ボブ・シーガー(Bob Seger/本名:Robert Clark Seger/1945年5月6日~)は、

アメリカ合衆国出身のロックミュージシャン、シンガーソングライター。

 

 

 

ミシガン州デトロイト市内の病院で、父スチュアートと母シャーロットの次男として生まれる。

5歳の時にデトロイト近郊のアナーバーに転居。医療技師としてフォード・モーター・カンパニーに勤務の傍ら様々な楽器演奏をたしなむ父の影響で、シーガーも幼少期から音楽に親しむ。シーガーが10歳の時、父は家族を捨ててカリフォルニア州に移住。残された家族は経済的に困窮し、生計を支えるために母はハウスキーパーとして、4歳年上の兄ジョージも働きに出る。彼の初期の音楽的影響は、リトル・リチャードやエルヴィス・プレスリーだった。

最初に買ったレコードは、デル・バイキングスの1957年のヒット曲「Come Go with Me」。

 

1961年、入学した地元のアナーバー高校(現:パイオニア高校。イギー・ポップも同窓)の同級生3人で「デシベルズ」(The Decibels)を結成、ギター、ピアノ、キーボード、ボーカルを担当。自身初のオリジナル曲“The Lonely One”は、デル・シャノンのキーボード奏者マックス・クロクの地下室で録音された。

1963年、地元のアナーバー高校を卒業。

デシベルズ解散後、シーガーはタウン・クライヤーズ(The Town Criers)に加入。4人組のこのバンドでシーガーはリードヴォーカルを担当し“Louie Louie”等のカヴァー曲を歌っていた。この頃、ジェームス・ブラウンをよく聴いていて『Live at the Apollo』がお気に入りのアルバムだった。また、1964年に米国に上陸したビートルズの影響も大きく受けている。1960年代のラジオでかかるヒット曲に夢中で、「ラジオにオンエアされなければ意味がない」と考えていた。

 

彼は、「ダグ・ブラウン&ジ・オーメンズ」(Doug Brown & The Omens)に加入。同バンドではブラウンがメインヴォーカル、シーガーはR&Bのカヴァー数曲でリードヴォーカルを担当した。

1965年、シングル“TGIF (Thank Goodness It’s Friday)”でシーガーは初のレコードを発表。

 

翌年、バリー・サドラーの大ヒット曲“Ballad of the Green Berets”(悲しき戦場)のパロディで“Ballad of the Yellow Beret”という徴兵忌避者を揶揄する替え歌を「ビーチ・バムズ」(The Beach Bums)名義でシングルを発表したところ、サドラーと彼のレコード会社から訴訟を起こされ、レコードは回収を余儀なくされる。

オーメンズの一員として活動している時、彼は後のマネージャーとなるエドワード・パンチ・アンドリュースに出会う。アンドリュースは当時デイヴ・レオーネと共同でハイドアウトという名でクラブや小規模なレコードレーベルを経営し、地元のバンドをマネージメントしていた。その中には、グレン・フライがいた「マッシュルームズ」(The Mashrooms)もあった。シーガーはそれらのバンドのために曲を提供し、プロデュースを行っていた。ある時、アンドリュース等の依頼で、アンダードッグス(The Underdogs)というバンドのためにシーガーはブラウンと“East Side Story”という曲を書いたが、レコード会社はアンダードッグス向きの曲ではないと却下した。

 

シーガーは“East Side Story”を自分のバンドで録音しようと決め、オーメンズを脱退。

1966年1月、「ボブ・シーガー&ザ・ラスト・ハード」名義でハイドアウトレコードからシングル発売され、デトロイトを中心に5万枚を売り上げるヒットになった。

その後、ラスト・ハードはカメオ=パークウェイレコードと契約し、4枚のシングルを発表する。

 

 

1967年発表の“Heavy Music”は“East Side Story”を超える売り上げを記録し、全米でブレイクする可能性を秘めていたものの、その直前にレコード会社が倒産。“Heavy Music”は全米103位、カナダで82位を記録し、後年のシーガーのライヴレパートリーに加えられることになる。

 

 

1968年春、ボブ・シーガー&ザ・ラスト・ハードは大手キャピトルレコードと契約。モータウンレコードからも好条件のオファーを受けていたが、シーガーは「キャピトルのほうが自分の音楽ジャンルに合っている」と判断した。 キャピトル側の提案で、バンド名を「ザ・ボブ・シーガー・システム」(The Bob Seger System)に変更。1stシングル“2 + 2 = ?”は反戦曲で、かつての“The Ballad of the Yellow Beret”から一転したシーガーの政治的姿勢の変化を見ることができる。同曲は地元デトロイトや一部の都市のラジオ局ではヒットしたが 、全米チャートにランクインすることはなく、カナダで最高79位を記録しただけだった。

 

ボブ・シーガー・システムの2ndシングル“Ramblin' Gamblin' Man”は、まずミシガン州で火がつき、その後全米シングルチャートで最高17位にランクイン、シーガー初の全国ヒットとなった。

 

 

1969年、アルバム『Ramblin' Gamblin' Man』を発表し、ビルボードのアルバムチャート62位を記録する。なお、全米17位になった表題曲でギターとバックヴォーカルを担当したグレン・フライにとって、これが初のスタジオセッション作となる。この2年後、フライはイーグルスを結成。

同年、次作『Noah』を発表するも、チャートに入ることなく商業的失敗に終わる。

その後、シーガーは一旦音楽業界を離れて大学に通い始めた。

翌年、彼は復帰し『Mongrel』を発表。これがボブ・シーガー・システム最後のアルバムとなる。

 

 

1971年、ボブ・シーガー・システムが解散し、シーガーはソロに転身、全曲アコースティックのアルバム『Brand New Morning』を発表するが、これも商業的失敗に終わり、シーガーはキャピトルレコードを離れることになる。

この頃、シーガーはロックデュオ、ティーガーデン&ヴァン・ウィンクルと共演するようになる。

 

1972年、彼らと制作した『Smokin' O.P.'s』は、アンドリュース所有のレーベル「パラディウムレコード」から発表された。大半がカヴァー曲の同アルバムは全米180位まで上がり、シングルカットされた“If I Were a Carpenter”(ティム・ハーディン作)が全米76位となっている。

同年のティーガーデン&ヴァン・ウィンクルとのツアー後、シーガーはアルバム『Back in '72』を制作。マッスル・ショールズ・リズム・セクションも参加したこのアルバムには、後にシーガーのライヴの定番曲“Turn the Page”や、シン・リジィにカヴァーされる“Rosalie”、ヴァン・モリソンのカヴァー“I've Been Working”等を収めた意欲作だったが、全米188位に終わった。

アルバムに伴うツアーでバックバンドに不満を感じたシーガーは、新たなバンドメンバーを探す決意を固める。

 

 

 

 

1974年、シーガーは自分のバックバンド「シルバー・バレット・バンド」を結成。

同年『Seven』を発表。

 

 

1975年、シーガーはキャピトルレコードに戻り『美しき旅立ち』(Beautiful Loser)を発表。本アルバムからのシングル“Katmandu”が全米43位に達するヒットになる。

 

 

同年9月、デトロイトのコボ・アリーナで二夜にわたり行われた模様を収録した『ライヴ』(Live Bullet)を翌年4月に発表。本作は、まずデトロイトで大ヒットし後に全米34位にランクインした。しかし、相変わらず地元以外での知名度が低く、デトロイト郊外で8万人近いファンの前でライヴを行った翌日のシカゴ公演では観客が1,000人に満たないということもあった。

 

1975~76年には、キッスの北米ツアーの前座を務めている。

 

 

 

1976年10月22日、アルバム『炎の叫び』(Night Moves)を発表、全米8位と自身初のトップ10アルバムとなり、2006年の時点で米国で600万枚の売り上げを記録、オリジナルアルバムとしては自身最大の売り上げとなる。アルバムからは、タイトル曲“ナイト・ムーヴス”(Night Moves)が全米4位を記録、マッスル・ショールズのピート・カーのギターが印象的な“Mainstreet”が全米24位、“Rock and Roll Never Forgets”が全米41位となった。『Night Moves』の成功により、前々作『Beautiful Loser』が全米で200万枚、前作『Live Bullet』も500万枚以上の売り上げを記録する。

 

 

 

 

 

1977年2月にドラマーが交通事故に遭い、後任として『Smokin' O.P.'s』に参加していたデヴィッド・ティーガーデンが加入する。

 

1978年、アルバム『見知らぬ街』(Stranger in Town)は全米で売上が500万枚を突破、チャート4位に達し、1979年のビルボード年間アルバムチャート14位にランクイン。本アルバムから、

“スティル・ザ・セイム”(Still the Same)が全米4位、“Hollywood Nights”が全米12位、“We've Got Tonight”が全米13位、“Old Time Rock & Roll”が全米28位等のヒット曲が生まれた。なお、“We've Got Tonight”は1983年にケニー・ロジャースとシーナ・イーストンにカヴァーされて全米6位、“Old Time Rock & Roll”は1983年にトム・クルーズ主演の映画『卒業白書』(Risky Business)に使用され、同年全米48位を記録した。

 

 

 

 

 

 

1979年、シーガーが共作者として名を連ねているイーグルスの“Heartache Tonight”が全米ナンバーワンを記録する。

 

1980年に発表されたアルバム『奔馬の如く』(Against the Wind)は、全米アルバムチャートで15週連続トップの座を守っていたピンク・フロイドの『The Wall』に代わり、初のNo.1に輝く。

1stシングル“Fire Lake”は、バックヴォーカルにイーグルスのドン・ヘンリー、ティモシー・B・シュミット、グレン・フライが参加し、全米6位になっている。その他、タイトル曲“アゲンスト・ザ・ウィンド”(Against the Wind)が全米5位、“You'll Accomp'ny Me”が全米14位、“The Horizontal Bop”が全米42位とヒットした。全米チャート6週連続1位を記録したこのアルバムは1980年のグラミー賞を2冠獲得し、全米での売り上げは前作同様500万枚を突破している。

 

 

 

 

 

1981年、ライヴアルバム『嵐の呼ぶ声』(Nine Tonight)を発表、全米3位に到達し、売り上げは400万枚を突破した。アルバムからのシングルは、オーティス・クレイで知られる“トライング・トゥ・リヴ・マイ・ライフ・ウィザウト・ユー”(Trying to Live My Life Without You)が全米5位、“Feel Like A Number”が全米48位となった。

 

 

1982年、『ザ・ディスタンス』(The Distance)を発表。全米5位になった本アルバムからは、ロドニー・クロウエル作のシングル“シェーㇺ・オン・ザ・ムーン”(Shame on the Moon)が、パティ・オースティンとジェームス・イングラムの“Baby, Come to Me”とマイケル・ジャクソンの“Billie Jean”に阻まれて4週連続2位の座に留まるも、シルバー・バレット・バンド最大のヒットとなった。他に“Even Now”が全米12位、“Roll Me Away”が全米27位とヒット。アルバムの売り上げは190万枚を記録する。

 

 

 

 

 

1984年、シーガーはニック・ノルティ主演の映画『りんご白書』(Teachers)のために書いた

“Understanding”(全米17位)を録音する。

 

 

1986年、ロブ・ロウ主演の映画『きのうの夜は…(About Last Night...)』に“Living Inside My Heart”を録音する。 この頃から、スタジオアルバム発表のインターバルが長く空くようになる。同年発表の『ライク・ア・ロック』(Like a Rock)は全米3位を記録し、アルバムの売り上げは最終的に300万枚を突破する。このアルバムからは、“American Storm”が全米13位、“It's You”が全米52位、“Like a Rock”が全米12位、“Miami”が全米70位とヒットが生まれている。アルバムに伴う「American Storm」ツアーは9か月に及び、約150万枚のチケットを売り上げる。アルバムのタイトルトラック“Like A Rock”はシボレートラックのキャンペーン曲として1991年から2004年まで使用された。

 

 

 

 

1987年3月13日、ボブ・シーガー&ザ・シルバー・バレット・バンドは音楽分野での業績が認められ、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームにその名が刻まれる。

同年、シーガーはエディ・マーフィ主演映画『ビバリーヒルズ・コップ2』の“シェイクダウン”

(Shakedown)を歌唱。シンセを多用したこのポップロック曲は、前作『ビバリーヒルズ・コップ』で主題歌を担当したグレン・フライが歌う予定だったが、彼は用意されていた歌詞が気に入らず、さらにレコーディング直前に喉頭炎にかかったため、代わりにシーガーが歌うことになった。コーラス部以外の歌詞をシーガーにより書き換えられた同曲は、同年8月1日に自身初、そして唯一の全米シングルチャート1位を記録する。

 

 

1991年、アルバム『Fire Inside』が全米7位。

 

 

 

1994年、ベストアルバム『グレイテスト・ヒッツ』(Greatest Hits)は過去最高の売り上げ(2011年9月時点で全米において900万枚以上)を記録。

 

 

1995年、アルバム『イッツ・ア・ミステリー』(It's a Mistery)が全米27位。

 

1996年に行われたツアーは同年の北米におけるコンサートチケット売り上げ第4位を記録。

その後、シーガーは家族との時間を優先するために、約10年間音楽業界から退く。

 

2004年3月15日、シーガーはロックの殿堂入りを果たす。

 

2005年、3ドアーズ・ダウンのアルバム『Seventeen Days』の収録曲“Landing in London”にゲスト参加。

 

2006年、11年ぶりとなるアルバム『Face the Promise』を発表。発表から45日で40万枚を超える売り上げを記録し、最終的には120万枚を突破、全米4位に達している。ツアーも各地でソールドアウトとなり、以前と変わらない人気の高さをアピールした。

 

 

同年、ボブ・シーガー・システムはミシガン州ロックンロール・レジェンドの殿堂入りを果たす。

 

 

2009年には、『Smokin' O.P.'s』(1972年)、『Seven』(1974年)などの楽曲のリミックスまたは再録音、そして過去の未発表曲を収録したコンピレーションアルバム『Early Seger Vol. 1』をリリースする。アルバムは当初、米国大手のスーパーマーケットであるマイヤー店舗でのみの販売だったが、のちにシーガーの公式サイトでダウンロードできるようになる。

 

 

2010年、キッド・ロックのアルバム『Born Free』の収録曲“Collide”にピアノでゲスト参加。

 

 

2011年、ベストアルバム『ロックン・ロール ~ベスト・オブ・ボブ・シーガー~』(Ultimate Hits: Rock and Roll Never Forgets)を発表。それに伴うアリーナツアーは大成功を収める。

 

 

2012年6月14日、ボブ・シーガーはソングライターの殿堂入りを果たす。

 

 

2013年1月10日、北米ツアーの開催を発表する。

同年、ジョン・フォガティのアルバム『Wrote a Song for Everyone』で、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバルの“Who'll Stop the Rain”をデュエットする。

 

 

2014年、17枚目のスタジオアルバム『Ride Out』が発表され、全米3位を記録。アルバムに伴う北米でのアリーナツアーは大成功を収める。

 

 

 

2016年12月22日、ジョン・F・ケネディ・センターにおけるイーグルスのケネディ・センター名誉賞受賞式で、シーガーは“Heartache Tonight”を歌った。

 

 

2017年1月18日、旧友グレン・フライの一周忌にあたるこの日に新曲“Glenn Song”を自身のウェブサイトにおいて公開した。

 

同年8月24日から開始したRunaway Trainツアー(全32公演)は同年11月17日にシカゴで終了する予定だったが、椎骨の緊急治療のために9月30日以降の19公演は延期となった。

9月22日、ルー・リードのカヴァー“Busload of Faith”を先行シングルとして発表。

 

11月17日、ツアー終了予定日だったこの日、18thアルバム『I Knew You When』を発表。全米25位に達した。

 

 

2018年9月18日、次のツアーが最後のツアーになることを発表する。2018年11月21日からスタートしたRoll Me Awayツアーは、2017年に延期された公演分を含めて2019年11月1日のフィラデルフィア公演まで行われた。

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「ボブ・シーガー」「Bob Seger」