グラハム・ナッシュ(Graham William Nash OBE/1942年2月2日~)は、英国イングランド出身のミュージシャン、シンガー・ソングライター。1960年代から「ホリーズ」、「クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング」等のグループで活躍、ソロでも活動した。プロの写真家でもある。

 

 

グラハム・ウィリアム・ナッシュは、英国イングランド北西部のランカシャー(Lancashire)、ブラックプール(Blackpool)出身。

 

グラハム・ナッシュは5歳の時、マンチェスター市内の小学校で、アラン・クラークと同級生として出会った。2人は親友となり、ギターを弾き歌うコーラス・デュオ「リッキー・アンド・デイン(ヤング)」を結成。エヴァリー・ブラザーズの影響を受けたというこのデュオは活動の場を広げ、ある時共演して知り合ったベーシスト、エリック・ヘイドックと意気投合、新バンドの結成を思い立つ。そしてドラムのドン・ラスボーン、リードギターのヴィック・ファレルを加え、1962年に「ドミネイターズ・オブ・リズム」というバンドが結成された。

同年12月、マンチェスターの名門ライヴハウス「オアシス・クラブ」に出演した際、クラブの人間からバンド名を訊かれたメンバーは楽屋で、「そうだなぁ。今夜は<ホリーズ>(The Hollies)と紹介しておいてくれ」と答えた。

バンドは順調に活動していたが、ギタリストのファレルが経済的に不安定なプロになることに難色を示し、バンドを脱退。後任には、マンチェスター近郊で活躍していたアマチュア・バンド「ザ・ドルフィンズ」のギタリストで当時16歳のトニー・ヒックスに白羽の矢を立てた。

 

1963年1月、ホリーズの演奏を観に訪れたロン・リチャーズは彼らの才能と可能性を確信し、すぐにEMIのオーディションに呼んだ。彼らは合格し、ホリーズのパーロフォンからのデビューが決定する。

 

1963年4月、ホリーズのプロとして初のレコーディングが、アビー・ロードにあるEMIスタジオで行われる。ホリーズはその後、数多くの曲をこのEMIスタジオで録音することとなる。

この時のメンバーは、アラン・クラーク (Allan Clarke/リードVo、Herp、G/1962~1971年、1973~1978年、1978~1999年) 、グラハム・ナッシュ(Graham Nash/リズムG、Vo/1962~1969年、1982~1983年、1995~1996年)、エリック・ヘイドック (Eric Haydock/B/1962~1966年)、ドン・ラスボーン (Don Rathbone/Ds/1962~1963年)、トニー・ヒックス (Tony Hicks/リードG、バックVo/1963年~)。

翌5月、1stシングル"(Ain't That) Just Like Me"でレコード・デビューし、全英シングルチャートで最高位25位を獲得した。だが、ラスボーンの技量に満足していなかったリチャーズはドラマーの交代を勧め、ラスボーンはロード・マネージャーに転向。新しいドラマーには、ヒックスの「ザ・ドルフィンズ」時代の僚友であったボビー・エリオット(Bobby Elliottが抜擢される。

 

11月、ドラマー交代後に発表した3枚目シングル"ステイ"(Stay)が初の全英トップ10入り。

 

1964年1月、1stアルバム『ステイ・ウィズ・ザ・ホリーズ』(Stay with The Hollies)を発売、

全英2位の大ヒットを記録。

 

2月、ドリス・トロイのヒット曲をカヴァーしたシングル"Just One Look"が全英シングルチャート最高位2位に到達。

 

この人気により、デビュー1年未満の新人バンドでありながら、3月にはNMEポールウィナーズ・コンサート出演の栄誉を勝ち取ることとなった。

 

1965年5月21日、シングル"I'm Alive"が初の全英1位、アイルランドでも1位を獲得する大ヒットなった。

 

8月12日、続いて英国にてリリースされたシングル"Look Through Any Window"は全英4位、翌9月にリリースされたアメリカでは32位と自己最高を記録した。

 

1966年6月17日、シングル"バス・ストップ"(Bus Stop)をリリースし、全英で最高位5位、米国でもBillboard Hot 100で最高位5位を獲得し、ホリーズの世界的な知名度を上昇させた。 メイン・ヴォーカルはアラン・クラーク、高音パートをグラハム・ナッシュが担当している。

 

10月7日、シングル"Stop Stop Stop"が全英2位・全米7位を記録。

 

1967年2月10日、シングル"On a Carousel"をリリース、全英4位・全米11位。

 

6月、サイケデリック色の強いアルバム『エヴォリューション』(Evolution)を発表。シングルではグラハム・ナッシュが作詞・作曲した"キャリー・アン"(Carrie Anne)が全英3位・全米9位、"キング・マイダス"(King Midas In Reverse)などを発表。ナッシュはバンドのレパートリーの作曲を多く手掛け、グループの中心人物と見做された。ホリーズのサウンド、歌詞におけるヒッピー的な要素は主にナッシュがもたらしたものである。

 

 


同年11月、ナッシュが実験的なサウンド作りを推し進めたコンセプト・アルバム『バタフライ』(Butterfly)を発表。英国版には未収録だったシングル"Dear Eloise"がカナダで36位にチャートインした。

しかし、あくまでもポップ・バンドとしてヒットチャート入りを期待するマネジメントやレコード会社や、"King Midas In Reverse" に象徴されるような彼の音学的進歩がファンに受け入れられない状況などに苛立ち、ナッシュは徐々にホリーズでの活動に対する熱意を失ってゆく。

 

1968年4月、ナッシュはホリーズの一員として初来日、大手町のサンケイホールと渋谷公会堂で公演を行っている。

同年7月、ローレル・キャニオンにあるジョニ・ミッチェルの家で元バッファロー・スプリングフィールドのスティーヴン・スティルスと元バーズのデヴィッド・クロスビーはスティルスの「泣くことはないよ」を歌っていた。そこへホリーズ脱退間近だったグラハム・ナッシュがハーモニーで加わり、歌い終わった時にグループ結成のアイデアが生まれたと言われている。こうして3人は新グループ「クロスビー、スティルス&ナッシュ」(Crosby, Stills & Nash/CSN)結成に向かって進んでゆく。

同年末、次のバーズのアルバムでボブ・ディランを取り上げることについて、時期尚早と難色を示したナッシュは同年末、ついにバンドを脱退した。

 

1969年5月29日、ナッシュら3人の新グループはデビュー・アルバム『クロスビー、スティルス&ナッシュ』を発表。アルバムはアコースティクな音作りと、3人のコーラスの美しさですぐに人気を呼んだが、もっとロック的要素を強めたいというスティルスの希望に沿ってメンバーが追加されることになった。

 

数人のミュージシャンに加入を打診したがことごとく断られ、最終的に、当時すでにソロとして活動していたニール・ヤングがギタリストとして加わることになった(同年6月15日には4人で"どうにもならない望み"の再録音を実施)。ヤングの参加により、グループ名は「クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング」(Crosby, Stills, Nash & Young /CSN&Y)となった。メンバーは、デヴィッド・クロスビー(David Crosby/元バーズ)、スティーヴン・スティルス(Stephen Stills/元バッファロー・スプリングフィールド)、グラハム・ナッシュ(Graham Nash/元ザ・ホリーズ)、ニール・ヤング(Neil Young/元バッファロー・スプリングフィールド)。

8月、ウッドストック・フェスティバルへ参加。

 

1970年3月11日、4人体制になって最初のアルバム『デジャ・ヴ』(Déjà Vu)をリリース。

全米1位・全英5位と爆発的ヒットになった。シングルではジョニ・ミッチェル作の"ウッドストック"(Woodstock)が全米11位、ナッシュ作の2曲、"ティーチ・ユア・チルドレン"(Teach Your Children)がBillboard Hot 100で16位、"僕達の家"(Our House)が同第30位、『キャッシュボックス』誌のシングルチャートでは20位にチャートインするヒットとなった。これらの作品により、商業的にも知名度の点でも、CSN&Yは頂点を極めた。

 

 

 

 

6月、シングル"オハイオ"(Ohio) /"自由の値"(Find the Cost of Freedom)をリリース。

 

 

 

1971年4月に発売されたCSN&Yのライヴ・アルバム『4ウェイ・ストリート』は全米アルバム・チャートの1位を記録した。

 

 

同年5月28日、ナッシュは初のソロアルバム『Songs for Beginners』をリリースし、全米15位・全英13位を記録。アルバムからのシングルは、"Chicago"がBillboard Hot 100で35位、"Military Madness"が同73位のヒットとなった。

 

 

 

しかし、バッファロー・スプリングフィールド時代以来のスティルスとヤングの対立などのため、結局、ヤングがこのグループに在籍にしたのは1年程であった。 

その後、メンバーはそれぞれの活動を続ける。

 

ナッシュは、1972年からずっとクロスビーとコンビを組んでおり、1977年にCSN再結成までの間、デュオ「Crosby & Nash」としても活動した。このコンビは、ナッシュ自身のソロ・アルバムよりも多くのアルバムをリリースしている。

1972年、クロスビー&ナッシュ名義で初のアルバム『Graham Nash David Crosby』をAtlanticからリリース。 

 

 

1973年、ソロ第二弾アルバム『Wild Tales』をAtlanticからリリース、全米34位。

 

 

1975年、クロスビー&ナッシュの2ndアルバム『Wind on the Water』をABCからリリース。

 

 

 

1977年6月17日、CSNが再び集結し、アルバム『CSN』をリリース。

 

1980年、ソロ第三弾アルバム『Earth & Sky』をEMIからリリースし、全米117位。

 

 

1982年6月、CSNとしてアルバム『デイ・ライト・アゲイン』(Daylight Again)リリース。 

 

 

1983年、デビュー20周年を記念してホリーズにワン・ショットで復帰、アルバム『ホワット・ゴウズ・アラウンド』 (What Goes Around...) をリリース。スプリームスの大ヒット曲"ストップ・イン・ザ・ネーム・ブ・ラヴ"(Stop! in the Name of Love)を収録。全米90位。

ホリーズはこの後、長い活動休止期間に入る。 

 

1986年、ソロ第四弾アルバム『Innocent Eyes 』をリリース、全米136位。

 

 

1988年、4人そろったCSN&Yでアルバム『アメリカン・ドリーム』(American Dream)をリリース。

 

 

 

1996年、ナッシュ脱退後も活動を続けていたホリーズのアルバム『Buddy Holly Tribute - Not Fade Away』収録の楽曲"Peggy Sue Got Married"はバディ・ホリーのオリジナル音源にホリーズがコーラスと演奏を加えたもの。このレコーディングのためにナッシュが一時的に復帰した。

 

 

1997年、クロスビー、スティルス&ナッシュがロックの殿堂入りを果たした。

 

 

1999年、CSN&Yとしてアルバム『ルッキング・フォワード』(Looking Forward)を発表。

 

 

近年はニール・ヤングが参加せず、クロスビー、スティルス&ナッシュ名義(CSN)の活動が続いた。

 

2005年、ナッシュはa-haのアルバム『Analogue』 に収録された "Over the Treetops" (ポール・ワークター=サヴォイ作)、"Cosy Prisons" (マグネ・フルホルメン作)の2曲に参加した。

 

 

2006年、ナッシュはクロスビーとともにデヴィッド・ギルモアの3枚目のソロ・アルバム『オン・アン・アイランド』のタイトル・トラックに参加した。

3月にリリースされた同作は全英1位に到達。ナッシュとクロスビーはギルモアのツアーにも同行、"オン・アン・アイランド"、"クレイジー・ダイアモンド"、CSNYの"自由の値"などを歌った。

 

 

2010年、ホリーズがロックの殿堂入りを果たす。これでナッシュ自身2度目の殿堂入り。

 

 

2014年7月8日、CSNY全盛期の音源を収録したライヴアルバム『CSNY 1974』をリリース。 

 

 

2015年、CSNが20年ぶりの来日公演を果たす。

 

 

2016年、ワールドツアーを終えたこの年、CSNはバンド活動を終了。

4月15日、ソロアルバム『This Path Tonight』をリリース、全米93位・全英41位を記録。

 

 

 

 

2017年のインタビューでニール・ヤングは、CSN&Yとしての再始動の可能性に含みを残した。


2020年3月29日、新型コロナウイルスの流行により各国で外出禁止の措置がなされる中、ナッシュは自宅からライヴ演奏を配信した。「どうか家にいて下さい。手を洗って、コロナウイルスの拡大を防いで下さい」と訴え、"僕達の家"、スティーヴン・スティルスの"4+20"、"ティーチ・ユア・チルドレン"の3曲を演奏した。

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「グラハム・ナッシュ」「ザ・ホリーズ」「クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング」