ブライアン・ウィルソン(Brian Wilson/出生名:Brian Douglas Wilson/1942年6月20日~)は、アメリカ合衆国のミュージシャン。ザ・ビーチ・ボーイズのリーダーにしてヴォーカル、ベース担当。
1942年6月20日、ブライアン・ダグラス・ウィルソンが、カリフォルニア州イングルウッドのセンティネラ病院医療センターで、オードリー・ネヴァ(旧姓コートホフ)と、後にパートタイムで作詞作曲を手がけるようになった機械工マリー・ウィルソンの長男として誕生。ウィルソンの二人の弟、デニスとカールはそれぞれ1944年と1946年に生まれた。
1944年、デニスの誕生後まもなく、一家はイングルウッドからカリフォルニア州ホーソーン近郊の西119丁目3701番地に引っ越した。
ウィルソンは兄弟姉妹と共に、父親から精神的虐待と散発的な身体的虐待を受けた。2016年に出版された彼の回顧録では、父親は「暴力的」で「残酷」だったと描写されているが、同時に、虐待に関する一部の説は誇張されていたり、根拠がなかったりするのではないかとも示唆している。
1961年、ウィルソン家のブライアン、デニス、カールの3兄弟は、サーフィンで知り合ったジョン・マース(後のザ・ウォーカー・ブラザースのジョン・ウォーカー)よりギターの手ほどきを受け、いとこであるマイク・ラヴ、高校の友人アル・ジャーディンとともにグループを結成する。彼らは最初、マイクが当時流行していたシャツから取った「ペンデルトーンズ」と名乗り、ウィルソン兄弟の父親マレー・ウィルソン(1917〜73)によってマネジメントされた。
同年、マレーの友人ハイト・モーガンが経営していた小レーベル「CANDIX」と契約し、マイクがリード・ヴォーカルを歌った1stシングル“サーフィン” (Surfin')をリリースしたが、そのレーベルには彼らの知らない「ザ・ビーチ・ボーイズ」(The Beach Boys)という名前がクレジットされていた。デビュー・シングルは米音楽誌『ビルボード』の総合シングル・チャート「Billboard Hot 100」(以下「全米」)75位にランク・インする。
1962年、キャピトル・レコードと契約を締結。
6月4日、キャピトル移籍後の第一弾シングル“サーフィン・サファリ”(Surfin' Safari)は全米14位のヒットとなった。
1962~1963年、グループの前途に不安を感じ一時脱退したアル・ジャーディンの代わりにデヴィッド・マークスが在籍した。
10月1日、デビュー・アルバム『サーフィン・サファリ』(Surfin' Safari)を発売。
1963年3月4日、“サーフィン・U.S.A.”(Surfin' U.S.A.)をリリースすると、全米3位を記録、イギリスでも34位でチャート入りする世界的ヒットになる。
3月25日、2ndアルバム『サーフィン・U.S.A.』(Surfin' U.S.A.)を発表、『ビルボード』誌の総合アルバム・チャート「Billboard 200」(以下「全米」)2位・全英17位。2作目まではベテランのA&Rマンであったニック・ヴェネにプロデュースを任せた。
7月22日、シングル"Surfer Girl"/"Little Deuce Coupe"をリリース、AB面それぞれ全米7位・全米15位に入るヒットになった。
9月16日、3rdアルバム『サーファー・ガール』(Surfer Girl)をリリース、全米7位・全英13位、RIAAゴールド。本作からはブライアン本人がプロデュースまでつとめるようになった。この時、ブライアンは若干21歳であった。
10月7日、4thアルバム『リトル・デュース・クーペ』(Little Deuce Coupe)をリリース、全米4位、RIAAプラチナ。
10月28日、シングル"Be True to Your School"をリリース、全米6位になった。
1964年2月3日、シングル“ファン・ファン・ファン”(Fun, Fun, Fun)をリリース、全米5位をマーク。
3月2日、5thアルバム『シャット・ダウン・ヴォリューム2』(Shut Down Volume 2)をリリース、全米13位、RIAAゴールド。
5月11日、シングル“アイ・ゲット・アラウンド”(I Get Around)をリリース、グループ初の全米ナンバー1を獲得した。
7月13日、6thアルバム『オール・サマー・ロング』(All Summer Long)をリリース、全米4位・全英9位。RIAAゴールド。
8月24日、シングル“ホエン・アイ・グロウ・アップ”(When I Grow Up [To Be a Man])をリリース、全米9位。
10月19日、ライヴ・アルバム『ビーチ・ボーイズ・コンサート』(Beach Boys Concert)をリリース、全米1位。
10月26日、シングル“ダンス・ダンス・ダンス”(Dance, Dance, Dance)をリリース、全米8位。
11月9日、クリスマス・アルバム『ザ・ビーチ・ボーイズ・クリスマス・アルバム』(The Beach Boys' Christmas Album)をリリース、全米66位、RIAAゴールド。
同年末のツアーに向かう飛行機の中で、精神的重圧に耐えきれなくなったブライアンは公演を欠席。これ以降ブライアンは公演活動から離れ、スタジオでの制作作業に専念することを宣言してしまう。このツアーではブライアンの代役をグレン・キャンベルが務めた。その後、この役目を担うためにブルース・ジョンストンが参加し、結局そのまま6人目のビーチボーイとして以降の音楽生活を送ることになった。
その後、ブライアンは敬愛するフィル・スペクターの「ウォール・オブ・サウンド」や、効果音を取り入れたアレンジを見事に消化し才能を開花させた。この時期に、演奏技術に優れたスタジオ・ミュージシャンをバックに初期のポップで商業主義的な『オール・サマー・ロング』『ザ・ビーチ・ボーイズ・トゥディ』『サマー・デイズ』が立て続けに発表される。しかし、順調に見えたビーチボーイズの前途にその後ずっと付きまとう影が現れる。
1965年3月8日、8thアルバム『ザ・ビーチ・ボーイズ・トゥディ』(The Beach Boys Today!)をリリース、全米4位・全英6位、RIAAゴールド。
7月5日、9thアルバム『サマー・デイズ』(Summer Days [and Summer Nights!!])をリリース、全米2位・全英4位、RIAAゴールド。
11月8日、10thアルバム『ビーチ・ボーイズ・パーティ』(Beach Boys' Party!)をリリース、全米6位・全英3位。
1966年5月16日、11thスタジオ・アルバム『ペット・サウンズ』(Pet Sounds)をリリース、全米10位・全英2位、RIAAプラチナ、BPI 2×プラチナ。本作はブライアンの主導で、当時ポップ・ミュージックとしては珍しい完全なコンセプト・アルバムとして制作された。だが、従来とはかけ離れた作品であるため、契約していたキャピトル・レコードから敬遠され、保守的な米国のファンにもなかなか受け入れられなかった。早々に50万枚を売り上げたが、それまでの作品に比べて売上が伸びなかった。一方イギリスでは好評で、アルバムは全英2位を記録し、シングルがヒットチャート上位に到達。また、ビートルズのポール・マッカートニーや、ザ・フーのピート・タウンゼント、エリック・クラプトンが好きなアルバムとして挙げるなど、一部には理解者がいた。だが、このアルバムが再評価されるには長い時間が必要だった。
7月5日、キャピトルはヒット曲集『ベスト・オブ・ザ・ビーチボーイズ』(Best of The Beach Boys)を発売、瞬く間に100万枚を売上げ、結果的に『ペット・サウンズ』より成功。この事実にブライアンは酷く傷つき、以降蝕まれ続けることになる。
この頃、スタジオでの完全主義ゆえにブライアンは『ペット・サウンズ』以上の作品を作り出さなければならないという強迫観念に駆られ、ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の録音と期間が重複していた『スマイル』の制作中、遂にノイローゼを発症した。7月18日、“素敵じゃないか”(Wouldn't It Be Nice)をリカット、リードはブライアンが歌い、ブリッジ部分はマイクがヴォーカルを担当、全米8位を記録した。カップリングの“神のみぞ知る”(God Only Knows)は全米39位・全英2位に達した。
一日中薬物と酒を飲んで暮らすようになったブライアンは、アルバム内の曲「エレメンツ」録音時にスタジオ内で消防士の格好をしたり、キャピトルの幹部夫人を悪魔と呼んで彼のスタジオから追い出すなど奇行を見せるようになった。また、スタジオでの効果音に凝り始めたブライアンと、グループの持ち味であるボーカル・ハーモニー路線を支持したマイクを始めとする他メンバーとの方向性に対する対立も深まった。モジュラー・レコーディングといういくつかの(実際には、中間部が異なる各曲数十テイクに及ぶ)テイクの断片を組み合わす方式は、編集段階でもさらに精神的混乱を巻き起こした。
1967年5月、キャピトル・レコードの再三の要求にもかかわらず結局完成しなかった『スマイル』は、キャピトルにより発売中止が決定。キャピトルはアルバム発売に向けて、完成前からジャケットを印刷して催促を試みていたが、大半が破棄された。
9月18日、12thスタジオ・アルバム『スマイリー・スマイル』(Smiley Smile)が発売、全米41位・全英9位を記録した。『スマイル』用の曲のうちの何曲かはここに収録されたが、そのバージョンは厳密には『スマイル』録音時のテイクではなく、ブライアンが作業から脱落した後に他のメンバーが手早く仕上げた断片や残骸とでもいうべき代物であった。当然、40年後にアウトテイクも含んだ形で発表されたボックスセット『グッド・バイブレーションズ・ボックス』に収録された同名楽曲の完成度とは比べものにならない出来で、“英雄と悪漢”、“グッド・ヴァイブレーション”(1966年シングル全米No.1)といった傑作曲が収録されたものの、『スマイリー・スマイル』の評価は惨憺たるものだった。ブライアンが『スマイル』を放棄後に残りのメンバーが作り上げた『スマイリー・スマイル』が、彼らが嫌ったサイケデリック色の強いアルバムとなったのは皮肉な結果であった。
こうして、ブライアンの錯乱した精神状態や事実上の活動休止にもかかわらず、バンドは彼以外のメンバーによって、さらに活発に活動を続けた。
12月18日、アルバム『ワイルド・ハニー』(Wild Honey)をリリース、全米24位・全英7位をマーク。
1968年6月24日、アルバム『フレンズ』(Friends)をリリース、全米126位・全英13位をマーク。
1969年2月10日、アルバム『20/20』をリリース、全米68位ながら、イギリスでは3位を獲得した。グループはここまでの作品をキャピトルから発表した。
ただし、ブライアン以外のメンバーも平穏な生活を送っていた訳ではない。この時期デニスは、後に女優シャロン・テート惨殺事件を起こすチャールズ・マンソンと共同生活を送った上、楽曲の共作まで行っている。これは事件後スキャンダルとなった。
1970年の『サンフラワー』でキャピトルを離れ、ワーナーブラザース傘下のリプリーズに移籍する。また、本格的に自分たちのレーベルであるブラザーレコード名義で作品を発表するようになる。
1971年の『サーフズ・アップ』がリリースされた。そのタイトル・トラック“サーフズ・アップ”は才能あるシンガー・ソング・ライターのヴァン・ダイク・パークスとの共作で、元々は『スマイル』に収録される曲であったが、ブライアンの思った通りのヴォーカルが録音できず、カールが代わってリード・ヴォーカルを務めた。このように『スマイル』が頓挫して以降に発表されたほとんどのアルバムには、分散する形で『スマイル』収録予定曲の別バージョンが収録されている。
1973年の『オランダ』も複雑な評価を得るなど、1970年代を通してブライアンの活動は低調であった。
1974年、コンピレーション・アルバム『Endless Summer』をリリース、全米1位。
1976年、ブライアンはツアーに復帰したが、彼の精神疾患は1990年代まで不安定だった。ただし、ブライアン不在の中、他のメンバーは精力的にツアーを続け、ライヴ・バンドとしての地位を確立していく。また、ブライアンの代わりにメンバーが作った楽曲の中には佳作もあり、ビーチ・ボーイズが決してブライアン一人の才能によって成り立っていたわけではないことを示す結果となった。
1983年12月28日、ウィルソン三兄弟の次男であるデニスが事故死する。泥酔状態でクルーザーから水中に飛び込み、溺死したのである。当時、それぞれがソロ・アルバムを出すなど、すでに分裂の危機にあった彼らは、デニスの死をきっかけとして一時的に以前の結束を取り戻すかのように見えた。
1985年7月13日に行なわれたライヴ・エイドに出演する。亡くなったデニス以外のメンバー5人(ブルース、カール、マイク、アル、ブライアン)がフィラデルフィア・JFKスタジアムに集結し、「カリフォルニア・ガールズ」「ヘルプ・ミー・ロンダ」「素敵じゃないか」「グッド・ヴァイブレーション」「サーフィンU.S.A.」を披露した。これにより残された5人での活動に大きな期待が寄せられた。
同年リリースされたアルバム『ザ・ビーチ・ボーイズ』以後、ブライアンは、しかし、マイクとの共作を止め、精神面での主治医ユージン・ランディの誘導により、ソロ活動に重きを置くようになっていった。
1988年、亡くなったデニスをはじめとして、マイク、カールもソロアルバムを発表済みだったが、とうとうブライアンがソロアルバム『ブライアン・ウィルソン』(Brian Wilson)を発表。このアルバムは精神分析医ユージン・ランディの強い影響下で作られたものであった。ブライアンの才能が発揮された佳作で、一部で熱狂的に迎えられたものの、一般に大きな反響をもたらすものではなかった。
同年、皮肉なことに、ブライアン以外のメンバーがビーチ・ボーイズ名義で発表した映画『カクテル』の主題歌「ココモ」が22年ぶりの全米No.1を獲得する大ヒットとなる(ブライアンは録音に誘われていたが予定が合わずに不参加。その後、この曲のスペイン語バージョンの録音に参加した)。なおテレビドラマ『フルハウス』の中でブライアンは久々にメンバーと共演し「ココモ」を披露している(「ビーチ・ボーイズがやって来た!」の回)。
同年、グループは「ロックの殿堂」入りを果たす。
その後もメンバー同士で、さまざまな理由で互いに訴訟合戦を繰り広げながら、音楽上の交流は若干ながら続いていた。
1989年8月28日、26thアルバム『スティル・クルージン』(Still Cruisin')をリリース、全米46位、RIAAプラチナ。
1998年、「ボーカルグループの殿堂」入りも果たしている。
2月6日、演奏面での実質的なリーダーだったカール・ウィルソンが肺癌で死去。これで、ブライアンを除くメンバー間に残っていた結束も失われてしまった。マイク・ラヴとブルース・ジョンストンは、ブライアンの承認を得て「ザ・ビーチ・ボーイズ」の名前を引き継ぎ、主にライヴを中心に精力的に活動するようになった。アル・ジャーディンは、ブライアンの娘たちや、自分の息子などとともに「アラン・ジャーディン・ファミリー&フレンズ」というバンドを結成し、他のメンバーとは離れていった。ユージン・ランディの影響から脱したブライアンのソロ活動も徐々に軌道に乗り始めた。彼を尊敬するワンダーミンツやジェフリー・フォスケットなどのミュージシャンによるサポートを受けて、ビーチ・ボーイズ時代の作品や当時録音に失敗した多くの作品にふたたび命を与える公演を行う。
事実上3派に分裂し、別々に活動してきた1998年以降も、現存するビーチ・ボーイズの3人のオリジナル・メンバーは、今なおブラザー・レコードの共同経営者であることに変わりはなく、過去の音源や映像のリリースに関する発言権や決定権を有している。また、各メンバーのツアー開催地や開催日程が重複しないよう、各メンバーの代理人、時にはメンバー本人間の会議は続けられた。ブライアンやアルにとって、正式に脱退してしまうと、相対的にビーチ・ボーイズの名義を使用しているマイク・ラブの発言権が最も大きくなってしまうからである。
2004年9月28日、ブライアンはヴァン・ダイク・パークスやワンダーミンツとの共同制作のもと、ソロ名義でアルバム『スマイル』(Brian Wilson Presents Smile)を37年越しに発売、全米13位・全英7位に達した。
2005年5月、故郷ホーソーンのウィルソン兄弟生家跡が、カリフォルニア州の史跡に制定され、その記念碑の除幕式に、ブライアン、アル、初期メンバーのデヴィッド・マークスが出席し、まずはブライアンとアルの和解が公に示された。
その後、メンバー本人間で数度会議を行ったことが伝えられるなど、ゆるやかな歩み寄りの動きがみられた。
2006年5月、ホールマーク社より期間限定で、1974年と1989年のライヴ・テイクに加え、ブライアン、アル、マイクがソロ曲を1曲ずつ持ち寄ったビーチ・ボーイズ名義のアルバム『ソングス・フロム・ヒア・アンド・バック』が発売された。
6月13日、キャピトル・レコード本社屋上で開催された、2003年発売のベスト盤『サウンズ・オブ・サマー』のダブル・プラチナム獲得記念セレモニーに、ブライアン、マイク、アル、ブルース、デヴィッドが出席し、2001年2月21日の第43回グラミー賞功労賞授賞式以来、5年ぶりに公衆の面前でオリジナル・メンバーが揃った。険悪な雰囲気であったグラミー賞当時とは打って変わって、プラチナ・ディスクを囲んで相互ににこやかに談笑する姿を見せた。
11月1日、ロサンゼルスのUCLA・ロイス・ホールにて行われた、ブライアンの『ペット・サウンズ』発売40周年記念公演にアルが客演し、ブライアンがビーチ・ボーイズの公演に完全に参加しなくなった1996年9月以来、10年振りのステージ上での共演を果たした。アルのの客演は2007年1月まで続いたが、その後アルは自身のソロ・アルバム制作を理由に離脱した。
以降、各メンバーは個々の活動を継続してきた。
2010年1月31日に行われた第52回グラミー賞授賞式にブライアンとアルが出席、さらに翌日の「ウィ・アー・ザ・ワールド」25周年リメイク版の録音に揃って参加した。
2009年9月、マイクは2011年2月に5人の現存メンバーによる再集結公演を、カリフォルニア州シミ・ヴァレーにあるロナルド・レーガン・ライブラリーにて行う計画があることを表明。
2011年2月5日に同地にてほぼ予定通り行われたが、ブライアンとデヴィッドは不参加で、アルが単身マイク&ブルースに13年ぶりに加わり、20分ほどの演奏を行うという形にとどまった。
4月には東日本大震災へのチャリティ・シングルとして、「フレンズ(アカペラ・ヴァージョン)」と、アルのソロ・アルバム『ア・ポストカード・フロム・カリフォルニア』収録曲であるビーチ・ボーイズの未発表曲「ドント・ファイト・ザ・シー」をカップリングしたアナログ7インチシングルを自主制作にて発表。
11月、全メンバーの合意の下、1966~70年のビーチ・ボーイズの音源で構成された『スマイル・セッションズ』をキャピトル・レコードより公式発表、全米27位まで上昇した。
2012年2月12日には第54回グラミー賞授賞式にて5人の現存メンバーでは初の公式パフォーマンスを行い、「グッド・ヴァイブレーション」をマルーン5、フォスター・ザ・ピープルと共に演奏した。
4~9月、デビュー50周年リユニオン・ワールド・ツアーを開催。
6月には新作アルバム『ゴッド・メイド・ザ・ラジオ〜神の創りしラジオ〜』を発売(全米最高3位)。
8月には来日公演(千葉・名古屋・大阪)を行った。
10月以降はマイクとブルースが再びブライアンらと袂を分かち、前年までのバンドを率いてツアーを再開。一方ブライアンとアルは再集結の継続を希望したものの受け入れられなかった。その代わり、ブライアンのバンドにアルが息子のマット・ジャーディンとともに合流し二者でのアルバム制作や公演活動を行うようになったため、現状では二分裂の状態となっている。
2015年4月7日、ジョー・トーマスを共同プロデューサーに起用したソロ・アルバム『ノー・ピア・プレッシャー』(No Pier Pressure)を発表。オリジナルの新曲によるアルバムとしては7年振りで、ビーチ・ボーイズの歴代メンバーのうちアル・ジャーディン、デヴィッド・マークス、ブロンディ・チャップリンがゲスト参加した。
2016年頃からはかつて1971-73年の間メンバーだったブロンディ・チャップリンもブライアンのバンドに参加している。
2021年、ソロ・アルバム『At My Piano』をリリース。
2024年5月、「認知症により日常生活上の処理が自力でできない状態にある」として、米ロサンゼルスの地方裁判所の判断を受け成年後見制度の対象となったことが12日に報道された。
2025年6月11日に死去。82歳没。
(参照)
Wikipedia「ブライアン・ウィルソン」「Brian Wilson」「ザ・ビーチ・ボーイズ」「The Beach Boys」
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