オジー・オズボーン (Ozzy Osbourne/出生名:John Michael Osbourne/1948年12月3日~) は、

イングランド出身のヘヴィメタル・ミュージシャン、シンガーソングライター。

 

 

 

1948年12月3日、ジョン・マイケル・オズボーンは、イングランド中部のバーミンガムで労働者階級の家に生まれる。

 

学校にほとんど行くことはなく、酒代を得るために盗みを繰り返すような少年時代を送った。オズボーン少年はディスレクシア(dyslexia:失読症、難読症、識字障害、読み書き障害などと訳される)を抱えていた、とも言われている。

 

1968年、15歳で学校をドロップアウトした後、オズボーンは「こんな俺でも出来ることがある」ということを証明するために、「バンドメンバー求む」という旨のチラシを街に貼る。オジー・オズボーン(Vo)は、集まったトニー・アイオミ(Tony Iommi/1948年2月19日~/G)、ギーザー・バトラー(Geezer Butler/1949年7月17日~/B)、ビル・ワード(Bill Ward/ 1948年5月5日~/Ds)とともに、バンド「アース」(Earth)を結成する。

 

1969年、アースの4人は、バンド名を「ブラック・サバス」(Black Sabbath)へと改めた。この名は当時公開されていたホラー映画『BLACK SABBATH』(邦題『ブラック・サバス/恐怖!三つの顔』)からバトラーが命名。「sabbath」とは「安息日」のこと。

 

 

1970年2月13日、「13日の金曜日」という曰く付きのこの日、自費レコーディングによるアルバム『BLACK SABBATH』でデビュー。本国イギリスでは全英アルバムチャート8位に入り、ゴールド・ディスクを獲得。アメリカでは『ビルボード』誌アルバムチャート「Billboard 200」(以下「全米」)で最高位23位ながらロングセラーとなり、最終的にはプラチナ認知を受けた。なお、日本盤における邦題は、『黒い安息日』であった。

 

 

9月18日、2ndアルバム『パラノイド』(Paranoid)をリリース、全英1位に輝いた他、全米12位を記録し、各国でもトップ10上位に入る大ヒットとなった。また、シングルカットされたタイトルトラック“パラノイド”(Paranoid)が全英4位、『ビルボード』誌の総合シングルチャート「Billboard Hot 100」(以下「全米」)でも61位にチャートイン、さらに西ドイツ(当時)では1位を獲得した。

 

 

 

1971年7月21日、3rdアルバム『マスター・オブ・リアリティ』(Master of Reality)をリリース、全英5位・全米8位。“Children Of The Grave”をシングルカット。

 

 

1972年9月25日、4thアルバム『ブラック・サバス4』(Black Sabbath Vol.4 )をリリース、全英8位・全米13位。"Tomorrow's Dream"をシングルカット。 

 

 

1973年12月1日、アルバム『血まみれの安息日』(Sabbath Bloody Sabbath)をリリース、全英4位・全米11位。

 

 

 

1975年7月28日、アルバム『サボタージュ』(Sabotage)をリリース、全英7位・全米28位。

 

 

1976年、アルバム『テクニカル・エクスタシー』(Technical Ecstasy)をリリース、ヒプノシスがジャケット・デザインを担当した。全英13位・全米51位。

 

 

1977年、オジーはバンドから一度脱退。だが実態は、自身が発起人となって作ったバンドから解雇された形だった。だが、後任のヴォーカリストを入れて活動を続けていたブラック・サバスだったが、うまくいかなかった。

 

 

1978年1月、すぐにオジーが呼び戻され、バンドに復帰。

9月28日、8thアルバム『ネヴァー・セイ・ダイ』(Never Say Die!)をリリース、全英12位・全米69位。に続き、ジャケット・デザインはヒプノシスが担当した。タイトルトラック“ネヴァー・セイ・ダイ”(Never Say Die!)が全英21位、"Hard Road"が全英33位と久々にチャートインした。しかしアルバムの評判は芳しくなく、酷評された。

 

12月、アルバムのプロモ・ツアー終了後、アルコール問題が解決されないため、オジーは再度解雇され、正式にサバスを脱退した。この時期彼は「この頃の記憶がほとんどない」といわれるほど酒や薬物に溺れ、重ねて父の死により精神的に大きなダメージを受け、日常生活にも支障をきたしかねない状態となっていた。

 

 

1979年、ソロ活動を開始。オジーは自身のバックサポートをするパーソナルバンド「オジー・オズボーン・バンド」を組織、元クワイエット・ライオットのランディ・ローズ(Randy Rhoads/G)、元レインボーのボブ・デイズリー (Bob Daisley/B)、元ユーライア・ヒープのリー・カースレイク (Lee Kerslake/ Ds)とともに活動を開始する。

 

 

1980年9月20日、ソロ第一弾アルバム『ブリザード・オブ・オズ〜血塗られた英雄伝説 』(BLIZZARD OF OZZ)をリリース、全英7位・全米11位を記録した。本作では、「ブリザード・オブ・オズ」がバンド名と勘違いされたこともあるが、厳密には勘違いではなく、契約上の問題やプロモーション戦略上の観点から最終的にクレジットしなかったバンド名である。ちなみに英国盤のファースト・シングルにはこの名がバンド名として記載されている。アルバムからは"Crazy Train"が全英49位・メインストリーム9位、"Mr Crowley"もヒットした。

 

 

 

 

1981年、2ndソロアルバム『ダイアリー・オブ・ア・マッドマン』(DIARY OF A MADMAN)をリリース、全英14位・全米6位位で、アメリカではトリプル・プラチナ認定を受けた。"Flying High Again"がメインストリームロックチャートで2位に入った。

 

 

1982年3月19日、好調にスタートしたオジーのソロ活動を支えたランディ・ローズが飛行機事故でその短い生涯を終える。

その後オジーは、ジェイク・E・リーを筆頭に、有能な若手ギタリストを発掘してメンバーに加えることが慣例化する。

 

 

1983年12月10日、ソロアルバム『月に吠える』(BARK AT THE MOON)をリリース、全英24位・全米19位。タイトルトラック"Bark at the Moon"が全英21位・メインストリーム12位、"So Tired"が全英20位を記録した。

 

 

 

1986年、ソロアルバム『罪と罰』(THE ULTIMATE SIN)をリリース、全英8位・全米6位。アルバムから"Shot in the Dark"が全英20位・全米68位・メインストリーム10位を記録した。

 

 

1987年、ジェイク・E・リーの後任ギタリストに、オーディションにテープを送ってきた当時19歳のザック・ワイルド(Zakk Wylde/1967年1月14日~)を選出、オジーとの初ライヴはイギリスの刑務所だったという。

 

 

1988年、ソロアルバム『ノー・レスト・フォー・ザ・ウィケッド』(NO REST FOR THE WICKED)全英23位・全米13位。

 

 

1990年、オジーは突然ライヴツアーからの引退を宣言。

 

 

1991年9月17日、ソロアルバム『ノー・モア・ティアーズ』(NO MORE TEARS)をリリース、全英17位・全米7位に達し、アメリカで4Xプラチナを達成、セールスはソロキャリアの中で最高を記録した。タイトルトラック“ノー・モア・ティアーズ”(No More Tears)が全英32位・全米71位・メインストリーム10位、"Mama, I'm Coming Home"が全英46位・全米28位・メインストリーム2位に入った。収録曲“アイ・ドント・ウォント・トゥ・チェンジ・ザ・ワールド”(I Don't Want to Change the World)は、グラミー賞「最優秀メタル・パフォーマンス部門」を受賞。オジーにとって初のグラミー受賞受賞となった。

 

 

 

 

同年、ドキュメンタリー映像作品『Don't Blame Me The Tales Of Ozzy Osborne』(邦題:ヒストリー・オブ・オズ)」が公開。

 

 

1995年、『オズモシス』(OZZMOSIS)をリリース、全英22位・全米4位。"Perry Mason"が全英23位・メインストリーム3位、"See You on the Other Side"がメインストリーム5位になった。

 

 

アルバムをリリース後、プロモーションのためのライヴツアーを開始し、引退を撤回した。

 

 

1997年にオリジナル・メンバーによるラインナップが集結し、ブラック・サバスを再結成、オズボーンはバンドへ19年ぶりに復帰した。

復活したバンドは、オズフェストのヘッドライナーを務めたのを始め、欧米各地で大歓迎を持って迎えられた。

 

 

1998年、再結成したブラック・サバスとして初のシングル"Psycho Man"をリリース、メインストリーム3位に入った。

 

ライヴ盤『REUNION』を発表。

 

 

2000年、『REUNION』でグラミー賞を受賞。

 

 

2001年秋、ソロアルバム『ダウン・トゥ・アース』(DOWN TO EARTH)をリリース、全英19位・全米4位。アルバムからは"Gets Me Through"が全英18位・メインストリーム2位、"Dreamer"が全英18位・メインストリーム10位のヒットとなった。

 

 

 

2002年、エリザベス2世女王在位50周年記念コンサートに出演。

同年、サバスのライヴアルバム『パスト・ライヴス』(Past Lives)をリリース。

この年、オズボーン一家のビバリーヒルズの豪邸でのハチャメチャな日常生活を追った、MTVのリアリティ番組『オズボーンズ』が世界的な人気を獲得、家族揃ってお茶の間におなじみの存在となった。番組内で有名になった「放蕩娘」ケリー・オズボーンは、2002年にシンガーとしてデビュー、彼女とオジーの父娘デュエット“Changes”(ブラック・サバスのカヴァー)は全英1位の大ヒットとなった。

 

 

2003年12月には英国の自宅庭で四輪バイクに乗っていた際に事故に遭遇、瀕死の重傷を負う。

 

 

2004年夏、オズフェストでオズボーンが見事に復活。前座はジューダス・プリーストが務めた。

 

 

2005年にもオズフェストのヘッドライナーを務める。前座はアイアン・メイデンが協力した。

 

 

2006年、『ロックの殿堂』入り。この年でリユニオン体制のサバスの活動が停止。

 

 

2007年、サバスのライヴアルバム『ライヴ・アット・ハマースミス・オデオン』(Live at Hammersmith Odeon)をリリース。

同年、ソロアルバム『ブラック・レイン』(BLACK RAIN)をリリース、全英8位・全米3位。

 

 

 

2009年にはザックの後任としてガス・Gが加入。

 

 

2010年6月発売のソロアルバム『SCREAM』からガス・Gが参加した。全英12位・全米4位。アルバムから"Let Me Hear You Scream"がメインストリーム1位、"Life Won't Wait"がメインストリーム12位になった。

 

 

 

2011年11月11日11時11分、オジー・オズボーン、トニー・アイオミ、ギーザー・バトラー、ビル・ワードは、オリジナル・ラインナップによるブラック・サバスの再始動を会見で発表した。しかし後に、ビル・ワードが契約内容に不満を持ち、再結成に参加しないと表明。以降のライヴや創作は、代役を迎えての活動に移行した。

 

 

2013年、サバスのスタジオ・アルバム『13』をリリース、オズボーン自身初、バンドにとっても唯一の全米ナンバーワンアルバムとなった。また、イギリスを始め欧州数カ国でも首位を獲得した。"God Is Dead?"が全米「メインストリーム・ロック」チャートで7位に入った。

 

 

 

2016年、バンドの最後となるワールドツアー「THE END」を開始。

    

 

2017年2月、バンド発祥の地であるバーミンガムで最後を飾るラスト・ライヴを開催これを以ってブラック・サバスは約50年に渡る活動の幕を閉じる。

なお、後日、トニー・アイオミは、将来復活する可能性に含みを残した。

サバスの仕事を終えたオジーは、ソロツアーを再開。バンドにザックが復帰する。

 

 

2019年、ブラック・ザバスがグラミー賞「特別功労賞生涯業績賞」を受賞。

 

 

2020年1月、オジーは自分がパーキンソン病を患っていることを告白。

2月21日、ソロアルバム『オーディナリー・マン』(Ordinary Man)をリリース、全英3位・全米3位。先行シングル"Under the Graveyard"がメインストリームでナンバーワンに輝いた。また、表題曲“オーディナリー・マン”(Ordinary Man)では、エルトン・ジョンが客演している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「オジー・オズボーン」