マーティン・リー・ゴア(Martin Lee Gore/1961年7月23日~)は、イングランド・ダゲナム出身のミュージシャン、ギタリスト、シンガーソングライター。デペッシュ・モード(Depeche Mode)の一員で、長年に渡りバンドの作曲と作詞を担当。
イングランド南東部のダゲナムで、英国に駐留していたアフリカ系アメリカ人の
陸軍兵士の父と、白人の母親パメラ・マーガレット・ゴアの間に生まれる。
しかしパメラは別の男性と結婚したため、マーティンは実の父親のことを知らされず長年過ごし、実父がアフリカ系アメリカ人であることは長らく伏せられていた。
13歳の時に育ての父が実父ではないことを知り、後にアメリカ南部にて実父と対面している。なおマーティンにはカレン(1967年生)、ジャクリーン(1969年生)という2人の異父妹がいる。
因みにイングランド・プレミアリーグのアーセナルFCのファンである。
1977年、バジルドンのニコラス・コンプリフェンシブ・スクールを中退。
昼間は銀行で働きながら、夜や週末は学友だったフィル・バーデットと結成した
「Norman and the Worms」というアコースティック・デュオで活動する。
1979年、学友だったヴィンス・クラーク、ロバート・マーロウとともに、友人のポール・レッドモンド(Paul Redmond)を招いて「The French Look」を結成。ボーカルはロバート、マーティンがギター、ヴィンスとポールがシンセサイザーを担当。
1980年、ヴィンスの学友のフレッチことアンドリュー・フレッチャーと出逢う。
ヴィンス、フレッチとともにデペッシュ・モードの前身となる「Composition of Sound」を結成。結成当初はヴィンスがヴォーカルとギター、マーティンがキーボード、フレッチがベース担当だった。やがてヴィンスの勧誘によりデヴィッド・ガーンが加入、バンド名も「デペッシュ・モード」(Depeche Mode)と改名する。
バンド名の「Depeche Mode」は、フランスのファッション誌『Dépêche mode』から引用したもの。英語では「fast fashion」と訳され、「最先端の流行」という意味があるが、結成当時、特にその意味を意識して命名されたわけではない。
その後バンドはミュート・レコードのダニエル・ミラーに見出され、
1981年2月にデビューシングル“Dreaming of Me”を発表。全英チャートで57位を記録する。続いて発売した2枚目シングル“New Life”が全英11位を記録、さらに3ヵ月後に出した“Just Can't Get Enough”では全英最高8位と着実に成果を出していく。
そして満を持して10月29日に発表したアルバム『ニュー・ライフ』(New Life)は
全英チャート10位を記録した。
順調なバンドにあって、かねてからプロモーションとツアー活動に不満を漏らしていたヴィンスが1981年に脱退。作詞作曲を手がけていたヴィンスの脱退はバンドにとってダメージとなったが、『ニュー・ライフ』で“Tora! Tora! Tora!”と “Big Muff”の2曲を手がけたマーティンが代わりに作詞作曲を担当することとなった。
ヴィンス脱退後の初のシングルとなった“See You”は過去最高の全英6位を記録。
続いて2枚のシングルを出した後、1982年9月27日に『ア・ブロークン・フレイム』
(A Broken Frame)を発表。マーティンはヴィンスの持っていたポップセンスと
陰りのある作風を引き継ぎ、さらに独自のものへと発展させていった。
やがてバンドはオーディションで、当時22歳のアラン・ワイルダーを新メンバーとして選んだ。
1983年に4人編成に戻ってから初のシングル“Get the Balance Right!”を発表。
これは後のベスト盤のリリースまでアルバムには収録されなかった。
1983年8月22日、アルバム『コンストラクション・タイム・アゲイン』(Construction Time Again)を発表。このアルバムでアランはバンドの音楽性に今までにない要素、金属の打撃音や摩擦音といったインダストリアル・ミュージックの要素を持ち込んだ。
『コンストラクション・タイム・アゲイン』からはバンドの代表曲となる“Everything Counts”がシングルカットされている。この頃から、マーティンの詞には社会の矛盾に対する鋭い批判や意味深なニュアンスが込められるようになってくる。
1984年9月24日、『サム・グレート・リウォード』(Some Great Reward)を発表、挑発的な楽曲が込められた作品であり、売り上げも過去最高のものとなる。
先行シングル“People Are People”は全英4位・全米13位など欧米でヒット。バンドのイメージを一新する、人種差別と暴力をテーマにしたこの曲は、様々なアーティストがカヴァーした。アメリカではサイアー・レコードから同名のミニアルバムが発売されている。
またシングルカットされた“Master and Servant”は、詞の内容や鞭の打撃音、鎖の音など当時は公にできなかったSMプレイを想起させる内容となり、米国では多くののラジオ局が曲を流すのを自粛。またBBCでも一時放送禁止が取り沙汰された。
メンバーが黒い皮やエナメルを用いた服装に身を纏い、マーティンが女装をしだしたのもこの時期である。
そして“Blasphemous Rumours”では「自殺を図った少女が命を取り留めるも、キリスト教に目覚めた途端事故で死ぬ」という皮肉に満ちた運命を背景に、神に毒づくという歌詞が問題となり、再び米国のいくつかのラジオ局で放送自粛の処置がとられたが、BBCではテレビ番組で歌うことができた。
1985年10月14日、初のベスト盤となる『ザ・シングルズ '81-'85』を発表した。
米国では収録曲が一部異なるベスト盤『Catching Up with Depeche Mode』が
同時期に発売された。
1986年に発表されたシングル“Stripped”は、実験作として発表された特異な楽曲であり、続くアルバム『ブラック・セレブレーション』(Black Celebration)で効果的に使われ、次第に彼らの特色となる立体的でアンビエントを採り入れた音響効果の片鱗を伺わせる作品となった。『ブラック・セレブレーション』はその名の如く歌詞も死や闇といったものからの影響が色濃く出ている作品である。
“A Question of Time”のミュージック・ビデオは、U2やマドンナなど数多くのアーティスト写真を撮り続けてきたアントン・コービンが担当。その後、コービンはMVのみならずデペッシュ・モードの様々な写真、ステージの演出など多岐に渡りバンドのビジュアル面に関わることになる。
1987年9月28日に発表された『ミュージック・フォー・ザ・マスィズ』は、マーティンの孤独感や人間関係のすれ違いを表現した歌詞と、アランのオーケストレーションを効果的に使ったシンセサイザーが印象に残るものであった。このアルバムでは初めてデジタル録音を採り入れた。
そして101公演に渡る世界ツアーを催行し、最終日となった101回目のライヴはローズボウルに6万6千人以上の観客を集めた。この模様はライブアルバム『101〜ライヴ・イン・パサディナ』に収録され、同名のドキュメントフィルムがドキュメンタリー映画作家D・A・ペネベイカーの手によって撮影された。
1989年、シングル“Personal Jesus”を発表。カントリー・ミュージックやブルースを匂わせるギターフレーズとメロディが注目を浴びる。
翌年1990年には“Enjoy the Silence”を発表。全英6位、全米8位という過去最高の記録を残す。そしてアルバム『ヴァイオレーター』はバンド史上最大のヒット作として記録され、アメリカだけでも350万枚も売り上げている。バンドの楽曲もクオリティを増し、10年間で築き上げてきたデペッシュ・モードの集大成的な作品となった。
ツアー終了後、1991年にヴィム・ヴェンダース監督の映画『夢の涯てまでも』に
“Death's Door”を提供した以外は目立った活動はなかった。
1992年からバンドは次のアルバムに向け活動を再開、スペイン録音中に生まれたシングル“I Feel You”はグランジ・ロックやオルタナティヴ・ロックの影響を色濃く受けたロックナンバーであり、バンドのイメージをさらに一新させるものとなった。
1993年3月22日リリースのアルバム『ソングス・オブ・フェイス・アンド・デヴォーション』(Songs of Faith and Devotion)は、歌詞が宗教的な要素を多く含んでおり、従来のマーティンには見られなかった表現であった。
しかし“I Feel You”は全米のモダン・ロック・チャートで5週連続1位を記録し、同アルバムは売上こそ前作に及ばなかったものの、英米やドイツ等で1位を記録した。
続けて行われたDevotionalツアーではいくつかのトラブルに見舞われた。
そして南米公演へのフレッチの参加を拒否するという「事件」が起きた。
1995年6月、アランがバンドからの脱退を表明する。その理由として、
「バンドでの音楽面の貢献に対する自分への敬意が払われていない」と主張した。
同じ年の8月、今度はデイヴが自殺未遂をする。
この時点でデイヴは長年の薬物使用による重度の薬物中毒に陥っており、また2番目の妻とも離婚するなど精神的にも負担を抱え、治療を要する状態になっていた。
薬物治療を経て回復した矢先の1996年5月28日、デイヴはロサンゼルスのホテルの一室で薬物を大量に注射し、手首を切って自殺を図った。偶然、友人に発見され、病院へと搬送された。一命を取り留めたものの警察に逮捕され、裁判の結果9ヶ月のリハビリを命じられ、これを達成。以来、長年使用していた薬物を絶ち、住んでいたロサンゼルスを離れニューヨークへと移った。
さらにマーティンも当時アルコール依存症に苦しんでいたことが後に判明。
同時に、Devotionalツアー南米公演におけるフレッチの参加拒否の理由が、メンバー各々が抱えていた問題に対処しきれず悩んだ末、心の問題が原因のひとつだったことも判明した。
1997年4月14日に3人組での再出発アルバム『ウルトラ』(Ultra)が発表される。
先行シングルの“Barrel of a Gun”はデイヴの過酷な状況を表現した重い歌詞とメロディのロックナンバーとなり、全英4位を記録。アルバムも全英1位を記録した。
『ウルトラ』の内容自体は、前々作『ヴァイオレーター』の路線を継承というコンセプトで、ティム・シメノンがアランのかつての仕事を思わせるようなアレンジに徹したアルバムとなった。『ウルトラ』からは他に“It's No Good”や“Home”などがシングルカットされた。
1998年9月28日、2枚目のベストアルバム『ザ・シングルズ '86-'98』を発表。
これに合わせシングル“Only When I Lose Myself」”も発表している。
また最初のベストアルバム『ザ・シングルス '81-'85』も曲を追加して再発され、
過去の曲を積極的に選曲したツアーも行われた。
2001年5月14日発表の『エキサイター』(Exciter)では、かつてのLFOの中心メンバーで、ビョークらとの仕事で実績のあるマーク・ベルをプロデューサーに迎える。
IDMなど先進的なテクノやハウスの要素を盛り込み、従来のアルバムとは毛色の違うものとなったが、『NME』や『ローリング・ストーン』などの雑誌以外は多くのメディアが否定的だった。売り上げは340万枚。
2003年、デイヴ、マーティンはそれぞれソロ作品を発表する。
マーティンはバンド活動の傍ら、2003年にカヴァーソング集『Counterfeit²」を発表。
デイヴが自ら作詞作曲にチャレンジしたことで一部からはバンド解散が危惧された。
一方フレッチは自らのレーベル「トースト・ハワイ」を立ち上げ、
クライアントという女性エレクトロデュオをプロデュースした。
2004年、シングルのカップリングに収録されていたリミックスを集めた『リミックス 81-04』を発表。ただし、全てのリミックスを網羅していない。
2005年10月17日、アルバム『プレイング・ジ・エンジェル』(Playing the Angel)を発売。プロデューサーにはブラーの『シンク・タンク』などを手がけたベン・ヒリアーを起用。ヒリアーは特にデペッシュ・モードに思い入れがなく、単なるいちバンドのプロデュースに徹したことが奏功し、『エキサイター』で混乱したバンドの音楽性を修正し、かつての色を取り戻すことができた。なおソロ活動を経たデイヴの作曲能力も評価された。
売り上げは全米では前作を僅かに下回ったが、全世界的に見ると360万枚に達するなど一定の成果を見せた。
続いて行われた「Touring The Angel」ツアーで欧米を回り、約250万人の動員を記録した。
2006年には、音楽配信サイト7digital.comの2006年度年間売り上げのトップアーティストとしてデペッシュ・モードがランクイン、MTVヨーロッパ・ミュージック・アワードにおいて
最優秀グループ賞を獲得した。MTVでの受賞のスピーチはフレッチが行った。
2007年3月、『プレイング・ジ・エンジェル』を含む全オリジナル・アルバムがリマスター化された。
また、3枚目のベストアルバム『ザ・ベスト・オブ・デペッシュ・モード VOL.1』が発表され、これに収録された“Martyr”もシングルカットされている。
一方でマーティンはDJとして各地を回っている。
10月、デイヴが2作目のソロアルバム『アワーグラス』を発表。
また、マーティンに続き、フレッチもDJとして世界各地に足を運んでいる。
2008年2月9日、次のアルバム収録曲の一つである“Fragile Tension”が、
3月26日にはフルアルバムがリークされるという事態になってしまった。
2009年4月17日に『サウンズ・オブ・ザ・ユニヴァース』(Sounds of the Universe)発売後、大規模なワールドツアー「Tour Of The Universe」がスタート。しかし初日の公演直後デイヴが不調を訴え、精密検査を受けたところ、膀胱から悪性腫瘍が発見された。このため東欧諸国の公演と各地のロックフェスティバルへの出演が全て中止に。ツアーはドイツのライプツィヒ公演から再開された。
2010年2月17日、バンドはTeenage Cancer Trustに協賛し、ロイヤル・アルバート・ホールにてチャリティ・コンサートを開催。アンコールの一曲目で1995年にバンドを脱退したアランが登場し、“Somebody”でピアノを弾き、ファンを沸かせた。
2011年、マーティンは、かつてのバンドメイトであるヴィンス・クラークと
テクノユニット「VCMG」を結成、翌2012年にアルバム『Ssss』を発表している。
2012年12月11日、バンドはコロムビア・レコードと全世界における契約を結んだと発表した。
2013年3月、通算13枚目のアルバム『デルタ・マシーン』をリリース(英国25日/米国26日)。
2015年4月、マーティンはソロ名義でエレクトリック・インストゥルメンタル・アルバム『MG』をリリース、これまでのカヴァーやデペッシュ・モードで見られるオルタナティブ・ミュージックとも異なるエレクトロニック・ミュージックを披露した。
2017年2月3日、先行シングル“Where's The Revolution”が公開され、
3月17日、通算14枚目のアルバム『Spirit』がリリース。
(参照)
Wikipedia「マーティン・ゴア」「デペッシュ・モード」
マーティン・ゴア公式サイト
martingore.com
デペッシュ・モード公式サイト
depechemode.com