アンディ・フレッチャー(Andy Fletcher/出生名:Andrew John Leonard Fletcher/1961年7月8日~2022年5月26日)は、イギリスのミュージシャン。デペッシュ・モードのメンバーとして知られ、フレッチ (Fletch)の愛称で親しまれる。

 

 

 

1961年7月8日、アンドリュー・"アンディ"・ジョン・レオナード・フレッチャーは、英国イングランドのノッティンガム(Nottingham, England)に生まれる。

 

1977年、フレッチは、同じく学生だったヴィンス・クラーク(Vince Clarke)とともに「No Romance In China」を結成、これが彼らのバンド活動の始まりである。

結成当初フレッチはベース、ヴィンスはヴォーカルとギターを担当していたが、友人のロバート・マーロウがヴォーカルとして加入した。

その頃マーティンはアコースティック・デュオでギターを弾いていた。

1979年、ヴィンスとマーティン、ロバートは友人のポール・レッドモンド(Paul Redmond)を招いて "The French Look" を結成。ヴォーカルはロバート、マーティンがギター、ヴィンスとポールがシンセサイザーを担当し、後のデペッシュ・モードを思わせる編成となった。

その後、ロバート・マーロウとポール・レッドモンドとの活動は終わる。

1980年、マーティン・ゴア(Martin Gore)と出会い、ヴィンス、マーティン、フレッチにより 3人組バンド「Composition of Sound」を新たに結成。これがデペッシュ・モードの母体となる。結成当初はヴィンスがヴォーカルとギター、マーティンがキーボード、フレッチがベース担当だったが、やがてヴィンスとフレッチもキーボードに切り替える。

同年暮れ、ヴィンスはデヴィッド・ボウイの『英雄夢語り (ヒーローズ)』のジャム・セッションをしていたデイヴ・ガーン(Dave Gahan)をバンドに招いて、「デペッシュ・モード」(Depeche Mode)の結成となった。

デペッシュ・モードとして公式な最初の楽曲は、サム・ビザールのコンピレーションアルバム『Some Bizarre』に収録された“Photographic”だった。

無名時代のデペッシュ・モードが、イエロー・マジック・オーケストラの追っかけをしており、イギリスの公演の時に何回も楽屋に押しかけて来て、しつこいくらいにあれこれ訊いてきたと、高橋幸宏が語った。

デビューのきっかけは、彼らのステージを東ロンドンにあるパブ「ブリッジハウス」で見た、ミュート・レコードのダニエル・ミラーに声をかけられたことである。この出会いが、デペッシュ・モード、そしてミュート・レコードの後の運命を変えた。

 

1981年2月、デビューシングル“Dreaming of Me”を発表。全英57位をマーク。

 

続くシングル“New Life”を発表すると全英11位を記録するヒットとなる。

 

3ヵ月後に出した“Just Can't Get Enough”は全英8位と着実に成果を出していく。なお、本曲はスコットランドのセルティックFCや名古屋グランパスの応援歌(チャント)として同チームのサポーターに知られている。特にセルティックFCのものについてはシングルカットされ、タイ王国のダウン症の子どもたちに向けた基金「The Good Child Foundation」に収益が使われた。フレッチは『Goal.com』のインタビューで「僕たちはセルティックFCのサポーターが歌詞を忠実にチャントに使ってくれていることを誇りに思うよ。一番いいのは、彼らが僕らの歌のことを知っていることだね」と賛辞を述べた。なお、フレッチはチェルシーFCの、マーティンはアーセナルFCのサポーターとして知られる大のフットボール(サッカー)ファンである。

 

10月5日、満を持して発表した1stアルバム『ニュー・ライフ』(Speak & Spell)は全英10位を記録、評論家や雑誌から好意的な評価を得た。時代はニュー・ウェイヴの最盛期であり、その時流に乗った形となる幸先のよい船出であった。

同年、従前からプロモーションとツアー活動に不満を漏らしていたヴィンスが脱退。作詞作曲を手がけていた彼の脱退はバンドにとって痛手となったが、『ニュー・ライフ』で“Tora! Tora! Tora!”と “Big Muff”の2曲を手がけたマーティンが代わりに作詞作曲を担当することとなった。

 

 

1982年、ヴィンス脱退後初のシングル“See You”は過去最高の全英6位を記録。

 

続いて2枚のシングル、全英12位になった"The Meaning of Love"、同18位になった"Leave in Silence"をリリース。

 

 

9月27日に2ndアルバム『ア・ブロークン・フレイム』(A Broken Frame)を発表、全英8位を記録した。マーティンはヴィンスの持っていたポップセンスと陰りのある作風を引き継ぎ、さらに独自のものへと発展させていった。

やがてバンドはオーディションで、当時22歳のアラン・ワイルダー(Alan Wilder)を新メンバーとして選んだ。

 

 

1983年に4人編成に戻ってから初のシングル“Get the Balance Right!”を発表、全英13位に入った。これは後のベスト盤までアルバムには収録されなかった。

 

8月22日、3rdアルバム『コンストラクション・タイム・アゲイン』(Construction Time Again)を発表し、全英6位をマークした。本アルバムでアランはバンドの音楽性に今までにない要素、金属の打撃音や摩擦音といったインダストリアル・ミュージックの要素を導入。アルバムからはバンドの代表曲となる“Everything Counts”をシングルカット、全英6位になった。この頃から、マーティンの詞には社会の矛盾に対する鋭い批判や意味深なニュアンスが込められるようになってくる。

 

 

1984年9月24日、4thアルバム『サム・グレート・リウォード』(Some Great Reward)をリリース、挑発的な楽曲が込められた作品であったが、全英5位・全米51位と売り上げは過去最高をマークした。

 

先行シングル“People Are People”は全英4位・全米13位など欧米でヒット。バンドのイメージを一新する、人種差別と暴力をテーマにした同曲は、様々なアーティストがカヴァー。米国ではサイアー・レコードから同名のミニアルバムが発売されている。

 

またシングルカットされた“Master and Servant”は、詞の内容や鞭の打撃音、鎖の音など当時は公にできなかったSMプレイを想起させる内容となり、英国ではチャート9位に入るもBBCでも一時放送禁止が取り沙汰された。また、米国では多くののラジオ局が曲を流すのを自粛、全英87位に留まった。

メンバーが黒い皮やエナメルを用いた服装に身を纏い、マーティンが女装をしだしたのもこの時期である。

 

そして“Blasphemous Rumours”では「自殺を図った少女が命を取り留めるも、キリスト教に目覚めた途端事故で死ぬ」という皮肉に満ちた運命を背景に、神に毒づくという歌詞が問題となり、再び米国のいくつかのラジオ局で放送自粛の処置がとられたが、英国ではBBCのテレビ番組で歌うことができ、全英16位にランクインした。

 

 

1985年10月14日、初のベスト盤『ザ・シングルズ '81-'85』を発表。"Shake the Disease"と"It's Called a Heart"がともに全英18位に入った。米国では収録曲が一部異なるベスト盤『Catching Up with Depeche Mode』が同時期に発売された。

 

 

 

1986年のシングル“Stripped”は、実験作として発表された特異な楽曲であり、全英15位をマーク。続く5thアルバム『ブラック・セレブレーション』(Black Celebration)で効果的に使われ、次第に彼らの特色となる立体的でアンビエントを採り入れた音響効果の片鱗を伺わせる作品となった。

 

3月17日発表の『ブラック・セレブレーション』はその名の如く歌詞も死や闇といったものからの影響が色濃く出ている作品である。収録曲“A Question of Time”のMVは、U2やマドンナなど数多くのアーティスト写真を撮り続けてきたアントン・コービンが担当。その後、コービンはMVのみならずデペッシュ・モードの様々な写真、ステージの演出など多岐に渡りバンドのビジュアル面に関わることになる。

 

 

1987年9月28日に発表された6thアルバム『ミュージック・フォー・ザ・マスィズ』(Music for the Masses)は全英10位・全米35位を記録したが、マーティンの孤独感や人間関係のすれ違いを表現した歌詞と、アランのオーケストレーションを効果的に使ったシンセサイザーが印象に残るものであった。本アルバムでバンドは初めてデジタル録音を採り入れた。

そして101公演に渡る世界ツアーを催行し、最終日となった101回目のライヴはローズボウルに6万6千人以上の観客を集客。この模様はライヴアルバム『101〜ライヴ・イン・パサディナ』に収録され、同名のドキュメントフィルムがドキュメンタリー映画作家D・A・ペネベイカーの手によって撮影された。

 

 

1989年3月13日、ライヴ・アルバム『01』をリリース、全英5位・全米45位。

同年、シングル“Personal Jesus”を発表。カントリー・ミュージックやブルーズを匂わせるギターフレーズとメロディが注目を浴び全英13位・全米28位に達した。

 

 

1990年2月5日、シングル“Enjoy the Silence”をリリース、全英6位・全米8位という過去最高の記録を残す。

 

3月19日にリリースした7thアルバム『ヴァイオレーター』(Violator)はバンド史上最大のヒット作として記録され、米国だけでも350万枚をセールス。楽曲もクオリティを増し、10年間で築き上げてきたデペッシュ・モードの集大成的な作品となった。アルバムからは他に、"Policy of Truth"が全英16位・全米15位、"World in My Eyes"が全英17位・全米52位をマークした。

 

 

 

 

1991年、ツアー終了後にヴィム・ヴェンダース監督の映画『夢の涯てまでも』に

“Death's Door”を提供した以外は目立った活動はなかった。

 

 

1992年からバンドは次のアルバムに向け活動を再開、スペイン録音中に生まれたシングル“I Feel You”はグランジ・ロックやオルタナティヴ・ロックの影響を色濃く受けたロックナンバーであり、バンドのイメージをさらに一新させるものとなった。その結果、“I Feel You”は全英8位・全米37位の他、米国のモダン・ロック・チャートで5週連続1位を記録した。

 

 

1993年3月22日リリースの8thアルバム『ソングス・オブ・フェイス・アンド・デヴォーション』(Songs of Faith and Devotion)は、歌詞が宗教的な要素を多く含んでおり、従来のマーティンには見られなかった表現であった。同アルバムは売上こそ前作に及ばなかったものの、英米やドイツ等で1位を記録した。

 

続けて行われた「Devotionalツアー」ではいくつかのトラブルに見舞われた。

そして南米公演へのフレッチの参加を拒否するという「事件」が起きた。

 

 

1995年6月、アランがバンドからの脱退を表明する。その理由として、「バンドでの音楽面の貢献に対する自分への敬意が払われていない」と主張した。

8月、今度はデイヴが自殺未遂をする。この時点でデイヴは長年の薬物使用による重度の薬物中毒に陥っており、また2番目の妻とも離婚するなど精神的にも負担を抱え、治療を要する状態になっていた。

 

 

1996年5月28日、薬物治療を経て回復した矢先にデイヴはロサンゼルスのホテルの一室で薬物を大量に注射し、手首を切って自殺を図った。偶然、友人に発見され、病院へと搬送された。一命を取り留めたものの警察に逮捕され、裁判の結果9ヶ月のリハビリを命じられ、これを達成。以来、長年使用していた薬物を絶ち、住んでいたロサンゼルスを離れニューヨークへと移った。

さらにマーティンも当時アルコール依存症に苦しんでいたことが後に判明。

同時に、Devotionalツアー南米公演におけるフレッチの参加拒否の理由が、メンバー各々が抱えていた問題に対処しきれず悩んだ末、心の問題が原因のひとつだったことも判明した。

 

 

1997年4月14日、3人での再出発を飾る9thアルバム『ウルトラ』(Ultra)を発表。

先行シングルの“Barrel of a Gun”はデイヴの過酷な状況を表現した重い歌詞とメロディのロックナンバーとなり、全英4位を記録。アルバムも全英1位を獲得し、全米でも5位をマークした。

 

 

『ウルトラ』の内容自体は、前々作『ヴァイオレーター』の路線を継承というコンセプトで、ティム・シメノンがアランのかつての仕事を思わせるようなアレンジに徹したアルバムとなった。『ウルトラ』からは他に“It's No Good”が全英5位、“Home”が全英23位に入った。

 

 

 

1998年9月28日、2枚目のベストアルバム『ザ・シングルズ '86-'98』をリリース。これに合わせシングル“Only When I Lose Myself”も発表、全英17位に達している。

また最初のベストアルバム『ザ・シングルス '81-'85』も曲を追加して再発され、過去の曲を積極的に選曲したツアーも行われた。

 

 

2001年5月14日発表の10thアルバム『エキサイター』(Exciter)では、かつてのLFOの中心メンバーで、ビョークらとの仕事で実績のあるマーク・ベルをプロデューサーに迎える。IDMなど先進的なテクノやハウスの要素を盛り込み、従来のアルバムとは毛色の違うものとなったが、『NME』や『ローリング・ストーン』などの雑誌以外は多くのメディアが否定的だった。チャートでは全英8位・全米9位、売り上げは340万枚を記録した。ここからは、"Dream On"が全英6位・全米85位、"I Feel Loved"が全英12位、"Freelove"が全英19位をマークした。

 

 

 

 

2002年、フレッチは「トースト・ハワイ」(Toast Hawaii)というレコードレーベルを設立。このレーベルの名は料理名にちなんで名づけられた。

同年、初の所属アーティストとして「クライアント」(CLIEИT) という女性シンセポップデュオデュオをセルフタイトルのアルバム『クライアント』でデビューさせ、フレッチ自らプロデュースも担当した。なお、クライアントは2004年に『シティ』をリリース、その後"Price of Love"、"Rock and Roll Machine"、"Here and Now"、"In It for the Money"、"Radio"そして"Pornography"といったシングルをフィーチャーした"extended remixes"もプロデュースしたが、彼女らは2006年にレーベルを移籍し、その後のトースト・ハワイからのリリースは途絶えている。

 

 

2004年、シングルのカップリングに収録されていたリミックスを集めた『リミックス 81-04』を発表。ただし、全てのリミックスを網羅してはいない。

 

 

2005年10月17日、11thアルバム『プレイング・ジ・エンジェル』(Playing the Angel)を発売。プロデューサーに起用したブラーの『シンク・タンク』等を手がけたベン・ヒリアーはデペッシュ・モードに特に思い入れがなく、いちバンドのプロデュースに徹したことが奏功し、『エキサイター』で混乱したバンドの音楽性を修正、かつての色を取り戻すことができた。なおソロ活動を経たデイヴの作曲能力も評価された。売り上げは全米では前作を僅かに下回ったが、全英6位・全米7位を記録、全世界的には360万枚に達するなど一定の成果を見せた。ここから、"Precious"が全英4位・全米71位、"A Pain That I'm Used To"が全英15位、"Suffer Well"が全英12位、"John the Revelator" / "Lilian"が全英18位に入った。

 

 

 

 

 

続いて行われた「Touring The Angel」ツアーで欧米を回り、約250万人の動員を記録した。

 

 

2006年、音楽配信サイト7digital.comの2006年度年間売り上げのトップアーティストとしてデペッシュ・モードがランクイン、MTVヨーロッパ・ミュージック・アワードでは最優秀グループ賞を獲得し、MTVでの受賞のスピーチはフレッチが行った。

 

 

2007年3月、『プレイング・ジ・エンジェル』を含む全オリジナル・アルバムがリマスター化された。

また、3枚目のベストアルバム『ザ・ベスト・オブ・デペッシュ・モード VOL.1』が発表され、これに収録された“Martyr”もシングルカット、全英13位を記録した。

 

一方でマーティンはDJとして各地を回っている。

10月、デイヴが2作目のソロアルバム『アワーグラス』を発表。

また、マーティンに続き、フレッチもDJとして世界各地に足を運んでいる。

クライアントのツアーサポートとして始めたフレッチのDJの活動は、バンドのツアー後のオフなどにヨーロッパやアジア、南アメリカなど「デペッシュ・モードがまだ来ていない、または来れていない」地域などでギグを行ったりフェスティバルに参加している。1990年以来デペッシュ・モードとして来日が実現していない日本でも、2011年にサマーソニックに参加。東京公演は8月13日ソニックマニア、8月14日はサマーソニック大阪会場でプレイした。
 

 

2008年2月9日、次のアルバム収録曲の一つ“Fragile Tension”がリークされる。

3月26日にはフルアルバムが続け様にリークされるという事態が発生。

 

 

2009年4月17日に12thアルバム『サウンズ・オブ・ザ・ユニヴァース』(Sounds of the Universe)発売、全英2位・全米3位をマーク。ここからは、"Wrong"が全英24位、"Peace"が全英57位を記録した。

 

 

 

その後、アルバムを擁した大規模なワールドツアー「Tour Of The Universe」がスタート。しかし初日の公演直後デイヴが不調を訴え、精密検査を受けたところ、膀胱から悪性腫瘍が発見された。このため東欧諸国の公演と各地のロックフェスティバルへの出演が全て中止に。ツアーはドイツのライプツィヒ公演から再開された。

 

 

2010年2月17日、バンドはTeenage Cancer Trustに協賛し、ロイヤル・アルバート・ホールにてチャリティ・コンサートを開催。アンコールの一曲目で1995年にバンドを脱退したアランが登場し、“Somebody”でピアノを弾き、ファンを沸かせた。

 

 

2012年12月11日、バンドはコロムビア・レコードと全世界における契約を結んだと発表。

 

 

2013年3月、13thアルバム『デルタ・マシーン』(Delta Machine)を発表(英国25日/米国26日)、全英2位・全米6位を記録。ここから、"Heaven"が全英60位、 "Soothe My Soul"が全英88位、"Should Be Higher"が全英81位に入った。

 

 

 

 

 

2017年2月3日、先行シングル“Where's The Revolution”を公開。

 

3月17日、14thアルバム『Spirit』をリリース、全英5位・全米5位を記録した。

 

 

2020年、デペッシュ・モードの一員として「ロックの殿堂」入り。

 

 

フレッチは「世界的に有名な一本指奏者」を自称しており、主にキーボードとプロデュースを担当している。

フレッチは自他ともに認めるマーティンの最大の理解者である。マーティンの機嫌をとり、そしてやる気を出させるのが彼の最大の役目である。

また、バンドにはとりあえずマネージャーはいるが、実質的にバンドのマネージングを行っているのはフレッチであるとする見方は強い。

バンドにおいてフレッチにしかできないことは多い。

 


 

2022年5月26日、フレッチの愛称で知られたアンディ・フレッチャーことアンドリュー・ジョン・レオナード・フレッチャーが60歳で死去。

後にデペッシュ・モードのInstagramにて、バンドメンバーのデイヴ・ガーンとマーティン・ゴアの連名により、自宅にて大動脈解離を発症しての急逝であったことが公表された。

 

 

 

 

フレッチの訃報を受け、デイヴとマーティンは「本当にフレッチ抜きでこのままデペッシュ・モードを続けるのか」と話し合った末、バンド続行を決めた。

 

 

2022年10月4日にベルリンで開かれたアルバム発表の記者会見でマーティンは「デペッシュ・モードの継続こそがフレッチの望んでいることだと確信している」、デイヴも「フレッチの代わりを探すつもりはない。代わりなど存在しない」と述べた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「アンディ・フレッチャー」「Andy Fletcher (musician)」「デペッシュ・モード」「Depeche Mode」

 

 

(関連記事)