ジョニー・クレッグ(Johnny Clegg/本名:Jonathan Paul Clegg OBE, OIS/出生名:Jonathan Paul Clegg/1953年6月7日~2019年7月16日)は、南アフリカのミュージシャン、シンガーソングライター、ダンサー、人類学者、反アパルトヘイト活動家。

 

 

 

1953年6月7日、ジョナサン・ポール・クレッグは、スコットランド系イギリス人の父デニス・クレッグとローデシア人の母ミュリエル(ブラウド)のもと、ランカシャー州バカップで生まれた。クレッグの母の家族はベラルーシとポーランドからのユダヤ人移民で、クレッグは世俗的なユダヤ教の教育を受け、十戒について学んだものの、バル・ミツワーをしたり、学校で他のユダヤ人の子どもたちと付き合ったりすることを拒んだ。

 

生後6か月で母親とともにローデシア(現:ジンバブエ)に移住したが、その後すぐに両親は離婚した。

 

6歳の時、母親とともに南アフリカ共和国に移住、幼少期の1年の一部をイスラエルで居住した。

グレッグは当時、主にユダヤ人が住むヨハネスブルグ都心部地区ヨービルで育った。

 

クレッグは、市内のズールー族移民労働者の音楽とダンスと出会った。昼間はアパート清掃員、夜はミュージシャンとして働くチャーリー・ムジラの指導の下、クレッグはズールー語と移民のマスカンディ・ギター、イシシャメニ・ダンスの両方を習得。

だが当時、アパルトヘイト(人種隔離政策)下の南アで黒人ミュージシャンと関わると、政府所有地への不法侵入や集団居住地域法違反で逮捕されることが多かった。

 

15歳の時、クレッグは異なる人種の人々が外出禁止時間後に集まることを禁じていたアパルトヘイト時代の法律に違反したため初めて逮捕された。

1969年、16歳の時、クレッグはズールーの移民労働者シフォ・ムチュヌ(Sipho Mchunu)と出会い、一緒に音楽の演奏を始めた。彼らが「ジュルカ」(Juluka)と名付けたグループは、白人(クレッグ)と黒人(ムチュヌ)が一緒に演奏するという、当時の南アでは珍しい音楽パートナーシップだった。このため1970年代のテレビドキュメンタリー『ビーツ・オブ・ザ・ハート:リズム・オブ・レジスタンス』で紹介された。

クレッグはウィットウォーターズランド大学に進み、社会人類学の学士号(優等学位)を取得した後、クレッグは4年間学問の道に進み、ズールー族の音楽とダンスに関する講義や、いくつかの重要な学術論文の執筆を行った。こうして音楽キャリアの初期段階で、ウィットウォーターズランド大学で音楽と人類学の研究を組み合わせたクレッグは、そこで社会人類学者のデイビッド・ウェブスターの研究に影響を受けた。だが、ウェブスターは後の1989年に暗殺された。


クレッグは各曲の前にズールー族の文化、情報、解説、ユーモア、その曲に関連し独自の逸話を断片的に盛り込み、時には“ジェリコ”(Jericho)、“ジャルサレマ”

(Jarusalema)、 “ワルシャワ1943”(Warsaw 1943)などの曲で自身のユダヤ人としてのルーツの側面も取り入れた。

 

 

 

 

1976年、ジュルカはシングル"Woza Friday"をリリースしてデビューした。

 

 

1979年、ジュルカは最初のアルバム『ユニバーサル・メン』(Universal Men)をリリースするまでに6人のメンバー(白人ミュージシャン3人と黒人ミュージシャン3人)に成長。だがこのバンドは、嫌がらせや検閲に直面し、後にクレッグは南アで公の場で演奏するのは「不可能」だと述べた。ジュルカはアパルトヘイト時代の法律の影響で、国営放送局が彼らの音楽を流さなかったため、観客を集めるために大学、教会、ホステル、さらには個人の家など、私的な会場でツアーや演奏を行った。

 

同様に珍しいことに、バンドの音楽はズールー語、ケルト語、ロックの要素を組み合わせ、英語とズールー語の両方の歌詞が使われていた。歌詞にはしばしば暗黙の政治的メッセージやアパルトヘイトとの戦いへの言及が含まれていたが、クレッグはジュルカはもともと政治的なバンドになるつもりはなかったと主張した。「政治が私たちを見つけた」と彼は1996年に『ボルチモア・サン』紙に語った。1989年の『サンデー・タイムズ』紙のインタビューで、クレッグは「政治活動家」というレッテルを否定した。「私にとって政治活動家とは、特定のイデオロギーに身を捧げた人のことです。私はどの政党にも属していません。私は人権を支持しています。」

ジュルカの音楽は暗黙的にも明示的にも政治的だった。バンドの成功(異人種間のバンドで公然とアフリカ文化を称賛)が人種隔離に基づく政治体制の悩みの種だっただけでなく、バ​​ンドはいくつかの明確に政治的な曲も制作した。

 

 

1981年、アルバム『African Litany』をリリース。

同年、シングル"Impi"をリリース。

 

 

1982年、アルバム『Ubuhle Bemvelo』をリリース。

同年、アルバム『Scatterlings』をリリース。ここからカットした“Scatterlings of Africa”が翌1983年2月に全英シングル・チャート最高位44位・オーストラリア86位をマークした。

 

 

同年、シングル"Umbaqanga Music"と"African Ideas"をリリース。

 

 

1983年11月11日にリリースしたアルバム『Work for All』のタイトル・ナンバーを含む収録曲は、1980年代半ばの南アフリカの労働組合のスローガンを取り上げている。ここからは"Ibhola Lethu"がリカットされた。

 

 

ジュルカは人種統合などの政治的メッセージの結果、クレッグと他のバンド・メンバーが何度も逮捕され、コンサートは頻繁に中止された。

 

 

1984年、シングル"Fever"をリリース。

 

 

1985年、ジュルカは解散。南アフリカ政府から無視され、しばしば嫌がらせを受けたにもかかわらず、ジュルカはヨーロッパ、カナダ、米国で演奏するなど国際ツアーを行うことができ、2枚のプラチナ・アルバムと5枚のゴールド・アルバムを獲得し、国際的な成功を収めた。バンド解散後ムチュヌは音楽界から引退し、家族の農場に帰り、牛を育てる民族の伝統的な生活に戻った。

同年、クレッグは初のソロ・アルバム『Third World Child』をリリース。

同年、英米のロック・ソウル・ジャズ等のスター約50名による「アパルトヘイトに反対するアーティストたち」(Artists United Against Apartheid)がシングル“サン・シティ”を発売。折からのチャリティー・ブームに乗った企画であったが、リベラルな内容故に米国の保守的地方でのオンエアは控えめであった。米音楽誌『ビルボード』の総合シングル・チャート「Billboard Hot 100」では最高38位を記録している。なお、本企画にクレッグは参加していない。

 

 

1986年、クレッグは、黒人ミュージシャン兼ダンサーのドゥドゥ・ズールー(Dudu Zulu)とともに、2番目の異人種間バンド「サブーカ」(Savuka)を結成し、アフリカ音楽とヨーロッパの影響を融合し続けた。

同年、EP『Johnny Clegg and Savuka EP』をリリース。

同年、映画『Jock of the Bushveld』のテーマ曲にサブーカの“Great Heart”が起用。

 

 

1987年、サブーカの1stアルバム『Third World Child』をリリース。1985年の1stソロ・アルバムと同一タイトルだが、タイトル・トラックを除いて曲は重複しない。本アルバムは、フランスを含むヨーロッパのいくつかの国で国際売上記録を破った。 ここからは、"Scatterlings of Africa"のセルフ・カヴァーが翌1987年5月に全英75位に入った。他に表題曲“Third World Child”、"Asimbonanga (Mandela)"、“Great Heart”等を収録。

 

 

 

 

 

 

1988年、アルバム『Shadow Man』をリリース、カナダで31位に入った。"I Call Your Name"等を収録。

 

 

同年公開された、ダスティン・ホフマンとトム・クルーズの主演映画『レインマン』(Rain Man)のサウンドトラックにクレッグの曲“Scatterlings of Africa”が収録。映画はアカデミー賞を受賞した。

同年、ジミー・バフェットのアルバム『Hot Water』に“Great Heart”のカヴァーが収録された。

 

 

1989年12月20日、アルバム『Cruel, Crazy, Beautiful World』をリリース、カナダ67位。タイトル・トラック“Cruel, Crazy, Beautiful World”、"Dela (I Know Why the Dog Howls at the Moon)"等を収録。

 

 

 

ジョニー・クレッグとサブーカは、国内外で演奏したが、クレッグがアパルトヘイト時代の南アでの演奏をやめなかったことで、国際的な反アパルトヘイト運動との緊張が高まった。南ア政権に対する彼の著名な(そして個人的に危険な)反対にもかかわらず、このことがクレッグの英国音楽家連合からの追放につながり、ある作家が「怒りの爆発」と呼んだ。

ある時、バンドはリヨンで非常に多くの観客を集めたため、マイケル・ジャクソンはそこでのコンサートをキャンセルし、クレッグとそのグループが「自分のファンを全員盗んだ」と不満を述べた。

 

 

1990年2月11日、囚われの身となっていた反アパルトヘイトの闘士で弁護士のネルソン・マンデラ(コサ語: Nelson Rolihlahla Mandela/1918年7月18日-2013年12月5日)が、27年間の投獄生活に終止符を打ち、釈放される。

同年公開の映画『Opportunity Knocks』のサウンドトラックに、サブーカの“Cruel, Crazy, Beautiful World”が収録された。

 

 

1991年の映画『Career Opportunities』にも“Cruel, Crazy, Beautiful World”が起用された。

 

 

1992年、クレッグの楽曲“Life is a Magic Thing”が『FernGully: The Last Rainforest』 に収録された。

 


1993年、アルバム『ヒート,ダスト&ドリームス』(Heat, Dust and Dreams)をリリース、"The Crossing"収録。本作をはじめ数枚のアルバムがグラミー賞にノミネートされた。

 

 

同年、タクシー業界の規制緩和に伴う過剰な競争激化の果てに勃発した紛争、所謂「タクシー戦争」(Taxi War)の仲裁を試みたドゥドゥ・ズールーが射殺された。

ズールーを失ったサブーカは解散した。

 

 

1994年4月にようやく南アにて全人種が参加する選挙が行われ、5月にネルソン・マンデラが大統領となり新政権が樹立された。マンデラ大統領就任により、南アフリカにおけるアパルトヘイトはこの1994年に完全に消滅した。

 

 

1990年代半ばに短期間再結成したクレッグとムチュヌは、ジュルカを再結成した。

 

 

1996年にはキング・サニー・アデとともに世界中をツアーした。

 

 

1997年、再結成後初となるジュルカのアルバム『Crocodile Love』をリリース。南アでは『Ya Vuka Inkunzi』とのタイトルで発売された。これがジュルカの最後のアルバムとなった。ここからは“Love Is Just A Dream (Tatazela)”がカットされた。

 

同年、ジュルカは再び、そして完全に解散し、その後再結成されることは無かった。

同年の映画『George of the Jungle』と2003年の続編のサウンドトラックに“Dela”が収録された。


 

1999年のあるコンサートで、ネルソン・マンデラ(Nelson Mandela)南アフリカ共和国大統領がステージに登場し、クレッグがマンデラに捧げたサブーカの楽曲“アシンボナンガ” (Asimbonanga)を歌うと、それに合わせてマンデラは踊った。“アシンボナンガ”は、大衆民主運動の傘下組織である統一民主戦線の抗議歌となった。

 

 

2000年の映画『Whispers: An Elephant's Tale』のエンド・クレジット曲に“Great Heart”が起用された。

 

 

2002年ソロ・アルバム『New World Survivor』をリリース。

 

 

2003年、ソロ・アルバム『A South African Story - Live at the Nelson Mandela Theatre』をリリース。

 

 

2006年、ソロ・アルバム『One Life』をリリース。

 

 

2010年、ソロ・アルバム『Human』をリリース。

 

同年、ソロ・アルバム『My Favourite Zulu Street Guitar Songs』をリリース。

 

 

2013年にマンデラが病気で亡くなった時、コンサートのビデオは南アフリカ国外でかなりのメディアの注目を集めた。

 

 

2014年、ソロ・アルバム『Best, Live & Unplugged: Clegg at the Baxter Theatre Cape Town』をリリース。

 

 

2017年、ソロ・アルバム『King of Time』をリリース。

 

 

同年、クレッグが膵臓がんの手術を受けたためツアー・スケジュールが短縮された。

 

 

2018年11月3日、クレッグはジンバブエのハラレで最後のコンサートを行った。

 

 

 

 

2019年7月16日、ジョニー・クレッグが、南アフリカのヨハネスブルグにある自宅で膵臓癌のため死去した。66歳没。

彼のマネージャーがクレッグのFacebookページで明らかにした。

 

 

 

 

 

アパルトヘイトに異を唱え、音楽で闘ったクレッグの死から5年。

 

南アフリカ共和国においてアパルトヘイト自体は30年前に廃止されたが、その後の経済対策の遅れや失敗から貧富の差が拡大し、治安の悪化が深刻化している。

 

また、イスラエルによるヨルダン川西岸地域のパレスチナ人に対して実施してきた分離政策「ハフラダ」(ヘブライ語:הפרדה/英語:Hafrada/直訳:分離)は国際社会はもとより自国民からも「イスラエルによるアパルトヘイト」との非難を受けてきたが、2023年10月7日から続く「2023年パレスチナ・イスラエル戦争」ではパレスチナにおいて難民キャンプやトルコ・パレスチナ友好病院への攻撃などにより民間人、特に子どもや女性の膨大な数の死亡が確認、イスラエル政府もそのことを認めつつも戦闘を止めないと明言している。

 

この戦争において人道上の問題を起こしているのは、パレスチナのハマスとイスラエル政府双方であるることは間違いないが、その背景にあるのは言うまでもなく、イスラエルによるパレスチナに対するアパルトヘイトである。

 

子どもの頃に距離を置いたとはいえ、自らの出自であるユダヤ人の国家イスラエルによるアパルトヘイトに、もし生きていたら今年で71歳を迎えるジョニー・クレッグは何を思うのだろうか。

 

そして、表面上はアパルトヘイトが無くなったが人種差別的構造は今も根強く残存する南アフリカの現状に何を言うのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「Johnny Clegg」「Juluka」「Savuka」

 

 

 

(関連記事)

アパルトヘイトに反対した日本のアーティストでは、1989年に“青空”をリリースしたTHE BLUE HEARTSや、現地の政治デモに参加した爆風スランプのサンプラザ中野くんとパッパラー河合が有名。