レイ・チャールズ(Ray Charles/出生名:Ray Charles Robinson/1930年9月23日~2004年6月10日)は、アメリカ合衆国のR&B歌手、ピアニスト、作曲家。

 

 

 

1930年9月23日、レイ・チャールズ・ロビンソンは、アメリカ合衆国ジョージア州オールバニ(Albany, Georgia)にて、肉体労働者の父ベイリー・ロビンソン、フロリダ州グリーンビル(Greenville)出身の洗濯作業員の母アレサ(リーサ)・ロビンソン(旧姓:ウィリアムズ)のもとに生まれた。

レイ・チャールズの母アレサは、子どもの頃に実母(チャールズにとっては祖母)が死去、父親(同じく祖父)も彼女を育てられなかったため、父親の同僚ベイリーとその妻メリー・ジェーンのロビンソン家から非公式ながら養女に迎えられ、ロビンソン姓を与えられて育った。

 

1930年、当時15歳のアレサは養父ベイリーの子を妊娠、地元のスキャンダルとなる。同年晩夏、身重のアレサはグリーンビルを離れ、親族のいるオールバニに転居した。

9月23日、こうして誕生した息子がレイ・チャールズ・ロビンソンである。

アレサは出産後、幼いチャールズを連れてグリーンビルに戻り、息子を亡くしたメリー・ジェーンとともにチャールズを育てた。一方、チャールズの実の父ベイリーは家族を見捨ててグリーンビルを離れ、他の女性と再婚した。

 

1歳の頃、チャールズに弟ジョージが誕生した。だが、父親は不明だった。

チャールズは母に深く傾倒し、母は体が弱く不運続きにもかかわらず、忍耐強く、自立し、誇り高い人物として、チャールズの人生の指針となったという。

幼い頃チャールズは機械に興味を示し、近隣住民の車や農業機械の修理を見ていた。

 

3歳の頃、ワイリー・ピットマンズ・レッド・ウィング・カフェでピットマンが古いアップライト・ピアノでブギウギを演奏するのを聴き、チャールズは音楽に興味を持った。ピットマンはチャールズにピアノの演奏方法を教えた。このカフェはいつもチャールズと母親を歓迎し、経済的に困窮した時はここに住むこともあった。ピットマンは母親の負担軽減のために弟のジョージの世話をすることもあったという。


4~5歳で、チャールズは視力が悪化し始める。


6歳の頃、仲が良かった弟のジョージ・ロビンソンが4歳の時、誤って母親の洗濯桶で溺れて亡くなっってしまう。

 

7歳の頃、弟の死から9か月後、恐らく緑内障のため、チャールズは失明という悲劇に見舞われた。ジョージの死を悼む極貧で無学な母アレサは、地元のつてを頼って、当時アフリカ系アメリカ人の盲目の子どもを受け入れていた学校を探した。

 

1937~1945年、チャールズは当初嫌々ながらもフロリダ州セントオーガスチンにあるフロリダ盲聾学校に通学。目が見えないハンディを抱えて盲学校に通いつつ、バッハやモーツァルト、ベートーベン等のクラシックピアノを学び、音楽の才能を伸ばした。学校でローレンス先生は右手で点字を読んで左手で動きを覚え、左手で点字を読んで右手で動きを覚えるという難しい点字楽譜の使用方法を教えた。

1945年、14歳の時に母親が死去。チャールズは非常にショックを受け、後に弟と母親の死は「人生最大の悲劇」だと語った。葬式後、学校に戻らないことを決意した。

盲学校を退学後、チャールズは母の友人チャールズ・ウェイン・パウエルと同居するため、フロリダ州ジャクソンビルに引っ越した。

1年以上ラヴィラ地区にあるリッツ・シアターにて複数のバンドでピアノを弾き、一晩で4ドル(2020年の価値でUS$38に相当)を稼いでいた。

職を得るためアメリカ音楽家連盟632区に加盟した。家にピアノを持っていなかったが連盟施設のホールのピアノを練習のため使用することができ、他の奏者のフレーズを復唱。ジャクソンビルで彼の音楽的才能が評判となったが定職には就けなかった。

 

16歳でフロリダ州オーランドに転居、極貧で数日食にありつけないこともあった。

第二次世界大戦が終わり、音楽家は誰もが職を見つけるのが困難な時代を迎えた。

そんな中、ようやくポップ・ミュージックのバンドの編曲を開始した。

 

1947年夏、ラッキー・ミリンダーおよびその16人編成バンドのピアノのオーディションに落ちた。
同年、フロリダ州タンパに転居し、チャールズ・ブラントリー・ハニー・ディッパーズのピアノ演奏を含む2つの職を掛け持った。
キャリア初期の頃、チャールズはナット・キング・コール(Nat King Cole/1919年3月17日-1965年2月15日)を手本としていた。

最初のレコーディングとなる"Wondering and Wondering"、"Walking and Talking"、 "Why Did You Go?"、"I Found My Baby There"の4曲はタンパで録音したとされるが、いくつかのディスコグラフィでは1951年にマイアミまたは1952年にロサンゼルスで録音したと記される。
他の人物のバンドでピアノ演奏をしていたが、自身のバンドを持ちたいと熱望する。そのためフロリダ州を離れてどこか大都市に移ろうと決心したが、シカゴやニューヨークは大きすぎると考えた。

 

 

1948年3月、ラジオの大ヒット曲は北部の都市で生まれるとして、友人のゴシー・マッキーについてワシントン州シアトルに移った。

同年、ロバート・ブラックウェルの指導を受ける。当時15歳だった。

この頃、クインシー・ジョーンズ(Quincy Jones)と出会い、友人となっている。
なお、キャリア初期の頃、「レイ・ロビンソン」(Ray Robinson)の名で活動していた彼は同年、ピアノ、マッキーのギター、ミルトン・ギャレットのベースのトリオ編成のバンドに参加、マッキー(McKee)の「Mc」とロビンソン(Robinson)の「son」から名付けた「マクソン・トリオ」(the McSon Trio)として地元ナイトクラブ「ロッキング・チェア」(the Rocking Chair)で午前1時から5時まで演奏した。トリオの宣材写真がチャールズの最古の写真とされる。この頃から薬物使用の悪癖も始まってしまう。

 

 

1949年4月、トリオで録音した“コンフェッション・ブルース”(Confession Blues)は、米音楽誌『ビルボード』のR&Bシングル・チャート(以下「R&B」)で第2位まで上昇、チャールズにとって最初の全国的なヒット曲となった。

 

この頃、レイ・ロビンソンと同名のボクサーがいたため、彼はミドルネームを用いた「レイ・チャールズ」(Ray Charles)に改名する。
チャールズはロッキング・チェアで活動中、コール・ポーター(Cole Porter/1891年6月9日-1964年10月15日)の"Ghost of a Chance"、ディジー・ガレスピー(Dizzy Gillespie/ 1917年10月21日-1993年1月6日)の"Emanon"など、他のアーティストの楽曲のアレンジも行なっていた。

 

 

1950年、最初の曲がヒットしたチャールズはロサンゼルスに転居、その後数年間はブルーズマンのロウエル・ファルソン(Lowell Fulson/1921年3月31日–1999年3月7日)のツアーに音楽監督として同行した。

同年、マイアミのホテルでのチャールズの演奏を聴いたレコード・プロデューサーのヘンリー・ストーンが感銘を受け、“Ray Charles Rockin'”を録音したが、ヒットしなかった。マイアミ滞在中チャールズは差別を受けていたが、オーバータウンの黒人コミュニティで人気となった。その後ストーンはジェリー・ウェクスラーがフロリダ州セントピーターズバーグでチャールズを見つける手助けをした。


1951年、スウィング・タイム・レコードで歌った後、R&Bの2曲をレコーディング、そのうち"Baby, Let Me Hold Your Hand"がR&B5位を記録した。

 

 

1952年、"Kissa Me Baby"がR&B8位とヒットした。

 

同年、チャールズは、プレイヤーとしてだけでなく、レコード・プロデューサーとしても活躍。ギター・スリム(Guitar Slim/1926年12月10日–1959年2月7日)の自作曲"The Things That I Used to Do"のプロデュースを行い、R&B1位の座を6週キープする大ヒットとなった。

 

6月、スウィング・タイムは破産し、自己バンドでツアーを行っているうちに、アトランティック・レコード(Atlantic Records)のアーメット・アーティガンから声を掛けられ、2,500ドル(2020年の価値でUS$23,587)で新たに契約を締結した。

9月、アトランティックでの最初のレコーディング・セッションは"The Midnight Hour"/"Roll with My Baby"であった。

 

 

1953年2月にスウィング・タイム(Swing Time)から最後のレコード"Misery in My Heart"/"The Snow Is Falling"がリリースされた。
同年、"Mess Around"をリリースするとR&B3位を記録、アトランティックで3枚目にして最初のヒット・シングルとなる。

 

 

1954年、シングル"It Should've Been Me"がR&B5位、"Don't You Know"がR&B10位とヒットした。

 

 

この頃"Midnight Hour"および "Sinner's Prayer"もレコーディングしていた。
同年終盤、"I've Got a Woman"をレコーディングした。バンドリーダーのレナルド・リチャードが作詞し、チャールズが作曲したとされた。だが彼らは後にサザン・トーンズの"It Must Be Jesus"(1954年)がベースとなっていることを認めた。ゴスペル、ジャズ、ブルーズの要素が融合された本楽曲は最も著名なヒット曲の1つとなり、R&Bチャートで第1位となった。

 

 

1955年、"This Little Girl of Mine"がR&B9位、"A Fool for You"がR&B1位とヒットした。

 

 

 

1956年、"Drown in My Own Tears"がR&B1位、"Hallelujah I Love Her So"がR&B5位とヒットした。

 

 

 

1957年、アルバム『The Great Ray Charles』(1957年)などジャズもレコーディングしている。

 

 

1958年6月、ビブラフォン奏者のミルト・ジャクソン(Milt Jackson)とともにアルバム『Soul Brothers』をリリースした。

この頃になると、ニューヨークのアポロ・シアターなどの黒人施設だけでなく、カーネギー・ホールといった大規模ホールにメイン出演者として立ち、ニューポート・ジャズ・フェスティバルといったメジャーなフェスでも演奏するようになる。

同年、初のライヴ・アルバム『Ray Charles at Newport』がレコーディングされた。女性ヴォーカル・グループのクッキーズ(The Cookies)を雇い、レイレッツ(The Raelettes)と改名させた。

8月3日、チャールズとレイレッツはレオン・ヘフィン・シニアのプロデュースによりシュライン・オーディトリアムで開催されたカヴァルケイド・オブ・ジャズで演奏。他にリトル・ウィリー・ジョン、サム・クック、アーニー・フリーマン、ボ・ランボが出演し、サミー・デイヴィスJr.もミス・カヴァルケイド・オブ・ジャズ優勝者に授賞するため出席。ロサンゼルスの最も著名なディスクジョッキー4名も出演していた。


1959年6月、ゴスペル、ジャズ、ブルーズ、ラテンを融合した“ホワッド・アイ・セイ”(What'd I Say [Part 1])を発表してアトランティックの頂点に到達。チャールズが自身のバンドとクラブで演奏中に自然と曲ができたと語った本楽曲で全米6位・R&B1位に昇る大ヒットとなった。しかし歌詞が煽情的であるとして複数のラジオ局で放送禁止となった。聖なるゴスペルと俗世間の音楽であるR&Bを融合したことから、信心深いクリスチャンからは非難された。また、ジャズ評論家の中にはレイの曲を「ただばか騒ぎしているだけじゃないか」と揶揄する者もいた。

 

10月、初のトップ40入りとなる最高位17位になったビッグバンド演奏のアルバム『The Genius of Ray Charles』をリリース。

10月19日、アルバム『ホワッド・アイ・セイ』(What'd I Say)を発売、全米20位。

同年終盤、チャールズにとって初のカントリー曲となるハンク・スノウ(英語版)の"I'm Movin' On"のカヴァーをリリースし、全米40位・R&B11位をマーク。

同年、アトランティックとの契約切れを期に複数の大規模なレコード会社から契約を持ちかけられた。

11月、アトランティックとの契約更新を望まず、ABCパラマウントと契約した。ABCは当時としてはとても高額な年間前払金5万ドル(US$429,737 in 2020 dollars)に加え、従前以上の印税収入、マスタリング所有権を提示し、チャールズは当時の他のアーティストたちより寛大な契約を獲得した。

アトランティック在籍中、独創的な作曲で称賛されていたチャールズだが、ABCの子会社レーベルであるインパルス!レコードによる、主にインストゥルメンタルのジャズによるアルバム『Genius + Soul = Jazz』のリリースの頃までには作曲を諦め、既存の曲に自身の多様な編曲を加えるカヴァー・アーティストとなっていた。

 


1960年、代表曲の一つとなる“我が心のジョージア”(Georgia on My Mind)を発表し、ミリオンセラーを記録。スチュアート・ゴレルとホーギー・カーマイケルの作曲で、シド・フェラ―がプロデュース・編曲・レコーディング指揮を務めたこの演奏は、ABCパラマウントでの初の全米1位を獲得、R&B3位・全英24位にも入った。全米の称賛を受けて男性ポップヴォーカル賞およびコンテンポラリー楽曲賞を含む4部門で受賞した。このヒットによりアメリカの古い楽曲の価値が上がり、1979年にはチャールズ版“我が心のジョージア”がジョージア州歌となるに至った。

 

 

1961年2月、アルバム『Genius + Soul = Jazz』をリリース、全米4位。

 

3月、"ワン・ミント・ジュレップ"(One Mint Julep)をリリース、全米8位・R&B1位をマークした。

 

8月、R&B歌手のパーシー・メイフィールドが作曲した“旅立てジャック”(Hit the Road Jack)でも全米1位・R&B1位・全英6位を獲得、グラミー賞を受賞した。

 

同年、ミルト・ジャクソンとともに再び組み『Soul Meeting』をリリース。

同年終盤までにチャールズは小規模のツアーメンバーからビッグバンドに拡大させ、印税やツアー費用の増加もあり、制作段階でメインストリーム・ポップに進出した数少ない黒人アーティストの1人となった。

同年、1955~56年にレコーディングされたジャズ・アルバム『The Genius After Hours』をアトランティックからリリース、全米49位。

10月、1952~60年にレコーディングされたブルーズ・アルバム『The Genius Sings the Blues』をアトランティックからリリース、全米73位。

11月のコンサートツアー中、インディアナ州インディアナポリスにて警察がチャールズのホテルの部屋を捜索して薬棚からヘロインを発見、これまでの成功が一気に崩壊した。ただし、警察による正式な令状のない捜査であったため事件は取り下げられ、チャールズはすぐに音楽シーンに復帰した。

11月、“アンチェイン・マイ・ハート”(Unchain My Heart)をリリース、全米9位・R&B1位。

 


1960年代初頭、ルイジアナ州からオクラホマ州オクラホマシティへ向かう航空機に搭乗中、降雪と霜取り機の使用の失敗によりフロントガラスが完全に氷で覆われパイロットの視界が悪化、墜落寸前となった。空中で2回旋回し、フロントガラスのごく僅かな部分から見ながら着陸することができた。チャールズはこの経験をスピリチュアルに解釈し、「計り知れない誰かあるいは何か」がフロントガラスの氷に小さな隙間を作り、最終的に飛行機が安全に着陸することができたのだと語った。


1962年4月、アルバム『Modern Sounds in Country and Western Music』をリリースし、全米1位・全英6位を獲得。同年10月の続編アルバム『Modern Sounds in Country and Western Music, Vol. 2』も全米2位・全英15位となり、ともにカントリー・ミュージックをメジャー路線にすることに貢献した。

 

 

4月、ドン・ギブソン(Don Gibson)が作曲した“愛さずにはいられない”(I Can't Stop Loving You)のチャールズ版をリカット、全米1位を5週連続、R&B1位を10週連続で獲得し、チャールズにとって唯一の全英1位の楽曲となった。

 

4月21日、シングル"ユー・ドント・ノー・ミー"(You Don't Know Me)をリカット、全米2位・R&B5位・AC1位・全英9位。

 

同年、シングル"ユー・アー・マイ・サンシャイン"(You Are My Sunshine)をリカット、全米7位・R&B1位、B面の"Your Cheatin' Heart"が全英13位に入った。

 

8月、アルバム『Ray Charles Greatest Hits』をリリース、全米5位・全英16位。

同年、ABCパラマウントが広報と配給を行なう自身のレコード会社タンジェリン・レコードを創立した。

 

 

1963年、"Take These Chains from My Heart"が全米8位・R&B7位、"打ちのめされて"(Busted)が全米4位・R&B3位と、シングルがポップチャートでヒットした。

 

 

7月、アルバム『Ingredients in a Recipe for Soul』をリリース、"打ちのめされて"等を収録。全米2位。

 

 

1964年、マージー・ヘンドリクスを激しい口論の上でレイレッツから解雇した。

同年、“太陽は燃えている”(Love Me With All Your Heart)などのヒットを出し続けた。

 

3月、アルバム『Sweet & Sour Tears』をリリース、全米9位。

 

同年、ヘロイン所持で3度目の逮捕となり、チャールズのキャリアは再び中断した。収監を避けるためにリハビリ施設への入所に同意し、ついにロサンゼルスの診療所で悪癖を払拭した。判決の結果、1年間の執行猶予となった。

 

 

1966年2月、アルバム『Crying Time』をリリース、全米15位・R&B1位をマークした。ここから、カントリー歌手のバック・オーウェンス(Buck Owens)の楽曲をカヴァーしたタイトル・トラック"クライング・タイム"(Crying Time)が全米6位となり、翌年3月にはグラミー賞を受賞した。

 

同年、チャールズは全米72位・R&B45位になった"I Don't Need No Doctor"や、全米31位・R&B1位になった"Let's Go Get Stoned"など、アシュフォード&シンプソンとジョー・アームステッドの作曲によるダンス曲でヒット・チャートに再び登場するようになり、数年ぶりにR&Bチャートで第1位を獲得した。

 

 


1967年6月、スタンダードを主に歌ったカヴァー・アルバム『Ray Charles Invites You to Listen』をリリース、全米76位・R&B9位。

 

同年、バラード曲"Here We Go Again"をアルバムからカット、全米15位・R&B5位と全米トップ20にランクインした。


 

1968年から1973年のレコーディングの多くはファンや批評家から賛否両論の強い反応を引き起こした。

 

チャールズのチャート復帰は短期間で終わり、1970年代までにはラジオ局であまり流されなくなった。

サイケデリック・ロック、そしてロックやR&Bのハード版の台頭により、ラジオでの求心力を下降させ、マスタリング所有権による印税収入があるため新曲作曲の意欲を失い、ポップスの定番曲の他にコンテンポラリー・ロックやソウルのヒット曲をレコーディングするようになった。それでもレコーディング活動を続けていた。

 

 

1972年、アルバム『A Message from the People』をリリース、全米52位・R&B22位。本作でチャールズは当時人気だったプログレッシブ・ソウルへと傾倒していった。ゴスペルの要素を含む独自の“アメリカ・ザ・ビューティフル”(America the Beautiful)、そして貧困や人権に抗議する楽曲が複数収録されている。ただし“アメリカ・ザ・ビューティフル”は原曲と大幅に異なるとしてしばしば批判されている。

 

 

1973年7月14日、チャールズとの子を出産したマージー・ヘンドリクスが38歳で亡くなり、遺児のチャールズ・ウエイン・ヘンドリクスの世話をするようになった。死因は不明である。

11月、スティーヴィー・ワンダーのヒット曲“汚れた街”(Living for the City)をカヴァーしリリース、1975年に全米91位・R&B22位とチャート入りを果たし、再びグラミー賞を受賞した。

 


1974年、ABCレコードを離れ、自身のレーベルであるクロスオーバー・レコードで複数のアルバムをレコーディングした。

 

 

1977年、アーメットと再会し、アトランティック・レコードと再び契約してアルバム『True to Life』をレコーディングし、全米8位・R&B23位をマークした。

 

しかしアトランティックはロックに焦点を当て始め、アレサ・フランクリンなどの著名なソウル・アーティストは活躍の場がなくなり始めた。

11月、チャールズはNBCのテレビ番組『サタデー・ナイト・ライブ』にゲスト司会者として出演した。


1979年4月24日、ジョージア州議会は“Georgia On My Mind”(わが心のジョージア)を「正式な州歌」と定めた。チャールズはジョージア州会議事堂で感動的な演奏を行なった。

 

 

1980年、映画『ブルース・ブラザース』(The Blues Brothers)に楽器店店主の役で出演し、“Shake Your Tailfeather”を演奏している。

 

同年、アルバム『Brother Ray Is at It Again』をリリース、R&B72位になった本作を最後に、再びアトランティックを離れる。

 

 

1981年、南アフリカ共和国のアパルトヘイトに抗議する国際的なボイコットの間、リゾート地のサンシティでコンサートを開催したことに批判が起こった。レイは1960年代、アフリカ系アメリカ人公民権運動およびマーティン・ルーサー・キング・ジュニアを支援していたことで知られているため批判された。これに対してレイは、後に同コンサートの間は黒人と白人が平等となるとして決行することにしたと主張した。

 

 

1983年、チャールズはコロムビア・レコードと契約。一連のカントリー・アルバムを録音・発表した。ジョージ・ジョーンズ、チェット・アトキンス、B・J・トーマス、ミッキー・ガイリー、ハンク・ウィリアムズ・ジュニア、ディー・ディー・ブリッジウォーター("Precious Thing")そして長年の友人であるウィリー・ネルソン("Seven Spanish Angels")などの歌手とともにデュエットしたシングルがヒットした。

同年、B・J・トーマス (B.J. Thomas)と共演した"Rock and Roll Shoes"を先行リリース、カントリー14位になった。

 

 

1984年8月、カントリー界をはじめ豪華ゲストを迎えたアルバム『Friendship』をリリース、全米75位・カントリー1位を記録した。

 

11月、ウィリー・ネルソンと歌った"Seven Spanish Angels"をリカット、カントリー・チャート1位を獲得した。

 


1985年3月7日、アメリカのスーパースターが一堂に会したプロジェクト「USAフォー・アフリカ」(USA for Africa, United Support of Artists for Africa)に参加し、当時深刻化していたアフリカの飢餓救済のためのチャリティー・ソング“ウィ・アー・ザ・ワールド”(We Are the World)をリリース、チャールズはブリッジ部分でリード・ヴォーカルをとった。

 

 

1987年、シンガーソングライターのビリー・ジョエル(Billy Joel)とのデュエット・ナンバー"Baby Grand"が全米75位・AC3位にランクインした。

 

 

1989年、長年の友人のクインシー・ジョーンズおよび歌手のチャカ・カーンとの共作であるブラザーズ・ジョンソン(The Brothers Johnson)の"I'll Be Good to You"を「Quincy Jones featuring Ray Charles and Chaka Khan」名義でカヴァーしてリリース、全米18位・R&B1位・ダンス1位を1990年に獲得し、チャールズとカーンはグラミー賞を受賞した。

 

同年、サントリーのテレビCMのためにサザンオールスターズの“いとしのエリー”(作詞・曲:桑田佳祐)の英語詞カヴァー"Ellie My Love"(英語詞:作詞 Rumiko Varnes・Pete Hawkins)を日本で発売し、オリコン3位を獲得。オリコン集計で40.2万枚のヒットとなり、レイ・チャールズ作品としては日本での最大の売上となっている。また、米国のR&Bチャートでも40位にチャート・インした。

 

同年、イタリア人歌手ズッケロ・フォルナチャーリの『Oro Incenso & Birra』のツアーにおいて、アレーナ・ディ・ヴェローナにゲスト出演した。

 

 

1990年、ワーナー移籍後初のアルバム『Would You Believe』を発表、R&B61位。


2001~2002年、ニュージャージー・ロッタリーのキャンペーン「"For every dream, there's a jackpot"」のコマーシャルに出演した。

 

 

2002年、チャールズは10人の女性との間に12人の子どもがいる。この12人のために昼食会に開催し、10人が出席した。チャールズは死に至る病気に疾患していること、子供たちそれぞれに今後5年間で支払われる50万ドルを信託に預けてあることを子どもたちに伝えた。


2003年、ジョージ・W・ブッシュ大統領、ローラ・ブッシュ、コリン・パウエル、コンドリーザ・ライスが出席する、ワシントンD.C.で行なわれたホワイトハウス記者協会夕食会にメインで出演した。
同年、ヴァン・モリソン(Van Morrison/1945年8月31日-)がソングライターの殿堂に殿堂入りする際、チャールズがプレゼンテーターを務め、さらにモリソンの楽曲“クレイジー・ラヴ”(Crazy Love)をともに歌唱。この演奏は2007年のモリソンのアルバム『The Best of Van Morrison Volume 3』に収録された。

 

同年、ワシントンD.C.で毎年行なわれるメディア・ジャーナリスト晩餐会で“我が心のジョージア”と“アメリカ・ザ・ビューティフル”を演奏した。

同年、人工股関節置換術に成功してツアーに戻る予定であったが、他の病気にかかり始めた。

 

 

2004年4月30日、ロサンゼルスで行なわれた歴史的建造物としてのスタジオの竣工式に参加したのが最後に公に見せた姿となった。

 

 

 

 

2004年6月10日、「Genius」の二つ名で呼ばれたレイ・チャールズこと、レイ・チャールズ・ロビンソン・シニアは、カリフォルニア州ビバリーヒルズの自宅にて肝不全による合併症で死去した。73歳没。

直前に完成された自伝映画『Ray/レイ』を観ることは出来なかった。

 

 

 

 

2004年6月18日、ロサンゼルス・ファースト・アフリカン・メソジスト聖公会で葬儀が行なわれ、多数の音楽関係者が参列した。彼をリスペクトするアーティストによる「音楽葬」が行われたことも話題となった。B.B.キング、グレン・キャンベル、スティーヴィー・ワンダー、ウィントン・マルサリスが葬儀においてそれぞれ演奏を行なった。イングルウッド公園墓地に埋葬された。

8月31日、没後2ヶ月余り経って、最後のアルバム『Genius Loves Company』がリリースされ、全米1位・R&B4位・全英18位を獲得した。B.B.キング、ヴァン・モリソン、ウィリー・ネルソン、ジェームス・テイラー、グラディス・ナイト、マイケル・マクドナルド、ナタリー・コール、エルトン・ジョン、ボニー・レイット、ダイアナ・クラール、ノラ・ジョーンズ、ジョニー・マティスなどの音楽仲間や同世代のミュージシャンとのデュエットが収録されている。また、葬儀でも演奏された、ジョニー・マティスとのデュエットであるハロルド・アーレンおよびエドガー・イップ・ハーバーグ版の“虹の彼方に”(Over the Rainbow)が収録された。 

 

 

 

 

 

 

10月29日、レイ・チャールズの30年間に焦点を当てた伝記映画『Ray/レイ』が米国で公開。日本では翌2015年1月29日に封切された。

 

 

2005年2月13日、第47回グラミー賞授賞式で『Genius Loves Company』は、ポップボーカルアルバム賞、年間アルバム賞、年間レコード賞、ポップ・コラボレーション・ウイズ・ボーカル賞("Here We Go Again"ノラ・ジョーンズと)、ゴスペル・パフォーマンス賞("Heaven Help Us All"グラディス・ナイトと)を含む計8部門で受賞した他、エルトン・ジョンとの"Sorry Seems to Be the Hardest Word" 、B.B.キングとの"Sinner's Prayer"でもノミネートされた。

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「レイ・チャールズ」「Ray Charles」

 

 

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