ゲイリー・ムーア(Gary Moore/出生名:Robert William Gary Moore/1952年4月4日~2011年2月6日)は、北アイルランド出身のロック・ギタリスト、歌手、作曲家。

 

 

 

1952年4月4日、ロバート・ウィリアム・ゲイリー・ムーアは、北アイルランドの首府ベルファスト(英語: Belfast/アイルランド語:Béal Feirste)に、主婦のウィニーと、ハリウッドのクイーンズ・ホールのボールルームを経営していたプロモーターのロバート・ムーアの息子として生まれる。彼はベルファストのストーモント・エステート近くで4人の兄弟とともに育った。

 

小学生の頃ピアノを習い始めるが教師と合わず挫折。

彼は音楽を始めるきっかけを与えてくれたのは父親だと信じていた。

6歳の時、父親が彼を主催したイベントのステージでショーバンドと一緒に“シュガータイム”を歌うように誘ったのが、彼の音楽への興味のきっかけとなった。

 

10歳の時、父はムーアに最初のギターを贈った。それは中古のフラマス・アコースティックだった。ムーアは左利きだったが、右利きで楽器を演奏できるようになった。

当初はシャドウズのコピーに明け暮れ、やがてジェフ・ベック、エリック・クラプトン、さらにジミ・ヘンドリックスなどの影響を受け始める。特にピーター・グリーンから強い衝撃を受け、プロギタリストになる決意を固める。

 

1966年、14歳の時、ムーアにとって最初のバンド「ザ・ビート・ボーイズ」(The Beat Boys)を結成、主にビートルズの曲を演奏するこのバンドで父の経営するクラブにレギュラー出演する。

 

彼は後にPlatform Threeなどに参加した。

 

1968年、交通事故で演奏ができなくなったギタリストの代役として、ベルファストのアマチュア・グループ「ザ・メソッド」(The Method)に加入。

同年、ザ・メソッドでダブリンをツアー中、ビートニク・シンガーのブラッシュ・シールズに誘われ、ブルーズロック・バンド「スキッド・ロウ」(Skid Row)に加入。当時のメンバーは、ブレンダン "ブラッシュ" シールズ、ノエル・ブリッヂマン、フィル・ライノット(Phil Lynott/ 1949年8月20日-1986年1月4日)で、これにムーアが加わった。ムーアとライノットはすぐに友人となる。なお、1980年代の活動で知られる米国の同名ヘヴィメタル・バンドとは無関係。

この頃、ムーアはギタリストのロリー・ギャラガーと友人になり、ギャラガーはしばしば同じ会場で演奏した。

同年、ちょうどザ・トラブルズが北アイルランドで活動を始めていた頃、彼はベルファストを離れダブリンへ向かった。 

 

1969年、両親が離婚した。
同年、スキッド・ロウはアイルランドのソング・レーベルから、フィル・ライノットをヴォーカルに据えたシングル“New Places, Old Faces / Misdemeanour Dream Felicity”でメジャー・デビュー。ムーアが作曲した“Misdemeanour Dream Felicity” が彼のキャリアにおいて最初のシングルとなる。

 

だが、ライノットはバンドから解雇宣告を受ける。

その後、フリートウッド・マックの前座を務めた際にスキッド・ロウはピーター・グリーンに気に入られ、フリートウッド・マックを手掛けていたクリフ・ディヴィスにCBSとの契約を勧められる(1983年に誤って初回盤のみ発売された『Dublin Gas Comy.Cooker & Meter Factory』はその時のデモ・テイクである)。


1970年、「キング・クリムゾンへのアイルランドからの回答」として売り出されたスキッド・ロウは、アルバム『スキッド』(Skid)を発表。米国ツアーも2回敢行、2度目の米国ツアーではフィルモアにも出演、グレイトフル・デッドのオープニング・アクトの他、オールマン・ブラザーズ・バンドのツアーのサポートも行なう。

 


1971年夏、34時間でレコーディングした2ndアルバム『34時間』(34 Hours)を発表。欧州ツアー、3rdアルバムを録音後、同年秋にムーアはスキッド・ロウを脱退。

 


1972年、ムーアは自身のバンド「ザ・ゲイリー・ムーア・バンド」 (The Gary Moore Band) をロンドンで結成。

 

 

1973年5月、初のリーダー・アルバム『グラインディング・ストーン』(Grinding Stone)をゲイリー・ムーア・バンド名義でCBSから発表するも、セールス的には恵まれず、グループは自然消滅した。

 

 

1974年1月、旧友フィル・ライノットに乞われて数ヶ月間、ギタリストのエリック・ベルの代役として「シン・リジィ」(Thin Lizzy)で活動を行う。

3月、シン・リジィのデッカ・レーベルでの最終レコーディングとなるシングル“Little Darlin / Sitamoia”の制作にも参加する。

 

在籍中のライヴでは、既にグループの次作アルバムから“Still in Love With You”、 “Showdown”、“It's Only Money”などを演奏しており、4作目アルバムのデモ・レコーディングも残した。なお、シン・リジィが新たに契約したヴァーティゴ・レーベルからリリースされたアルバム『ナイト・ライフ』(Nightlife )では“Still in Love With You”1曲のみ「ゲスト・ギタリスト」としてクレッジットされている。

 

5月、コロシアムのドラマー、ジョン・ハイズマンとともに新バンドを結成すべく人選を開始。ドン・エイリー、ニール・マーレイ、ジョン・モールらとともにジャズ・ロック・バンド「コロシアムII」(Colosseum II)を結成した。

 

 

1976年4月19日、コロシアムIIの1stアルバム『Strange New Flesh』をBronze Recordsからリリース。

 


1977年1月、コロシアムIIの2ndアルバム『Electric Savage』をMCAから発売。

 

1月、ブライアン・ロバートソンの代役として、ムーアは再びシン・リジィに参加、クイーンとの米国ツアーに同行する。

11月、コロシアムIIの3rdアルバム『Wardance』をリリース。


1978年1月22日、コロシアムIIはまた、アンドリュー・ロイド・ウェバーとの変奏曲でも演奏し、チェロのジュリアン・ロイド・ウェバー、キーボードのロッド・アージェント、そしてフルートとサックスでハイズマンの妻バーバラ・トンプソンもフィーチャーした。このアルバムは全英2位に達した。

 

8月、ムーアはシン・リジィに正式加入。

9月、コロシアムIIにも在籍したまま、ソロ名義でMCAと契約し、初のソロ名義アルバム『バック・オン・ザ・ストリーツ』(Back on the Streets)を発表、全英70位を記録する。自作のインストゥルメンタル曲の他、ライノットとの共作曲を収録。中でもピーター・グリーンから譲り受けた1959年製ギブソン・レスポール・スタンダード による演奏が印象的な“パリの散歩道” (Parisienne Walkways)は全英8位を記録。

 

 

その後、ムーアはコロシアムIIから脱退した。

12月、シン・リジィが新作アルバムのレコーディング開始する。


1979年2月、シン・リジィのアルバム『ブラック・ローズ』(Black Rose: A Rock Legend)をリリース。ここからは、"Waiting for an Alibi"が全英9位、"Do Anything You Want To"が全英14位、さらにムーアがライノットと共作した"Sarah"は全英24位をマークした。

 

 

 

 

7月4日、米国ツアー中、マネージメントに嫌気がさしたムーアは、シン・リジィを離脱した。

同年、ロサンゼルスにて元ディープ・パープルのグレン・ヒューズと、シン・リジィのサポートを務めたことのあるマーク・ナウシーフとで活動を開始する。

9月、ライノットをフィーチャーしたMCA最後のソロ・シングル“Spanish Guitar”をリリース。

 

グレン・ヒューズとのグループは頓挫したものの、元CBSのディレクター、ドン・アーデン(シャロン・オズボーンの父親)が立ち上げたレーベル「ジェット・レコード」と契約。「スーパー・ギタリストの新グループ」名目のもと、複雑なリズムを多用したバンド「G-Force」を結成。メンバーは、マーク・ナウシーフ(元エルフ、イアン・ギラン・バンド)、トニー・ニュートン(アラン・ホールズワースの在籍したニュー・トニー・ウィリアムス・ライフ・タイムのベーシスト)、シンガーのウィリー・ディー (ウィリー・ダファーン)(キャプテン・ビヨンド)。


1980年5月、英国でアルバム『G-FORCE』をリリース。

 

6月、ホワイトスネイクのサポート・アクトとして英国ツアーを行うが、グループはうまく行かずに活動停止。アルバムはアメリカン・パワー・ポップ風なサウンドを狙ったが、アメリカ国内での配給先を決定する前に、この1枚でG-Forceは解散、予定していた8月のレディング・フェスティバルへの出演をキャンセルした。

11月、ジェット・レコードはマーキー・クラブでライヴ・レコーディングを行う。メンバーはドン・エイリー、アンディ・パイル、ケニー・ドリスコール、そしてアメリカから招いたトミー・アルドリッジであった。


1981年、スタジオ・アルバムの制作をドン・エイリー、ジミー・ベイン、トミー・アルドリッジ、シャーリー・ハーンとで行なったが、別の日本からのオファーによりドラム奏者コージー・パウエルのソロ・アルバム制作を同時に行なったことが原因で、ジェット・レコードに対し契約違反となり、ムーアのソロ・キャリアはしばらくの間、問題への対処のため活動制限を余儀なくされた。
ジェット・レコードとの契約解消のためにソロ活動を封じ、同じマネージメントに所属をしていたグレッグ・レイクのソロ・アルバム『グレッグ・レイク&ゲイリー・ムーア』に参加する必要があった。レイクの復活ツアー・メンバーにてムーアがバンマスを任されて、ウッドストックでジョー・コッカーの仕事をしたトミー・アイアーがサポートした。他にテッド・マッケンナ(センセーショナル・アレックス・ハーヴェイ・バンド)、レイクが推薦したトリストラム・マーゲッツが参加。ムーアとレコーディング・メンバーはプロモーション・ツアーに同行、ムーアは自作曲“ニュークリア・アタック”を提供することで、レコーディングの報酬を得て、かねてからハード・ロックの音楽市場に興味を持っていたサー・リチャード・ブランソンのヴァージン・レコードから裁判費用の提供を受けてアーデンとの契約を解消した。

 

 

1982年、ヴァージン・レコードと契約し、イアン・ペイスを加えたバック・バンドを売りにレディング・フェスティバルに4年越しでソロ・アーティストとして登場した。10月、3月から録音にとりかかったレコーディングが結実したアルバム『コリドーズ・オブ・パワー』(Corridors of Power)をリリース、全英30位を記録した。ここからは、"Always Gonna Love You"が全米103位、"Falling in Love with You"が全米110位をマークした。

 

 

11月、『コリドーズ・オブ・パワー』が日本発売、オリコンLPチャート29位を記録。


1983年1月に初来日公演。チケットは即日完売し、追加公演も組まれた。来日メンバーはイアン・ペイス、ニール・マーレイ、ドン・エイリー、ジョン・スローマンという顔ぶれであった。プロモーションとしてテレビ朝日の人気音楽番組『ベストヒットUSA』に出演、シンコー・ミュージックから『100% Gary Moore』なる特集/スコア本も発刊された。

2月、アルバム『Victims of the Future』をリリース、全英12位をマーク。ここからは、"Hold on to Love"が全英65位、"Shapes of Things"が全英77位、"Empty Rooms"が全英51位を記録した。

 

 

 

同年、日本公演を収めたライヴ・アルバム『ロッキン・エヴリ・ナイト (ライヴ・イン・ジャパン)』が東芝EMIから日本限定発売、オリコンLPチャートで15位を記録。なお、日本での異常なまでの人気ぶりに便乗して、ジェット時代の未発表作品を、その販売権を得たソニー・レコードが『ダーティ・フィンガーズ』、『ライヴ・アット・ザ・マーキー』として相次いでリリースしたため、1984年のワールド・ツアーを収録したライヴ・アルバム『We Want MOORE!』の日本発売は見送られた。

 

 

1984年初頭、ソングライターのニール・カーターとの共同作業で制作されたアルバム『ヴィクティムズ・オブ・ザ・フューチャー』をリリース。

2月、初の日本武道館公演を含む2度目の来日公演を行った。メンバーはカーターにペイス、クレイグ・グルーバー(エルフ、レインボー)。

同年、イアン・ペイスはディープ・パープル再結成のためバンドを去り、7月のアメリカ・ツアーはセッション・ドラマーを起用して続行された。グルーバーはモンスターズ・オブ・ロック出演後に解雇され、1984年の冬からはボブ・デイズリーがベーシストとして参加しているが、ドラマーはその都度用意された。これを境に様々なドラマー、エレクトリック・ドラムスやプログラミング・ドラムを導入する傾向となる。

同年、ケルト風ポップ・ソングでヒット曲を持っていたニック・カーショウを手がけたプロデューサー、ピーター・コリンズをリミックスに起用したシングル“Empty Room”がイギリスで最高位51位を記録する。
12月、北アイルランド・ベルファストのアルスター・ホールで凱旋コンサート。アンコールでのフィル・ライノットとの共演がハイライトとなった。この演奏の模様はドキュメント・フイルム『エメラルド・アイルス』(VHS)に収められて発売された。


1985年、ライノットとの共演シングル“アウト・イン・ザ・フィールズ”(Out in the Fields)を「Gary Moore & Phil Lynott」名義でリリース。2人の共演は話題を呼び、イギリス国内で5位を記録、さらにアイルランド3位、スウェーデンとノルウェーでともに2位をマークした。

 

9月、アルバム『ラン・フォー・カヴァー』(Run for Cover)を発表、全英12位。“アウト・イン・ザ・フィールズ”を収録した他、ここからのシングルは他に、"Empty Rooms" [Summer 1985 version]が全英23位をマークした。

 

同月からの数公演でライノットがスペシャル・ゲストで参加。メンバーはニール・カーター、ボブ・ディズリーにゲイリー・ファーガソン (Gary Ferguson)。

10月に3度目の来日公演を行っている。

 

 

1986年1月4日、フィル・ライノットが死去。

同年、本田美奈子に“the Cross -愛の十字架-”(原曲Crying In The Shadows)を楽曲提供し東芝EMIから発売、日本ではムーア本人の録音でも発売された。


1987年3月2日、故郷のアイルランドを主題としたアルバム『ワイルド・フロンティア』(Wild Frontier)を発表し、全英8位、フィンランドとノルウェーで1位、スウェーデン2位、スイス7位、ドイツ9位を記録。ここからのシングルは、"Over the Hills and Far Away"が全英20位・米ロック24位、"Wild Frontier"が全英35位、"Friday on My Mind"が全英26位、"The Loner"が全英53位、"Take a Little Time"が全英75位をマークした。なお、本アルバムは、前年に亡くなった盟友フィル・ライノットに捧げられた。

 

 

 

 

 

4月、ドラマーにエリック・シンガーを迎え、スウェーデン・ストックホルムにてドキュメント・フイルム『Live At Isstadion』(VHS)を収録。

7月に来日公演。来日時にはプロモーションの一環としてフジテレビジョンの音楽番組『夜のヒットスタジオ』に出演した。


1988年初頭、前作の路線を引き継い新作アルバムのレコーディングを開始。

5月、ドラマーにクリス・スレイドを迎えて来日公演を開催。

5月、ニール・カーターとのコンビを解消する。
日本市場が盛んだったこの時期は、ヴァージン・レコードの日本配給先(当時)であるビクター・レコード契約の歌手浜田麻里が、ムーア作の“LOVE LOVE LOVE”(ギターは松本孝弘が演奏)を録音した。

 

 

1989年1月、オジー・オズボーン、サイモン・フィリップス、コージー・パウエルらが参加したアルバム『アフター・ザ・ウォー』(After the War)は、ベルファスト合意後に発表され、全英23位を記録した。ここからは、タイトル・トラック"After the War"が全英37位、"Ready for Love"が全英56位・米ロック13位をマークしたが、期待されたムーアとパウエルによる来日公演はリハーサル段階で頓挫した。

 

 

 

1990年3月、ブルーズ・アルバム『スティル・ゴット・ザ・ブルーズ』(Still Got the Blues)をリリース。親交のあったジョージ・ハリスンの他、米国のブルーズ・ギターの名手アルバート・キング(Albert King)、アルバート・コリンズ(Albert Collins)らがゲスト参加している。ここからは、アルバート・キングと共演した"Oh Pretty Woman"が全英48位・米ロック15位、"Still Got the Blues (For You)"が全英31位・米ロック9位、"Walking by Myself"が全英48位、アルバート・コリンズをフィーチャーした"Too Tired"が全英71位をマーク。本アルバムは、全英13位・全米83位を記録、ムーアにとって唯一の全米トップ100入りを果たし、1995年には同国でゴールドを記録、全世界で300万枚をセールス、以後ムーアは自らの音楽の軸をブルーズへと回帰させた。

 

 

 

 

 

この頃、ジョージ・ハリスンの誘いでトラヴェリング・ウィルベリーズの『トラヴェリング・ウィルベリーズ Vol.3』にも参加している。

4月、「ミッドナイト・ブルース・バンド」を編成して英国・欧州でコンサート。

5月のハマースミス・オデオンでのドキュメントは『スティル・ゴット・ザ・ブルース・ライヴ』というタイトルで映像化。基本メンバーはアンデイ・パイル (Andy Pyle/B)、グラハム・ウォーカー (Graham Walker/Ds)、キーボードにはドン・エイリーやトミー・エアー、そしてホーン・セクションに女性コーラスが参加。


1992年3月9日、アルバート・コリンズ、B.B.キングがゲスト参加し、多額の制作費を注ぎ込んだアルバム『アフター・アワーズ』(After Hours)を発表、全英4位。

4月、ジョージ・ハリスンのロンドン・ロイヤル・アルバート・ホール公演のサポートを担当。ジョー・ウォルシュとともにハリスンのステージにも参加。ムーアは「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」のギター・ソロを弾いている。ミッドナイト・ブルース・バンドはアメリカ、EUなどでプロモーション・ツアー。

6月28日にはハマースミス・オデオンでミック・ジャガーと共演し、この時ライヴ録音された“Everybody Knows About My Good Thing”はジャガーのソロ・シングル“Don't Tear Me Up”に収録された。

 


1993年6月、ワールド・ツアーを記録したライヴ・アルバム『ブルース・アライヴ』、映像作品『ライヴ・ブルース』を発表した。
11月、ドイツのケルンで行われたジャック・ブルースのバースデイ・コンサートに参加し、元クリームのメンバーであるブルース、ジンジャー・ベイカーとともにクリームの楽曲を演奏。後にライヴ・アルバム『シティーズ・オブ・ザ・ハート〜ライヴ1993』および映像作品『ライヴ・イン・ジャーマニー1993』として発表される。

 

 

1994年、ベイカー、ブルース、ムーアの3人でBBMを結成、バンド名はメンバーの頭文字から取られた。

5月17日、BBMはアルバム『アラウンド・ザ・ネクスト・ドリーム〜白昼夢』(Around the Next Dream)をリリース、全英9位をマークした。

 

 

同年、BBMはライヴを数回行った後、ベイカーがグループを離れたため、ゲイリー・ハズバンドがトリオに加わった。

同年、そのトリオで録音した新曲“ワン・デイ - One Day”を含む初のコンピレーション・アルバム『ベスト・オブ・ゲイリー・ムーア〜バラッズ・アンド・ブルーズ〜』をリリースした。

 


1995年5月31日、ピーター・グリーンに捧げたアルバム『ブルーズ・フォー・グリーニー』(Blues for Greeny)をリリース。グリーンの活動再開のきっかけともなるアルバム・リリース記念ライヴをロンドンにて行う。この様子は、映像作品『Blues for Greeny Live』としてリリースされている。

同年、ミッドナイト・ブルース・バンドを解散する。

 

 

1997年、ドラムンベース・サウンドなどを、ゲイリー・ハズバンドやガイ・プラットらテクニシャンとテクノロジー音楽との融合を試みたニュー・アルバム『ダーク・デイズ・イン・パラダイス』(Dark Days in Paradise)を制作、6月2日にリリース。ここからは、"One Good Reason"が全英79位、"I Have Found My Love in You"が全英90位に入った。本作から次作にかけて、自己のギターのトーン・コントロールとモダン・ミュージック(ダンス・ミュージック)の融合を計るアプローチや、デジタル録音機材の使用等に取り組み、ブルーズ・ギタリスト=古典派のイメージを払拭。

 

 

この年、ヴァージンとの契約が終了。


1999年9月27日、イギリスのキャッスル・コミュニケーション傘下のRaw Powerと契約、ゲイリー・ハズバンドとの録音によるアルバム『ディファレント・ビート』(A Different Beat)をリリース。ファットボーイ・スリムことノーマン・クックにインスパイアされたビッグ・ビートを導入。ヘンドリックスのカヴァー“Fire”に挑む。

 

7月に始まったゲイリー・ハズバンドとのフェスティヴァルでの出演をひと区切りにして、セッション・ドラマーでプライマル・スクリームのメンバーでもあるダリン・ムーニーを英国ツアーのメンバーに起用、またこの年のモントルー・ジャズ・フェスティヴァルには自己のバンドと、B.B.キングのバンドにゲスト参加している。

 

 

2001年3月12日、アルバム『バック・トゥ・ザ・ブルース』(Back to the Blues)をリリース、全英53位・米ブルーズ6位。

 

4月から数ヶ月英国、欧州にてコンサートを行う。1999年からのツアーとレコーディングに参加したピート・ルイス(B)、ダリン・ムーニー(Ds)、ヴィク・マーティン(Key)が、亡くなるまでの彼の主なバンド・メンバーになる。


2002年9月、突如トリオ編成のロック・バンド「スカーズ」を編成。メンバーはダリン・ムーニー(Ds)、元スカンク・アナンシーのキャス・ルイス(B)。アルバム『スカーズ~ゲイリー・ムーア キャス・ルイス&ダリン・ムーニー』リリース。

10月、ZZトップのサポート・アクトとしてEUでのツアーを敢行、

 

 

2003年5月、モンスターズ・オブ・ロック・UKツアー2003に出演(メインアクトはホワイトスネイク)、レディングでの公演はレコーディングされて映像作品にもなった。ツアー後半になると、怪我を理由に出演をキャンセル。

7月頃、スカーズは活動停止する。


2004年6月22日には再び個人名義によるアルバム『パワー・オブ・ザ・ブルーズ』(Power of the Blues)リリース。旧知のボブ・デイズリーを加えたバンドと数回のギグを行ったのみで、予定されていた欧州でのフェス出演はほぼキャンセルされた。

 

9月24日、フェンダー・ストラトキャスターの生誕50年を祝う『The Strat Pack: Live in Concert』に客演してピノ・パラディーノとともにジミ・ヘンドリックスの“Red House”を演奏した。


2005年8月20日、フィル・ライノットの故郷ダブリンにて行われたライノットの銅像建立記念コンサートに元シン・リジィのメンバーと「ゲイリー・ムーア・アンド・フレンズ」として出演、映像作品として発売された。

同年はほぼライヴ活動を行わず。


2006年4月、B.B.キングのファイナルUKツアーをサポートした。

5月2日、R&B、ブルー・アイド・ソウル的なアルバム『オールド・ニュー・バラッズ・ブルース』(Old New Ballads Blues)をリリースし、数年ぶりのコンサート・ツアーを行った。

 

8月12日に行われたチャリティ・コンサート「Vibes from the Vines」では モ・フォスター、ゲイリー・ハズバンドらとともに出演。


2007年、オーティス・ティラーのアルバム『Definition of a Circle』に参加。

2月にはラジオ番組『Blues Power, with Gary Moore』で司会を担当。

4月には北アイルランドでコンサートを2回行った。

5月には25作目にあたるアルバム『クローズ・アズ・ユー・ゲット』(Close As You Get)をリリース。レコーディングにも参加した元シン・リジィのドラマーであるブライアン・ダウニーが参加してヨーロッパ・ツアーを行った。

10月、ダリン・ムーニーらとともに『Tribute To Jimi Hendrix』でヘンドリックスの楽曲のみを演奏、ビリー・コックス、ミッチ・ミッチェルと共演した。この様子は2012年映像作品としてDVD、ブルーレイで発売された。

 


2008年7月7日、モントルー・ジャズ・フェスティバルでジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズのステージにゲスト出演。この模様はBSジャパンで放映された。
9月、生前最後のスタジオ・アルバム『バッド・フォー・ユー・ベイビー』(Bad for You Baby)をリリース、米ブルーズ2位をマークした。

 


2010年4月、21年振りの来日公演を東京・名古屋・大阪で開催。

夏の欧州でのフェスティヴァル・ツアーは、ニール・カーター、ピート・ルイス、ダリン・ムーニーらによって1980年代の楽曲が演奏され、ロシア東北部のウラジオストクまでのツアーが組み込まれた。ロシア公演中に「どうしてイスラエル公演を行わないのか?」と訊かれた質問に対してムーアは、「イスラエルによるパレスチナへの弾圧があるから」と答えた。




2011年2月6日未明、休暇先であるスペインのアンダルシア州マラガ県の都市エステポナにて睡眠中、心臓発作で急逝した。58歳没。

当時、ムーアはエステポナにあるケンピンスキー・ホテルでガールフレンドと休暇中だった。彼の死はシン・リジーのマネージャー、アダム・パーソンズによって確認された。『デイリー・テレグラフ』紙は、彼の心臓発作は0.38%の血中アルコール濃度によって引き起こされたと報じたが、一般に0.40%の濃度は致死的とみなされ、0.08%は合法的な飲酒とみなされている。音楽ジャーナリストのミック・ウォールによると、ムーアは晩年に深刻な飲酒問題を抱えていたという。


 

 

2011年2月23日、ムーアは、イングランド南海岸のロッティングディーンにあるセント・マーガレット教会墓地で、家族と親しい友人のみが参列し、非公開の儀式で埋葬された。ミュージシャンである長男のジャックと叔父のクリフは葬儀でアイルランドのバラード“ダニー・ボーイ”を演奏した。これは『ベルファスト・テレグラフ』紙で「教会の会葬者の一部が公然と泣いた完璧な追悼」として報じられた。

 

 

2021年4月30日、アルバム『How Blue Can You Get』がProvogueからリリースされ、全英54位をマークした。

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedi「ゲイリー・ムーア」「Gary Moore」「 Skid Row (Irish band)」「シン・リジィ」「Thin Lizzy」「コロシアム II」「Colosseum II」

 

 

 

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