桑名 正博(くわな まさひろ/旧芸名:桑名 将大・桒名 正博・𥸮名正博/1953[昭和28]年8月7日~2012[平成24]年10月26日)は、日本のミュージシャン・俳優、実業家。
1953年8月7日、大阪市天王寺区生まれ。生家は1830(天保元・文政13)年に創業した廻船問屋「桑文」(現:桑名興業)で、桑田は7代目の跡取りとして生まれる。
両親と妹の4人家族だが、家庭には女中が2名おり、700坪の邸宅で育った。
妹の桑名晴子(1956年5月19日~)は後に歌手・ミュージシャンとなる。
1957年、勝山幼稚園入園。
1960年、大阪市立住吉小学校入学。
1967年、甲南中学校(兵庫県芦屋市)入学。
1969年、大阪市立阪南中学校へ転校。
1970年、大阪万博でアルバイトをしたのをきっかけに、サンフランシスコへ行く。
1971年、帰国。
1972年2月、浅川マキを全国区に売り出し中だったプロデューサーの寺本幸司と出会う。
5月、「ファニー・カンパニー」を結成。当初のメンバーは、桑名正博(Vo,G)、栄孝志(Vo,G)、横井康和(1951年2月28日~/B)の3人。バンド名は、横井が1968年に結成し1970年に解散した女性二人とのグループの名前「ファニー・カムパニー」を一部改変して流用。略して「ファニカン」とも呼ばれた。
7月下旬、古宇田優(Key,Org)が加入。
元THE M、ファーラウトの西哲也(Ds)が加入。
大阪厚生年金ホールや関西のフォークコンサートに出演していたが、アルバム制作のため東京に活動拠点を移す。
9月、シングル“スウィートホーム大阪”(作詞:横井康和/作曲:桑名正博)でワーナー・パイオニアのアトランティック・レーベルからデビュー。
1973年1月、寺本のプロデュースで制作したアルバム『ファニー・カンパニー』をアトランティックから発売。“退屈はあぶくになって”他収録。
この頃からブレイクし、前年12月に“ルイジアンナ”でデビューしたキャロルと並び「東のキャロル、西のファニカン」と言われるようになる。一方、革ジャンにリーゼントでバイクに乗るハングリーなイメージのキャロルに対し、ファニカンは老舗廻船問屋の跡取りである桑名を始め、栄は有名な栄総合病院の次男で日大文理に受かっており、同志社に在籍していた横井は横井厨房という鋳物の会社の社長の息子、古宇田は学習院に通う宝石屋の息子と御曹司が揃っており、また、スバル360に4人乗り込んでライヴ会場にやってくるキャロルに対し、真っ赤なポルシェで乗り付けるファニカンとの対比から、「ぼんぼんロックバンド」などと陰口を叩かれた。
同年、横田が脱退し、後任に辻宗一郎(B)が加入。
同年、シングル“ハイウェイ・ドライブ”発売。
11月、アルバム『ファニー・ファーム』をエレクトラから発売。プロデューサーは前作と同じく寺本幸司。
1974年、ファニカンが解散。
桑名正博バンド、そして加賀テツヤ、山本翔と結成したユグドラジルの名義でキングレコードからリリースされたオムニバスアルバム『イントロダクション』に参加している。
1975年、ソロ活動を開始。
1976年、RCAからソロアルバム『Who are you?』をリリース。“夜の海”(作詞:下田逸郎/作曲:桑名正博)、“真夜中列車第2便”(作詞:松本隆/作曲:桑名正博)等を収録。
1977年、当時のRCAの担当ディレクターだった小杉理宇造の紹介で筒美京平と出逢う。筒美は作詞に松本隆を指名。
同年6月、二人の作品“哀愁トゥナイト”が発売される。その後も“サード・レディー”など松本・筒美コンビのシングルをリリースし続ける。
1977年9月、大麻とコカインの使用で書類送検された。
10月12日、さらにコカイン常用の証拠隠滅を図ったことで麻薬取締法違反容疑で逮捕され、懲役2年執行猶予3年の有罪判決を受けた。
1978年7月5日、アルバム『テキーラ・ムーン』を発売、収録曲“月のあかり”は大阪ではカラオケの定番となっている。
1979年4月21日、“スコーピオン”(作詞:松本隆/作曲:筒美京平/編曲:桑名正博&Tear Drops・戸塚修)発売。
7月21日、カネボウ化粧品キャンペーンソング“セクシャルバイオレットNo.1”(作詞:松本隆/作曲:筒美京平/編曲:桑名正博&Tear Drops・戸塚修)を発売。シングルチャート1位を獲得し、トップに3週にわたり君臨する大ヒットを記録、代表作のひとつとなる。いわゆる「ロック歌謡」と呼ばれたジャンルがブームだったのもこの頃である。
12月1日、“THE SUPER STAR”(作詞:松本隆/作曲:筒美京平/編曲:桑名正博&Tear Drops ・鈴木茂)発売。
1980年3月5日、アン・ルイスと挙式し、10日に結婚を発表した。
980年10月5日 、“ ロンリネス”(作詞:下田逸郎/作曲:筒美京平/編曲:桑名正博&Tear Drops・萩田光雄)発売。
10月9日、TBSドラマ『恋人たち』に「六太郎(ロク)」役で出演。オープニングテーマは桑田の“ ロンリネス”。
1981年3月5日、“追跡ハートエイク”(作詞:糸井重里/作曲:桑名正博/編曲:桑名正博・萩田光雄)発売。
4月、芸名を桑名正博から桑名将大へ改名。読みは同じ。
5月8日、長男・美勇士が誕生。
9月29日、モデルをしていた19歳の女性ファンへの強制わいせつ致傷容疑で逮捕されるが、示談が成立して、不起訴処分となる。
12月25日には、大阪府警生活課と豊中警察署から、9月に大阪の実家で開いた大麻パーティーで大麻を使用した大麻取締法違反容疑で取り調べを受け、容疑を認める供述をする。
1984年、アン・ルイスと離婚。
東京に拠点を置いて芸能活動をしていたが、芸能活動を陰で支え続けた父の没後、遺志を継ぎ1990年から家業を継ぐために出身地の大阪に拠点を戻した。「桑名興業」は江戸時代から続く廻船問屋で、桑名正博は七代目となる。港湾荷役、建設業、倉庫業を営む中堅企業で、一時ゴルフ場の経営もしていた。
1998年、バンド「THE TRIPLE X」(ザ・トリプル・エックス)を結成し活動を開始。
5月16日、アルバム『WE ARE THE TRIPLE X』をインディーズレーベルのFUNNY RECORDZから発売。作詞・曲と編曲の表記は全てバンド名となっている。
その後THE TRIPLE Xとしての活動を2002年まで続ける。その後はしばらく活動休止していた。
1999年11月25日、2ndアルバム『Lolita Complex』発売。
2000年5月、桑名興業社長に就任。社長業が多忙なため、東京での芸能関係の仕事はほとんどせず、大阪中心に活動。 しかし、バブル崩壊の煽りを受け会社は危機を迎えており、桑名が引き継いだ時には、すでに手遅れの状態であった。700坪の豪邸を売り払って(現在は、グランドメゾン晴明丘)も立て直しがきかず倒産している。
2002年10月23日、THE TRIPLE Xの通算3枚目にしてメジャーデビューアルバム『人生の訓示』を発売。
2003年10月、吉本興業入り。
2006年、静かな生活がしたい、と軽井沢へ転居。
2011年10月31日、美勇士に娘が誕生。桑名にとっても、元妻のアン・ルイスにとっても初孫となった。
2012年7月15日早朝に大阪市内の自宅で心不全により倒れ、大阪市住之江区の友愛会病院に緊急搬送されたが、意識不明の重体となる。
7月20日、意識不明の状態が続く中、『ライオンのごきげんよう』でゲスト出演した収録映像が放映され、その際には倒れる前の7月11日に収録されたものである旨が表示された。3回の出演予定だったが、残り2回は7月18日に収録予定だったため、出演はこの回きりとなった。
8月2日、入院先の病院で長引く闘病生活に耐えるため気道に注入された人工呼吸器を外し、気管切開の手術を受けた。倒れてから長らく意識不明の状態であり、高カロリーの点滴(ラクトリンゲル)で栄養補給をしている状態が続いていた。
2012年10月26日午後に死去した。59歳没。
葬儀・告別式は10月30日に大阪市阿倍野区内の葬儀場で行われ、約700人が参列し、原田喧太が弔辞を読んだ。出棺後、巨大な遺影を掲げた白いオープンカー(ベンツGクラス)の後に、桑名が眠る棺を乗せた霊柩車(リンカーン仕様)が御堂筋を走る。5,000人もの大阪市民や橋下徹市長(当時)らに見送られ、市内南部にある瓜破斎場で荼毘に付された。法名は、明月院釋響流(みょうげついんしゃくこおる)。
桑田が亡くなった後、よく流れていたのが、
1976年のソロデビューアルバム『Who are you?』の収録曲“夜の海”だった。
桑名の長いキャリアで、フラカンからソロ、The Triple Xまで、幅広く網羅しているベスト盤がこれ。
(参照)
Wikipedia「桑名正博」「ファニー・カンパニー」