マイク・ラヴ(Mike Love/出生名:Michael Edward Love/1941年3月15日~)は、アメリカ合衆国のミュージシャン、歌手。ザ・ビーチ・ボーイズの結成メンバーの一人で、主にリード・ヴォーカルを担当、多くの曲を作詞した。

 

 

 

1938年3月15日、マイケル・エドワード・ラブは、ラブ夫婦の6人の子どもの第一子として、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルスのボールドウィン・ヒルズ地区で生まれた。母親エミリー・“グリー”・ラブ(旧姓:ウィルソン/1919-1979年)は、メアリー・ウィルソンとマレー・ウィルソンの姉妹で、1920年代初頭からロサンゼルスに居住。彼女は「ラブ・シート・メタル・カンパニー」創設者の息子エドワード・ミルトン・ラブ (1918-2013年) と1938年に結婚。

ミルトンとグリー・ラブはどちらもスポーツで活躍し、ラブの弟スタン・ラブは後に全米バスケットボール協会でプレーした。母グリーは絵画と芸術に明確な興味を持っていた。しかし、兄のマレー・ウィルソン同様、グリーも意志が強く、夫によれば支配的な性格だったという。家族は絆が強く、マレーと彼の家族と定期的に交流を持っていた。マレーはパートタイムのソングライターだった。

 

1941年。その後、家族は高級住宅街のビューパーク地区に引っ越した。

彼はドーシー高校に通い、1959年に卒業した。

キャリアの方向性が定まらなかったラブは、ガソリンを入れて一時的に父親の会社に入社したが、その会社の財産は1950年代後半に劇的に下落した。


ラブは、ホーソーン近くのいとこであるウィルソン家での家族の集まりで、特にクリスマスによく歌を歌った。 ここで、ブライアン・ウィルソンのヴォーカル・ハーモニーの指導の下、主にブライアンのフォー・フレッシュメンのアレンジメントへの献身的な影響を受けたビーチ・ボーイズ・サウンドが確立された。

この形成期の伴奏はブライアンの独学ピアノのみであったが、これはブライアンの大学時代の友人アル・ジャーディン(彼の根本的な興味は民族音楽だった)とカール・ウィルソン(彼のアイドルはチャック・ベリーだった)のギターの貢献によってすぐに拡張された。

ラブ・シート・メタル社の失敗により、家族はウィルソン家に近いイングルウッドの質素な2ベッドルームの家に引っ越さざるを得なくなった。

 

 

1961年、ウィルソン家のブライアン、デニス、カールの3兄弟は、サーフィンで知り合ったジョン・マース(後のザ・ウォーカー・ブラザースのジョン・ウォーカー)からギターの手ほどきを受け、いとこであるマイク・ラヴ、高校の友人アル・ジャーディンとともにグループを結成。彼らは最初、マイクが当時流行していたシャツから取った「ペンデルトーンズ」と名乗り、ウィルソン兄弟の父親でマイクにとっては叔父になるマレー・ウィルソン(1917〜73)によってマネジメントされた。

同年、マレーの友人ハイト・モーガンが経営していた小レーベル「CANDIX」と契約し、マイクがリード・ヴォーカルを歌った1stシングル“サーフィン” (Surfin')をリリースしたが、そのレーベルには彼らの知らない「ザ・ビーチ・ボーイズ」(The Beach Boys)という名前がクレジットされていた。デビュー・シングルは米音楽誌『ビルボード』の総合シングル・チャート「Billboard Hot 100」(以下「全米」)75位にランク・インする。

 

 

1962年、キャピトル・レコードと契約を締結。

6月4日、キャピトル移籍後の第一弾シングル“サーフィン・サファリ”(Surfin' Safari)は全米14位のヒットとなった。

 

1962~1963年、グループの前途に不安を感じ一時脱退したアル・ジャーディンの代わりにデヴィッド・マークスが在籍した。
10月1日、デビュー・アルバム『サーフィン・サファリ』(Surfin' Safari)を発売。

 

彼らの初期の曲のテーマはカリフォルニアの青年のライフスタイル(例えば“オール・サマー・ロング”、“ファン・ファン・ファン”)、自動車(“リトル・デュース・クーペ”)そしてサーフィン(“サーフィン”、“サーフィン・サファリ”)から取られたものであった。これらは主にデニスの趣味であった。因みに、バンドのリーダーでヒット曲の多くを書いたブライアン・ウィルソンにサーフィンの趣味はない。

 

 

1963年3月4日、“サーフィン・U.S.A.”(Surfin' U.S.A.)をリリースすると、全米3位を記録、イギリスでも34位でチャート入りする世界的ヒットになる。

 

3月25日、2ndアルバム『サーフィン・U.S.A.』(Surfin' U.S.A.)を発表、『ビルボード』誌の総合アルバム・チャート「Billboard 200」(以下「全米」)2位・全英17位。

 

2作目まではベテランのA&Rマンであったニック・ヴェネにプロデュースを任せた。

7月22日、シングル"Surfer Girl"/"Little Deuce Coupe"をリリース、AB面それぞれ全米7位・全米15位に入るヒットになった。

 

 

9月16日、3rdアルバム『サーファー・ガール』(Surfer Girl)をリリース、全米7位・全英13位、RIAAゴールド。本作からはブライアン本人がプロデュースまでつとめるようになった。この時、ブライアンは若干21歳であった。

10月7日、4thアルバム『リトル・デュース・クーペ』(Little Deuce Coupe)をリリース、全米4位、RIAAプラチナ。

 

10月28日、シングル"Be True to Your School"をリリース、全米6位になった。

 

 

1964年2月3日、シングル“ファン・ファン・ファン”(Fun, Fun, Fun)をリリース、全米5位をマーク。

 

3月2日、5thアルバム『シャット・ダウン・ヴォリューム2』(Shut Down Volume 2)をリリース、全米13位、RIAAゴールド。

5月11日、シングル“アイ・ゲット・アラウンド”(I Get Around)をリリース、グループ初の全米ナンバー1を獲得した。

 

7月13日、6thアルバム『オール・サマー・ロング』(All Summer Long)をリリース、全米4位・全英9位。RIAAゴールドを獲得。ブライアントマイクが共作した“リトル・ホンダ” (Little Honda)は後にリカットされ、全米65位・全英11位、さらに北欧ではスウェーデン1位・ノルウェー8位を獲得した。

 

 

8月24日、シングル“ホエン・アイ・グロウ・アップ”(When I Grow Up [To Be a Man])をリリース、全米9位。

 

10月19日、ライヴ・アルバム『ビーチ・ボーイズ・コンサート』(Beach Boys Concert)をリリース、全米1位。

 

10月26日、シングル“ダンス・ダンス・ダンス”(Dance, Dance, Dance)をリリース、全米8位。

 

11月9日、クリスマス・アルバム『ザ・ビーチ・ボーイズ・クリスマス・アルバム』(The Beach Boys' Christmas Album)をリリース、全米66位、RIAAゴールド。    

同年末のツアーに向かう飛行機の中で、精神的重圧に耐えきれなくなったブライアンは公演を欠席。これ以降ブライアンは公演活動から離れ、スタジオでの制作作業に専念することを宣言してしまう。このツアーではブライアンの代役をグレン・キャンベルが務めた。その後、この役目を担うためにブルース・ジョンストンが参加し、結局そのまま6人目のビーチボーイとして以降の音楽生活を送ることになった。

 

その後、ブライアンは敬愛するフィル・スペクターの「ウォール・オブ・サウンド」や、効果音を取り入れたアレンジを見事に消化し才能を開花させた。この時期に、演奏技術に優れたスタジオ・ミュージシャンをバックに初期のポップで商業主義的な『オール・サマー・ロング』『ザ・ビーチ・ボーイズ・トゥディ』『サマー・デイズ』が立て続けに発表される。しかし、順調に見えたビーチボーイズの前途にその後ずっと付きまとう影が現れる。

 

 

1965年2月15日、シングル“Do You Wanna Dance?”をリリース、ボビー・フリーマンが1958年に発表した曲のカヴァーで、リード・ヴォーカルはデニス。全米12位。

 

3月8日、8thアルバム『ザ・ビーチ・ボーイズ・トゥディ』(The Beach Boys Today!)をリリース、全米4位・全英6位、RIAAゴールド。同時発売でアルがリードを歌ったシングル“Help Me Rhonda”をリリース、全米1位を獲得した。

 

 

7月5日、9thアルバム『サマー・デイズ』(Summer Days [and Summer Nights!!])をリリース、全米2位・全英4位、RIAAゴールド。

 

 

7月12日、マイクがリードを歌ったシングル“カリフォルニア・ガールズ”(California Girls)をリリース、全米3位・全英26位。

 

11月8日、10thアルバム『ビーチ・ボーイズ・パーティ』(Beach Boys' Party!)をリリース、全米6位・全英3位。

11月22日、マイクがリードを歌った"The Little Girl I Once Knew"をシングル・リリース、全米20位。

 

12月20日、マイクがリード・ヴォーカルを担当した"バーバラ・アン"(Barbara Ann)をシングル・リリース、ドゥーワップ・グループのリージェンツが1961年にリリースし全米13位になった楽曲のカヴァー。全米2位・全英3位。

 

 

1966年3月21日、バハマ諸島の民謡をアレンジした“スループ・ジョン・B”(Sloop John B)をリード・シングルとして先行リリース。リード・ヴォーカルはブライアンとマイクが分け合った。全米3位・全英2位をマーク。

 

5月16日、11thスタジオ・アルバム『ペット・サウンズ』(Pet Sounds)をリリース、全米10位・全英2位、RIAAプラチナ・BPI 2×プラチナ。本作はブライアンの主導で、当時ポップ・ミュージックとしては珍しい完全なコンセプト・アルバムとして制作された。だが、従来とはかけ離れた作品であるため、契約していたキャピトル・レコードから敬遠され、保守的な米国のファンにもなかなか受け入れられなかった。早々に50万枚を売り上げたが、それまでの作品に比べて売上が伸びなかった。一方イギリスでは好評で全英2位を記録し、シングルがヒットチャート上位に到達。また、ビートルズのポール・マッカートニーや、ザ・フーのピート・タウンゼント、エリック・クラプトンが好きなアルバムとして挙げるなど、一部には理解者がいた。だが、このアルバムが再評価されるには長い時間が必要だった。

7月5日、キャピトルはヒット曲集『ベスト・オブ・ザ・ビーチボーイズ』(Best of The Beach Boys)を発売、瞬く間に100万枚を売上げ、結果的に『ペット・サウンズ』より成功。この事実にブライアンは酷く傷つき、以降蝕まれ続けることになる。
この頃、スタジオでの完全主義ゆえにブライアンは『ペット・サウンズ』以上の作品を作り出さなければならないという強迫観念に駆られ、ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の録音と期間が重複していた『スマイル』(SMiLE)の制作中、遂にノイローゼを発症した。

7月18日、“素敵じゃないか”(Wouldn't It Be Nice)をリカット、リードはブライアンが歌い、ブリッジ部分はマイクがヴォーカルを担当、全米8位を記録した。

 

10月10日、シングル“グッド・ヴァイブレーション”(Good Vibrations)を発売。リード・ヴォーカルはマイクとブライアン、カールが分け合った。全米1位・全英1位をはじめ世界各国でトップを獲得し、第9回グラミー賞にて最優秀ヴォーカル・グループ賞にノミネートされた、ビーチ・ボーイズにとって最大のヒット曲の一つである。

 

 

1967年5月、キャピトル・レコードによる再三の要求にもかかわらず結局完成しなかった『スマイル』は、発売中止が決定。キャピトルはアルバム発売に向けて完成前からジャケットを印刷して催促を試みていたが、大半が破棄された。

7月31日、ブライアンとマイクがリード・ヴォーカルを分け合ったシングル“英雄と悪漢”(Heroes and Villains)を先行リリース、全米12位・全英8位をマーク。

 

9月18日、バンドは『スマイル』の代わりに12thスタジオ・アルバム『スマイリー・スマイル』(Smiley Smile)をリリース、全米41位・全英9位を記録した。『スマイル』用の曲のうちの何曲かはここに収録されたが、そのバージョンは厳密には『スマイル』録音時のテイクではなく、ブライアンの脱落後に他のメンバーが手早く仕上げた断片や残骸とでもいうべき代物であった。当然、40年後にアウトテイクも含んだ形で発表されたボックスセット『グッド・バイブレーションズ・ボックス』に収録された同名楽曲の完成度とは比べものにならない出来で、“グッド・ヴァイブレーション”、“英雄と悪漢”といった傑作曲が収録されたものの、『スマイリー・スマイル』の評価は惨憺たるものだった。ブライアンが『スマイル』を放棄後に残りのメンバーが作り上げた『スマイリー・スマイル』が、彼らが嫌ったサイケデリック色の強いアルバムとなったのは皮肉な結果であった。
こうして、ブライアンの錯乱した精神状態や事実上の活動休止にもかかわらず、バンドは彼以外のメンバーによって、さらに活発に活動を続けた。

12月18日、全米19位・全英11位になったシングル“ダーリン”(Darlin' )と、全米24位・全英7位をマークしたアルバム『ワイルド・ハニー』(Wild Honey)を同時発売。

 

 

1968年6月24日、アルバム『フレンズ』(Friends)をリリース、全米126位・全英13位をマーク。

7月8日、シングル“Do It Again”をリリース、全米20位・全英1位を獲得した。

 

 

1969年2月10日、アルバム『20/20』をリリース、全米68位ながら、イギリスでは3位を獲得した。グループはここまでの作品をキャピトルから発表した。ここからは、カールがプロデュースとリード・ヴォーカルを担当した“アイ・キャン・ヒア・ミュージック”(I Can Hear Music)が全米24位・全英10位、カールがヴァースを歌いアルがコーラスを付けた“ブレイク・アウェイ”(Break Away)が英国で6位を記録した。
この時期デニスは、後に女優シャロン・テート惨殺事件を起こすチャールズ・マンソンと共同生活を送った上、楽曲まで共作。これは事件後スキャンダルとなった。

 

 

1970年4月20日、アルがリードを歌ったシングル"Cottonfields"をリリース、全英5位になった。

 

8月31日リリースのアルバム『サンフラワー』(Sunflower)でキャピトルを離れ、ワーナーブラザース傘下のリプリーズ(Reprise)に移籍。また、本格的に自分たちのレーベル「ブラザーレコード」から作品を発表するようになる。

 

 

1971年の『サーフズ・アップ』がリリースされた。そのタイトル・トラック“サーフズ・アップ”は才能あるシンガー・ソング・ライターのヴァン・ダイク・パークスとの共作で、元々は『スマイル』に収録される曲であったが、ブライアンの思った通りのヴォーカルが録音できず、カールが代わってリード・ヴォーカルを務めた。このように『スマイル』が頓挫して以降に発表されたほとんどのアルバムには、分散する形で『スマイル』収録予定曲の別バージョンが収録されている。


1973年の『オランダ』も複雑な評価を得るなど、1970年代を通してブライアンの活動は低調であった。

 

 

1974年6月24日、コンピレーション・アルバム『Endless Summer』をリリース、全米1位を獲得した。

 

 

 

1976年5月24日、マイクがリードを歌ったシングル"Rock and Roll Music"をリリース、久々のトップ10ヒットとなる全米5位・全英36位を記録。

 

同年、ブライアンはツアーに復帰したが、彼の精神疾患は1990年代まで不安定だった。ただし、ブライアン不在の中、他のメンバーは精力的にツアーを続け、ライヴ・バンドとしての地位を確立していく。また、ブライアンの代わりにメンバーが作った楽曲の中には佳作もあり、ビーチ・ボーイズが決してブライアン一人の才能によって成り立っていたわけではないことを示す結果となった。

 

 

1978年9月25日、アルバム『M.I.U. Album』をリリース、全米151位。

 

 

1981年7月、シングル"The Beach Boys Medley"を発売、全米12位・全英47位。

 

10月8日、マイクが1stソロ・アルバム『Looking Back with Love』をリリースして、ソロ歌手としてデビュー。

 

11月2日、『M.I.U. Album』から"Come Go with Me"をリカット、全米18位。


 

1983年12月28日、ウィルソン三兄弟の次男デニスが事故死。泥酔状態でクルーザーから水中に飛び込み、溺死したのである。当時、各々がソロ・アルバムを出すなど、既に分裂の危機にあった彼らは、デニスの死をきっかけとして一時的に以前の結束を取り戻すかのように見えた。

 

1985年6月10日、アルバム『ザ・ビーチ・ボーイズ』(The Beach Boys)を発売、全米52位・全英60位。だがこれ以後、ブライアンはマイクとの共作を止め、精神面の主治医ユージン・ランディの誘導によりソロ活動に重きを置くようになって行く。

7月13日に行われた「ライヴ・エイド」に、亡くなったデニス以外のメンバー5人(ブルース、カール、マイク、アル、ブライアン)がフィラデルフィア・JFKスタジアムに集結し、“カリフォルニア・ガールズ”、“ヘルプ・ミー・ロンダ”、“素敵じゃないか”、“グッド・ヴァイブレーション”、“サーフィンU.S.A.”を披露した。

 

 

1987年、The Fat Boysと共演したシングル"Wipeout!"をリリース、全米12位・全英2位をマークした。

 

 

1988年、亡くなったデニスをはじめとして、マイク、カールもソロアルバムを発表済みだったが、とうとうブライアンがソロアルバム『ブライアン・ウィルソン』を発表する。このアルバムは精神分析医ユージン・ランディの強い影響下で作られたものであった。ブライアンの才能が発揮された佳作で、一部で熱狂的に迎えられたものの、一般に大きな反響をもたらすものではなかった。

7月18日、ブライアン以外のメンバーがビーチ・ボーイズ名義で発表したトム・クルーズ主演映画『カクテル』(Cocktail)の主題歌“ココモ”(Kokomo)が22年ぶりの全米No.1を獲得する大ヒット、ブライアンは録音に誘われていたが予定が合わずに不参加。その後、この曲のスペイン語バージョンの録音に参加した。

 

同年、グループは「ロックの殿堂」入りを果たす。

その後もメンバー同士で、さまざまな理由で互いに訴訟合戦を繰り広げながら、音楽上の交流は若干ながら続いていた。

 

 

1989年8月28日、26thアルバム『スティル・クルージン』(Still Cruisin')をリリース、全米46位、RIAAプラチナ。

 

 

1992年、マイクはブライアンに対し、1962~66年にビーチ・ボーイズで発表された48曲について「実際には作詞作曲に参加したにもかかわらず、ブライアンが気まぐれで自分をクレジットしなかった」と訴訟を起こした。その訴えは1994年、うち35曲について認められ、以後それらの曲にマイクもクレジットされることになった。マイクはこの訴訟で50万ドルを得た。この訴訟は、ビーチ・ボーイズと疎遠になっていたブライアンをバンドに引き戻す目的もあり、その甲斐あって、ブライアンは1995~96年、一時的にビーチ・ボーイズに復帰した。

 


1998年、「ボーカルグループの殿堂」入りも果たしている。
2月6日、演奏面での実質的なリーダーだったカール・ウィルソンが肺癌で死去。これで、ブライアンを除くメンバー間に残っていた結束も失われてしまった。マイク・ラヴとブルース・ジョンストンは、ブライアンの承認を得て「ザ・ビーチ・ボーイズ」の名前を引き継ぎ、主にライヴを中心に精力的に活動するようになった。アル・ジャーディンは、ブライアンの娘たちや、自分の息子などとともに「アラン・ジャーディン・ファミリー&フレンズ」というバンドを結成し、他のメンバーとは離れていった。ユージン・ランディの影響から脱したブライアンのソロ活動も徐々に軌道に乗り始めた。彼を尊敬するワンダーミンツやジェフリー・フォスケットなどのミュージシャンによるサポートを受けて、ビーチ・ボーイズ時代の作品や当時録音に失敗した多くの作品にふたたび命を与える公演を行う。

 

事実上3派に分裂し、別々に活動してきた1998年以降も、現存するビーチ・ボーイズの3人のオリジナル・メンバーは、今なおブラザー・レコードの共同経営者であることに変わりはなく、過去の音源や映像のリリースに関する発言権や決定権を有している。また、各メンバーのツアー開催地や開催日程が重複しないよう、各メンバーの代理人、時にはメンバー本人間の会議は続けられた。ブライアンやアルにとって、正式に脱退してしまうと、相対的にビーチ・ボーイズの名義を使用しているマイク・ラブの発言権が最も大きくなってしまうからである。

 


2004年9月28日、ブライアンはヴァン・ダイク・パークスやワンダーミンツとの共同制作のもと、ソロ名義でアルバム『スマイル』(Brian Wilson Presents Smile)を37年越しに発売、全米13位・全英7位に達した。

 

 

2005年5月、故郷ホーソーンのウィルソン兄弟生家跡が、カリフォルニア州の史跡に制定され、その記念碑の除幕式に、ブライアン、アル、初期メンバーのデヴィッド・マークスが出席し、まずはブライアンとアルの和解が公に示された。
その後、メンバー本人間で数度会議を行ったことが伝えられるなど、ゆるやかな歩み寄りの動きがみられた。

 

 

2006年5月、ホールマーク社より期間限定で、1974年と1989年のライヴ・テイクに加え、ブライアン、アル、マイクがソロ曲を1曲ずつ持ち寄ったビーチ・ボーイズ名義のアルバム『ソングス・フロム・ヒア・アンド・バック』が発売された。
6月13日、キャピトル・レコード本社屋上で開催された、2003年発売のベスト盤『サウンズ・オブ・サマー』のダブル・プラチナム獲得記念セレモニーに、ブライアン、マイク、アル、ブルース、デヴィッドが出席し、2001年2月21日の第43回グラミー賞功労賞授賞式以来、5年ぶりに公衆の面前でオリジナル・メンバーが揃った。険悪な雰囲気であったグラミー賞当時とは打って変わって、プラチナ・ディスクを囲んで相互ににこやかに談笑する姿を見せた。
11月1日、ロサンゼルスのUCLA・ロイス・ホールにて行われた、ブライアンの『ペット・サウンズ』発売40周年記念公演にアルが客演し、ブライアンがビーチ・ボーイズの公演に完全に参加しなくなった1996年9月以来、10年振りのステージ上での共演を果たした。アルのの客演は2007年1月まで続いたが、その後アルは自身のソロ・アルバム制作を理由に離脱した。

以降、各メンバーは個々の活動を継続してきた。


2009年9月、マイクは2011年2月に5人の現存メンバーによる再集結公演を、カリフォルニア州シミ・ヴァレーにあるロナルド・レーガン・ライブラリーにて行う計画があることを表明。



2010年1月31日に行われた第52回グラミー賞授賞式にブライアンとアルが出席、さらに翌日の「ウィ・アー・ザ・ワールド」25周年リメイク版の録音に揃って参加した。

 

 

2011年2月5日に同地にてほぼ予定通り行われたが、ブライアンとデヴィッドは不参加で、アルが単身マイク&ブルースに13年ぶりに加わり、20分ほどの演奏を行うという形にとどまった。
4月には東日本大震災へのチャリティ・シングルとして、“フレンズ(アカペラ・ヴァージョン)”と、アルのソロ・アルバム『ア・ポストカード・フロム・カリフォルニア』収録曲であるビーチ・ボーイズの未発表曲“ドント・ファイト・ザ・シー”をカップリングしたアナログ7インチシングルを自主制作にて発表。

11月、全メンバーの合意の下、1966~70年のビーチ・ボーイズの音源で構成された『スマイル・セッションズ』をキャピトル・レコードより公式発表、全米27位まで上昇した。


2012年2月12日、第54回グラミー賞授賞式にて5人の現存メンバーでは初の公式パフォーマンスを行った。

4~9月、デビュー50周年リユニオン・ワールド・ツアーを開催。

6月5日、新作アルバム『ゴッド・メイド・ザ・ラジオ〜神の創りしラジオ〜』(That's Why God Made the Radio)を発売、全米3位・全英15位。

 

 

8月には来日、千葉・名古屋・大阪で公演を行った。
10月以降はマイクとブルースが再びブライアンらと袂を分かち、前年までのバンドを率いてツアーを再開。一方ブライアンとアルは再集結の継続を希望したものの受け入れられなかった。その代わり、ブライアンのバンドにアルが息子のマット・ジャーディンとともに合流し二者でのアルバム制作や公演活動を行うようになったため、現状では二分裂の状態となっている。

 

 

2016年頃からはかつて1971-73年の間メンバーだったブロンディ・チャップリンもブライアンのバンドに参加している。

 

 

2017年11月17日、マイク・ラブは2枚目のソロ・アルバム『Unleash the Love』をリリース。 

 

 

2018年10月26日、マイクは伝統的かつオリジナルのクリスマス音楽をフィーチャーした3枚目のソロ・アルバム『リーズン・フォー・ザ・シーズン』( Reason for the Season)をリリース。『ビルボード』誌の「ホリデー・アルバム」チャート4位・「インディペンデント・アルバム」チャート6位をマークした。

 

 

2019年7月19日、マイクの4枚目のソロ・アルバム『12 Sides Of Summer』をリリース。

 

 

2023年、ソロ・アルバム『Mike Love Not War』をリリース。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(参照)

Wikipedia「マイク・ラヴ」「Mike Love」「ザ・ビーチ・ボーイズ」「The Beach Boys」

 

 

 

(関連記事)