、男児をもうける。


1992年にはバルセロナオリンピック開会式のマスゲームの音楽を作曲(坂本のスケッチに基づく管弦楽編曲は作曲家の鈴木行一が担当)、自らも会場でオーケストラを指揮した。この依頼の当初「ナショナリズムを高揚させるスポーツイベントは嫌い」と一度は断ったが、プロデューサーPepo Solなど制作側から熱心なオファーがあり最終的には引き受けることになる。契約金は他の出演者とともに1ドルであった。この時の楽曲は後に“El Mar Mediterrani”として発表された。

 


1993年4月1日、YMO「再生」(再結成)の記者会見を3人そろって行う。

4月28日、10thシングル“ポケットが虹でいっぱい(Pocketful of Rainbows)”を発売、オリコン13位。

 

5月26日、YMOの8thアルバム『テクノドン』(TECHNODON)を発売、オリコン2位。

 

6月には東京ドームにて2日間のYMOライヴを行う。

8月25日、11thシングル“ビー・ア・スーパーマン(BE A SUPERMAN)”を発売、オリコン76位。

 


1994年には契約地域を分割し、日本ではフォーライフ・レコードに移籍し、レーベル「güt(グート)」を設立。日本国内での活動を活発にした。日本以外の海外地域ではエレクトラと契約。

6月、個人レーベル「グート」の第一弾作品として、ソロアルバム『スウィート・リヴェンジ』を発売する。



1995年、ダウンタウンの変名音楽ユニット「GEISHA GIRLS」に富家哲、テイ・トウワらと参加。以降、彼らとの親交を深め、『ダウンタウンのごっつええ感じ』ではコント「アホアホマン」に出演、大便のシミを付けたパンツで登場するなどアホアホブラザー役でエキセントリックな一面を見せた。

 

1998年、エレクトラとの契約を解消し海外地域ではSONY CLASSICALと契約、日本ではワーナーミュージック・ジャパンに移籍。


1999年、製薬会社三共(現:第一三共ヘルスケア)リゲインのCMに用いられたピアノソロ曲“エナジー・フロー”を収録したマキシシングル『ウラBTTB』がミリオンセラーとなり、インストゥルメンタルとしては初のオリコンチャート1位を記録した。

 

自身初となるオペラ『LIFE a ryuichi sakamoto opera 1999』(以下、LIFE)を公演。

この頃には矢野顕子との夫婦仲は実質的に破綻していたとされ、テレビ番組『おしゃれカンケイ』にて、愛人(ニューヨークで行動をともにしているマネージャー)とその女性との間にいる子ども(次男)の存在を認め、長男と坂本美雨に「お父さんにはお母さん(矢野顕子)以外に好きな人がいる」と告げたというエピソードも披露している。「子どもは4人」と語り、矢野顕子との結婚前に学生結婚していた女性との間にも子ども(長女)がいることも明かしている。


2001年、TBS50周年特別企画番組『地雷ZERO 21世紀最初の祈り』に出演。同番組の企画において、親交のある国内外のアーティスト達を起用し、地雷除去のためのチャリティーソング“ZERO LANDMINE”を作曲、リリースした。

 

同年、ボサノヴァトリオ「Morelembaum2/Sakamoto」を結成し、アルバム『Casa』を発表。

 

 

2002年、ボサノヴァトリオMorelembaum2/Sakamotoとしての活動、および坂本がこれまで自身の音楽にボサノヴァを取り入れてきたことなどが評価され、日本とブラジルの友好に寄与したとして、ブラジル政府より国家勲章を授与される。

同年、細野と高橋がエレクトロニカユニット「スケッチ・ショウ」を結成。アルバムには坂本も参加した他、ライヴ「WILD SKETCH SHOW」にて、ゲストミュージシャンとして坂本がステージに立ち、ライヴでは新たなアレンジとなった“キュー”や“中国女”、細野と高橋のみで演奏した“ジャム”と、YMOのナンバーも数曲が演奏された。


2003年4月にオープンした六本木ヒルズのテーマソング“the land song-music for Artelligent City”を発表。

 

同年、小林武史、桜井和寿らと非営利組織「ap bank」を設立。

 

 

2004年6月18日、次世代ミュージックとマルチメディア・アートの国際フェスティバル「sonar festival 2004」がスペイン・バルセロナにて開催され、3人はYMOではなく、「スケッチ・ショウ + 坂本龍一」という位置づけで「ヒューマン・オーディオ・スポンジ (Human Audio Sponge=HAS)」を名乗り、1993年の再生ライヴ以来11年ぶりにユニット(バンド)としてステージに立った。

10月9・10日、この「sonar」の衛星イベントとして、「sonarsound tokyo 2004」が恵比寿ガーデンプレイスにて開催され、再びHASとしてライヴを行った。いずれも演奏スタイルはYMOとは違い、それぞれのブースにMacintoshを配置したエレクトロニカのスタイルであった。演奏された曲目もスケッチ・ショウのレパートリーが中心で、YMO時代の曲で演奏されたのは“ジャム”と“ライオット・イン・ラゴス”だけだった。


2006年11月6日、エイベックスと新レーベル「commmons」を共同設立。

同年、矢野顕子と離婚。


2007年、1993年の再生以来、頑なに「YMO」を名乗ることを拒んできた坂本ら3人がそろってキリンラガービールのCMに出演。

2月3日、「YMO」の12thシングル“RYDEEN 79/07”をcommmonsからリリース、3人で出演したキリンラガービールのCMソング。オリコン1位。

 

3月10日~5月28日、高谷史郎とともに、オペラ「LIFE」をベースにしたインスタレーション作品「LIFE - fluid, invisible, inaudible ...」を山口情報芸術センターにて展示。初日の3月10日にはオープニング・コンサートを行った。

5月19日、ヒューマン・オーディオ・スポンジ(HAS)としてチャリティーライヴを行う。

7月7日、「ライブ・アース」に「Yellow Magic Orchestra」名義(略称は使用されていない)で、サポートメンバーなしの3人のみで出演。

8月22日、新曲“レスキュー”と“RYDEEN 79/07”を収録したシングルCDを、エイベックス内の坂本が主宰するレーベルcommmonsから発売。名義は“レスキュー”が「Human Audio Sponge」の頭文字にYMOを付けた「HASYMO(ハシモ)」、“RYDEEN 79/07”が「Yellow Magic Orchestra」。YMO名義のCD発売は1993年の『テクノドン・ライヴ』以来。

 

9月15日~11月4日、東京のNTTインターコミュニケーション・センターで「LIFE - fluid, invisible, inaudible ...」を展示。初日9月15日には、浅田彰、中沢新一を交えてのアーティスト・トークに加え、オープニング・コンサートを行った。



2009年7月16日、芸術家として文化の多様性を豊かにしたことなどが評価され、フランス政府から芸術文化勲章「オフィシエ」を授与された。


2010年3月12日、芸術分野での優れた業績を評価され、文化庁より芸術選奨「大衆芸能部門」の文部科学大臣賞を授与された。

2010年4月3日、NHK Eテレで音楽番組『スコラ 坂本龍一 音楽の学校』が放送開始。坂本龍一が講師となり、音楽の魅力を解き明かす内容で、5月29日~6月19日放送の4回においては細野と高橋も出演、ベースとドラムについての講義に参加した。なお、このYMOそろい踏みの4回の放送回にて「ワークショップ演奏」を行ったのは、坂本の母校である世田谷区立祖師谷小学校の児童たちだった。

 

 

2012年8月1日、13thシングル“Fire Bird”をデジタル配信リリース。

11月23日、アジア太平洋映画賞国際映画製作者連盟賞を受賞。


2013年2月8日、米カリフォルニア大バークレー校日本研究センターから「バークレー日本賞」を授与された。オリエンタリズムを感じさせる作風と初期の作品に見られた現代音楽の手法を用いた斬新さ、独特の風貌と知的な発言が固有の存在感を生み、多くのファンを獲得。これまでに映画やCMにも多数出演している。

同年、「第70回ヴェネツィア国際映画祭」のコンペティションの審査員を務める。


2014年、札幌国際芸術祭のゲストディレクターに就任。

同年7月10日、所属事務所エイベックス・ミュージック・クリエイティヴから中咽頭癌であること、療養に専念するためにコンサート活動などを中止する旨が発表された。かつてはインタビューなどで度々自身の健康状態や体力に自信を表しており、コンサート等公演スケジュールを自身の健康に起因する理由でキャンセルしたことがなかった。


2015年8月2日、映画『母と暮せば』(監督:山田洋次/主演:吉永小百合/2015年12月12日公開)の音楽で仕事復帰。本作で第70回毎日映画コンクール・音楽賞を受賞。

 

 


2016年、第25回モンブラン国際文化賞を受賞。


2017年11月4日、自身のドキュメンタリー映画『Ryuichi Sakamoto: CODA』が公開される。スティーブン・ノムラ・シブル監督によるもので、第74回ヴェネツィア国際映画祭アウト・オブ・コンペティション部門正式出品作品になった。


2018年、1月27日自身のライヴの様子を収録した映画「坂本龍一 PERFORMANCE IN NEW YORK: async」を公開。2月15日開催の「第68回ベルリン国際映画祭」で、コンペティション部門の審査員6名に選ばれる。

 

 

2019年1月2日、細野の音楽活動50周年を記念し、BSプレミアムにて『細野晴臣イエローマジックショー2』を放送。前回に続き、18年ぶりに3人が「どてらYMO」として“Rydeen”を演奏、さらに共演の星野源が加わって“Firecracker”を演奏した。

同年12月1日開催の細野の音楽活動50周年記念イベント「イエローマジックショー3」において、高橋のゲスト出演に加え、事前収録の映像で坂本が出演。映像の坂本と3人で“COSMIC SURFIN”と“ABSOLUTE EGO DANCE”を演奏。


2021年1月21日、前年の2020年6月にニューヨークにてがんの診断を受け、直腸がんおよび転移巣の手術を受けたことを公式サイトで発表。手術は20時間にも及び、発表後も転移した肺の摘出手術など6度に渡る手術が行われた。音楽活動再開に向けて入院治療に専念しつつ、『新潮』2022年7月号より「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」の連載を開始した。


2022年3月26日、東京・サントリーホールで行われた東北復興支援プロジェクト『東北ユースオーケストラ演奏会2022』に登場。『東北ユースオーケストラ』は、東日本大震災を体験した小学生から大学生までの若者で構成され2016年から2019年までに公演を定期的に行っていたが、2020年以降はコロナ禍のためコンサートは中止になっていたため、坂本とともに3年ぶりの公演であった。坂本は新曲“いま時間が傾いて”を初演。坂本がピアノ演奏を行う中で吉永小百合による詩の朗読も行われた。
6月、がんの「ステージ4」であり、両肺に転移したがん摘出手術を昨年10月および12月に受けたことなどを明かした。

 

 

2023年1月11日、高橋が脳腫瘍から誤嚥性肺炎を併発し70歳で死去。

訃報を受けて坂本はツイッター、インスタグラムを更新。コメントを記載せず、グレー一色の無地の画像のみをアップした。

1月17日、21stソロアルバム『12』をリリース。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「坂本龍一」「イエロー・マジック・オーケストラ」

 

 

 

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