マリリン・マックー(Marilyn McCoo/1943年9月30日~)は、アメリカ合衆国の歌手、俳優、司会者。コーラス・グループ「フィフス・ディメンション」の元リード・ヴォーカリスト。

 

 

 

1943年9月30日、マリリン・マックーは、ウェイモン・マックーとメアリー(旧姓:ホロウェイ)・マックーの娘として、アメリカ合衆国ニュージャージー州ジャージーシティで生まれた。両親はともに医師であった。祖父はアラバマ州ユーフォーラの医師トーマス・ビビアン・マックー。彼女はアフリカ系アメリカ人である。

彼女は最初の7年間をジョージア州コロンバスで過ごした。

 

7歳の時、両親、2人の姉妹、兄弟とともにカリフォルニア州ロサンゼルスに移り、そこで声楽、ピアノ、ダンスのレッスンを受け始めた。

 

15歳の時、アート・リンクレターのタレント・ショーでテレビデビューを果たし、モデル活動を開始した。

 

スーザン・ミラー・ドーシー高校を卒業後、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)に入学し、経営学の学位を修得した。

 

1962年、マックーはミス・ブロンズ・カリフォルニア美人コンテストに出場し、「ミス・グランド・タレント」に輝いた。

その後、モデルとして活躍した後に、歌手に転向した。

 

 

1963年、マックーは、ラモンテ・マクレモア、ハリー・エルストン、フロイド・バトラーと、4人で「ハイ-ファイズ」(Hi-Fis)というグループを結成。ロサンゼルスのクラブに出演するなど歌手活動を開始した。

 

 

1964年、レイ・チャールズ(Ray Charles/1930年9月23日-2004年6月10日)に気に入られたマックーらは一緒にツアーを回ることになり、レイのプロデュースによるジャズ・ナンバー“ロンサム・ムード”(Lonesome Mood)を発表。

その後、ハリーとフロイドが意見の相違からグループを脱退したため、残されたラモンテとマリリンは新しいメンバーを募ることになった。

 

 

1966年、フローレンス、ロン、そしてラモンテの従兄弟のビリーが加入し、新たに「ヴァーサタイルズ」(Versatiles)を結成。この時のラインナップは、フローレンス・ラルー(Florence LaRue/1944年2月4日-)、ラモンテ・マクレモア(Lamonte McLemore/ 1940年9月17日-)、ロン・タウンソン(Ron Townson/1933年1月29日-2001年8月2日)、ビリー・デイビスJr.(Billy Davis Jr./1938年6月26日-)、そしてマリリン・マックー。この5人組グループはモータウン・レコードの門を叩くが拒否された。

しかし、ジョニー・リバース(Johnny Rivers)の目に止まり、リバティ・レコード(Liberty Records)傘下の新しいR&Bレーベル「ソウル・シティ」(Soul City)から「フィフス・ディメンション」(The Fifth Dimension)としてデビューが決定した。
同年、第一弾として、フォー・トップス風のリズム・アンド・ブルースを目指し、“I'll Be Lovin' You Forever”をリリースしてデビューしたが、不発に終った。

 

そこで急遽、プロデューサー ボーンズ・ハウはグループの方向性を変更、コーラスを重視した「黒いママス&パパス」(Black - Mamas & Papas)路線に切り替えた。

 

 

1967年1月、ママス&パパスの曲“青空を探せ”(Go Where You Wanna Go)をカヴァーしてシングル発売。同曲はママス&パパスとしては不発だったが、フィフス・ディメンションのヴァージョンは米音楽誌『ビルボード』の総合シングル・チャート「Billboard Hot 100」(以下「全米」)16位、カナダでもチャート18位に躍り出るヒットになった。

 

5月、当時まだ無名であった作曲家ジミー・ウェッブがTWA(トランス・ワールド航空)のCMソングとして書いた“ビートでジャンプ”(Up, Up and Away)をシングル発売すると全米7位・『ビルボード』誌「イージー・リスニング」チャート9位、豪州とカナダで1位を記録、グラミー賞最優秀レコード賞等4部門を受賞した。

 

同月、同名の1stアルバム『ビートでジャンプ』(Up, Up and Away)をリリース、『ビルボード』誌の総合アルバム・チャート「Billboard 200」(以下「全米」)8位・同誌R&Bアルバム・チャート(以下「R&B」)10位をマーク。

 

12月、2ndアルバム『マジック・ガーデン』(The Magic Garden)をリリース、全米105位・R&B43位。

 

 

1968年6月、ローラ・ニーロ(Laura Nyro)のペンによる“ストーンド・ソウル・ピクニック”(Stoned Soul Picnic)を先行リリースすると、全米3位・『ビルボード』誌「R&B Songs」(以下「R&B」)2位を記録、RIAAプラチナ・ディスクを受賞した。

 

8月、3rdアルバム『ストーンド・ソウル・ピクニック』(Stoned Soul Picnic)をリリース、全米21位・R&B10位。

9月、シングル"Sweet Blindness"をリリース、全米13位。

 

 

1969年3月、ミュージカル『ヘアー』の挿入歌“輝く星座/レット・ザ・サンシャイン・イン”(Medley: Aquarius/Let the Sunshine In [The Flesh Failures])をシングル・リリース、ついに全米1位の座を射止め、さらにはグラミー賞最優秀レコード賞を受賞することになった。

 

5月、4thアルバム『輝く星座』(The Age of Aquarius)をリリース、全米2位・R&B2位、RIAAゴールド。

 

9月、シングル“ウェディング・ベル・ブルース”(Wedding Bell Blues)をリカット、グループ2曲目の全米ナンバー1ヒットを機に、マリリンはメンバーのビリー・デイヴィス・ジュニアと結婚。同曲は、マリリンをソロとしてフィーチャーすることを決定付けた最初のヒット曲となった。

 

12月、シングル"Blowing Away"をリリース、全米21位・AC7位。

 

 

1970年、ベル・レコード(Bell records)へ移籍。ベル・レコードはリバティ時代の音源を引き継いだため、後にアリスタに社名変更後も、黄金期の録音全てを含むベスト・アルバムをリリースしている。

4月、シングル“悲しみは鐘の音と共に”(One Less Bell to Answer)をリリース、全米2位・AC1位・R&B4位をマーク。“悲しみは鐘の音と共に”はアメリカのテレビドラマ『スパイのライセンス』シーズン3「To Sing a Song of Murder」(アメリカabcテレビ 1970/2/23放送分、日本では翌年TBS/ABC系列で放送)で使用され、マリリンはエピソード中のマドンナ役を演じた他、全員がゲスト出演をした。

 

4月、5thアルバム『素敵なポートレート』(Portrait)をリリース、全米20位・R&B6位、RIAAゴールド。

 

5月16日、ベスト・アルバム『Greatest Hits』をリリース、全米5位・R&B8位、RIAAゴールド。

 

 

 

1971年2月、シングル"Love's Lines, Angles and Rhymes"をリリース、全米19位・AC6位をマーク。

 

2月、6thアルバム『愛のロンド』(Love's Lines, Angles and Rhymes)をリリース、全米17位・R&B10位、RIAAゴールド。

9月1日、マリリンがリードを取ったシングル"Never My Love"をリリース、全米12位・AC1位。この頃から、マリリンをリードにしたアダルト・コンテンポラリー・ミュージックナンバーがヒットの中心になって行った。

 

 

1972年3月、シングル“夢の消える夜”([Last Night] I Didn't Get to Sleep at All)が全米8位・AC2位、RIAAプラチナを記録。

 

同年、大阪万博に際して来日も果たした。

12月、シングル"Living Together, Growing Together"をリリース、全米32位・AC5位。

 

 

1973年7月、シングル"Ashes to Ashes"をリリース、全米52位・AC7位。

 

 

1975年 ABCレコードに移籍。

同年、マリリンとビリーがフィフス・ディメンションから脱退し、別ユニットのデュオとして活動を開始する。

 

 

1976年、マックーとデイビスは、デビュー・アルバム『I Hope We Get to Love in Time』をレコーディング。デュオとしては、フィフス・ディメンション程の成功は手にすることができなかったが、最初のアルバムからリリースしたシングル3枚のうち、2曲は大ヒットとなった。

 

3月、シングル“I Hope We Get To Love In Time”をABCからリリース、全米91位。

 

9月、2枚目のシングル“星空のふたり”(You Don't Have to Be a Star [To Be in My Show])をリリースすると、全米1位・AC6位・R&B1位・全英6位、さらに豪州で最高21位を記録した。この曲でマックーとデイビスはグラミー賞R&Bデュオorグループによる最優秀R&Bパフォーマンス賞を受賞、翌1977年の東京音楽祭でもグランプリを受賞した。

 

 

1977年3月、“Your Love”をリリース、全米15位に入った。

 

同年夏、マックーとデイビスは CBSの番組『マリリン マックー & ビリー デイビス ジュニア ショー』で司会を務め、ネットワーク・テレビ・シリーズで司会を務めた初のアフリカ系アメリカ人夫婦となった。

同年、ABCで次のアルバム『The Two Of Us』をリリースした。ここからシングル“Look What You've Done To My Heart”が全米51位になった。

 

 

1978年、2人は CBSレコードと契約。

同年、次のアルバム『Marilyn + Billy』をリリースしたが、全米トップ100に入るヒット曲は生み出さなかった。なお、これ以後2人は30年間アルバム発表から遠ざかった。

 


1979年、マックーは、ニール・サイモン脚本『第二章』(Chapter Two)の主題歌“I'm On Your Side” (作詞:キャロル・ベイヤー・セイガー/作曲:マーヴィン・ハムリッシュ)の歌唱を担当した。

 

 

1981~1984年、マックーはアメリカの人気音楽テレビ番組『ソリッド・ゴールド』の司会を務めた。

 

 

1980年代初頭、マックーはプロとして本格的にソロ活動することを決意した。

 


1983年、初のソロ・アルバム『ソリッド・ゴールド』(Solid Gold)をリリース。2014年には初CD化もされた。

 

 

1986年にはメロドラマ『デイズ オブ アワ ライブス』でマーレナ エバンスの友人役としてタマラ プライス役を演じた。プライスは後にジェームズ レイノルズ演じるエイブ カーバーと関係を持つようになった。マックーは1987年に同シリーズを降板した。

同年~1988年、マックーは再び司会を務めた。

この頃、ナイトクラブやコンサートにも精力的に出演。

 


1990年、ミュージカル『ラ・マンチャの男』に出演。リヴァイヴァル上演されたハロルド・プリンス演出「ショウボート」のジュリー役をロネット・マッキーから引継ぎ、ブロードウェイ・ミュージカル・デビューを果たすとともに1995年から1996年まで演じた。


1991年、マックーのアルバム『ザ・ミー・ノーバディ・ノウズ』(The Me Nobody Knows)はグラミー賞にノミネートされた。

 

 

 

1996年、クリスマスアルバムもリリースした。

同年、マックーはクインシー・ジョーンズの『Handel's Messiah』への貢献により、8度目のグラミー賞(フィフス・ディメンションとの共演も含む)を受賞した。

 

 

2008年10月、マックーとデイビスの2人は、60・70年代のヒット曲を集めたコンピレーション・アルバム『The Many Faces of Love』をリリースした。

 


2021年、マックーとデイビスは30年以上ぶりのスタジオアルバム『ブラックバード・レノン=マッカートニー・アイコンズ』(Blackbird Lennon-McCartney Icons)をリリースした。起業家のキャシー・アイルランドは自身のレコードレーベルEE1からアルバムをリリースした。2人は、これは困難な時期に人々が団結することを奨励することを目的とした公民権運動が人権運動になったものだと語った。

 

 

6月29日、アルバムに関するインタビューで、クエストラブはマックーとデイビスを「ポップとソウルの最初のカップル」と呼んだ。彼らは後にクエストの監督デビュー作『サマー・オブ・ソウル』に出演することになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「マリリン・マックー」「Marilyn McCoo」「フィフス・ディメンション」「The 5th Dimension」

 

 

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