堀内 護(ほりうち まもる/別名:MARK(マーク)/1949年2月2日~2014年12月9日)は、日本のミュージシャン。

 

 

 

1949年2月2日、堀内護が誕生。検事であった実父が弁護士に転身した時期に出生したため、「護」(まもる)と名付けられた。五人きょうだいの末っ子で、兄二人、姉二人がいる。

東京都世田谷区出身。

 

多摩美術大学中退。

 

「ザ・ティーンズ」、「ザ・ディメンションズ」といったグループで活動。

その後、由美かおるのバックバンド「ジ・エンジェルス」にて、本格的にプロミュージシャンとしての活動を始める。ジ・エンジェルスでは、“白夜のカリーナ”という楽曲でレコードデビューの予定であったが、デビュー直前に敢え無く解散となった。


その後、MARK(マーク)こと堀内は、日高富明(愛称:TOMMY[トミー]/1950年2月22日-1986年9月20日)と松崎しげる(1949年11月19日-)とともに「ミルク」(別名:ホットミルク)という名のGSバンドにて活動。なお、松崎はミルク時代に、作家デビュー前の宇崎竜童(本名:木村 修史)にスカウトされた。

また、堀内はロックミュージカル『ヘアー』に出演、大野真澄(愛称:VOCAL/1949年10月23日-)とダブルキャストで「ウーフ」役を演じる。

 

 

1970年11月、ミルク解散後、堀内と日高に大野が加わるかたちでバンド「GARO」(ガロ)を結成。ガロという名前は、当時ザ・タイガースのマネージャーで三人の世話役でもあった中井國二が自分の子どもにと考えていた「我朗」から名付けられた。ガロは元々CSN&Y(クロスビー・スティルス・ナッシュ & ヤング[Crosby, Stills, Nash & Young])のコピーバンドとしてスタートし、CSN&Yやブレッドの影響下にあったバンドであり、それらのグループの楽曲もレパートリーに加えていたため、卓越したコーラス・ワークとギター・テクニックを誇り「和製CSN&Y」と称された。

ガロは、かまやつひろしのバックバンドを経て、新レーベル「マッシュルームレコード」と第1回発売アーティストとして契約。プロデューサーはレーベル創設に参画したミッキー・カーチス(Mickey Curtis/1938年7月23日-)が務めた。


1971年8月、岐阜県で開催された第3回全日本フォークジャンボリーに出演。

10月10日、1stシングル“たんぽぽ”(作詞:大野真澄/作曲:堀内護/編曲:ガロ)でレコード・デビュー。

 

11月25日、1stアルバム(LP)『GARO』をリリース。全曲メンバーによるオリジナル曲であった。
しかし、所属していたマッシュルームレコードは売上不振により窮地に追い込まれ、打開策としてレーベル内で一番売り上げの良かったガロに外部作家作品を歌わせてシングル・ヒットを狙うこととなった。

 

1972年2月10日、2ndシングル“地球はメリーゴーランド”(作詞:山上路夫/作曲:日高富明/編曲:東海林修)を発売。B面は堀内が作詞作曲した“水色の世界”(作詞・曲:堀内護/編曲:東海林修)を収録。

 

 

6月20日、次のアルバムから、堀内がリード・ヴォーカルを取った1曲目“美しすぎて”(作詞:山上路夫/作曲:村井邦彦/編曲:飯吉馨)をA面、大野がリード・ヴォーカルの3曲目“学生街の喫茶店”(作詞:山上路夫/作曲:すぎやまこういち/編曲:大野克夫)をB面としたシングルを先行発売したが、当初チャート上位には登場しなかった。なお、なお、“学生街の喫茶店”のレコーディングでベースを弾いていたのは「宇野もんど」こと細野晴臣、ドラムを演奏していたのは原田祐臣。

 

 

6月25日、2ndアルバム『GARO2』をリリース。A面の5曲は、先行シングル発売した2曲を含め、プロ作家による日本語詞のオリジナルを収録。B面収録の5曲は、洋楽の日本語詞カヴァー。

 

 

10月10日、4thシングル“涙はいらない”(作詞・曲:堀内護/編曲:宮本光雄)を発売。

 

12月10日、3rdアルバム『GARO3』をリリース、再びメンバー自作のオリジナル曲で構成した。

これと前後して、“美しすぎて”のB面曲“学生街の喫茶店”がラジオや有線放送のリクエストを集めるようになり、翌1973年2月19日付けのオリコンのシングルチャートで1位に浮上、4月2日付けのチャートまで7週連続1位という大ヒットとなった。これによりガロのテレビ等のマスコミ出演回数が飛躍的に増大した。

だが、このヒット期間中にヴォーカルの大野が入院、復帰するまで堀内と日高の2人だけでスケジュールをこなす事態が生じた。

同年、明治製菓(現:株式会社明治)のキャンディー「チェルシー」CMソング“チェルシーの唄”(作詞:安井かずみ/作曲:小林亜星)をシモンズに続き2代目として担当。

 


1973年2月26日、“学生街の喫茶店”がヒットしている最中、この日に横須賀市文化会館で催行されたコンサートがライヴ収録される。

5月10日、5thシングルとして、堀内がリード・ヴォーカルを取った“君の誕生日”(作詞:山上路夫/作・編曲:すぎやまこういち)をA面に、堀内と日高のツイン・ヴォーカルとなった“散歩”(作詞:山上路夫/作曲:村井邦彦)をB面にリリース。大野不在の穴を埋め、見事オリコン1位を獲得した。

 

 

6月25日、2月のライヴの模様と先のシングル2曲(スタジオ録音)を追加したアルバム『GARO LIVE』をリリース。

 

8月25日、堀内が作曲を手掛けた6thシングル“ロマンス”(作詞:山上路夫/作曲:堀内護/編曲:大野克夫)をリリース。演奏にマンドリンを使用しているのは、堀内のアイデア。1973年度第15回日本レコード大賞で大衆賞を受賞した。28万枚以上を売り上げ、オリコン3位。

 

10月10日、シングル曲“ロマンス”を含む4thアルバム『GARO4』をリリース。

12月10日、7thシングル“一枚の楽譜”(作詞:山上路夫/作曲:村井邦彦/編曲:大野克夫)を発売。

 

年末には第15回日本レコード大賞大衆賞、第6回日本有線大賞新人賞を受賞。

12月31日、『第24回NHK紅白歌合戦』に初出場、“学生街の喫茶店”を演奏した。


1974年3月15日、シングル“姫鏡台””(作詞:山上路夫/作・編曲:すぎやまこういち)を発売。本楽曲では堀内が「シタール」を演奏しているが、これにより本曲が邦楽ポップスにおいてシタールを初めて使用した楽曲とされている。

 

5月25日、コンセプトアルバム『CIRCUS』を発売。作詞はプロの山上路夫をメインに、一部メンバーも担当。作曲はメンバーがすべて手掛けた。

7月1日、“ピクニック”(作詞:山上路夫/作曲:堀内護/編曲:深町純)を発売。

 

12月1日、シングル“ビートルズはもう聞かない”(作詞:松本隆/作曲:佐藤健/編曲:深町純)を発売。

 

当時、「フォーク歌手はテレビ出演しない」という流れが一般的であったが、ガロのメンバーは、歌番組はもとより、『象印スターものまね大合戦』や芸能人バレーボール大会等のバラエティ番組にも出演し、物真似を披露したり、競技に参加するなど、当時のフォークロックグループとしては異色の活動をしていた。
その一方でガロは精力的にレコード・リリースを続けるが、“学生街の喫茶店”に相当するヒットには至らなかった。そして、急速なヒット路線は人気の急降下につながり、メンバー間の音楽的な意見の相違も激しくなる。

後期には「ソフトロック」というジャンルにおいて、またアルバム『CIRCUS』『吟遊詩人』ではプログレッシブ・ロック的な、『三叉路』ではハード・ロック的なアプローチをしたこともあり、今日ではロックバンドとしても再評価されている。

 

 

1975年5月1日、シングル“一本の煙草”(作詞:阿久悠/作曲:荒木和作/編曲:松任谷正隆)を次のアルバムから先行発売。B面の“吟遊詩人”(作詞:阿久悠/作曲:日高富明・堀内護/編曲:松任谷正隆)はアルバムとは異なるシングル・ヴァージョン。

 

 

6月25日、アルバム『吟遊詩人』を発売。

 

12月25日、アルバム『三叉路』を発売。

 

 

この頃ガロは、日高富明がロック志向になったという音楽的対立の他、大野真澄が音楽的にも人間的にも吉田拓郎に傾倒していったことで三人がバラバラになっていた。それまでハーモニーを重要視して音楽性を追求してきたが、拓郎に曲を書いてもらうという話になり、拓郎宅に三人で行ったが、大乗り気の大野と比べて乗り気でない他の二人が、曲は自分たちで書くからプロデュースだけして欲しいと提案したところ、拓郎が怒り、話が流れた。もう一緒に出来ないと解散が決まり、アルバム『三叉路』が最後のオリジナル・アルバムとなった。

 


1976年1月1日、シングル“さいごの手紙”(作詞・曲:堀内護/編曲:堀内護・瀬尾一三)を発売。

 

3月、神田共立講堂の解散コンサートをもってガロは活動に終止符を打った。

11月25日、堀内のソロとして、マーク・ファースト『六夢』(りくむ)を発売。

 

 

 

1977年10月25日、2ndソロ・アルバム『MARK BRIGHT』を発売。

 

 

ここまで堀内はソロ・アルバムを2枚リリースしたが、いずれもヒットにはつながらなかった。

 

 

堀内はガロが解散した後もアコースティックサウンドを追求し、遠藤誠一(エンマ)と「バースディ」を結成し、デュオ活動を開始することを発表したが、仲違いから、アルバムを出すには至らなく、まもなく解散した。

 

その後、表立った音楽活動は断念することとなり、北小岩8丁目で、オートテニスセンターを開業。

 

一方で、日高のソロアルバムのレコーディングに参加したり、音楽指導をしたり、ニッポン放送40周年記念ミュージカル(南青山少女歌劇団)、川村カオリなどに楽曲提供をした事もあった。

 

 

1980年代に、堀内は日高と二人でガロを名乗り、都内のライヴハウスでライヴ活動を行ったことがあったが、短期的な活動であった。日高が欠席時には、後輩の坂崎幸之助が代役を務めたことがあった。
その後も3人それぞれに活動を続けていた。

 

 

1986年9月20日、日高が自宅近くのマンションから転落死。享年36。

 

 

1994年7月22日、「グッド・フレンズ」に参加し、CD『ウッドストックの夏』を発表。

 

 

2004年、杉山栽一のCD『SO AM I』にギター&コーラスで参加。


2006年11月29日、限定CD-BOXとして『GARO BOX』が発売。彼らの貴重なTV出演映像を納めたDVDも含まれているが、CSN&Yをカヴァーした演奏のビデオ素材に関して、原曲の作者からのクレームがあり、7月12日、8月下旬と二度の発売延期を経ても調整がつかなかったため、収録は中止された。

 


2007年6月、30年ぶりにライヴ活動を再開する。

 

2011年、東日本大震災の震災復興チャリティアルバム「STRENGTH by Various Artists for People of Japan」に、“Stranger In The City”が採用された。

 

 

2013年、「LOVE US ALL」(ラバーソウル)を結成。メンバーは、堀内護、ブレッド&バターの岩沢二弓、BUZZの東郷昌和。

9月25日、「MARK from GARO」名義で、アルバム『時の魔法』を発売。ガロ時代の楽曲をセルフ・カヴァーして収録。表題曲はアルバム『GARO3』収録の堀内自作曲。

 

 

 

2014年、「ガロ井戸」を結成。堀内が、RCサクセションのギタリスト仲井戸麗市が在籍していたことで知られるハードフォークデュオ「古井戸」のヴォーカリスト加奈崎芳太郎と組んだユニットに、サンタラ(田村キョウコ、砂田和俊)の二人がサポートメンバーで加わったスペシャルバンド。

 

 

 

 

2014年12月9日、MARKこと堀内護が胃がんのため逝去。享年65。

 

 

 


2015年12月9日、一周忌を待って、堀内の遺作集『MARK FOREVER』を「REYLA」名義で発売。

 

 

2024年1月現在、ガロのメンバーでは大野のみが存命であり、活動を継続中。

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「堀内護」「ガロ (フォークグループ)」

 

 

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