フィル・ライノット(Phil Lynott/1949年8月20日~1986年1月4日)は、アイルランド出身のロック・シンガー、ベーシスト、詩人。

 

 

 

1949年8月20日、南米イギリス領ガイアナ共和国(Republic of Guyana)のジョージタウン出身である父と、アイルランド人の母との元に、英国イングランドのウェスト・ブロムウィッチにあるハラム病院で生まれ、バーミンガムのセリー・パークにあるセント・エドワード教会で洗礼を受けた。

母が折からのアイルランドの不況のため出稼ぎに出なくてはならなくなり、ライノットは生まれてすぐマンチェスターにある祖母の家に預けられ、学齢期にダブリンに移るまでそこで過ごす。

幼い頃のライノットは、映画館で上映されていた西部劇と、エルヴィス・プレスリーの音楽の虜となった。このことは後の音楽活動に多大なる影響を与える。
 

1965年、最初のバンド「ブラック・イーグルス」(the Black Eagles)にリード・シンガーとして参加、ダブリン周辺の地元クラブで人気のカヴァー曲を演奏した。

彼はクラムリンのクリスチャン・ブラザーズ・スクールに通い、そこでブライアン・ダウニーと友達になり、後にリフィー・ビーツからバンドに参加するよう説得された。グループは、マネージャーのジョー・スミスが関心が薄かったことで、特に彼の2人の息子、ギタリストのダニーとフランキーが去った後、崩壊した。

 

その後、ライノットは家を出てクロンターフのアパートに引っ越し、そこでカーマスートラのグループに一時的に参加した。彼がフロントマンのスキルを学び、聴衆と対話する方法を考え出したのはこのバンドだった。

 

 

1968 年初頭、彼はベーシストのブレンダン 'ブラッシュ' シールズと組んで「スキッド・ロウ」(Skid Row)を結成。ダウニーはドラマーになるというシールズの要求に興味がなかったので、その仕事はノエル・ブリッジマンに移った。バンドは、後にシン・リジーのマネージメントを行うことになるテッド・キャロルと契約を結び、“エイト・マイルズ・ハイ”や“ヘイ・ジュード”、ジミ・ヘンドリックスのいくつかの曲を含む様々なカヴァーを演奏した。ライノットはこの時点で楽器を演奏していなかったため、代わりにエコーボックスを介して声を操作した。彼はステージ上で目の下にブーツ・ポリッシュを塗って注目を集め、その後のリジーのキャリアを通じてこれを続け、観客を引き付けるためにステージ上でシールズとの模擬戦を定期的に行った。

この頃、シールズの誘いに応じてアイルランド人(北アイルランド)のギタリスト、ゲイリー・ムーア(Gary Moore/1952年4月4日-2011年2月6日)が加入。

 

 

バンドは徐々に大きな成功収め始め、シングル“New Faces、Old Places”をリリースするなど順調だったにもかかわらず、シールズはライノットがオフキーで歌う傾向があることを懸念するようになる。

 

その後、シールズは問題がヴォカリストの扁桃腺にあると気づき、ライノットはバンドを脱退した。彼が回復する前に、シールズはリード・ヴォーカルを引き継ぎ、バンドをスリーピース編成に変えた。親友の一人を事実上解雇してしまった罪悪感からシールズは、6弦ギターよりも習得しやすいと考え、ベースの弾き方をライノットに教えようと思い立つ。そして、ロバート・バラから36ポンドで購入したフェンダー・ジャズ・ベースをライノットに売り、ベース演奏のレッスンを始めた。


スキッド・ロウ脱退後ライノットはポエトリー・リーディングの会を開きながら音楽に携わる。当時のアイルランドの流行にあわせアコースティックなサウンドにアプローチしたが(これはシン・リジィ初期まで続く)、幼い頃からロック志向を持っていたライノットにとっては本意ではなかったという。

 

 

1969年末、ライノットは、学生時代からのバンド仲間ブライアン・ダウニー(Ds)、元ゼムのエリック・ベル(G)とともにダブリンでバンドを結成、自身はベース&ヴォーカル、作詞・作曲を担当した。当初は「Orphanage」(孤児院)というバンド名で、パブなどで演奏を開始する。最初期にはエリック・ライクソン(Key)もいたが、間もなく脱退。なお、バンドの初代マネージャーであるテリー・オニールは、シン・リジィの正式結成は1970年であったとしている。

 

ある日、ジョン・メイオール・ブルース・ブレイカーズの2ndアルバム『ブルースブレイカーズ・ジョン・メイオール・ウィズ・エリック・クラプトン』のジャケット写真で、エリック・クラプトンが読んでいる雑誌『Beano』に興味を持ち、買って読んでみると、そこに掲載されていた漫画の中の「Tin-Lizzie」(ブリキのエリザベス)という名のロボットに着目、ライノット達はその名を借名し、アイルランド人が発音しやすいよう綴りを変えて、バンド名を「シン・リジィ 」(Thin Lizzy)とした。


1970年7月31日、アイルランド・パーロフォン・レーベルからシングル“ザ・ファーマー”(The Farmer) でデビュー。

 

たまたまあるアイルランド人シンガーのレコーディング・セッションに呼ばれた時、演奏を気に入られUKデッカ・レコードとのレコーディング契約を獲得する。


1971年4月30日、1stアルバム『シン・リジィ』(Thin Lizzy) をリリースする。初期はアイリッシュ・フォークとロックの融合を軸にしたサイケデリック・サウンドを展開、同年ロンドンでの初ライヴを行う。

 

8月、印象的な詞の作品“ダブリン”(Dublin) を収録した4曲入りEP『ニュー・ディ』(New Day) を発表。

 

 

1972年3月11日、フィル・ライノットの書く美しい詞が充実した佳作の2ndアルバム『ブルー・オーファン』(Shades of a Blue Orphanage) を発表。だが、セールスには直結しなかった。バンドは次第にステージ・パフォーマンスを含め、ロック・バンドへと変容し、ライノットの詞もダンディズムを押し出したものへと変貌していく。

 

11月3日、トラディショナルなアイリッシュ・フォーク・ミュージックをロック風にアレンジした“ウィスキー・イン・ザ・ジャー”(Whiskey In The Jar) をシングル・カット、アイルランドで1位を獲得、英国国内でも6位とスマッシュヒットとなる。善くも悪くもこのヒットによりショウビズの中で生き残ることを選択させられる。

 

この頃、BBCテレビの長寿音楽番組『Top Of The Pops』にも初登場。


1973年9月、エリック・ベルの印象的なストラトキャスターのカッティングで始まる“ザ・ロッカー”(The Rocker) を収録した『西洋無頼(ごろつき)』(Vagabonds of the Western World) をリリース。メンバー3人による共作の“ザ・ロッカー”はアイルランドで11位に入った。

 

だが、精神的・身体的な理由からベルがこの年いっぱいでバンドを離れる。

離脱後にベルは、ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスのノエル・レディングのバンドに参加する。

 

 

1974年1月、ベルの代役にスキッド・ロウ時代からの盟友ゲイリー・ムーア(G)に加入を要請。ムーアは約5ヶ月の間ツアーとデッカ・レコードでの最終レコーディングに参加する。だがムーアはライフスタイルの相違から程なく脱退したため、新たにギタリストのオーディションを実施。スコットランド人のブライアン・ロバートソン、アメリカ・カリフォルニア州出身のスコット・ゴーハムが加入。ツイン・ギターの4人編成となる。

7月、新メンバーによるアイルランド・ツアーを開始。

デッカとの契約終了後、ワールド・ワイドでの活躍を求めて新たにUKフォノグラム傘下のヴァーティゴと契約。

同年10月、グループ4作目にあたる『ナイト・ライフ』(Night Life)をリリース。
解散まで続くレス・ポール・ギターによるツイン・リード・ギター・スタイルにフィル・ライノットの表現力豊かなヴォーカル、ブライアン・ダウニーの堅実なドラミングがマッチしてゆく。収録曲"Still in Love with You"が人気になった。

 

 

1975年3月、初のアメリカ・ツアー(バックマン・ターナー・オーヴァードライヴ、ボブ・シーガーのサポート)へ向かう。なおリジィは、元々はシーガーのナンバーである“ロザリー”(Rosalie) をカヴァーしている(『ファイティング!!』に収録)。

9月12日発売のアルバム『ファイティング!!』(Fighting) でツイン・レス・ポールを擁するそのスタイルは確立される。

 

 

 

1976年3月26日、代表作ともいわれるアルバム『脱獄』(Jailbreak) を発表。全英10位・全米18位を記録し、全世界で200万枚を超えるセールスを記録する。

3月より英国ツアーを実施。

 

4月、アルバム『脱獄』から“ヤツらは町へ”(The Boys Are Back in Town) をリカット、全英8位・全米12位・アイルランド1位とバンド最大級のヒットになる。

 

アルバムからのシングルは他に、"Jailbreak"は全英31位、"Cowboy Song"が全米77位になった。

 

 

5月には全米ツアー(REOスピードワゴン、クイーン、スティクス、ジャーニー、ラッシュ、リッチー・ブラックモアズ・レインボーらのサポート・アクト)を催行。

7月、再びイギリスで追加公演とハードスケジュールをこなす。

10月、コンセプト・アルバム色の強い『サギ師ジョニー』(Johnny The Fox)をリリース、全英11位に達する。ここから"甘い言葉に気をつけろ"(Don't Believe a Word)が全英12位・アイルランド2位に到達した。

 

 

これらの精力的な活動の結果、シン・リジィはスタジオ・プロデュース作品/ライブ・パフォーマンスのいずれでも非常に高い評価を得る。

11月よりプロモーション・ツアー。この時期の熱狂的なライヴは後に『ライヴ・アンド・デンジャラス』(Live and Dangerous)としてリリースされる。


1977年、前年末に負傷したブライアン・ロバートソンの代役として、再びゲイリー・ムーアにツアー参加を依頼。当時コロシアムIIのメンバーだったムーアは同バンドを脱退しないままこの要請を受託し、1月よりクイーンとの全米ツアー「The Queen Lizzy Tour」に参加。帰国後、バンドは再びロバートソンとともにレコーディングを開始する(プロデュースはトニー・ヴィスコンティ)。

9月2日、アルバム『バッド・レピュテイション〜悪名』(Bad Reputation) 発表、全英4位を記録する。本作からのシングルは、“ダンシング・イン・ザ・ムーンライト”(Dancing in the Moonlight [It's Caught Me in Its Spotlight])が全英14位・アイルランド4位に到達した。

 

 

 

1978年6月2日、初のライヴ・アルバム『ライヴ・アンド・デンジャラス』(Live & Dangerous ) 発表。全英2位・アイルランド2位のヒット作となる。

 

7月の全英・欧州でのショウの後、翌8月にブライアン・ロバートソンが脱退、バンドはゲイリー・ムーアの加入を正式に告知する。なお、ロバートソンはその後、レインボーを解雇されたベーシストのジミー・ベインとともに「ワイルド・ホーシズ」(Wild Horses) を結成する。

スコット・ゴーハムを除くメンバーは、ムーアの1stソロ・リーダー・アルバム『バック・オン・ザ・ストリーツ』(Back On The Streets)の制作に参加。この中から翌1979年3月30日にリカットされた“パリの散歩道”(Parisienne Walkways)はライノットが作詞提供しムーア自身が作曲した楽曲で、全英8位・アイルランド5位とヒットし、ムーアの代表曲となった。

 

グループとしてはロンドン、パリで新しいアルバムの制作を開始。


1979年4月、トニー・ヴィスコンティ・プロデュースによるアルバム『ブラック・ローズ』(Black Rose a Rock Legend)を発表、全英で自己最高の2位を記録する。タイトル・ナンバーはケルト・ミュージックと独自の叙事詩を融合した、シン・リジィの集大成ともいえる曲である。

 

 

4月より全英ツアー、9月にはジャーニー、AC/DC、ドゥービー・ブラザーズらとの全米ツアーを行う。このツアーの最中に、バンド内でのトラブルからゲイリー・ムーアが失踪。急遽ヴィサージ、ウルトラヴォックスのミッジ・ユーロを呼びスケジュールを消化、既に日程を組まれていた日本公演にもメンバーとして来日させている。

 

 

1980年4月18日、ライノットは1stソロアルバム『Solo in Soho』をリリース、全英28位に達した。ここからのシングルは、"Dear Miss Lonely Heart"が全英37位・アイルランド6位になったのをはじめ、"King's Call"が全英35位・アイルランド20位、"Yellow Pearl"が全英56位・アイルランド25位に入った。

 

 

 

 

同年、バンド存続のため、ピーター・グリーン、ピンク・フロイドなどのセッション・ギタリストをしていたスノウィー・ホワイトを参加させる。

9月、先行シングル“ヤツらはレディ・キラー”(Killer on the Loose) をリリース、全英10位・アイルランド5位のヒットになった。

 

10月10日、フルアルバム『チャイナタウン』(Chinatown)をリリース、全英7位になり、タイトルトラック“Chinatown”が全英21位・アイルランド12位になったものの、人気に陰りが見え始める。

 

 

 

1981年11月15日、キーボーディストのダーレン・ウォートンを加えて制作したアルバム『反逆者』(Renegade)ではバンドの方向性を見失ったかのような出来となった。チャート動向は全英38位と一気に落ち込んだ。

 

 

1982年、自らのライフ・スタイルを揶揄したシングル“Trouble Boys/Memory Pain” が全英53位と不発に終わると、間もなくスノウィー・ホワイトが脱退する。

 

バンドの人気の低下に加え、スコット・ゴーハムが自身のリハビリテーションを望んだことがきっかけとなり、メンバーはライノットにバンドの解散を提案、さらに彼らの所属先のレーベルもフィル・ライノットのソロ活動のみを良しとする回答を出していた。

しかし、アイアン・メイデンがステージで“虐殺”(Massacre/『サギ師ジョニー』に収録)をカヴァーしてオマージュを捧げたことや、欧州でのハードロック・マーケットの拡大、当時のNWOBHMブームなどに新たな光明を見出したライノットは、ソロとして独立しようとしていた元タイガース・オブ・パンタンのギタリスト、ジョン・サイクスをグループに加入させる。

9月17日、セルフタイトルの2ndソロアルバム『The Philip Lynott Album』をリリース、だが商業的に望ましい結果は得られなかった。



1983年3月4日、サイクスを迎えて制作された『サンダー・アンド・ライトニング』(Thunder & Lightning) をリリース、サイクスとスコット・ゴーハムのギターが激突する最後のスタジオ・アルバムとなった本作はセールス面で持ち直し、全英4位に到達。シングルも"Cold Sweat"が全英27位・アイルランド23位、タイトルトラック"Thunder and Lightning"が全英39位・アイルランド22位に入るなど、いくつか中ヒットを出した。

だが、すべてが遅すぎた。

 

 

 

3月にはイギリス最終公演。9日から12日までの4日間、ロンドン・ハマースミス・アポロ(オデオン)では歴代メンバーをピック・アップしてレコーディングを敢行、不本意ながらも契約最終作としてライブ盤『ラスト・ライヴ』(LIVE/LIFE) をリリースした。

4月にアイルランド公演、日本での最終公演は5月17日の中野サンプラザを敢行。

7月、最後のシングル"The Sun Goes Down"をリリース、全英52位。

 

同年、シン・リジィは解散した。

 

1983年にグループ解散後、グランド・スラムという新バンドを結成したが不調に終わり、ソロ活動やゲイリー・ムーアとのコラボレーションを行っていた。



1985年頃には、ブームタウン・ラッツ時代からシン・リジィの前座に起用されるなどライノットに恩義のあるボブ・ゲルドフの依頼により、ライヴ・エイドでの一日限りの再結成に向けての話し合いも行われていた。

同年、旧友ゲイリー・ムーアにヴォーカリストとして客演する形となったコラボ・シングル"Out in the Fields" をリリース、全英5位のヒットとなった。

 

 

 


1986年1月4日、フィル・ライノットは、ヘロインの過剰摂取による内臓疾患、敗血症により急死。36歳。


同年5月、アイルランドの失業者支援コンサート「Self Aid」において、ライノットを追悼するため、シン・リジィは一夜のみの再結成ライヴを行った。メンバーはゲイリー・ムーア、ブライアン・ダウニー、スコット・ゴーハム、ボブ・デイズリー(元オジー・オズボーン・バンド)。

 


2005年8月19日、フィル・ライノットのアイルランドへの功績を記念して、首都ダブリン市内にブロンズ像が建立され、彼の母を迎えて除幕式が行われた。式典ではゲイリー・ムーアを中心に過去のメンバーが集結してシン・リジィの曲が演奏された。

 

2006年3月から、英国・欧州でフィル・ライノットの没後20周年を記念したツアー 「20/20」 が行われた。このツアーのメンバーはサイクスとゴーハムの他に、マイケル・リー(元ロバート・プラント・バンド)とマルコ・メンドーサ(ブルー・マーダー)。

同年末、ライノットをフィーチャーした多数のスキッド ロウと「孤児院」時代のデモ テープが発見された。これらは彼の最も初期の録音であり、何十年もの間失われたと推定されていた。

 

 

2019年10月3日、母国アイルランドよりバンド結成50周年を記念する郵便切手が発行されたが、先述の通り初代マネージャーのテリー・オニールは正式な結成を1970年であるとし、2019年の発行では1年早いと主張した。これに対してアイルランド郵政は、彼らが一緒に演奏することを決めた1969年時点から50周年であるとした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「フィル・ライノット」「シン・リジィ」「Phil Lynott」「Skid Row (Irish band)」「Thin Lizzy」

 

 

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