小唄 勝太郎(こうた かつたろう/本名:眞野 かつ/出生名:佐藤かつ/1904年11月6日~1974年6月21日)は日本の歌手、俳優。芸者「勝太郎」として葭町花街に籍を置く傍ら、“島の娘”で歌手デビューし、いわゆる「ハァ小唄」の流行を作った。

 

 

 

1904年11月6日、佐藤かつは、新潟県中蒲原郡沼垂町(現:新潟市中央区)で誕生。

 

1917年、親戚の経営する料亭「鶴善」の養女となり、小学校卒業と同時に鶴善から「お勝」の名で雛妓(おしゃく)としてお披露目。

以後、長さ430間の木橋 萬代橋を毎日渡り、新潟古町まで芸の修行に通った。

 

1929年3月、25歳で年季が明け、好きな清元の師匠として身を立てるべく、上京。

師匠の清元延富貴葉(葭町の芸者家「新福本」の名妓「ちゃら」)の勧めにより、東京葭町(現:中央区日本橋人形町)の松三河家から、看板借りで再び芸者としてお披露目し、「勝太郎」と名乗る。

 

1930年10月、川辰中の看板を上げて独立。清元の他、新内、うた沢、長唄などの研鑽を続け、哥沢〆勝、清元梅勝治という名取りとなる。愛くるしい笑顔と美声が評判となり、“佐渡おけさ”の上手な芸者として次第に名を上げ、やがてはレコード会社からも注目を浴びることとなる。同じ葭町花街から出ていた「藤本二三吉」に続き、勝太郎もレコードデビュー。オデオンレコードに数曲吹き込んだ。

 

 

1931年、ビクターレコードと正式に契約。初期の芸名は「葭町勝太郎」であった。

1月、“佐渡おけさ”を発売。現地の盆踊りで唄われるものよりテンポを落とし、節や三味線を勝太郎自身が端唄風にアレンジしたもので、人気を呼び何度も吹き込んでいる。同時期に村田文三などがレコードに吹き込み普及に努めたいわゆる正調“佐渡おけさ”とはいささか趣が異なっていることもあり、地元からは「勝太郎のおけさは地元のものとは違う」と非難の声が出たこともあった。そこで、勝太郎の唄い方を“勝太郎節”などと呼び、伝承の“佐渡おけさ”と区別することもある。なお、伝承の節に比較的近い唄い方のものも“おけさ踊り”の題名で録音しており、こちらもヒットしている。

 


1932年、銀座の柳植樹記念として作られた“柳の雨”が、A面の四家文子が歌う“銀座の柳”ととも発売されると大ヒット。勝太郎のヒット作第1号となる。

 

12月31日、新進作曲家の佐々木俊一が作曲した“島の娘”が放送されると、聴取者から大反響を呼ぶ。

 

 

1933年、“島の娘”がレコード発売、3ヶ月で35万枚を売る未曾有の大ヒット作となる。当時、著名な音楽評論家が「“島の娘”よりベートーベンの方が好きだという人がいるとしたら、その人は日本人ではなくドイツ人である。」と絶賛した程であった。歌いだしが「ハァー」と始まる“島の娘”のヒットを受けて、いわゆる「ハァ小唄」と言われる流行歌が次々と世に出ることとなる。だが、“島の娘”は当局から「歌詞に問題アリ」とされ、歌詞の一部を改作させられた。その後、太平洋戦争に突入する頃には発禁処分を受け、歌うことも禁じられてしまった。

 

6月、一躍人気歌手となった勝太郎は、“大島おけさ”がヒット。

 

7月、盆踊りのシーズンにシングル“東京音頭”(作詞:西條八十/作曲:中山晋平)を発売、これは葭町の先輩である藤本二三吉が前年に歌った“丸の内音頭”の替歌であるが、その時とは違って三島一聲とのデュエットによってレコーディングされ(“丸の内音頭”はA面が二三吉、B面が三島一聲と、面を分けて歌っていた)、東京のみならず、日本全国の盆踊りが“東京音頭”一色に染まる程の大人気だった。

 

勝太郎は「新小唄」などと呼ばれた、地方の宣伝や紹介のために作られた新民謡も多く吹き込んでおり、“東京音頭”と“別府音頭”の2曲は大きな成功を収めた。後者は大分県の地方都市の新小唄であるにもかかわらず、大分県中で流行しただけでなく全国的に知られていた。

他に“大師音頭”、“軽井沢音頭”、“スキー音頭”、“美濃町音頭”、“黒船音頭”、“早鞆音頭”などを吹き込み、盆踊りの際に盛んに踊られた。殊に“大師音頭”と“スキー音頭”は平成以降もなお盛んに踊られている。

 

 

 

人気絶頂の勝太郎は、葭町の芸者を廃業し、レコード歌手に専念することを決意。

11月27・28日、歌舞伎座で「小唄勝太郎」襲名の披露興行『小唄勝太郎の夕』が華やかに二夜連続で東日社會事業團後援會の主催により開催された。

同時に「小唄不二派」を創流し、家元となる(現存する小唄不二派とは無関係)。

12月、“佐渡を想えば”を出すと、これもまたヒット。
 

 

1934年2月、春のシーズンに発売された“さくら音頭”は、各々異なった作詩・作曲家による各社競作となったが、本家ビクターの勝太郎盤が最も売り上げを伸ばした。

 

5月、“祇園囃子”を三島一聲とのデュエットで発売。

 

勝太郎の人気により、レコード業界に鶯歌手旋風が巻き起こり、同じビクターからは「市丸」、コロムビアからは「赤坂小梅」、「豆千代」、ポリドールからは「新橋喜代三」、「浅草〆香」、ニットーからは「美ち奴」、「日本橋きみ栄」と続々と芸者出身の歌手が人気を博したが、中でも同じ会社の市丸とは相当なライバル意識を持っていたようである。市丸は後に「勝っちゃんが歌い終わるとするようなにっこり笑う顔がどうにも愛嬌があって、あたしにはとてもできなかったの」と語っているが、当時二人は出番や着物、出演料に至るまで相当張り合っていて、新聞は勝太郎主体の記事の場合は「勝市時代」、市丸主体の記事の場合は「市勝時代」と書かねばならぬ程であったという。


1936年1月、“勝太郎子守唄”を出す。

 

同年、JO映画『勝太郎子守唄』に主演。

同年、“娘船頭さん”、“あんこ椿”と順調にヒットを続ける。

 

 

1937年、作詞家「西條八十」やSKD「江戸川蘭子」らとともに中国大陸へ戦地慰問に赴いたのをきっかけに、その後も何度となく、前線の将兵を慰問している。

 

 

1938年、戦地で病に倒れた際に、軍医・眞野鐐一と知り合う。ただし、勝太郎が亡くなった折の雑誌の取材では、築地にあった勝太郎の家に友人が下宿していて、1948年頃、その友人を訪ねた際に勝太郎と知り合ったのが出逢いの真相だと、眞野は語っており、有名な中国での出逢いのエピソードについては否定している。

戦時中も勝太郎の活躍は続いた。

 

 

1941年7月、“瑞穂踊り”を、市丸、鈴木正夫、一色皓一郎、山本麗子との共晶により発売。

 

 

1942年3月、“明日はお立ちか”を発売すると、放送局にリクエストの電話が掛かってくるほどの大反響を呼び、久々の大ヒットとなった。

 

 

1945年、軍需工場の慰問などに忙しい日々を送っていた勝太郎であったが、内地で終戦を迎える。

 

 

1946年、コロムビアに移籍。古賀メロディー“伊豆の七島”、親交の深かった歌舞伎俳優・十五世市村羽左衛門を偲ぶ“橘屋”などをレコーディングする。

 

 

1947年4月、代表曲の一つである“柳の雨”が再発され、1959年暮れまでに再発盤だけで37万3000枚を売り上げるロングヒットとなっている。

 

 

1948年、テイチクに移籍。

9月、映画主題歌“大島情話”がヒット。

 

 

1950年、眞野鐐一と結婚。
同年、親善使節として日本の芸能人としては戦後初めて、渡辺はま子、三味線けい子らと渡米し、ハワイ、ロサンゼルス、サンフランシスコと、現地の日系人に『東京音頭』を歌った歌手として大人気を博す。さらに、東海林太郎らとともにブラジルへも赴き、こちらでも日系人の熱烈な歓迎を受けている。

 

 

1953年12月31日、『第4回NHK紅白歌合戦』に初出場、“島の娘”を歌唱した。

 

 

1955年12月31日、『第6回NHK紅白歌合戦』に2度目の出場を果たし、“お染”を歌唱した。

 

 

1956年12月31日、『第7回NHK紅白歌合戦』に2年連続3度目の出場を果たし、“唐人お吉の唄”を披露した。

 


1961年、設立間もない東芝音楽工業(後:東芝EMI/現:EMIミュージック・ジャパン)に移籍。主に端唄・民謡を中心にレコーディング活動を続けた。

“佐渡おけさ”の他にも、“越後追分”や“三階節”、“新潟おけさ”など新潟県の民謡を次々にレコーディングし、普及に貢献した。“越後追分”も地元伝承のものとはやや節が異なり、勝太郎が端唄風にアレンジしたものである。 新潟民謡以外では“会津磐梯山”が持ち唄としてよく知られているが、これも地元のもの(カンショ踊り)とは異なり勝太郎が端唄風にアレンジしたもので、“佐渡おけさ”の時と同じように地元から非難の声が出た。有名な「小原庄助さん、なんで身上しもうた…」の囃子も、勝太郎のアイデアで挿入したものであり、元来のカンショ踊りにはこのような囃子は入っていなかった。当時は「身上しもうた」と囃したのだが、戦後は「身上つぶした」と囃すことが多くなっている。勝太郎自身が後年ラジオ等で「私の会津磐梯山は地元のものとは違っていて、わかり易くするために私がアレンジをしたものです」と述べており、地元伝承のものとは異なる旨を明言している。

 

 

 

他に“おばこ節(山形おばこの勝太郎節)”、“関の五本松”、“串本節”、“博多節(ドッコイショ)”、“磯節”など全国各地のお座敷調の民謡を積極的に吹き込み、普及に貢献している。

 

 

 

1960年代半ば以降、昭和40年代の懐メロブームには欠かせない存在となり、東京12チャンネル(現:テレビ東京)の『なつかしの歌声』には常連メンバーとして、死の直前まで出演している。

 

 

1971年、たゆまぬ精進が認められ、紫綬褒章を受章。それを記念して、古巣のビクターでは“島の娘”や“東京音頭”など、テイチクでは“びんのほつれ”、“春雨”などの端唄が再レコーディングされている。


1973年8月、タヒチへの旅行から帰ってから身体の不調を訴えるようになる。

 

 

 

 

1974年6月21日、眞野 かつは、肺癌のため、東京都府中市の自宅で69年の生涯を閉じた。

 

 

同年6月25日、勲四等宝冠章を追贈され、小唄勝太郎の輝かしい功績が讃えられた。

 

 

1999年1月21日、「昭和を飾った名歌手たちシリーズ」の小唄勝太郎編『昭和を飾った名歌手たち(6) 小唄勝太郎』が発売。 “島の娘”、“源太しぐれ”、“柳の雨”他、全16曲を収録。

 

 

2019年1月9日、『日本の流行歌スターたち(6) 小唄勝太郎 天東京音頭~明日はお立ちか』が発売。戦前の歌謡界を代表する超ビック・スター、小唄勝太郎の楽曲を全23曲収録。市丸とともに流行歌史上に残る華やかな時代を築いた勝太郎の魅力が詰まった豪華全曲集。

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「小唄勝太郎」

 

 

(関連記事)