キャス・エリオット(Cass Elliot/本名:Ellen Naomi Cohen/1941年9月19日~1974年7月29日)は、アメリカ合衆国の歌手。特にポップ・カルテット「ママス&パパス」(The Mamas & the Papas)のママ・キャス(Mama Cass)として記憶されている。

 

 

本名エレン・コーエンは、アメリカ合衆国メリーランド州ボルチモアで生まれ育つ。

ワシントンD.C.郊外のバージニア州アレクサンドリアのハイスクール時代に「キャス」と名乗り始めた。ママス&パパスのデニー・ドハーティが後に語ったことによれば、これは恐らく女優のペギー・キャス (Peggy Cass) に由来している。その後、彼女は亡くなった友人を悼み、エリオットという姓を用いるようになった。

 

キャスは、まだジョージ・ワシントン高校に在学中だった時に、ミュージカル『ザ・ボーイフレンド』 (The Boy Friend)で初舞台を踏んだ。

卒業直前に高校を中退し、ニューヨークで『恋するミュージック・マン (The Music Man) 』に出演したが、1962年にバーブラ・ストライサンドが演じた『あなたには卸値で (I Can Get It for You Wholesale) 』のミス・マーメルスタイン役は逃した。

 

キャスはグリニッジ・ヴィレッジの「ショープレイス」のクローク係として働きながら時折歌っていたが、本格的に歌手としてのキャリアを追求し始めたのは、アメリカン大学(American University)に通うためにワシントンD.C.に戻ってからのこと。

アメリカのフォークミュージックシーンが盛り上がりを見せる中、キャスは3人組のフォークバンド「トライアムヴィリート」で活動を始めた。

 

1963年、一人抜けた穴埋めにジェームズ・ヘンドリックスが加入、トリオは「ビッグ・スリー」と名前を変更。キャスは「ビッグ・スリー」で初のレコーディングを行う。

同年、シングル“Winkin', Blinkin' and Nod”とアルバム『The Big 3』がFMレコーズより

リリースされた。

 

この年、ジェームズ・ヘンドリックスと初めて結婚したが、この結婚はベトナム戦争の間、

ジェームズが兵役を避けるための偽装結婚だったと言われ、初夜を迎える事なく

1968年に無効となった。

 

1964年、ビッグ・スリーからまた一人去ったため、キャスとジェームズはカナダ人のザル・ヤノフスキーとデニー・ドハーティと組んで「マグワンプス」を結成。だが、このグループはアルバム『The Mugwumps』を出すも8ヶ月で終わった。その後キャスはカリフォルニア州でジャズ・シンガーとして活動を始め、ザルはジョン・セバスチャンと「ラヴィン・スプーンフル」(The Lovin' Spoonful)を結成し、デニーはジョンとミシェルのフィリップス夫妻のいる「ニュージャーニーメン」に参加した。

 

1965年、ニュージャーニーメンはやがてフォークロックへと方向転換し、カリフォルニアに活動の場を移した。そこでキャスと再会したデニーは、彼女をグループに入れるべきだとジョン・フィリップスを説得。彼らがヴァージン諸島で休暇を過ごす間に、キャスは正式に加入した。こうしてメンバーは、ジョン・フィリップス、デニー・ドハーティ、ミッシェル・フィリップス、そしてキャス・エリオットの4人になった。

 

キャスに関する有名な逸話は、ヴァージン諸島でグループに加わる少し前、銅管で頭を打ったことで彼女の音域が3音近く広がったというもの。キャス自身、1968年の『ローリング・ストーン』誌インタビューでこの話を認めている。しかし彼女をよく知る人々によればこれは真実では無い。キャスは昔から傑出した歌声の持ち主だったからだ。彼女の友人は、ジョン・フィリップスが長い間キャスをグループに受け入れなかった理由を、差別的でない表現で説明するため「パイプの物語」が使われたのだという。なぜなら本当の理由は、ジョンが彼女を余りに太り過ぎだと考えていたからだった。

 

ニュージャーニーメンが2人の女性を擁した時点で、新しい名前が必要となった。デニー曰く、名前のインスピレーションを得たのはキャスだという。メンバー全員でテレビを観ながらグループ名を議論していた時、ジョンは「マジック・サークル」を推していた。そんな時テレビから流れてきた「ママス」という言葉にキャスが反応し、ミシェルも賛同。男性陣は顔を見合わせ、自分たちは「パパス?」と言った。こうしてグループ名は「ママス&パパス」に決まったが、祝杯を何度もあげた後キャスとジョンは酔いつぶれ、これがデニーとミシェルの不倫関係の始まりを運命づけたとデニーは言い続けた。

 

1965年11月、ママス&パパスは“青空を探せ”(Go Where You Wanna Go)でデビュー。

 

同年12月、フィリップス夫妻によって書かれた“夢のカリフォルニア” (California Dreamin')を発表。同曲は全米4位の大ヒットとなった。

 

1966年3月、3枚目のシングル“マンデー・マンデー”(Monday, Monday)はグループ唯一となる全米1位にまで昇り、この曲でグラミー賞の最優秀コンテンポラリー・ロックン・ロール・グループの栄冠に輝いた。

同年、“夢のカリフォルニア”や“マンデー・マンデー”を収録したファースト・アルバム

『夢のカリフォルニア』(If You Can Believe Your Eyes and Ears)』もロング・ヒット。

 

絶頂期の1966年、ミシェルとデニーの不倫が発覚し、ミシェルは夫のジョンに追い出される形でグループを脱退する。しかし、適当な代役が見つからなかったため、ミシェルは結局すぐに復帰して、ジョンと寄りを戻した。

同年発売のシングル“アイ・ソー・ハー・アゲイン”(I Saw Her Agai)が全米5位を記録。

 

9月12日、この曲を収録したセルフタイトルのセカンド・アルバム『The Mamas & The Papas』も全米4位まで昇った。“アイ・ソー・ハー・アゲイン”と、同じく全米5位になった“愛の言葉”(Words of Love)が収録されている。

 

1967年2月2日発売のサード・アルバム『Deliver』が全米2位を記録。このアルバムからは“愛する君に”(Dedicated to the One I love)が全米・全英ともに2位と大ヒット、“クリーク・アリー”(Creeque Alley)も全米最高5位を記録し、全英でも9位とトップ10入りを果たした。

 

同年6月16日から3日間開催されたモンタレー・ポップ・フェスティバルに出演。ジョンはフェスティバルのテーマソング的役割を果たす“花のサンフランシスコ”を書き上げ、ジャーニーメン時代の同僚のスコット・マッケンジーが歌ったシングルは全米4位を記録した。

同年、“朝日をもとめて” (Twelve Thirty [Young Girls Are Coming to the Canyon])、“悲しみを幸せに”(Glad to Be Unhappy)などがヒット。

 

しかしジョンとミシェルの夫婦仲は再び亀裂が生じ始めていた。

この年4月26日、キャスはオーエン・ヴァネッサ・エリオットという女の子を出産した。彼女は娘の父親を決して明かさなかったが、長年を経た後、ミシェル・フィリップスがオーエンの実父を突き止める手助けをした。オーエンは母親同様に歌手になり、元ザ・ビーチ・ボーイズのアル・ジャーディンとツアーを行なった。

 

1968年になると、グループは完全に崩壊し、事実上の解散状態に陥った。各メンバーはそれぞれ個人的な活動を始めた。

同年、キャスもダンヒル・レコーズより初のソロアルバム『私の小さな夢』(Dream A Little Dream)をリリース。シングルカットされた、限りなくタイトルナンバーと言える“私の小さな夢”(Dream A Little Dream Of Me)は本来、同年にレコーディングされ発売もされたママス&パパスのアルバム『The Papas & The Mamas 』の収録曲であったが、キャス・エリオットがバンド仲間とレコーディングしてソロ作品としてリリースされ、彼女にとって最大のヒット曲となった。“私の小さな夢”は、共同作曲者の1人ファビアン・アンドレ (Fabian Andre) の死を知った後の1968年にレコーディングされた。ミッシェル・フィリップスはその数年前に彼に会っていた。“私の小さな夢”は1931年にナイトクラブ用のダンス曲として書かれた歌で、ナット・キング・コールなどのキャス以前のレコーディングがアップテンポであったのに対し、彼女のバージョンはバラードであったのが顕著な違いであった。

 

アルバムには他に、チャートで67位に入ったジョン・ハートフォード作の2枚目シングル“California Earthquake”といった曲も収録。アルバムは全米チャートでは惜しくも190位に登場したが、その後10週間連続で87位をキープした。

 

同年5月、『The Papas & The Mamas 』リリース。全米15位を記録した。

 

ユーモアのセンスと楽観主義で知られたキャスをグループ内で最もカリスマ性のあるメンバーだと考える人は多かった。彼女の暖かく独特な声は、彼らの大きな成功要因だった。彼女はグループのビルボードヒット“夢のカリフォルニア”、“マンデー・マンデー”、“愛の言葉”におけるボーカルによって、そして特に“私の小さな夢”における独唱によって人々の記憶に刻み込まれている。

 

1971年、ママス&パパスの面々は契約上制作しなければならなかった最後のアルバムのために再集結する。メンバーが各自で収録した曲をまとめて最後のアルバム『People Like Us』はこうして制作、発売された。

この後、ママス&パパスは解散する。

 

同1971年、キャスはデイヴ・メイソンとアルバム『Dave Mason & Cass Elliot』を共作。

彼女のソロキャリアでは最高位となるアルバムチャート49位を記録した。

 

同年、ジャーナリストのロナルド・フォン・ヴィーデンマン男爵と2度目の結婚をした。

 フォン・ヴィーデンマンはドイツ・バイエルン州の男爵家の継承者だったが、

この結婚は数ヶ月で破局し離婚に到った。

 

1970年代、キャスは『ジュリー・アンドリュース・アワー』、『マイク・ダグラス・ショー』、『アンディ・ウィリアムス・ショー』、『ハリウッド・スクエアーズ』、『キャロル・バーネット・ショー』などのテレビのトーク番組やバラエティー番組の常連であった。彼女は『ザ・トゥナイト・ショー』でジョニー・カーソンのためにゲスト司会者を務め、その他にも同番組に13回出演した。

 

1973年後半、キャスはゲーム番組『Match Game'73』にゲスト解答者として出演し、

1973年のテレビスペシャル、ミュージック・コメディ・ウェスタンの『Saga of Sonora 』で

当時のスター、ジル・セント・ジョン、ヴィンス・エドワーズ、ゼロ・モステル、

レスリー・アン・ウォーレンたちと共演した。

またハーディーズ・ファーストフードのラジオCMのために“Hurry on down to Hardee's, where the burgers are charco-broiled”(バーガーが炭火で焼かれているハーディーズに急ごう)というコマーシャルソングを歌った。

 

1970年代前半を通じて、キャスは女優としてもキャリアを重ねていった。

1970年にはテレビシリーズ『怪獣島 (H.R. Pufnstuf) 』の映画版『怪獣島の大冒険 (Pufnstuf) 』に出演し、『スクービー・ドゥー』、『ヤング・ドクター・キルデア』、『ラブ、アメリカンスタイル』、『レッド・スケルトン・ショー』など多くのテレビにゲストスターとして出演した。

 

1974年、キャスはソロ活動の絶頂期に、ロンドン・パラディアム劇場で2度のコンサートを開いた。コンサートはいずれも満席となった。

7月29日、彼女は最後のコンサートの後、ミシェル・フィリップスに電話をかけ、各夜ともスタンディングオベーションを受けたことを元気よく語った。彼女はその後床に就いたが、睡眠中に心筋梗塞を起こし、それが原因で死去した。

キャスが息を引き取った場所は、メイフェア・カーズン街9の12号フラット。奇しくも4年後にザ・フーのドラマー、キース・ムーンが同じ場所で他界することとなる。

 

キャスの死因について、ハムサンドを喉に詰まらせたからだという都市伝説が生まれた。彼女の遺体が発見された直後の警察の発表では、彼女の部屋で食べかけのサンドイッチが発見され、これを食べている時に窒息した可能性が語られた。だが検死官による検死の結果、気管に食物は発見されず、死因は睡眠中の心筋梗塞だと断定された。しかし、その時には既に噂が広まっており、本当の死因が話題になることは殆ど無かった。

 

キャスの死後、名セッションドラマーのラス・カンケル (Russ Kunkel) と結婚していた妹のリア・カンケルが、7歳になったばかりの娘、オーエンを引き取った。

リアもまた歌手であり、レネー・アーマンド、マーティ・グウィン・タウンゼントと組んだトリオ、コヨーテ・シスターズ (Coyote Sisters) のメンバーとして、1984年にシングル“Straight From The Heart (Into Your Life)」”をヒットチャート入りさせている。

1997年、リアはVH1のドキュメンタリーシリーズ『Behind The Music 』が「ママス&パパス」を特集した回でインタビューを受け、有名な姉について語っている。

 

キャスの死後、一般にママ・キャス、特に彼女の死を取り巻く状況は、最初の『オースティン・パワーズ』でのマイク・マイヤーズをはじめ、フランク・ザッパ、アダム・サンドラー、デニス・リアリー、TISM、ジャック・ブラック、アル・ヤンコビック、ロビン・ウィリアムズ、Foetus等により映画、楽曲で恰好のジョークネタにされた。

 

一方で死後から年を経る毎に、キャスへの尊敬の念を表す人々も増えていった。

スウェーデンのアーティスト、マリ・バーグマン (Marit Bergman) の歌“Mama, I Remember You Now”は、キャスへの讃歌である。

2004年、ダブリンでキャスを題材とする『The Songs of Mama Cass 』という舞台がクリスティン・カペリ (Kristin Kapelli) をメインヴォーカルに据えて上演された。

 

2005年にクロスビー、スティルス&ナッシュがリリースしたグレイテストヒッツ・アルバムはキャス・エリオットに捧げられた。

 

1996年のイギリス映画『Beautiful Thing』にはエリオットの曲が重用されており、彼女の思い出が1人の登場人物の人生に深く関わっている。

キャスの曲“Make Your Own Kind of Music”がテレビシリーズ『LOST』のシーズン2・3の数話で印象的に使われた。またシーズン4では“It's Getting Better”が使用された。

 

ママス&パパスの他のメンバーは、

2001年にジョン・フィリップスが心臓疾患により、

2007年にはデニー・ドハーティが腎不全により死去した。

ミシェル・フィリップスは、主に女優として活躍し、

1973年『デリンジャー』や1976年『バレンチノ』などの代表作を持つ。

 

 

 

 

Mama Cass R.I.P.

 

 

(参照)

Wikipedia「キャス・エリオット」「ママス&パパス」「Cass Elliot」「The Mamas and the Papas」(英語版)

ユニヴァーサル・ミュージック・ジャパン「ママス&パパス」

universal-music.co.jp/the-mamas-the-papas/

udiscovermusic.jp

https://www.udiscovermusic.jp/stories/cass-solo-debut-was-more-than-a-dream