ロバート・ジョンソン(Robert Johnson/本名:Robert Leroy Johnson/1911年5月8日~1938年8月16日)は、アメリカ合衆国のブルーズ・ミュージシャン。
1911年、ジョンソンはアメリカ合衆国ミシシッピ州ヘイズルハースト(Hazlehurst)に生まれた。
母親ジュリア・メジャー・ドッズ(Julia Major Dodds/1884年12月生まれ)は土地持ちで家具作りをしていて比較的裕福だったチャールズ・ドッズ(Charles Dodds/1874年10月生まれ)と結婚、10人の子どもを産み、ロバート・ジョンソンは11人目だったが、実はロバートは母の浮気相手ノア・ジョンソン(Noah Johnson)との間に生まれた子どもだった。
父チャールズは白人の地主と揉めてリンチに遭い、ヘイズルハーストからの転居を余儀なくされた。母も赤ん坊だったロバートを連れてヘイズルハーストを後にしたが、2年もしないうちに今度はメンフィスに転居し、そこでチャールズ・スペンサーと名を変えた夫と一緒に暮らした。ロバートは8~9年過ごしたメンフィスで、カーンズ・アベニュー・カラード・スクール(the Carnes Avenue Colored School)に通い、算数、読書、言語、音楽、地理、運動のレッスンを受けた。
彼がブルーズとポピュラー音楽への愛と知識を獲得したのは、ここメンフィスの地でだった。
こうした彼の教育と都会の雰囲気は、ほとんどの現代ブルーズミュージシャンとロバート・ジョンソンとの違いを生む一因となっている。
1919年から1920年ごろ、母ジュリアがウィル「ダスティ」ウィリスという24歳の文盲の小作人と再婚。彼らは当初、アーカンソー州クリッテンデン郡のルーカスタウンシップのプランテーションに定住したが、すぐにミシシッピ川を渡って、チュニカとロビンソンビルの近くのミシシッピデルタに移り、アベイ&レザーマン農園に住み込み働いた。
ロバートは、チュニックのインディアンクリーク学校にロバート・スペンサーとして登録された。
1920年の国勢調査では、彼はアーカンソー州ルーカスに、ウィル・ウィリスとジュリア・ウィリスとともに住んでいるロバート・スペンサーとして記録されている。
10代の頃、ロバートはジュリアにより本当の父親の存在を知らされた。その後、ロバートは実の父と同じジョンソン姓を名乗るようになった。
1929年2月17日、彼は19歳で16歳のヴァージニア・トラヴィスと結婚、結婚証明書にはジョンソン姓で署名した。ヴァージニアは身篭るが、翌1930年、出産の際に子どもとともに死去した。
この頃、ブルーズミュージシャンのサン・ハウス(Son House)が、自身の音楽パートナーであるウィリー・ブラウン(Willie Brown)が住んでいたロビンソンビルに引っ越してきた。
サン・ハウスらの音楽を目の当たりにしたロバートは、ハウスたちが演奏している時はそれを聴き、休憩に入るとギターを借りて練習した。ハウスの述懐によるとロバートは当時、ハーモニカ吹きとしては結構うまかったが、ギターの腕前は酷いものだったという。
その後すぐに、ロバートはロビンソンビルを出て、生まれ故郷に近いマーティンズビル周辺に向かい、おそらく彼の実の父親を探した。
ここで彼はハウスに習ったギタースタイルを完成させ、さらにブルーズ・ギタリストのイザヤ「アイク」ジマーマン(Isaiah 「Ike」 Zimmerman)から他のスタイルを学んだ。ジマーマンは深夜に墓地を訪れてギターを弾くことで超自然的に技術を学んだと噂されていたという。
1931年5月、ロバートはコレッタ・クラフトとミシシッピー州ヘイゼルハーストで結婚。二人は結婚後しばらくはミシシッピ州クラークスデールのデルタに定住、通りの居酒屋や食堂、路上などで演奏し、さらにギターの腕を磨いていった。だがコレッタは1933年に亡くなってしまう。
1932年、ロバートがロビンソンビルに再び姿を現した時、彼のギターのテクニックは奇跡的な上達を果たしており、ハウスやウィリー・ブラウンとともに演奏するまでになっていた。ハウスたちはロバートのギター演奏技術の向上ぶりに驚かされたという。
ロバート・ジョンソンが「十字路(クロスロード)で悪魔に魂を売り渡して、その引き換えにテクニックを身につけた」という伝説がブルーズ研究者の間で広まっている時に、ハウスはインタビューを受けた。彼はロバートの技術がこの契約によるものかどうか尋ねられ、あいまいな受け答えをしたため、この伝説を認めたと受け取られた。
ロバート・ジョンソンは1932年から1938年に亡くなるまで、メンフィスやヘレナといった都市と、ミシシッピデルタの小さな町、そしてミシシッピとアーカンソーの近隣地域との間を頻繁に移動し、デルタ地域一帯で活動を続けた。その一方で、時折り遠征もしたという。ブルーズミュージシャンのジョニー・シャインズは、シカゴ、テキサス、ニューヨーク、カナダ、ケンタッキー、インディアナに同行した。
ロバートは再び結婚することはなかったが、彼は旅先で、定期的に戻ってくる場所にはそれぞれ女性との長期的な関係を築いた。その中の一人に、ステラ・コールマンという、後のブルースミュージシャンのロバート・ロックウッドの母親である約15歳の女性がいた。
彼はよく演奏中に一人の女性に目をつけ、その女性だけに向けて演奏をすることがあったという。
彼はまた、異なる場所で異なる名前を使用し、少なくとも8つの異なる名前を使用していた。
1936年11月、テキサス州サンアントニオで初めてのレコーディング・セッションに臨み、3日間で16曲をレコーディングした。
1937年、Vocalion Recordsからリリースされたロバート・ジョンソンのレコードは以下の通り。
3月、"Kind Hearted Woman Blues" (Nos. 1 & 2) / "Terraplane Blues" (No. 1)、
※YouTubeの音源はVer.(No.)がテキストと一致していない場合がある。以下同。
4月、"Dead Shrimp Blues" (No. 2) / "I Believe I'll Dust My Broom" (No. 1)、
5月、"Cross Road Blues" (No. 1) / "Ramblin' on My Mind" (No. 2)、
同年、"Come On in My Kitchen" (No. 2) / "They're Red Hot" (No. 1)、
同年、"32-20 Blues" (No. 2) / "Last Fair Deal Gone Down" (No. 1)、
同年、"Sweet Home Chicago" (No. 1) / "Walkin' Blues" (No. 1)、
同年、"From Four Until Late" (No. 1) / "Hell Hound on My Trail" (No. 2)、
同年、"Malted Milk" (No. 1) / "Milkcow's Calf Blues" (No. 2)、
同年、"I'm a Steady Rollin' Man" (No. 1) / "Stones in My Passway" (No. 2)。
同年6月、二度目のレコーディングのためにダラスに赴き、13曲を残している。生涯に残したレコーディングは、この2回の合計29曲(レコーディングは59残したが、現存するのは42テイク)だけである。なお、当時の南部のアフリカ系アメリカ人社会では、チャーリー・パットン(Charley Patton)やブラインド・レモン・ジェファーソン(Blind Lemon Jefferson)の方が人気があり、ロバート・ジョンソンはまだ無名な存在だった。
1938年3月20日、"Honeymoon Blues" (No. 1) / "Stop Breakin' Down Blues" (No. 2)リリース。
同年、"Little Queen of Spades" (No. 1) / "Me and the Devil Blues" (No. 1)リリース。
8月16日、27歳で死去。死因については、妻を寝取られた夫により毒物を盛られて毒殺された、など諸説ある。
ロバートの妹は病死だったとしているが、定かではない。また、亡くなったミシシッピ州グリーンウッドの役場に提出された死亡届には、死因に「No Doctor」とだけ記載されている。
ゲイル・ディーン・ワードローの調査によって、ロバート・ジョンソンが出生時にすでに梅毒に感染していた可能性があることが死亡診断書の裏面に記されていたことが明らかになっている。ある医師は、ロバート・ジョンソンには梅毒を原因とする動脈瘤があったことや、密造酒を好んでいたことなどの可能性も指摘している。
因みにその年の暮れ、その事実を知らなかったプロデューサーのジョン・ハモンドがカーネギー・ホールでの開催を予定していた「スピリチュアル・トゥ・スウィング・コンサート」にジョンソンを出演させるため捜し回ったが、すでに亡くなっていたというエピソードが残っている。
彼は死後、グリーンウッドに埋葬されたとされているが、彼の墓石が建てられている墓地が三ヶ所もある。一つはソニーミュージックによって建立されたもので、もう一つはZZトップのメンバーの資金で建てられたもの。最後は、ロバートの埋葬を夫が手伝ったと2000年夏に申し出た女性の言う、スリー・フォークスから3マイル離れた場所で、ここにも墓石が建てられた。
1939年2月9日、"Love in Vain Blues" (No. 2) / "Preachin' Blues (Up Jumped the Devil)" (No. 1)をリリース。
1959年、オムニバスアルバム『The Country Blues』に、ブラインド・レモン・ジェファーソンやりロイ・カー(Leroy Carr)などに混じって、ロバートの"Preachin' Blues"が収録される。
1961年、ジョンソンのレコーディングがLP『King of Delta Blues Singers』でコロムビアからリリースされ、ジョンソンの音楽は再び注目を集めるようになった。
1966年6月22日、エリック・クラプトン在籍時のジョン・メイオール&ブルースブレイカーズのアルバム『Blues Breakers with Eric Clapton』で"Ramblin' On My Mind"をカヴァー、クラプトンがヴォーカルを取った。
12月9日、クラプトンが結成に加わったクリーム(Cream)の1stアルバム『カラフル・クリーム』でロバートの"From Four Until Late"を“Four Until Late”としてカヴァー、クラプトンがヴォーカルを担当。
1968年8月、クリームが"Cross Road Blues"をカヴァー、シングル“クロスロード”(Drossroad)として発表。
1969年12月5日、ローリング・ストーンズが発表したアルバム『レット・イット・ブリード』(Let It Bleed)で“Love in Vain”(邦題:むなしき愛)をカヴァー。当時クレジットは「Traditional」とされていたが、後に「Robert Jghnson」に修正されている。
1970年、ロバート・ジョンソンのレコーディング音源の第二弾としてLP『King of the Delta Blues Singers, Vol. II』がリリースされる。
1972年5月12日、ローリングストーンズが『メイン・ストリートのならず者』(Exile on Main St.)にて"Stop Breakin' Down Blues" をカヴァー、“ストップ・ブレーキング・ダウン”(Stop Breakin' Down)として収録した。
1980年、「ブルースの殿堂」入り。
1986年、「ロックの殿堂」入り。
同年、ロバート・ジョンソンと十字路の伝説をモチーフにした、ウォルター・ヒル監督の映画『クロスロード』(Crossroads)が公開される。
1988年に発表されたジャック・ウォマックの小説『テラプレーン』(Terraplane)では、過去の地球に似た「もう一つの世界」が登場する。そこでは、1939年になってもロバート・ジョンソンが生きており、彼がニューヨークのハーレムでライヴをするシーンがある。この小説のタイトルも、ロバートの曲"Terraplane Blues"から採られている。
1989年、初めてロバート・ジョンソンの写真が公開され話題を呼んだ。
1990年、これまで未発表だった別テイクも収録した『The Complete Recordings』がリリースされた。このジャケットに使われた写真は前年公開されたものとは別のもので、これもここで初めて披露されたものであった。ブックレットには、影響を受けたことを公言しているローリング・ストーンズのキース・リチャーズが寄稿している。また、本アルバムは同年のグラミー賞で「最優秀歴史的アルバム」を受賞、翌1991年には「ブルース音楽賞」を受賞した。
1995年、「ロックンロールの殿堂」の「ロックンロールを形作った500曲」に、“Sweet Home Chicago”、“Cross Road Blues”、“Hellhound on My Trail”、“Love in Vain”が選ばれた。
1998年、グラミー殿堂賞に“Cross Road Blues”が選ばれた。
2000年、「ミシシッピミュージシャンの殿堂」入り。
2003年、「National Recording Registry」に『The Complete Recordings』が選出。
2004年3月23日、 エリック・クラプトンが全曲ロバート・ジョンソンというカヴァーアルバム『セッションズ・フォー・ロバート・J - Sessions for Robert J』をリリース、全米172位を記録した。
2006年、グラミー賞「生涯功労賞」を受賞。
2007年、ロバートが仲間のミュージシャンのジョニー・シャインズとともに写っているとされる写真が発見され、数年に渡る鑑定の結果、2013年2月に一旦はロバート本人と確認されたが、その後否定される。
2008年11月25日、トム・グレイブス著『ロバート・ジョンソン:クロスロード伝説』(白夜書房/翻訳:奥田祐士/ISBN 978-4861914812)刊行。表紙に使われている写真は1989年に最初に発表されたもの。
2011年、『The Complete Recordings』をリマスターして、『The Complete Recordings』に未収録だった“Traveling Riverside Blues”の別バージョンも収録した『The Centennial Collection』がリリースされた。『The Complete Recordings』と比較するとノイズが増えたが、音質が向上した。
2020年5月20日、ロバート・ジョンソンの新しい「3枚目の写真」が公開される。ジョンソンの「新しい写真」はこれ以前にも「発見」が報じられたことがあるが、それ等は偽物であると結論付けられた。これに対し、今回の写真は94歳(当時)になる義理の妹アニー・アンダーソン(Annye Anderson)がジョンソンについて回想した『Brother Robert : Growing Up With Robert Johnson』を出版するに当り、アンダーソン自身が保管していたロバートの自撮り写真を表紙用に提供したというもの。この写真がロバート・ジョンソン本人であるか否かについては、本書の前書きを執筆したブルーズ学者のイライジャ・ウォルド(Elijah Wald)がフェイスブックで信憑性を認めている。
同年6月、『Brother Robert : Growing Up With Robert Johnson』が刊行。
2021年5月8日、ロバート・ジョンソン生誕110年を迎える。
(参照)
Wikipedia「ロバート・ジョンソン」「Robert Jhonson」